参 大輪の花 中
濃厚な蒼に染まった夏の空が、夕暮れを迎えてその姿を灼熱の金に変える頃、地上もまた、まさに始まらんとする夜の為に華々しく変化を遂げていた。
大路沿いに並び立つ店の戸口には意匠を凝らした花飾りが架けられ、傍に佇立する行灯に照らされている。建物の切れ間には祭の為に呼ばれた屋台、品物を売り捌く主人の呼び込みが騒々しい。風車、鬼灯、駄菓子や風鈴に金魚。買い物目当ての客もいるのか、まだ宵の前だと言うのに路を歩く人の群れで、皐乃街は平生ない賑わいを見せていた。
「香月ちゃん、支度出来た?」
庶民にとってただの祭りに過ぎなくとも、ここに棲む者達には一番の稼ぎ時である。どの遊女もお得意様を迎える身仕度に追われていた。香月もそれは例外ではなく、ようやく瑯華道中の為の仰々しい衣裳を着付けた姿で友人を出迎える。
「河西姐さん、まだ支度なさっていないんですか?」
地味な色合いの普段着を着たままの河西に彼女は驚いた。夜の顔見世までもう時間がない。顔見世と共に道中が始まるはずだから、客が来る──久我だと聞いていた──河西も、もう衣裳を着ていないと不味いのではないか。
そんな仲間の心配を河西は軽く払った。
「今日はお仕事が長引くから、少し来るのが遅くなるんですって。花火には間に合うらしいけど」
それにしても凄いわねえ、と彼女は目の前の豪華極まりない傾世姿をうっとり眺めた。
白と銀と紫が基調とされた衣裳。上着は白練と銀鼠の沙綾形に、蘇芳の花丸紋が散らばる洗練されたもの。重ね着物は似せ紫と鳥の子色の菱紋、帯は銀地に黄海松茶と桑染の亀甲菱。
尾長鳥と菊を象った銀のかんざしは精巧そのもので、彼女の絹の様な黒髪の美しさを引き立てていた。
「いつも倉嶋様の前でも地味な衣裳しか着てないって言ってたけど、こりゃあいくら真面目でも惚れなおすわね。もしかしたら太夫が霞むかもよ?」
「からかわないで下さい。ただでさえ恥ずかしいんですから」
いつもより厚めに塗られた白粉のせいで、はた目には香月が頬を赤くしているかどうかわからない。それでも心底辟易しているのが顔つきでわかった。
河西は笑う。
「なーにをおっしゃる、寿楽の二番遊女ともあろう人間が」
彼女は部屋の真ん中で身じろぎ一つしない友人に歩みより、正面にどう、と腰を下ろして視線を捉えた。
「香月ちゃんは時の人なんだよ。国の中枢にいるお方の想い人なんだから、もっと堂々としてなきゃ」
「お……想い人!?」
「そうさ。いくらお金持ちでも、気に入らない相手に物は贈らないだろ? しかもこんな高価な物」
再び衣裳に目をやって彼女はうっとりとため息をつく。
「想われていない、て考える方がどうかしてるよ」
「そうでしょうか……」
感情移入してしまっている河西とは対照的に、当の本人の表情は晴れなかった。
確かに鷹信は優しい。優し過ぎる程に。しかしそれが恋愛感情かと聞かれると、やはり自分は『否』と答える気がする。
──あのお方なら、きっと道端の物乞いにだって衣服を買って下さる。そういう奉仕癖に似た所がおありだ。
「鷹信様は、妾があまりに不甲斐ないから同情して下さっているんです。それだけですよ」
「また! 気弱な事ばっかじゃない。少しは我儘言ったり甘えたりしてみなって。きっとその方が喜ぶと思うよ?」
とんでもない、と香月は激しく手を振って否定した。
「この衣裳だって、贅沢が過ぎるって一度お断りしたんですよ」
河西は大げさにため息をつく。
「わかってないねえ、香月ちゃん」
「何がですか」
こちらが怪訝そうな目顔で訴えると、河西はそそくさと立ち上がる。
「何でもないよ。──さ、あたしもそろそろ戻らないと。祥がやきもきして探してるかもしれないし」
「待って下さい、まだ──」
心許なさと誤魔化された事を追及する声。軽く流して彼女はきびすを返そうとし──その姿勢で、ふと止まった。
「そうだ、アレ持ってる? 花糖果」
不意打ちを食らって香月は一瞬停止する。
「は、はい」
反射的に引き出しまでにじり寄って中から薬入れ──端切れで作られた布袋だ──を取出し、友人に渡そうとした。
「ありがと~。ちょうど今部屋にも切らしてるの忘れて……」
受け取るのに右手を差し伸べたが、しばらく『それ』が渡される気配はない。香月を見れば、薄紅色の小さな紙包みを袋から取出しているのにも関わらず、すれすれな位置で右手が停まっていた。
「香月ちゃん?」
「あげてもいいですけど。さっきの質問、答えてくれたらです」
