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柳里の華  作者: 伯修佳
7/13

参 大輪の花 後

 あくる日、楠王を始めとする主だった客達が朝の涼しいうちに引き揚げて行くと、昨夜までの賑わいが嘘の様に寿楽には静寂が訪れた。いつもなら遊女達に短い安息をもたらすこのひとときは、今日においては昨夜不始末をしでかした香月の詮議の時間でもあった。

 葉山は自室に彼女を呼びつけ、厳しく詰問した。その場に同席した常盤と川瀬は、まるでそれが自分の役目であるかの様にこぞって香月を罵倒ばとうする。


「大体がおまえの禿がきちんと時間を告げに来なかったからそんな事になったんだろ。姉が腑甲斐ないから禿まで躾されない。それでよく天神が名乗れたものだ」


「全くですわ。それに、閉じ込められたなんて付け焼き刃の嘘、誰が信じるものですか。あれだけ太夫に迷惑をおかけして」


 葉山は部屋の上座、鮮やかな錦絵の屏風を背に脇息にもたれている。半ばからふいに黙り込み煙管をくゆらせ、ただ妹遊女達が詰るに任せていた。怒りの余り言葉を失ったと言うよりは、苛々と何か別の事に気を取られている風にも見える。

 香月は右手に常盤、左手に川瀬、そして正面を葉山と三方を囲まれた状態で畳に直に正座させられていた。恐怖の余り血の気の失せた面を俯けて、ただ弾劾されるばかり。反論する気力さえも、目の前の三人に気圧されて根こそぎ奪われて行く。


