参 大輪の花 前
最初にそう問われた時、咄嗟に香月は答えられず黙り込んだ。あまりに考えの及ばない話題だったからだ。
鷹信はもう一度問うた。
「そなたの欲しいものだよ。何かあれば遠慮なく言って欲しい」
「そう仰られましても……」
夏も半ば、暑い盛りが続いている。倉嶋鷹信が寿楽に通い始めてから、すでに四度月を過ぎようかという頃。香月の部屋で、彼女の膝に頭を預けながら青年は問い掛けた。
「今までそなたと話していても、あれが欲しいなどと言う言葉をついぞ聞いた事がないのでな。もし遠慮しているならば、と思ったのだ」
鷹信は起き上がると、香月の顔を覗き込む。その気遣いを嬉しく感じながらも、ついさっきまで自分の膝にかかっていた彼の頭の重さを彼女は思った。
欲しい『モノ』。それを口に出来ればどんなに良かっただろう。ないわけではない。ただ、言ってしまえばこの優しい人を困惑させてしまう気がした。
着物やかんざし、珍しい食物に動物──そのどれにも、自分の望む『モノ』は当てはまらなかったから。
「欲しい物なんて……ありません」
鷹信は怪訝そうだ。
「何も、か?」
香月は微笑んだ。
「こうしていられるだけで、妾は嬉しゅうございます」
他のどの客にも言った事のない、甘やかな言葉。それは嘘ではなかったから、思ったより素直に口から紡がれた。
実際、鷹信が通ってくれる様になってから、夜毎見ていた悪夢も見なくなった。常盤達の嫌がらせは続いてはいたものの、上得意客となった鷹信の威光にはさすがに勝てないらしく、度を越す程ではない。何より当の鷹信が、香月の身体を全く求めて来ないのが有り難かった。いつもただ楽しく会話したり、琴の音を聴かせたり──時に寄り添って眠りはしても、決してそれ以上の展開にはならない。
すでに彼女は思い始めている──このままでいられるのなら、それも幸せではないだろうかと。
「そなたは無欲だな」
──この方は、わかっておいでなのかもしれない。
そう思える程、鷹信の声は暖かく響いた。香月の喉元まで出かかっていた言葉や願いが、全て氷解してしまう程。
「だが贈り物はさせて欲しい。──そうだ、十日後に陛下がここで夏の宴を催される。衣裳を整えた方がいいな。商人を呼んで、相応しい着物を仕立てさせよう」
「夏の宴? ……妾に着物って……」
鷹信は大袈裟に眉を上げる。
「要らないとは言わせないぞ」
彼女は激しく手を振って打ち消した。
「そ、そうじゃないんです。何の話かさっぱり」
「ああ、そうだったな」
青年は笑って、国王の道楽に自分と香月が招待されているのだと告げた。
「『夏の宴』は毎年皐乃街で行われる『瑯華祭』に合わせて今年より陛下が催される宴だ。陛下と私と、二~三名かな、ごく内輪のものだよ」
見る間に強ばった香月の顔に彼は笑いかける。ふわりと頬に触れた。
「大丈夫だ、陛下はとても寛容なお人柄だから。私もいるのだ、安心して構えていなさい」
宥める様な手のひらは暖かく乾いている。それで香月は安心出来た。
「……瑯華祭は盛大な祭と伺いましたが、御覧になった事はありますか?」
「そなたはここに来て一年と聞いたが、去年は見ていないのか」
逆に聞き返されて、彼女は返答に窮した。
「……去年の事は覚えていないのです。ここへ来て、気付いたら年を越していました」
目を伏せて、絞りだす様にようやく言う。
香月が皐乃街に売られて来たのは去年の春だったはずだが、最初の幾月かは悲しみと慌ただしさに追われ、食べて眠るだけの生活が続いていた気がする。
故に彼女には勿論祭の記憶はないが、心に余裕があったとしても、先輩遊女の益良井が楽しむ自由を与えてくれたかどうか怪しいものだったろう。朝から晩まで、小間使いよろしく働かされていたから。