河西はまじまじと友人の顔を見ている。
突然吹き出した。
「河西姐さんっ」
「ああ、いやごめん。ただちょっと可笑しくなっちゃって」
香月はますます眉根を寄せる──ここは笑う要素などない。少なくとも彼女にとっては。
それでも物と引き替えなだけに、河西はあっさり「生真面目って事だよ」と言って対価を受け取った。首を傾げる友人に意味ありげに笑う。くるりと背を向け襖を開けた。
「じゃあね、また後で」
振り返ると香月はまだ考え込んでいる。正面に視線を戻した河西は、何を見たのか一瞬表情を険しくしたが、そのまま後ろ手に襖を閉めて出ていった。
──生真面目って、どういう事なんだろう。
河西が去った後も、かなり長い間香月はその意味に考えを巡らせていた。
自分が考えすぎる質であるのは、言われずともさすがに彼女にもわかっていた。だが、鷹信に高価な贈り物をねだり甘えるのが、河西の言う『わかっている』行動だとはどうしても思えない。
──姐さんにまた『だから生真面目なんだ』って言われるだろうか。
多分自分は恐いのだろう。優しさに寄り掛かったが故に、それが跡形もなく失われるのが。ついこの前、絶対無比に続くであろう愛情を失ったばかりだから。
求める気持ちが強ければ、失くした時の悲しみもまた強い。地に足の着かない今の幸せを信じる事はとても出来なかった。
不意にコトリ、と音がして、物思いの泥沼から彼女は現実に引き戻された。音のした部屋の外の方を伺ったが、それきり何の気配もない。次いで微かに女の声がした様な気がして、ふと思う。
──そう言えば、今何刻なんだろう。
皐乃街には時を正確に知らせる概念が野暮とされる。唯一の手段は大門近くの憲兵詰め所にある、外で作られた『時計』だけだ。それによって憲兵が中央にある大鐘を鳴らして一刻を知らしめる。だから音が届かない室内に、いざという時を知らせるのは禿の仕事だった。
「彩? そこにいるの」
道中の時刻を知る為に外に使いに出た禿の名を呼ぶ。だが返答はない。当たり前だ、帰ってるなら部屋に入るなりするだろう。
いずれにしても、もう外に出ないといけない気がする。香月は立ち上がり、襖に手を掛け開けようとした。
開かない。
「え」
木枠に襖紙を貼っただけの脆いはずの扉は、意外にもびくともしない。左右に力任せにガタガタと揺らしても、僅かに縁が浮くだけで開く気配は全くなかった。明らかに、外側から何かに固定されている。
──そんな、馬鹿な。
香月はようやく自分が置かれている状況を把握した。
「ど……どうしよう……」
このままでは──いやもう既に、道中に遅れているだろう。葉山に、皆に掛ける迷惑と引き起こされるであろう怒りを思い、彼女は瞬時に周章狼狽、途方に暮れた。
──何故こんな事に。ああ、それより。
このまま妾が出られなければ、鷹信様にも迷惑がかかる。
考えがそこに至った時、気付けば彼女は襖に体当たりしていた。隙間なく着付けられた衣裳の襟元が崩れ、髪が乱れても、もうそれしか方法がないのだ。
幾度めかの試みで、襖はようやくたわんで廊下側にめり込み、外れた。
倒れたままのそれには委細構わず、香月はもつれる足で走り出す。廊下を長く引き摺る裾を腰にたくし上げながら外を目指した。
気付くはずもなかっただろう、床に散らばっていた小さな木片を、その時近づいて来た人影が拾って懐に隠した事などは。
※※※※
それより少し前、禿の彩が姉遊女の元へ刻を告げに行こうと店に入った頃、上がり框で下女に話し掛けられた。
「香月天神を探しているんだろう? 姐さんならいないよ。どこか行ったみたいだ」
少女の顔を見て「本当だって。何だったら行ってごらんよ、扇もないから」と言い添え女は厨へと歩み去る。言われた通りに部屋へと戻ると、確かに戸口に飾り扇はなかった。
彩が困惑しながらも襖に手を掛けようした時、背後から女将の怒鳴り声が飛んできた。
「彩! 天神はまだなのかい。もたもたしないでさっさと呼んで来な!!」
彼女は目の前の襖と背後を慌てて何度か見比べ、結局くるりと身を翻して──外へと指示を仰ぎに戻って行った。
「香月が部屋にいない?」
既に店の外で出発を待つばかりの葉山は、紅を差した美しい面を怒りに険しくした。
「きちんと探したのかい? 彩、もう一回行っといで。おまえ達も」
若衆と呼ばれる店の下男に向かって顎を突き出す女将を、だが葉山は遮った。
