四 散り急ぎ華 前
件の心中騒ぎから七日が経過し、八日目を迎えた昼前、香月は部屋を移った河西を見舞いに訪れた。
「姐さん、お加減は如何ですか」
勤めて明るい調子で掛けた声に、そう広くもない部屋の真ん中に敷かれた綿の薄い布団の上に半身を起こした体勢のまま、河西は虚ろな視線を向けただけで返事をしない。
部屋の中は薄暗かった。霧雨が降っているからか、今日は窓が閉め切ってある。雨戸などという贅沢なものはないから、窓といっても障子一枚の薄いものだった。
葉山の使う部屋の次の間としてのこの部屋は、そもそもが普段開け放してある事は少ない。有体に言えば物置──数え切れない程の衣装や簪などが収納された箪笥に壁はことごとく覆われており、中身の虫干し以外では色褪せを嫌って陽の光さえ遠ざけている。河西に提供された今では流石に時折少しだけ窓を開けている時もあるが、ごく僅かな時間だった。夏は未だその暑気を払わぬ頃、室内はどこか黴臭い湿った空気が漂っている。
これでは治るものも治らないのではないか──内心苦々しく感じながら、香月は持っていた角盆を枕元に置いた。
「これ……夜よく眠れないと聞いたものですから。薬湯をお持ちしました。飲むと落ち着きますよ」
そう言って盆に載っていた茶碗を差し出す。河西はやはり一瞥をくれるものの言葉もなく、手を差し出す様子もない。小さくため息をついて、香月はにじり寄り、半ば無理矢理口元にあてがった。注ぎ込まれる液体の苦さに眉をしかめはするものの、特に拒絶する様子はない。まるで惚けた老人の様だ。
──今日は相当具合が悪いらしい。
始めの頃気丈を装っていた河西は、日を追う毎に何故か急激に衰弱していった。祥の話では原因は毎夜うなされる事らしく、眠りに就くと決まって例の男が夢に現れると言う。客のいる日いない日を問わずそれは続くとかで、ここ数日ではろくに眠っていない筈だ、とも禿は嘆いていた。
唯一彼女が回復を見せるのは義方が訪れる時だけだと言う。だが帰った後は症状が決まって悪化するので、もしかしたら空元気なのかもしれない。心労が癒されているかは疑問だった。
慢性的な疲労と虚脱感。心の均衡が崩れた時、人はよくそういった症状を呈する。河西を診た医者も似た様な事を言ってはいたが、確たる治療方法はないから安静にしているしかないと触れもせず、怪しげな薬と引き替えに高い薬礼を取って帰って行った。
香月は医者が置いて行った薬をそっと懐に忍ばせ、持ち帰って中身を調べた。──結果、自分で薬湯を作る事にしたのである。
「しばらくすると少し眠くなるかもしれません。横になっていた方がいいですよ」
やんわりと肩を押す香月を、今初めて河西は瞳に捉えた様に呟いた。
「……これ、香月ちゃんが?」
ひどく億劫そうな、擦れた声。はい、と香月は頷いた。
「鷹信様に河西さんが具合が悪いとお話したら、取り寄せて下さいました。普通のお薬みたいに強く調合してはありませんから、自然と良くなるとおっしゃっていましたよ」
「……そう。申し訳ないわね……」
香月は──彼女にしては精一杯──悪戯っぽく笑う。
「大丈夫です。以前姐さん言ってたじゃないですか。『たまには甘えてみろ』って。そんな感じで頼みましたから」
河西の口元が釣られた様に微かに笑みを形づくった。その言葉は必ずしも真実ではないが、何かを望まない香月の初めての頼みを鷹信が特に文句も言わず叶えてくれたのは事実だ。
薬湯が効いて来たのか、河西は大きな欠伸を一つすると上体をゆっくりと布団に横たえた。程なくして静かな寝息を立て始める。寝顔になって一層憔悴が目立つ姿を眺めながら、香月の胸は痛ましさに締め付けられた。それと同時に、頼み事をした時の鷹信の何とも言えない表情を思い出す。
──手に入れるのは造作もないが、どうするつもりなのか聞かせてくれないか。