「──香月」


 煙管盆の取っ手に煙管を甲高く打ち付けて灰を落とすと、彼女はようやく口を開いた。


「お前が道中の直前に誰かに閉じ込められたと言うのが本当なら、何で外から探しに来た禿にわからないのさ。可笑しいじゃないか」


 このまま事によると刑が確定されてしまうのではという程絶望していた香月は、予想外に理解を示した問いに思わず顔を上げた。


「姐さん! まさかこいつの戯言ざれごとを本気で信じていなさるので?」


 明らかに鼻白んだ常盤に構わず、葉山は香月を見つめた。


「そうですよ、常盤姐さんのおっしゃる通りです。第一、天神が中に間違いなくいたと言うのなら、戸口に飾り扇がある筈じゃないですか」


 早口でそこまでまくしたてた川瀬は、葉山の一瞥にあって口を閉ざした。


「そう、なのに禿は気付かなかった。可笑しいねえ」


「いえ、だから嘘だって──」


 その両眼に浮かんだ不穏な気配を感じたものか、常盤も川瀬も目に見えてうろたえ始めた。


「私が香月ならそんなすぐ暴かれる嘘は付かないねえ。おまえ達だってそうじゃないかい?」


「そ、そりゃそうかもしれませんが」


 迫力に負けたらしく渋々頷いた川瀬から葉山は目を正面に戻した。畳に付いた香月の両手がきつく握られているのをちらりと眺める。


「それが嘘ではないとしたら──」


 見上げる香月の視線を彼女のそれが捕える。昨晩の暗い廊下でも見た、凍り付いた嵐の前の表情。


「扇をわざと隠した人間がいるって事だ。そうだろう? 香月」


 凍てついた瞳のまま、葉山は口元だけで笑ってみせた。


「葉山姐さん」


「お黙り常盤。私は香月に聞いているんだ。──香月、道中の前何か変わった事や見かけた者はいなかったかい?」


 緊張のあまり、どこかぼんやりと遠い意識を掻き集める様にして、香月は葉山の問いに考えを巡らせた。変わった出来事も怪しい人間も何もない。あの時あった事と言えば──


「香月?」


 答えを急かす、葉山の声。


──いた。ただ一人。でも──そんな。


 あの時。河西は自分の所にやって来た。去り際の不可解な表情を除いては、何一つ普段と変わらなかった。勿論、河西がそんな事をする筈もない。


 しかし──それを今申し立てれば、類は彼女に及ぶのではないだろうか。


「何か──知ってるんだね。お前は」


 耳元で低く囁かれる恐怖に香月の呪縛は解ける。それはまるで、問い掛けの姿を借りた宣告に似ていた。

 いつの間にか葉山は席を離れ、彼女のすぐ傍ににじり寄っていた。煙管の羅宇らうを香月の白い顎に軽く押し付ける。

 不意に、肉に食い込む程の力が加わった。


「言うなら今の内に言っておくんだね。下手に庇い立てするとただじゃ置かないよ。──おまえも、おまえが庇う相手も」


 ひやりと冷たい竹の感触。まるで白刃を当てられた様に香月は身動き出来ずにいた。生唾一つ飲み込むのさえ覚束ない──内心を見透かされそうで。


「どうした? 後ろ暗い所でもあるのかい。なければ素直に言えるだろうよ。──それとも、お前の周りにいそうな者を片端から絞め上げていった方が早いだろうかねえ」


──否、もう見透かされてる。


 ごくり、と喉を上下させて口を開く。からからに乾いている気がした。


「……河西姐さんが」


「河西が?」


「部屋に、来ました。……帰り際、廊下に出ようとして……おかしな顔を」


 くび元を圧迫していた力が不意に消えて、香月は軽く咳込んだ。彼女の傍らに片膝ついた体勢から立ち上がると、葉山は踵を返し元いた主座に戻った。


「川瀬!」


「は、はいっ」


 弾かれた様に川瀬が身体を震わす。心なしか顔が蒼ざめていた。


「河西を呼んでおいで」


「ですが姐さん、そんな仲間うちの話など」


 横合いから出された常盤の言葉を、葉山は完全に黙殺した。そちらを見ようともせず鋭く怒鳴る。


「早くお行き!」


「は、はいっ!」


 川瀬がこけつまろびつし慌ただしく部屋を出て行くと、葉山は再び煙管を手に取った。火を点けあらぬ方向を向いたまま煙草をくゆらせる。白く細長い煙が、重苦しい室内にゆったりと広がって行った。

 誰一人として口を開く者はいない。香月は畳に手を付いたまま俯いているし、常盤でさえも正座して己が手の平を見つめるばかり。時が止まったかの様な長い沈黙──煙草を吸い尽くした葉山が煙管を置いて立ち上がるまでそれは続いた。


「遅いねえ。一体何やってんだい」


 言いながらもすでに葉山の身体は戸口に向かって歩き出していた。襖に手を掛け引き開けようとしたその一足早く、勢い良く音を立てて戸を開いた川瀬と鉢合わせる。


「川瀬! 遅かったじゃないか」


「ね──姐さんっ、大変です」


 出くわした瞬間少しばかり驚きを見せたものの、落ち着き払った葉山に対して滑稽こっけいな程川瀬は取り乱していた。息は荒く、着物は乱れている。


「落ち着いて話しなって」


 そう言った葉山の声に重なって、開け放たれたままの廊下の奥から複数の人のざわめきが聞こえて来た。不穏さを表す、高く騒々しい声。不規則な物音。

 彼女は廊下に首を出して音のする方を伺った。


「一体何事だい?」


「か……河西が」


 戸口での話し声に耳を澄ませていた香月の面が河西の名前に反応した。


「河西が? 勿体つけてないでお話しよ──常盤、水持っておいで」


 眉をひそめた葉山が背中越しにそう言うのと、廊下から悲鳴が聞こえたのはほぼ同時だった。

 瞬時に表情を険しくした葉山の脇から絞り出される様な声がした。いつもの甲高いそれはしゃがれ、言葉を聞き取るのが難しい程になっている。


「河西が……き、客の一人に襲われて……今部屋に閉じ込められてます。客が心中……しようってわめいてるらしくって……若衆が二、三人……取り押さえようとして、怪我した……とか」


「何だって!」


 常盤が持って来た水を飲み干す川瀬の傍を擦り抜けて、葉山は足音荒く部屋を飛び出して行った。後に残されたのは戸惑いを隠しきれない妹遊女二人と、呆然とそれを見つめる香月のみ。


──河西姐さんが、どうなったって?