「これ以上陛下をお待たせするわけには参りません。道中は妾一人でやります」
「けど、太夫」
戸惑う女将に向かって彼女はわずかに首を横に振る。
「彩、おまえは探しておいで。見つけたらすぐに上駕楼に連れて来るんだ」
その両眼と声音に恐れをなしたのか、弾かれた様に禿は店へと戻って行く。顔を大路に戻した彼女は、強い意志を背にみなぎらせて高履を履いた白い足を一歩前に踏み出した。
「さあ、皆。──行こうか」
冴え渡る、鬨の一声。
禿に新造、若衆に太鼓持ち。後に着き従う太鼓持ちは、文字通り抱えた太鼓で道中の威勢を上げる。先頭の禿が小さな手を振り上げると、綽花と同じ薄紅色の花びらが夜空にはらりと舞った。それを封間のかざす朱塗りの傘で躱して、ゆるりと進むは真打ち──太夫。
纏う衣は金紗を張った真朱。海老茶に暮れる裾や袂には闇夜に咲く花、大振りな欝金の椿に青海波。
帯の黒と浅黄を基調とした麻葉縞が華やかさを引き締めて、妖艶な雰囲気を醸し出す。はっきりした顔立ちの葉山ならではの、際どい衣裳だ。
それぞれ今日の為に作られた華やかな衣裳を身につけた禿や新造が加わると、まさに色彩の饗宴とも見紛う光景である。
「よっ、太夫!」
「待ってました!」
灯籠に照らされた路を彼女が一歩進む度、脇で見物する客達が囃し立てた。それはもはやこの世のものなどではなく、天女とも女仙ともつかぬ幻想だったかもしれない。
「綺麗だねえ。有難や有難や」
「本当に」
遊女を買いに来た客は元より、花火見物に来た親子連れや老夫婦までが、魂を抜かれた様にその姿に魅入った。
天女が首を微かに動かして、彼らに向かって微笑んで会釈する。歓声が上がった。
けれど見た者はいなかった──葉山が微笑みをさりげなく引いた時、その両眼に絶望的な怒りが閃いて、消えていった様を。
※※※※
店の出入口に差し掛かった時、香月は息せき切らせた彩と鉢合わせた。
「姐さん!」
「──彩ちゃん」
滅多に大声など上げない禿の叫びに驚き、同時に事態の切迫さが伝わって不安さが増した。
「どこ行ってたんですか! 探したんですよ」
「え──妾、ずっと部屋に──」
香月の返事を待たず、少女は先に立って駆け出した。
「話は後です! もう道中は無理ですから、脇道を通って置屋に急げって女将さんが」
「あ──」
香月の身体が、胸から爪先へすう、と冷えて行く。ではやはり間に合わなかった、葉山達はさぞ怒り狂っていただろう。
大路を囲む人垣と、立ち並ぶ出店の後ろ、綽花の木の合間を蛇行しながら進む。ただでさえ高履しか用意していなかった香月の足では思う様に速度が上がるはずもなく、途中息が上がって木にもたれて止まってしまった。
「姐さん!」
はるか離れた場所から彩の声がする。歩きやすい草履を履いていた彼女は小走り出来た為、姉遊女とはぐれがちだった。
「待っ……て……、少し……休まない……と」
少女は一呼吸の間で駆け戻って来た。
「大丈夫ですか」
「うん……もう、大丈夫」
まだ息は荒いものの、そういつまでも愚図愚図はしていられない。身体を木から戻すと彼女は再び歩き出した。
「……?」
ただでさえ、灯籠の光の名残しかない脇道は暗い。ましてや店の裏手を通るに至っては、窓から漏れ射すわずかな手がかりしかなかった。──その闇に紛れて何か動いた気がして、香月は右背後を向く。
どこかの店の壁が見えるだけだ。
──気のせいか。
或いは客と遊女が、人込みから離れて二人きりでいるだけかもしれない。切見世ではよくある事だ。あっさり納得した香月は首を戻し、目を凝らして先を急いだ。
※※※※
「両御方におかれましては、いつも寿楽をご贔屓頂き誠に恐悦至極にございます。本日、これに報いるべくささやかですが趣向を用意致しました。些少なりとも、御意に叶えば幸甚でございます」
最上座の客人は、楼主の長口上に鷹揚に笑って答えた。
「堅苦しい挨拶などせずとも良い。今日初めて来たわけではないのだからな」
恐らくは三十路に手が届くか届かないかという年齢だろう。外套のごとく肩に掛けている黒と金を基調とした洋装──襟元や袖口などそこかしこに豪奢な刺繍が入っている──は、彼の青み掛かった黒髪と相まって強い印象を醸し出している。彫りの深い、美に慢らないが独特の顔立ちで、たとえ千人の中にいても一目でわかりそうな魅力に溢れている男だった。紫色の大きな座布団の上にあぐらをかいている、そんな仕草も豪放磊落だがどこか上品にさえ見える。