彼の心配は無理もない。香月が手渡した薬材の覚え書きの中には、調合の分量を一つ間違えば毒薬にもなる物や、普通生活している分にはまず一生耳にする機会がないであろう薬草の名前もあった。彼は薬師を遣わそうと最初申し出てくれたが、それを香月はあえて断ったのだ。不審に思われるのはわかっていたが、症状をつぶさに診た自分が調合するのが最も確実な様に思えた。──例え、申し出るに相当な勇気を必要としたとしても。
河西に飲ませたいのだと答えると、鷹信は一瞬もの問いたげに彼女を見たが、結局はただ「わかった。早急に取り寄せよう」と頷いた。
──ありがとうございます、鷹信様。
頼みを聞き入れてくれたのは勿論の事だが、調合出来る自分の出自に言及しないでいてくれた配慮は嬉しかった。
彼はいつも変わらず優しい。出会ってより香月がもらった優しさに比べれば、どんな高価な贈り物もさして価値あるとは思えない程だ。──しかしだからと言って、いやそれゆえにこそ、言えない事はある。
何より、香月自身過去と向き合う心の準備がまだ出来ていないのだった。話せば『過去』に飲み込まれてしまいそうで、恐かった。
「香月姐さん。いらしてたんですか」
すい、と襖が開く音が微かにして振り返ると、浅尾が戸口に立って驚き顔でこちらを見ていた。手には水をたたえた木桶を持っている。
「河西姐さんお風呂に入れないから身体をお拭きしようかと……あらら、寝ちゃいましたか」
桶を持ったまま枕元に近寄り、彼女はため息をつく。香月は慌てた。
「あ、ごめんなさい。私がお薬を飲ませたから……」
「いいんです。ここん所眠れなかったみたいなんで。身体はいつでも拭けますから」
いつでも拭ける、の言葉が香月は気に掛かった。
「姐さんのお客はどうしてるの?」
遊女は借金を背負う身、生半可な理由で身体を空けている事は出来ない──現に河西は病み付き始めの頃は普段通り客を取っていた様な気がする──今の状態では流石に無理だろうが。恐らく浅尾が引き受けているのだろうとは思ったが、案の定彼女は「姐さんのお客は範囲が広くて大変です」とからからと笑った。
「でも出来るだけ勤めさせてもらってます。中には姐さんでないと、って帰る人もいますけどね。──常連さんが多いから」
そうだ、と浅尾は香月の隣に腰を落ち着けると桶を脇に置いた。
「その中に、こないだ一見さんで変なお客がいたんですよ」
「変なお客?」
「いやもう、とにかく変としか言いようがないです。怪しいと言えばそうなんですけど──」
その客は河西を指名して来たから、当然代わりに浅尾が応対したわけだが、結局酒も飲まず彼女にも手を出さず帰ったと言う。揚げ代は弾んでくれたから、その辺拘りのない浅尾はさして気にも留めず「また来て下さい」と送り出した。
そうしたら──
「『必ずまた来るから、河西の看病と護衛を頼む』って言うんです。何だか可笑しな言い草だなと思いません?」
浅尾は渋面を作って見せた。
「確かにそう……かも」
「しかもその人、部屋に入っても頭巾を取らなかったんです。『顔に火傷があるから』とか言って。話している間ずっとそのままでした」
「えっ……」
それは何とも奇妙な話である。香月の怪訝そうな顔に我が意を得たり、とばかり浅尾は拳を握ってまくしたてた。
「可笑しいですよね? 話も考えて見れば変でしたよ。ああ、詳しく話さないで良かった! こないだあんなのに襲われたばかりなのに、また付き纏われちゃ堪らないですよねっ」
香月は勢いに思わず上半身を反らす。
「何か聞かれでもしたの?」
「姐さんの事ですよ。色々と聞かれました。どうして具合悪くなったのか、とかいつ一番具合悪いのか、とか。後、どんな症状が出てるのか──なんて風に矢継ぎ早に。本人は『自分はけん──何て言ったか忘れちゃいましたが──に勤める医者なのでつい気になるのだ』とか、尤もらしい事言ってましたが」
香月は少し考えてから「ああ、研医殿のお医者様……。だったら関わりがある人が病気なら関心を持つかも」と答えた。
「そうなんですかあ?」
多分──そうなんだろうと思う。少なくとも自分はそうだ。知識があり、目の前に病があるなら、暴いて治療したいと思う気持ちは自然と芽生える。