 展開の早さにまとまらない頭を一つ振って、香月も走って部屋を後にした。──よくわからないけど、何だかひどく嫌な予感がする。


※※※※


 河西の部屋は葉山のそれから見ると、二部屋分南の十字に交わる廊下の角に面していた。隣には今は主人不在の常盤の部屋、その付近から更に南の吹き抜けに面する廊下に至るまで、部屋にいる筈の遊女や下女奉公人など、一定の距離を保って人だかりが出来ている。


「香月姐さん!」


 葉山の部屋から最も近い人だかりの中に近づくと、悲鳴に近い声が掛けられた。


「浅尾ちゃん、河西姐さんは」


「まだ──まだ部屋の中です」


 浅尾はがたがたと震えながら、閉め切られた河西の部屋の襖を指差した。傍に彼女を支える様に祥が寄り添っているものの怯えているのは同様で、今にも泣きだしそうな顔をしている。

 事情を聞き出そうとしてもまるで要領を得ない浅尾を見かねたのか、隣にいた掃除係の中年の下女が代わりに答えた。


「ありゃあ逆恨みってやつだろうね。丁度河西姐さんの客が上得意の客だったらしいんだけど、その人を見送ってさあ戻ろう、て時に今立て籠もってる男が出て来たらしいよ。嫉妬したんじゃないかねえ、かなり言い争ってたみたいだから」


 今より二刻ほど前、彼女はいつもの様に遊女達が朝湯を使いに出るであろう頃合いを見計らって掃除に訪れたと言う。だが今朝は遅出の客が部屋に残っていたので一旦引き揚げ他の場所を掃除してから再び遊女部屋に向かった。掃除した大広間から遊女部屋に行くには玄関を通り抜けなければならず、ちょうどそこに差し掛かった時、言い争いながら逃げ戻って来る河西と偶然出くわしたのだった。

 あたしも見たよ、と下女の肩越しに遊女の一人が顔を覗かせた。


「前にも見た事あったからよく覚えてる。陰気な、目付きの悪い不気味な男だと思ってたんだよ。その時も多分河西が相手したんじゃないかな……二度目はわからないけど」


「二度目は──あたしが相手したんです」


 浅尾はまだ少しだけ震えていた。


「姐さん嫌がっちゃって……だからあたしが。──でも、その人物凄い怒って帰っちゃったんです。怒鳴り散らして、結局若衆に放り出されたけど……」


 それまできつく握り締めていた着物の袖で顔を覆って彼女は啜り泣き始めた。


「どう、どうしよう……。もし、姐さんの身に何かあったら……っ」


「浅尾ちゃん──」


 その場にへたりこんだ彼女を、両脇から下女達が抱え起こす。それを手伝いながらも香月が河西の部屋の方を再び伺うと、人垣を縫って葉山が戸口付近まで近づくのが目に入った。

 彼女の姿に周囲からどよめきが起きる。人だかりの先頭、楼主夫婦の元まで辿り着くと彼らは目を剥いた。


「太夫、お止め! 何をする気だい」


「河西を人質に取られているのでしょう? 愚図愚図していると、不味いのではありません

か──救け出さないと」


 尚も足を踏み出そうとする葉山を、夫婦は縋り付いて止めた。


「今憲兵を呼びにやらせてるから! おとなしくしていなさい。河西だって、逆撫でする様なへまはしないだろう。──おまえにもしもの事があったら、陛下に申し訳が立たないじゃないかっ」


「ですが女将さん……」


 葉山はちらりと部屋の扉に訝しげな視線を向ける。河西の部屋は不気味な沈黙を続けていた。嫌な展開を連想させる程に。


 楼主も唾を撒き散らしながら叫んだ。


「駄目だ駄目だ、ああいった手合いはこっちが何かしようとすると即座に自滅する。それで河西がられてみろ。この寿楽で刃傷沙汰にんじょうざたなんてとんでもない!」


 葉山は一つ溜め息をつくときびすを返した。その背後からは、浅尾らの悲しげな啜り泣きが聞こえて来る。

 憲兵はまだ到着しないのか。誰もが焦れて、しかし何も言えずにいた。

 黒い人影が彼らの視野を掠めて行ったのはその時だった。単なる幻と思える程、一瞬の出来事である。

 影は真っすぐ河西の部屋へとするり、と抜けて行く。誰かが止める暇もなく、静かに開けられた襖は、影が入るとこれまた音もせず閉まった。


「……今のは」


 訝しげに呟かれる楼主の声の後を引き取って、聞こえて来たのは物が倒される派手な音。呻き声。一つ、二つ。それきり静まり返った。

 固唾かたずを飲んで見守る一同の目の前で、襖が再び開く。期せずして皆後ろに二、三歩退がった。


「女将。憲兵はまだか」


 現れたのは先刻の黒い影。


「──久我様っ!」


 義方は襖の陰となっていた両腕を前に突き出した。繋がった先、ろうの様に白く生気のない血塗れの幽鬼のごとき男が、やはり両腕を後ろ手に括られてぐったりしている。どうやら当て身を食らって気絶しているらしい。