左隣にいる、白と藍色を身に纏った臣下のあくまで優美な佇まいとは全く性質が異なる高貴さがあった。
申し訳ございません、と主人夫婦は平伏する。床に頭を擦り付けんばかりの一同に、彼は苦笑して傍らを見やった。
「鷹信、おまえからも何か言ってやれ」
いきなり矛先を向けられ、彼は主君が面倒を押しつけるつもりなのを認識しつつそれに従った。
「楠王陛下は格式ばったものを好まれない。──つまり早く花火を見たいとおっしゃられている。花が美しければそれが何よりの報いになるだろう」
半ば辟易しながらも促す。楼主は慌てて背後に目配せし、「では私共はこれで失礼致します」と出ていった。
次々と運ばれて来る酒肴を眺めながら、投げ遣りに楠王は呟いた。
「全く、いつまでこんな茶番が続くものやら。さすがに飽きて来たよ」
「陛下からお始めになった勝負ではございませんか。せめて決着はお着けなさいませ」
素っ気なく切り捨てる臣下の言葉に彼は恨みがましい目付きで睨んだ。
「しょうがないだろう。まさか王宮内でやるわけにも行くまい──もう充分被害に遭っているのだ」
存じております、とあくまで温度の上がらない態度に楠王はふと瞳をきらめかせた。
「ああ、おまえは心配なのだったな。何と言ったか──確か香月とか。その娘が巻き込まれやしないかと気にしているのだろう」
「当たり前です。無辜の民が犠牲にならぬ為にそもそも今回──何をにやにやなさっているんですか」
鷹信はますます深まる主君の奇妙な笑みに苛立ってぞんざいに言う。返す楠王はあくまで嬉しそうだ。
「いやいや、これでおまえも全うな男の仲間入りだなと思うとひとりでに顔が綻んでしまうのだ。許せ」
「心外です」
およそ臣下にあるまじき横柄な物言いである。主従の関係のみならず、幼馴染みで二十年来の友でもある彼だけに許された特権だった。
「網淵の爺いに聞かせてやりたいよ。あいつはおまえに女が出来たと知ったら、驚いて間違いなくあの世往きだ」
楠王は万事に口うるさい宮廷の御意見番とも言うべき老人を思い出して悦に入る。
「常々『早く世継を作れ』と言われているのは陛下の方じゃありませんか」
自分をからかうのが好きだという主の趣味を、彼はいつも通り一蹴した。案の定、楠王は明らかに鼻白む気配を見せる。正妻玲彰との間に子が生まれずにいる事で、老侯爵に小言を主に食らっているのは自分の方なのだ。自業自得とも言える。
「全く、戯言ばかり。ほら、もう太夫達が来ますから黙って下さい」
鷹信が格子骨の障子に視線を移すと、人が近づく足音がした。次いで影が追い付いて「葉山太夫、御目見え申し上げます」と甲高い少女の声が座敷に響き渡る。
「──入れ」
今までの会話が嘘かと思う程の、低く、毅然とした楠王の声。
「失礼致します」
禿を先触れに、六、七人もの道中一行がきらびやかな色彩を纏って次々と座敷に入る。主客がたった二人にしては広すぎる室内の反対側、金色に光る大きな屏風を背にして彼らはずらりと並んで平伏した。
「お待たせ致しました事──深くお詫び申し上げます」
やや勿体をつけた口調で朗々と中心の葉山が告げると、周囲の者が一斉に頭を地に擦り付ける。
楠王は頷いた。
「事情は女将から聞いている。何やら事故があったらしいな」
葉山もまた深く頭を垂れた。
「当方の不手際にて、面目次第もございませぬ」
「詫びずともよい。その事故とやらはもう大事ないのか?」
「はい。その故あって香月天神は少しばかり遅れます。倉嶋様には申し訳ございませんが、しばらくの間代わりの者がお相手致します」
葉山は左脇に控えた娘に視線を向けた。
「香月が、どうかしたのか」
怪訝そうな鷹信の声に、形の良い唇で笑みを形作り彼女は答えた。
「ご心配には及びませぬ。ただ遅れているのみにございますれば」
「それならば良いが……」
「葉山、こやつは自分のお気に入りの娘が恋しくてたまらないのだよ。心配症なのだ」
楠王は葉山を差し招くと、さも愉快げに笑った。
「まあ、その様におからかいになって。妾は香月が羨ましゅうございますよ? それ程までに一途に想われるなど、女冥利に尽きますもの」
葉山と共に来た遊女が鷹信の傍に侍るのを見届けて、彼女は銚子を手に取り楠王の杯に酒を注いだ。残りの者達が屏風の前で謡や楽の音を披露し始めるのを聴きながら、楠王は大仰に眉をひそめる。
「聞き捨てならぬな。そなたには私がいるではないか」
葉山は艶やかに微笑んだ。