鷹信は立ち上がって窓際に寄り、縁に腰掛けて手摺り越しに外を眺めた。不意に視線を返して香月を手招きする。
呼ばれて彼女が示された先、丁度窓からは裏庭が見えた。丹精込められた築山に池や灯籠、人工めいてはいるものの重厚な風雅さは見事としか言いようがない。
「寿楽の離れには『上駕楼』という大座敷ばかりの二階屋がある。この時期でなくとも大きな宴に使われるらしいが、そこの周辺が祭りの会場になるそうだ。屋台が並び、他の店の客も入り交じって席がしつらえられるとか──私も直に見るのは今回が初めてだ」
「屋台が? それはすごいですね」
皐乃街では国に届け出のある、街に住み込む業者以外の商売を一切禁じている。外界と遮断された箱庭はまた、外来者にも厳しいのだ。瑯華祭はそれが緩む数少ない機会だった。
鷹信は頷く。
「だから普段寄り付かない様な人々も来るだろうな。聞いた所では、千~二千人は集まるとか」
「二千人……」
祭と言われて香月の脳裏に浮かぶのは、幼い頃行った縁日や朝市だ。普段見慣れない物の売られた店、賑わう人々。そして自分の手から紐でぶら下がる小さな桶には、父の買ってくれた金魚──
「屋台を、見に行けるでしょうか」
知らずそう呟いていた。鷹信は振り返ってまじまじと彼女を見つめる。
「宴の後なら行けない事もないだろうが……行きたいか?」
向けられた興深げな表情にほんの少し赤面したものの、香月はゆっくり頷いた。
鷹信は破顔する。
「やっと欲しいものが聞けたな」
「……すみません、子供みたいで」
恥ずかしさのあまり、青白かった面は今や真っ赤に上気していた。
「気にするな。私も実は、ちょっと行ってみたいと思ってたのだ」
そう言って笑いながら、彼は香月の頭を軽く叩いた。馴染みの女というよりは、近所の子供の様な扱いだ。
彼が顔を窓の外に戻したのを見計らって、叩かれた場所に香月はこっそり手を触れた。
「あれは?」
「えっ、 はい。どうかしましたか」
恍惚の余韻から慌てて彼女は意識を戻した。
「あそこにいる二人連れ。確か女はそなたの友人ではないか?」
見れば確かに裏庭には男女の二人連れが何やら仲睦まじく笑いながらそぞろ歩いていた。
「連れの男は馴染み客らしいな……どこかで見た気がするが」
呆然と二人を眺めていた香月は、鷹信の言葉にふと我に返った。
「久我様をご存じなのですか?」
「いや、名前までは……。初めて見た気がしないのだ。あの様な男を、そうそう忘れるはず
はないのだが」
香月は何とはなしに落胆する。身分が証明されれば、この胸に広がる感情が消せると思ったのかもしれない。
「そうですか……。ご本人は子爵を名乗っておいででした。真かどうか、定かではございませんが」
「確かに身なりも貴族の物だな」
築山に渡された小さな橋を歩きながら、河西はさも嬉しげに隣の男に笑いかけている。
香月は頬に視線を感じてそちらを見やった。
「どうかしたのか?」
鷹信の問い掛けに彼女は赤面した。恐らく彼は見ていたに違いない。久我を良く思わないがゆえに、知らず苦虫を噛み潰した様な顔で見つめていたであろう自分を。
「……いえ。ただ不思議な事もあるものだと思いまして。最初河西姐さんは、あのお客様をひどく嫌っておいででしたから」
「嫌っていた?」
香月は頷く。
「妾どもは確かにお金で買われる身ではございますが、どうしても身体が空かない時や相手が嫌な客な場合など、お断りする事が出来るんです。部屋遊女のみに許された特権なのですけど……」