「若衆を三、四人寄越してくれ」


「あっ……はいっ」


 慌てて女将が人垣から離れて廊下へと消えて行く。ややあって男達が駆け付けると、相変わらず無愛想な表情のまま、黙って獲物を引き渡した。


「姐さんっ!」


 悲鳴に近い声を上げて浅尾は部屋に駆け入った。男が暴れたものか室内は惨憺さんたんたる有様だった。行灯に夜具、鏡台その他諸々が乱雑に倒れ散らばっている。


「姐さん! 河西姐さんしっかりして!」


 入り口とは反対側の壁に、河西は放心したていでもたれ掛かっていた。男程ではないが、顔に殴られた様な赤いあざ。衣服には血さえ飛び散っている。


「姐さんっ……血が……」


 浅尾の悲痛な呼び掛けにも河西は答えない。衝撃で自失しているらしかった。浅尾の後ろ二、三歩遅れて駆け付けた香月が部屋に入る。


「香月姐さん……て、手当てを」


「大丈夫だ」


 傷を検めようと香月が河西に手を触れた刹那、背後から義方の声がした。


「あの男の返り血がついただけだろう……ざっと見た所殴られた以外に怪我はない様だ」


 義方の背後、廊下を埋める人だかりを掻き分けて、濃灰色の官服の男達が去って行く。憲兵が闖入者を連行する為にようやく到着した様だ。

 義方は布で手を拭いながら香月の脇を抜けて部屋に入って来た。昨夜と同じく、むせ返る様な花の香りが辺りを包む。


「河西。私がわかるか」


 少し抑揚に乏しいが、深く響く気遣いのにじんだ声。

 河西の双眸に光が戻って来た。


「ああ……あた……あたしいいいいっ」


 正気と共に恐怖を取り戻したものと見えて、彼女はがたがたと震えだした。義方は立ち上がり周囲を見回すと、倒れた卓の横にかろうじて斜めの状態で零れずにいた酒瓶を手に取った。少しばかり自ら口に含み、河西の身体を引き寄せる。口移しでそれを飲ませると、ややあって彼女の震えは治まった。


「……義方様。お帰りになったんじゃ……」


「其方と別れた後迎えの馬車が少し遅れてな。門の外で待っていたのだ。……だが、遅れて幸いだったな。憲兵が騒いでいるのを聞き付けて取って返したのだが、彼らより早く着けたよ」