「もちろんでございますとも。陛下はお優しい、申し分のないおかたですわ。そう想うのが、妾だけでないのが残念ではございますけど」
「何の話だ? そなたという者がありながら、この私が他の女に目移りするとでも?」
真顔で嘯く、評判の恋多き男に葉山は笑って答えなかった。
「鷹信、おまえからも何か言ってやってくれ。どうやら葉山は誤解しているらしいのだ」
同じく遊女に酌をされながらちらりと主君を見やった鷹信の返答は素っ気なかった。
「それは、陛下の日頃の行いが悪いせいでございましょう」
鈴を転がした様な美声で葉山はまた笑う。
「どうやら、倉嶋様は妾と同じ意見の様ですわね──」
憮然と杯を傾ける楠王は眺めていた彼女の笑みが一瞬にして消えたのに気付いた。
「どうした? 葉山」
視線は彼の肩先──正確には彼の横に立てられた首の長い燭台に固定されている。
「あれがどうかしたのか?」
あくまでのんびりとした問い掛けに、彼女は視線を戻して無理矢理笑みを形づくった。
「……いえ、何でもございません。それより、香月が来るまで妾が舞をお披露目致します」
「おお、そうだな。今日はそれを楽しみにして来たのだ。花火にはまだ間がある事だし」
※※※※
夜とは言え、真夏の湿った熱気が辺りにはまだ充満している。ただでさえ何枚もの着物を纏う身体にそれは暑いのに、さらに走るとあっては汗だくになってもおかしくはない。進まない両脚を酷使してようやく上駕楼に着く頃には、髪は乱れ白粉は剥がれ衣裳は緩みと、香月の状態は最悪の様相を呈していた。
慣れない高履に擦れた爪先の痛みを堪えつつ、建物に入ると部屋を取り巻く廊下を左へと急ぐ。禿の彩が先に立ち、座敷の入り口に向かって角を右へ曲がった。
「彩?」
だが、しばらく経っても先触れの声は上がらない。上級遊女が座敷に入る時、禿が一声かけるのが廓のしきたりだ。いくら慌てているからと言って、いきなり入室するはずはない。不安になった彼女は仕方なく後に従って角を曲がった。
「──静かに。声を立てるな」
曲がった瞬間、気付く間もなく香月は何者かに後ろから羽交いじめにされて口を塞がれていた。身体の自由を奪われ唯一動かせるその目に、ぐったりと意識を失った彩を抱える男の姿がある。
「──!!」
叫ぼうともがく程に、身体はきつく絞め上げられた。
「騒ぐな。大丈夫──当て身を受けて気絶しているだけだ」
──誰。何の為に、こんな事を。
恐怖のあまり身体が震え始める。それが相手にも伝わったのか、闖入者は──恐らく男だ──ほんの少しだけ穏やかな口調で低く告げた。
「この座敷で、今から騒ぎが起きる。おとなしく隠れていれば、おまえ達に危害は加えない。こっちに来るんだ」
何の事やらわからないまま、逃れたくて首を縦に向かって力を入れると、さらに拘束は緩み、代わりに元来た方へと後ろから引きずられ始めた。
男が香月の頭越し、廊下の奥側に向かって目配したその時。
まるで一斉に湧いて出て来た様に、廊下から庭から足音荒く沢山の人間が現れた。
香月を掴んだ男が叫ぶ。
「馬鹿者! 全て連れて来るとは何事か!! ──陛下、お逃げ下さい!」
前半は目の前の灰色の洋装の男達に、後半は座敷の障子に向かって怒鳴る。ちょうど花火が始まったものと見え、重く響く破裂音と座敷の明かりに廊下は一瞬はっきりと照らされた。
「──あなた方は」
まだ身体は掴まれているものの、自由になった口で香月は呟いた。
灰色の官服。
「詳しくはこれが終わったら説明する。こうなったら裏口から逃げろ! いや」
一様に同じ官服を来た男達は皆、ありふれた着物という服装の者数名を追っていた。ある者は組み合い、ある者は武器を重ねてお互い譲る所を知らない。明らかに殺すか殺されるかの闘いとなっていた。
「むしろ──座敷に入って倉嶋侯に守ってもらえ。ここにいては危険だ!」
男は勢い良く前に香月を突き出すと、一気に障子を開いて中に押し入れた。
「香月!?」
たたらを踏んで座敷に転がり込んだ彼女を見て、鷹信は仰天した。
「香月、後ろ!!」
屏風の前、呆然と立ち尽くしていた葉山の悲鳴が轟く。香月が背後を振り返るのと、着物の男が彼女を斬ろうと座敷に踏み込んだのはほぼ同時だった。
およそ現実味のない場面に声も出ない。畳に手をついて目を見開き、迫り来る血に塗れた刃先を見つめる──
「こっちへ来るんだ!」
状況を把握する暇もない程、素早く動いた鷹信の腕。その手に握られた燭台が、斜め下から刀を払い、帰す勢いで持ち主を突き飛ばした。