その場合、さすがに無下に断る訳にはいかないので妹分の新造に相手をさせるしきたりになっている。大抵そのまま新造の客に流れるのだが、河西程の人気があれば、気に入らない客の一人や二人余所に流れても痛くも痒くもないだろう。
実際彼女は久我が通い始めの頃、次の日必ず香月の部屋に来てこぼしていたものである。あいつの前に取った客もそうだったけど、最近来るのは生っちろい裏生り瓢箪ばかりで気味が悪い。ああいう奴らに限って思い込みが激しかったりするから参る、と。
平生愚痴を言う性格ではないはずの彼女が、目に見えて苛々した様子が印象強く残っている。
「それが今では、馴染み客の中でも最上の扱いを受けているご様子なのです。一体何がどうしてそんな事になったのかと」
鷹信は苦笑している。
「男女の仲は余人には計れぬと、よく言うではないか。……そうだな、最初嫌いだったと言う事はそれだけ印象が強かったのやもしれぬな」
「そんなものなんでしょうか……」
「印象強いのは間違いないな。いささか派手だが。そんなに気になるなら河西本人に聞いてみたらどうだ?」
彼はそう言ってからかった。
「何か不満があれば、だが」
「ふ、不満だなんてそんな。ただ」
香月はうろたえた。結局、何が気に入らないとしても彼はお客様なのだ。元より自分がどうこう思うかなどと口にするのが筋違い、それはよくわかっている。
わかっているつもりなのだが──
「不安、なのです」
気が付いたら言葉が口から滑り出ていた。
「不安?」
鷹信の怪訝そうな視線にまともにぶつかって、つい斜めに眼を逸らす。
「あのお方に最初に出会った時、ごくかすかですが、何かの薬の匂いが致しました」
「ほう」
「もちろん、強い香を焚き締めて誤魔化してはいらっしゃったのですが、身に染み付いた匂いの様な気がしまして。それで」
そんなのは、他愛もない憶測だ──そう笑われるのは覚悟の上だったが、なぜか鷹信の笑みはいつの間にやら消えていた。深刻にさえ見える、真面目な表情をしている。
「薬と言っても色々だな。どんなものか、わかれば良いのだが」
「鷹信様?」
「いや、ある事を少し思い出していただけだ。その内、そなたにもわかるだろう」
彼は香月に琴を弾くよう促した。窓の外に視線を漂わせながら、立てた片膝に両腕を交差させている。思索に耽る癖があると最近気付いた香月は、いつもの事とさして気に留めず演奏を始めた。
だから彼女は鷹信が、楽の音に紛れて一言、
「もしかすると、わからないままの方がいいのかもしれんな……」
そう呟いたのを、音に阻まれて聞く事は出来なかった。
※※※※
翌日、女将から葉山の部屋に呼び出された香月は、座敷の内に見知らぬ女が同席しているのを見て少しばかり戸惑った。
「こちらに座りなさい」
女将に女と向かい合わせに座るよう促され、戸惑いは一層濃くなった。女は屏風を背にして座布団に座っている。つまり上座にいるのだ。香月が座るべき位置の隣に、本来上座にいるはずの部屋の主が畳に正座し、やはり女と向き合っている。何とも珍しい光景だった。
「こちらは栴璃先生とおっしゃって、太夫の舞のお師匠様だ。香月は初めてだったね」
女将の紹介を受けて、女は微笑を浮かべる。
年の頃は四十半ばか、目元口元に散らばった細い皺を勘定に入れても、今尚艶麗な美しさを持つ顔立ちをしていた。恐らくは若い頃相当な美女だったに違いない。
女将はいっそ気色悪い程機嫌良く続けた。
「今日からお前もしばらくこの師匠に琴を習いなさい。『夏の宴』で、陛下はお前と太夫の芸事をお望みなんだよ」
思わず隣を盗み見た香月の眼に、湖のごとく落ち着き払った葉山の白い顔が映る。
「皐乃街随一の舞手太夫と珍しい箏琴の名手。きっと陛下もお喜びになる。お前達、頑張って稽古するんだよ」