 彼はそう言って微笑んだ。


「あ……ありがとう……ございます」


 釣られた様に笑みを返そうとして河西は失敗し、引きつれた表情を両手で覆って嗚咽おえつを洩らした。


「あの人……お客だったんです。何だか思い詰めてる様子で……最初の時『一緒に死んでくれ』とか言いだして。気味悪くて……二度目断ったら。そしたら……あんな!」


 義方は彼女の肩を自分にもたれかけさせて、上下する身体をゆっくりとさすった。


「もう……大丈夫だ。終わったのだ。心配するな、其方が落ち着くまで私もここにいるか

ら」


 河西は涙に濡れた面を上げた。


「でも、義方様……お仕事が」


「いいから、今は何も考えないで休みなさい」


「……はい」


 河西はしばらく義方に抱かれたまま目を閉じていた。今し方ひどい目にあったばかりだと言うのにその顔は安らかで、幸せそうにさえ見える。

 気遣う言葉をかけるにかけられず、香月も浅尾もただ黙って二人を見守った。


「もう……大丈夫です。ご心配をおかけしました」


 四半刻程経った頃か、河西はそう言って立ち上がった。


「本当にもう平気なのか」


 足元はまだ少しふらついているし、向けられた笑顔もいかにも作り笑いだ。義方は眉をひそめた。


「はい。ですからもうお仕事に行って下さい」


 最初よりは毅然とした口調に、仕事が終わり次第またすぐに来ると重ねて言い置いて彼はようやく帰って行った。

 義方の遠ざかる背中を、河西はいつまでも目で追っている。


「河西」


 開け放たれたままの襖、義方と入れ違いに女将と葉山が入って来た。廊下の人垣はさすがにもう消えている。皆いつも通りの己の持ち場に戻ったのだろう。

 心中騒ぎは事件ではあるが、廓では実は稀な事ではないのだった。


「お前、部屋をしばらく移っちゃどうかね。ここはこんなだし、夢見も悪かろう。太夫が自分の次の間を貸してもいいと言ってるから」


 特に心配そうには見えない女将だが、売り物を殺されなかった安堵の表情は隠しきれないらしかった。ご機嫌を伺う風な彼女の隣で、意外にも深刻な顔の葉山が頷く。


「とりあえず荷物は後で運ばせるから、横になって休みなさい。布団は敷いてある。お前には安静が必要だ」


「……はい」


 さすがに反抗する気力もなかったのか、素直に従って廊下へと河西は足を踏み出した。両脇を禿に支えられながら。


「ああその前に一つだけ、聞いておきたい事がある。今この時に何だけど」


 事もなげな問い掛けに河西は振り返った。


「はい……?」


「道中の始まるすぐ前、お前香月の部屋に来ただろう。何か変わった事や気付いた事なかったかい」


 河西はしばしの間考える素振りを見せた。


「いや、特になかったですよ。あたしが見たものと言ったら、廊下に川瀬がいた位で。変わったものなんて、これっぽっちも」


「──川瀬、常盤! 出ておいで!!」


 雷鳴の様な怒鳴り声。廊下に控えていたらしい二人がおずおずと姿を現した。


「何なんですか、太夫?」


 眉をひそめる河西に葉山はにっこりと微笑んだ。


「いや、おまえには関わりのない事さ。もう一つだけ聞かせておくれ。その時、香月の戸口に飾り扇はあったかい?」


「いや……どうでしたかねえ。なかった様な気もするけど。よく覚えてませんが……」


 やつれ乱れた髪を頬に垂らして河西はわずかに首を傾げた。


「ほ、ほら。河西だってよく覚えてないじゃありませんか。川瀬がたまたま近くにいたからって」


「失礼致しやす」


 戸口に立ったまま蒼醒めながらも媚びる様に笑う常盤を遮って、着物姿の若い男がその脇から顔を覗かせた。冶助やすけという名の、太夫付きの若衆の一人だ。

 男は静かに部屋に歩み入ると、葉山に近づいて懐から何かを取り出した。


「ありやした」


 その手の平に握られていたのは浅葱あさぎ色の扇。何故か泥が付き、ひどく形が崩れている。

 男が葉山の耳元に何ごとかを囁く。彼女は険しい表情のまま、更に眉をひそめた。


「それで、どこで見つけたんだい」


「店の裏手の、堀淵に引っ掛かっていやした。どうやら流されず残っていたものと」


「場所はどの辺りだい」


「──それが」


 男は少しばかり躊躇ためらう様子を見せた。


「常盤さんの部屋の真下でして──」


「嘘をお言い!!」


 いきなり声を荒げ、常盤は男に掴みかかった。


「よくもそんな出鱈目でたらめを! この能なしが! 何でそんな嘘をっ」


 首を絞めようとでも思ったのか襟元に伸びて来た手を掴んで、男は淡々と答えた。


「手前は──見たものをそのまま答えただけです」


「だからそれが嘘っぱちだって言ってるんだ! そんな筈ないんだ。だってあれは──」


「『あれは』──何だい?」


 ひどく静かな声だったにも関わらず、一瞬にして部屋は静まり返った。ひゅう、と隙間風に似た音が漏れる。音は常盤の喉から出た声なき悲鳴だった。


「確かに堀に投げ入れた物は再び浮かび上がっては来ない。それが水の流れがどうであってもね。何故かあそこはそういう仕組みになっている。──ならば沈まずにいた場合、あった場所が投げ入れられた場所だ」


 葉山は渡された扇を右手に持ち、左手に軽く叩き付けながら妹遊女を睨んだ。


「だが全くもっておかしな話だよ。もし常盤がそんな事をしたのなら、万一の事を考えてもう少しましな場所に捨てるだろう。──例えば」


 扇で部屋の右手を指し示す。散らかった河西の部屋の壁がそこにはあるだけだ。


「例えば堀の手前にある築山とかね。あそこなら障害物も多い。巧妙に隠して、何かの折に拾い上げて店の外に持ち出した方が無難だ。私ならそうするね、そうだろう?」


 葉山は常盤ではなく、男に向かって同意を求めた。


「お前、さっき私に教えてくれた事をもう一度皆に聞かせておやり」


「今朝から築山を捜索してこれを見つけやした。太夫のお言いつけ通りそれから庭を見張っておりやしたら、川瀬さんがやって参りやして、何やらお探しのご様子。手前が扇を見つけた辺りをしばしの間うろうろしてから、早足で戻って行かれやした──」