座敷からはじき出された刺客に先程の男が斬り掛かる。鷹信はそれには構わず香月の腕を取って引き起こした。
「曽我部!」
楠王の声が響き渡る。聞く者を震え上がらせてしまう程の苛烈な怒気をはらんでいた。
香月を座敷に避難させた男が答える。
「も、申し訳ございませんっ」
「鷹信、葉山達は私が引き受ける。おまえ達は賊を部屋に集めてくれ」
香月を背に庇って座敷の反対側にじりじりと後退し始めていた鷹信は眉をひそめた。
「しかし、それは」
「大丈夫、いいから私を信じろ」
会話を交わしている間にも、次々と刺客は座敷に踏み込んで来る。鷹信は頷くと、畳を蹴って彼らの前に躍り出た。
「香月。これから私が話す事をよく聞いてくれ」
楠王は彼女の肩に手を置くと、怯えた瞳を覗き込んで微笑んだ。座敷の外では死闘が繰り広げられているというのに、先程の怒号が嘘の様な落ち着きぶりである。
「今からそなた達は、あの屏風の後ろに隠れるんだ。隠れたら、私が後からそこに入るから、それまで息を潜めていなさい。──そして合図したら、あちらから」
彼は賊が侵入して来たのと反対側、こちらから向かって右奥の障子を示した。
「座敷の外に出なさい。刺客が狙うのは私の命、私がここにいれば向こう側に人は寄らないだろう」
震えながらも香月が頷くと、満足そうにちらりと彼は笑った。両肩を軽く叩いて視線を脇へ移す。
「葉山」
葉山もまた緊張した面持ちで頷いた。
「わかりました──お気をつけて」
楠王がさらに何か言おうとして口を開いたその時、悲鳴にも似た声が上がった。
「陛下!」
蝋燭を外した燭台の尖端で刺客の目を潰しながら鷹信は叫ぶ。賊の一人が彼を引き止めている間にその仲間が座敷に入ってしまった。
近衛士官の長でもある彼は腕に多少の覚えはあったが、一人で防ぐのにも限界がある。曽我部と呼ばれた男と部下達も応戦してはいるものの、相手の捨て身な殺気と素早い動きの為に次々と数が減って行った。
「良い、鷹信──曽我部も聞け」
最初の一人が仕掛けて来た斬撃を素早く躱すと脇に回り、その鳩尾に当て身を食らわせて彼は叫んだ。
「賊どももよく聞け! 貴様らの目指す標的はこの私だ。まとめて相手してやるからかかって来い!!」
「陛下!? 一体何を──」
腸を揺るがす大喝に挑発されて、刺客の殺気が剃刀の様に鋭く強くなるのが伝わって来る。呆気に取られた鷹信の一瞬の隙をついて、唸り声と共に室内に傾れ込む。燭台では接近戦には向かず、彼は通り過ぎ様仕掛けて来る攻撃を、受け流すだけで精一杯だった。
「何をやっている、倉嶋侯!」
曽我部の怒号が鳴り響く。官服の部下達が一本ずつ剣を所持しているのはまだしも、鷹信はまともな武器を持ってない。彼らに対して、刺客は片手に長剣、もう片手には短剣を装備している。数において優勢に立っていたはずの彼らが、押されがちになるのにそう時間はかからなかった。
楠王の不可解な動きを見守っていた鷹信は、曽我部の非難を無言で右手をかざす事で制した。
「何──」
尚も文句を言おうと口を開いた曽我部も、彼の意図がわかってそれを閉ざす。周囲の部下達に一瞥をくれると、座敷全体を顎で弧を描く様に示した。
次の瞬間、官服の部下達は一斉に動きだすと、楠王を追い詰める刺客をさらに取り囲んだ。半分は回廊から後背に回り込み退路を断つ。うろたえたのか、刺客の一人が自棄にも見える一撃を楠王に繰り出した。彼がすんでの所で躱す僅かな隙に、曽我部は倒れた部下の刀を拾い上げて鷹信に投げ付けた。
「倉嶋侯!」
鷹信が燭台を捨て刀を受け取ったその刹那、叫ばれた声に刺客の注意は標的から逸れた。素早く楠王は座敷の下手、女二人を避難させた背丈程もある重厚な金屏風の後ろに周り込む。
「かかれ! 全員は殺すな」
鷹信の号令で部下が刺客を部屋の中央にさらに追いやる。彼自身も刀を振るい先頭立って間合いを詰めた。追われる側はもはや背中合わせに円を描く様に機を伺う構えで膠着状態である。
「鷹信!」
緊張をいきなり破る、楠王の声。一同にさざ波が走った。それを見越して鷹信は突然後退し始めた。
「退がれ!」
彼がそう叫ぶのと、金屏風がうねりを上げる様に倒れて来るのはほぼ同時だった。
追い詰められていた刺客に逃げる術はない。彼らはことごとく体勢を崩して屏風の下に押さえ込まれる。
鷹信は正面を顧みて一礼した。かつて屏風があった場所に立つ、少し悪戯じみた笑顔の主君。
「お見事です」