万人がそうだとは限らないが──
「でもねえ。全然お医者さんぽくなかったんですよ。どっちかって言うと貴族のお坊っちゃんて感じでした。子供みたいな」
「女のお医者様もいる位だし、そんな外見の人もいるんじゃないのかしら。第一、『研医殿』を名乗る自体が医者を証明しているから」
「ふうん、そんなもんですか……。何なんです、そのけんいんナントカって」
香月は苦笑しながら答えた。
「王妃様が経営なさっている、学者ばかりが集まるお城なの。お医者様なら皆そこで学ぶのよ」
「はー……何かよくわかりませんけど偉い人かもしれませんね。じゃあ塩は撒かない方がいいですか?」
いかにも間の抜けた反応に香月は笑う。この娘なら本気で実行しそうだから油断出来な い。
「そんな事したら女将さんに叱られるでしょう」
「女将さんと言えば」
ずい、と浅尾は香月に顔を近付けて来た。
「聞きました!? 太夫って請け出されるそうですよ。しかも今日!! もう朝から女将さん、張り切ってあちこち掃除しまくってますよっ」
内緒話をするかと思えば、声の大きさはそのままである。元来地声が大きいから、内容云々より姦しさに香月は眉をひそめた。
そうと気付かれない様わずかに後じさる。
「き……今日なんだ、お使者が来るの」
「あれ? 何だ香月姐さん、知ってたんですか」
情報通を自負する浅尾はいささか憮然としたらしかった。
「じゃあ請け出すのは王様だって事も知ってます?」
苦笑しながら香月は頷いた。
「王宮からお使者が来るんでしょう」
「なーんだ、知ってるんですかあ」
姉遊女の河西をして「三度の飯より噂好き」と言わしめる浅尾はしばし考え込んだ。どうやら次の情報を思い出そうと躍起になっているらしい。
その隙に香月は立ち上がった。わざとらしく棒読みで言い訳する。
「ああそうだ、そろそろ昼見世の支度をしないと」
「あっ、香月姐さん?」
「浅尾ちゃんも支度した方がいいわよ? じゃっ」
何故か必要以上に早足で戸口に向かう。
「そうだ! これ知ってます──」
少々悪いと思いはしたが、背後の声を完全に黙殺して襖を閉めて廊下に出た。実際浅尾の噂話は長い。昼見世の支度に間に合わなくなる可能性は充分にあった。
──あれさえなければ良い娘なのに。
辟易しながら自室に帰ろうと踵を返した矢先、丁度隣の部屋から唄声──舞を舞う時によく口ずさむ──が聞こえて来た。聞き覚えのある旋律だ。
──これは、寿楽踊?
唄声の出所を探して辺りを伺う。それはすぐ見つかった。隣室、つまり葉山の部屋から聞こえているのだった。
人払いをしているのか、葉山の部屋の戸口に禿が二人、門番さながらに陣取っている。元より近付く気などないが、漏れ聞こえる美声は通りすがりの者の足を留めるに充分な威力を持っていた。
──綺麗な声……。
深く、広く、どこかしら哀しげに響く声。
以前の稽古の時も確かに素晴らしい声だと思ってはいたが、あの時は正直緊張で上の空だった。こうして改めて聴くと、その才能の希有さに感動さえ覚える。
「何かご用ですか」
いつまでも立ち去ろうとしない香月を怪訝に思ったのか、戸口の禿は抑揚のない冷ややかな声で問い掛けて来た。
「あ……ううん、そういうわけじゃ」
我に返って慌てた彼女を、少女は口調と同じ位冷ややかに一瞥する。
「太夫から、女将さん以外どなたも通さぬ様言われております。お帰り下さい」
襖の向こう側、唄う声はまだ続いている。多少後ろ髪を引かれる思いはあったものの、香月は諦めて身を翻した。
その瞬間、唄が止んだ。背後で襖が開く音がする。
「香月」
香月の背中が凍りついた。振り返らないのは失礼だとわかっていたにも関わらず、声の主を見る事が出来ない。そのまま後ろの気配を伺う。
「入っておいで」
特に気分を害した様子もない、平坦な声。彼女は恐る恐る振り返った。
苦虫を噛み潰した様な顔の禿二人の後ろ、葉山が戸口から顔を覗かせている。
「ほら、早くおいで」
「は──はいっ」