「それはいつ頃の話だい」


「へい、心中騒ぎが起こる少し前で」


 淡々と語る男の台詞が終わるか終わらない内に、葉山はすいと二、三歩踏み出した。その動きの素早い事、頬を張る音が立て続けに二つ鳴り響いて、妹遊女達は床に倒れ込んだ。手加減なしに殴られたに近い倒れ方だった。

 香月や浅尾は勿論、朦朧としていた河西や禿までもが驚愕の余りその光景を凝視した。かつて葉山が妹遊女をここまで折檻した事はない。他の者に対しては確かに厳しかったが、ここまで問答無用な怒りを見せたのは初めてではなかろうか。


「私は冶助に頼んだんだよ。扇を隠した場所が店の中にあるなら、隠した本人が必ず取りに戻るだろうと。時刻は客の相手をしている夜は無理、ならば次の日客が帰った後に来る筈だ。そいつを見つけたら私に先に言い、その後『隠した者の部屋近くの堀で見つけた』と嘘をつく様にね」


「あ、あたし達を嵌めたんですか」


「嵌めただって? それはお前達の方だよ」


 脇で所在なげに見守っていた女将は葉山を窘めようとしてか何回か口を開閉させたが、その横顔を見て引き下がった。かつてない程激怒していたのだ。


「こいつは機転の利く男だよ。川瀬に部屋がないからと、常盤──お前を名指しするとはね。いいかい、ようくお聞き」


 葉山は畳に扇を投げ捨てると、尻餅をついたままの二人の髪の毛を掴んで力任せに引っ張り上げた。痛さからか恐怖からか、再び悲鳴が上がる。


「お前達の浅はかなはかりごとのおかげで、私がどれだけ面倒をこうむったのかわかるかい? ……道中は大事な機会だったんだよ。それが台無しにされたんだ。大門に巻きにして吊られないだけ感謝するんだね」


 川瀬が泣き出し、つられた様に常盤も嗚咽を漏らし始めた。それを冷ややかに一瞥した後、ぞんざいに手を放して葉山は立ち上がる。


「香月」


「は、はいっ」


 踵を返して戸口に向かう背中越しに彼女は低く告げた。


「すまなかったね。──こんな筈じゃなかったんだけど」


 葉山が、次いで顔を腫らした常盤達が出て行くのを香月はただ唖然として見送った。


──今のは何?


 あの矜持の高い太夫が──詫びるだなんて。


「そっ……それじゃ河西。行こうかねえ」


 そそくさと歩き出した女将も動揺していたらしかった。声が微妙に裏返っている。頷いた河西も驚いてはいたものの、疲れの滲んだ静かな声で香月に「結局何があったの」と問いかけただけだった。


「……わかりません。どうなってるんでしょう……」


 わからない。聞きたいのはこちらの方だ。


──こんな筈じゃなかったのに。


 河西が女将と共に去り、部屋に独り取り残されても、葉山の不可解な台詞は、香月の頭から離れなかった。

 二日後、鷹信が寿楽を訪れた時つい彼女はその疑問を打ち明けてみた。後から楼主が教えてくれたのだが、楠王は香月達に不興を覚えた様子もなく、むしろ詫びと称して揚げ代を普段より弾んだと言う。ならば何故葉山はあそこまで激昂したのだろうかと。


「予定通りに行かなかったのが悔しかったのではないかな。聞くに葉山太夫は誇り高い知識人とか。あれだけの一大催事、私怨を挟んでいいものではないと考えても道理だ。有終の美を飾れなかったのは残念だったろうし」


「そういう事……なんでしょうか」


 釈然としないままに頷いて、香月はふと彼の言葉に引っ掛かりを覚えた。


「有終の美、とは?」


「ん? ああ、其方はまだ聞いてなかったか」


 恐らくもう本決まりだろうが、と鷹信は前置きする。


「明日にはここに正式な使いの者が来るだろう。陛下は太夫の落籍をお決めになったのだ。……彼女は王宮に召されるのだよ」

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