「おまえこそ、よく私の考えている事がわかったな。さすが腐れ縁の友だ」
「私が陛下でもそうしたでしょうから」
楠王は満足げに笑声を上げた。曽我部を振り返る。笑顔は一瞬にして冷酷な主君の表情となった。
「賊どもを捕らえよ。刑吏府へ連れて行き尋問しろ。手段は問わぬが、全員は殺すな」
「──はっ!」
機敏な動作で深く一礼すると、曽我部は部下に指示を与え屏風の下から次々と引きずりだして連行して行った。出入口付近で見守る鷹信にも軽く会釈し、自らは最後の一人を捕らえる部下の隣に並んで歩き出した。
「おい、早く歩け!」
最後の一人、農民の様な色褪せ擦り切れた野良着姿の痩せた男が中々前に進もうとしない。焦れた刑吏が怒鳴りつける。男は力ずくで追い立てられ、鷹信の傍を通り掛かった。
骨ばった、無精髭のある顎がわずかに動いて唇が開く。
「……はまだ……いる……」
鷹信は男を凝視した。
男もこちらを睨んでいる。白目が血走った濁った双眸に、ただ憎しみだけが炯炯と光り研ぎ澄まされていた。
鷹信が視線を上げると、男を挟んで向かい側を歩く曽我部と目があった。彼もまた、男の言葉を聞いていたらしい。何とも言えない表情をしている。驚愕、緊張、疑念。それらが全てない交ざった様な。
「曽我部侯」
同僚の呼び掛けに彼は厳しい顔で頷いた。小声で囁く。
「承知しております。元より他言は致しません」
「陛下には私から申し上げておこう。賊の詮議、よろしく頼みます」
曽我部の神経質そうな細い眉が一瞬痙攣する。何故かひどく不快げに見えた。
「言われるまでもない。骨の髄まで絞り出して白状させてみせましょう、ご懸念なく」
そう素っ気なく言い放つと、慇懃なまでに彼は鷹信に向かって一礼した。荒々しく早足で歩み去る。内心肩をすくめる思いで鷹信が振り返った先、揶揄を含んだ主君の笑みにぶつかった。
「相変わらず嫌われている様だな、鷹信」
彼は苦笑する。
「その様です」
「あれは私がそなたを重用するのが気に入らないのだろう。年齢も家格もほぼ同じ十七侯爵にもかかわらず、自分はその他大勢の扱いをされているからな」
さも笑い話と興がる楠王に、鷹信は呆れた様にため息をついた。
「……つまりは陛下が依怙贔屓なさる事のとばっちり、と言うわけですか」
仕方ないだろう、と楠王は倒れた屏風を引き起こした。相当な重さがある筈なのに、顔色一つ変える事なく元通りに壁近くにそっと立てた。その声にはどこか嘲笑の響きが含まれている。
「役立たずを贔屓する程私は寛容ではないし、暇でもない。今の事にしても、結果捕らえたのは私だ。無能め、座敷の外で一網打尽にせよと命じたのに」
口調こそ淡々としてはいたが、瞳には紛れもない怒りが表れていた。
鷹信は一つ咳払いをする。
「連中の事ですが──」
「駄目だ」
臣下の言葉を楠王は遮った。鷹信は鼻白む。
「まだ何も言っておりません」
「いーや、言わずともわかる。賊の命を助けてやれとか言うつもりだろう。おまえはいっつもそうだからな」
主従の口調ではなく、友人のそれで彼はまくしたてる。
「しかし陛下、それではあまりに……」
「何と言われようと駄目なものは駄目だ。国王への反逆は死罪と法律に定められている以
上、守らなければ国が立ち行かぬ。それを決めたのは十七侯、おまえ達なんだからな」
己れの立場を弁えろ──暗にそう告げられているのがわかって、彼は軽く言葉に詰まった。
「しかし、証拠は多い方がよろしいのでは」
「もちろん、『奴』の首根を捕まえるまでは生かしておいてやる。それまではな」
楠王は話半ばでずかずかと座敷奥に向かって歩き出した。
「お待ち下さい、どちらへ?」
「葉山達を探して来る。賊は全員捕らえたとは思うが、万一の事があるからな──巧く逃げてくれていれば良いが」
右奥の障子はほんのわずか開いている。それに手を掛けて開き、彼は薄暗い回廊の左へと足を踏み出した。
「鷹信、おまえは右を頼む」
「はい」
歩き出す主君の背中をしばしの間俊巡する様に見つめて、鷹信もまた右側へと回廊に入る。無人となった座敷から漏れ出る光が、今はただ静寂を照らすばかりだった。
──申し上げるとは言ったが、果たしてそうすべきなのだろうか。
去り際に残した、あの賊の台詞を。己の末路に自棄になって、負け惜しみを言ったに過ぎないのかもしれないのだが。
──死神はまだまだいる。これで終わったと思うなよ。
一瞬のためらいを振り切る様に彼は足を再び進め、闇の向こうへと消えて行った。