香月は小走りで部屋に入った。
室内は味気ない程整然と片付いていた。着物の掛けられてない朱塗りの衣桁、布が掛けられたままの鏡台。文机の上も片付けられていていた。煙管盆にさえ今日は使われた形跡がない。──唯一、部屋の隅に置かれた柄樽だけが、飲まれたものか蓋を割られていた。そこには柄杓が斜めに突っ込まれている。
「まあ適当に座りなさい」
「はい……」
正直この部屋には嫌な記憶しかない。無意識に居心地の悪さを感じながら、香月は所在なさげにそろそろと畳に腰を下ろした。
彼女の胸中を知ってか知らずか、葉山は大層ご機嫌で、橘色の地に中縹色の花紋の入った大層派手な扇を口元にかざして意味ありげにふふと笑った。平生を知る者にとっては、およそ気味が悪くて仕方がない。
「……身請けがお決まりだとか。おめでとう存じます」
会話のないのに耐えかねて、香月は無理矢理言葉をひねり出した。
「ああ、聞いていたかい。……この部屋とも今日でお別れさ。不思議なもんだね。入る時は嫌だ嫌だと思っていたのに、いざ出るとなると何だかしんみりとしちまって。愛着って奴かねえ」
葉山はそう言って、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。
「荷造りはもう終わったのですか」
「まあね。王宮に入るのに、ここの着物は必要ないから荷物は少ないんだ。あっという間に済んだよ。もう少しでお使者が来ると思うけど、まだ時間に余裕があってね」
「そうですか……」
二人の間に、何とも気まずい沈黙が訪れた。元来口下手な香月は、こんな時世間話をする機知すら持ち合わせていない己を歯痒く思う。
「……おまえの琴の音」
沈黙を先に破ったのは葉山だった。
「聴けなくなるね。残念だよ」
「え」
香月は我が耳を疑って、ただ葉山を穴が開く程見つめた。
葉山は苦笑している。
「まあそう驚きでないよ。私はお前の琴の音が嫌だとは一度も言った覚えはない。むしろ好きだったよ? 口にこそ出しはしなかったけど」
彼女は再び舞い始めた。嫋とした柔らかな手足の動きに合わせて、扇が蝶の様にはばたく。
香月は返答に詰まって一瞬黙り込んだ。葉山は自分に何を言わせたいのだろうかと疑ったのだ。今までの彼女の素振りから、自分の琴を気に入ってくれているとはとても思えなかったから。
──なぜ、しかも今になって。
「どうして今そんな事を」
葉山は動きを止めぬまま笑い混じりに言った。
「さあてね。お前の琴の音は大好きだったけど、お前自身がどうにも癪に触った。だからかもしれないねえ」
再び言葉に詰まった香月の前でくるりと回って、止まる。開いたままの扇で後輩を指し示した。
「ここに売られて来た時点で、私らは人としての身分を失う。どんなお姫様でも貧乏人でも、等しく『物』になるんだ。『物』の価値を決めるのは私らじゃない。客だ。身体を売る商売は一見減らない様に見えて、実はどんどん擦り切れて行く。『物』で終わりたくない女は、皮肉な話だが身体を如何に巧くいい『物』に見せるか──精一杯学ぶしかない」
それは例えば、今日の天気や昼飯について語る様な嫌味のない口調だった。非常に奇妙な事だったけれども。
「仕方のない話さね。どんなに私ら後輩に良くしてくれた姐さんでも、客がつかなきゃ屑の様に捨てられる。私は何人もそういうのを見てきた。太夫から切見世に堕ちた遊女は、そりゃあ惨めな物だったよ……」
遠い記憶を反芻したのか、はたまた哀しみによるものか。虚ろな目をして、葉山は開けられてもいない窓を見つめていた。
その視線を再び戻して正面から香月を射抜く。
「だから──私はお前が許せなかった。己を曲げず、切見世にも堕ちず、倉嶋侯に救われてただ暮らしているお前が。皐乃街の女が、町家の──いや、貴族の娘の様な暮らしをして許されるはずがないとね」
言葉とは裏腹に、向けられた双眸には怒りの色はなかった。むしろ、目の前の者の反応を面白がっている様な愉快そうな表情をしている。
葉山は眉を上げた。
「何をそんな顔してるんだい。この世の終わりじゃあるまいし」
事実、香月は今にも倒れそうに蒼白な顔をしている。
「そこがお前のいけない所だ。私がお前を嫌ったからと言って、世間がお前を否定したわけじゃない。何をこの女、そう思う位の気概がなくちゃねえ」
香月は絶句したまま、ただ葉山の顔を見つめていた。
──一体何が言いたいのだろうか。
鷹信が実際自分を遊女として扱っていない事までは、葉山はさすがに知る筈がない。それでも、特別扱いされているのが気に入らないという言い分は──可笑しな話だが、香月自身理解出来るだけに何も言い返せない。
身に過ぎる待遇だと、他ならぬ自分が一番感じているのだから。
「……その通りの事ですから」
ぼそりと呟く。
葉山は渋い顔をした。
「だから気概がないって言うんだよ。私はそういうしおらしい女が嫌いでね──だけどさ、お前だって私が嫌いだったろう?」
「──な」
葉山はいつの間にかまた微笑んでいた。挑戦的な笑みだ。
「この際だ、言いたい事洗いざらいぶちまけて御覧よ。私が嫌われている事位、見てりゃわかるさ。お互いすっきりさせて別れようじゃないか」
自身が嫌われている、その言葉を告げる葉山の口調には一片の卑屈さも感じられない。いっそ清々しい程だ。それ故に香月の困惑は更に深まった。
この人は──強いのだ。大抵の人間が恐くて蓋をしてしまう、自我による孤独をものともしない。
他人の悪意も善意も、関係がない所まで行ってしまっている。そんな気がした。確かにそれは素晴らしい強さなのだろう。
──でも。
「……苦手だったのは、本当です」
その強さを、他人にも要求するのは──何か違う気がする。
香月は無意識に拳を握った。
「でも……それは貴女を嫌っていたからじゃありません」
むしろ、憧れていた。
決して自分が成り代われないものとして。──そう、葉山の言う通り、努力する前から諦めていたのだ。
だから畏れた。
「……王宮に行っても、お元気で」
「そうか……それがお前なりの答えなんだね」
顔の笑みは消えないものの、葉山は少しばかり落胆したらしかった。
「まあ──答えは人それぞれだからね」
今まで聞いた事がない様な、穏やかで優しい声だった。
「お人好しなら、それを貫くのもまた立派なものさ。何にしろ、貫けるには強さが必要だからね──だからね、香月」
穏やかではあるが、葉山の笑顔は少し寂しそうに見える。
「私はお前の琴の音が好きだった。だから頑張っておくれ。……大事な物を護れる様に」
何と答えれば良いのか、しばらく香月は言葉を探して黙り込み──結局そのまま頷いた。
葉山は安堵した様に笑う。
「ありがとう。引き止めて済まなかったね。もう戻っていいよ」
「はい」
一礼して戸口に向かう香月を──今までこれもなかった事だが──葉山は見送りに付き添った。
「元気でね」
「はい。……太夫もお幸せに」
答えながら、香月は自分がこの先輩遊女に抱いていた恐怖心がいつの間にか消えている事に気付いた。だからかもしれない、その唇から紡ぎだされる言葉は、いつになく強い力を持っていた。
お幸せに、という言葉に照れた様に頷くと、葉山は襖を閉めた。
廊下を歩き出した香月の背後から、ややあって再び朗々とした歌声が聞こえて来る。
香月は振り返った。
白の籬の数多の花に
手折り加わる仇花の
比ぶるべくはなけれども……
その歌詞は香月が知る寿楽謡のものではなかった。恐らく即興で葉山が作詞したものだろう。口伝えの廓唄なので、替え唄も当たり前に行われている。
──太夫……?
替え唄ではなく、歌詞に香月は首を傾げた。
現身叶わぬ想いなら
いっそこの身を朝露に
花にもならぬはかない夢に……
歌詞だけではなく、唄の旋律でさえも気のせいかどこか哀しげに聞こえる。少なくとも、喜びに溢れた唄にはとても思えなかった。
──酔っていて、調子が外れているのだろうか。
香月は首を傾げながらも、昼見世の支度をするのを思い出してその場を後にした。背中に葉山の唄を感じながら。