※※※※
楠王らが座敷を離れた同じ頃、香月は廊下の果て、置屋入口とちょうど反対側の勝手口付近にいた。
上駕楼にある座敷は四つ、内最も小さなものの脇から伸びるそこは途中で折れ曲がり、闇の溜り場の様にひっそりとした土間の前で切れている。使う場合を除いて明かりが灯される事もないので、足を一旦踏み入れれば、顔を判別するのさえ難しい。
「……全く、大した事をしでかしてくれたものよ。おまえは」
花火を打ち上げる、遠く鈍い音を遮って低く、怒りを押さえた声が響く。夏の夜の熱気が外の喧噪と同じ様に建物の中に入り込んでいるはずなのに、葉山の囁きは真冬の吹き曝しよりも冷ややかで鋭かった。
香月はせめて口を開いて他意のない事を知らせたかったが、出来なかった。当の葉山の手に喉元をきつく締め上げられていたからだ。
「楠王陛下は寛容で慈悲深い御方。そうでなければ今頃私もお前も陛下をお待たせした罪咎で折檻を受けてもおかしくないんだ。──お言い。何か腹積りでもあったのだろう?」
それは違う、と香月はもがいた。葉山の怒りはとどまる所を知らない。だからこそ認めるわけにはいかなかった。ここで迫力に負けてありもしない作意を認めてしまったら、それこそ殺されてしまいかねない気がする。
「道中を混乱させ、予定を全て狂わせた」
低い囁きと共に、首を絞め上げる力が一瞬緩んだ。解放して話を聞く気になったのかと香月は思ったが、拍を置いて前より一層冷酷な力で再び絞め上げられただけだった。
「もしお前に含む所がないとでも言うのなら──」
彼女の、力の限り首を横に振ろうとする努力は徒労に終わる。闇に半分覆われた造作の整った無表情な顔が、気付けば死神の様に間近にあった。その、硬質な唇が再び開く。
「──誰かに頼まれたのかもしれないねえ」
彼女は絞め上げたままの香月の首根を力任せに壁に押しつけた。
「お言い。今の内素直に話せば無事に済ませてやるよ。誰だい? 倉嶋侯かい?」
壁に打ち当たった衝撃でほんの少しだけ香月の襟元が緩んだ。一瞬の隙を狙って、絞り出される蚊の鳴く様な声。
「……道中の……前に……部屋に……閉じ込められ……ました」
かすかながら、葉山は明らかに鼻白む気配を見せた。
勢い良く手を放されて、香月は床に崩れ落ち激しく咳き込む。息を整える暇も与えず、葉山は再びその襟首を掴んで引きあげた。
「……見え透いた言い訳をお言いでないよ」
香月の、涙で滲んだ双眸を睨み付ける。まるで、そこから嘘を掬いあげようとするかの様に。時間にしてわずかな、しかし永遠の責め苦にも似た沈黙が流れた。
「──太夫」
床板を踏む、小さくきしんだ音がする。葉山の背後、薄明かりにぼんやりと浮かび上がった小さな影が、幼い甲高い声を上げた。
険呑な目付きのまま、葉山は首だけで後ろを振り返る。
「何だい」
声の持ち主は彼女の禿。表情のない、真円に近い大きな瞳をひたと姉遊女に向けている。
「陛下が、お探しです」
禿はちらりと香月を盗み見る。それに気付いたのか、葉山は投げ捨てる様に香月を掴んでいた手を放した。
「……わかった。今行くよ」
再び床に這いつくばり、苦しげな呻き声を立てる香月に鋭い一瞥を投げ掛ける。
「今日はここまでにしておいてやるよ。この後またお客にまみえるかと思うとやりにくくて仕方がないからね。──だからと言って逃げられると思わない事だ」
首元を直してきな、と言い捨てて葉山は足早に歩み去って行く。その背後を追う禿が、気遣いかはたまた好奇によるものかまたちらり、と香月を振り返った。
──この冷たい瞳。感情の見えない視線に、どこかで会った気がする。
現実味に乏しい、朦朧とした意識の内にとりとめもなく浮かぶ思考。それが誰かは思い出せない。少なくとも、自分の周囲の人間ではない気もする。目眩を起こしているのか二転三転する視界に、代わって訪れる新たな疑問の断片。
──誰かに頼まれたのかもしれないねえ。
「……どうして……頼まれた、だなんて」
身体に力が入らない。
客の残り香か、仄かな香の匂いがどこからともなく漂って来た。甘い、纏わりつき様な花の香り。脳裏をかき乱す葉山の声と混ざりあい、彼女は吐き気を催して身体を丸めた。
ふと近づいて来る人の気配にこわごわと振り返る。目に入った人の爪先、見上げた先には──
──思い出した、この人だ。
音をも飲み込む漆黒の中に佇む、闇よりもまだ暗い不気味な影。
義方がそこに、立っていた。