栴璃に軽く目礼して、女将はいそいそと立ち上がった。
「それじゃ師匠、後はよろしく」
「あの」
「あ、そうそう、二人に言い忘れていたけど」
香月の必死の呼び掛けなどきっぱり無視して女将は続けた。
「二人は宴の前、瑯華道中をやってもらうから、その手順も師匠に教えてもらう様にね」
そう言うと彼女は今度こそ部屋から出て行った。問い掛けの形のまま開かれた口の所在に戸惑う香月の、形にならなかった疑問に答えたのは栴璃だった。
「香月さん、道中入りは初めてですか?」
生活に疲れた老女にも、あどけない少女にも見える不思議な笑顔を見せる。少なくとも女将や葉山よりは優しそうだ。
「はい」
「皐乃街の総籬は別店を街内に一軒持てるの、それは知っているわね?」
「もしかして……上駕楼の事ですか」
「そう。あそこは国に認められた寿楽の『置屋』なんですよ。前国王が街の整理を行われた時以来、総籬に昇格した店が年一回、祭りの夜に店の御職と次位の天神が本楼から置屋まで練り歩く催しが出来たの。それが『瑯華道中』──つまりあなたはとても名誉な大役を仰せつかったというわけです」
名誉な大役、という言葉を彼女はなぜか少し寂しそうな顔で口にした。
一方言われた香月は、宴の話に続いて訪れた災難に呆気に取られて再び固まってしまった。
「練り……歩く? 街を……ですか……?」
「そうですよ。 大路の灯籠の間をね」
自分の面から見る間に血の気が引いていくのが、彼女にはわかった。
祭。衆人監視、国王、そして──
「どうしました? 天神、どこか具合でも?」
──葉山と。
「い……いえ、何でもありません」
「ほんの少しの距離を、着飾って歩くだけよ。そう難しい事はないわ」
栴璃の励ましの言葉も、今の彼女には遠いばかりである。注目される事が何より──琴を弾いている時は忘れていられるが──苦手な自分に、そんな大役が勤まるとはとても思えない。
「そ──その御役目なんですけど」
「なあに?」
なけなしの勇気を絞って言葉を続ける。
「辞退させて頂くわけには──」
「師匠。すみませんが、そろそろ始めていただけますか」
それまで沈黙を保っていた葉山がいきなり口を挟んだ。
「え、ああ、そうね。じゃあとりあえず稽古しましょうか」
弟子らしからぬ不遜な物言いにも栴璃は動じる様子はない。どうやらいつもこの調子なのだろう、「では、始めます」と凛とした声で二人に告げる。
葉山は畳に三つ指をついて「よろしくお願いします」と深く頭を下げた。
慌てて香月もそれに倣う。
「よろしく……お願いします」
「今日は宴での曲目がどの様なものか紹介します。天神」
「は、はい」
職位で呼ばれ慣れない香月は、反応するのにややしばらくかかった。
「聞けばあなたは、相当な箏の弾き手だとか。何か試しに弾いてみてくれないかしら」
彼女は視線を左側に一瞬泳がせた事に焦りながら答える。
「はい……何をお弾き致しましょう」
「難しい曲でもいいのよね? 『碧山水』なんかはどうかしら」
栴璃は古典楽の一つを挙げた。三百年以上の歴史を誇る、情緒豊かな名曲である。
「出来ます」
「じゃあそれがいいわ。今回お披露目する『月下董泉』にも曲調が似ているから」
はいと澱みなく答えて、すぐさま香月の指が琴の上で踊り始めた。
俗世の喜怒哀楽の序盤から、絶望の旋律を経て、最後は全てを超越する喜びを表して終るこの曲は、諸処に難易度が高い工夫が凝らされていて、実は免許皆伝の腕前でも弾きこなすのは難しい。それを彼女はさして苦もなく平然と第一楽章を弾き終えてしまった。
「素晴らしいわ!」
どうやら予想以上の技量だったらしい。栴璃はうっすらと涙ぐんでさえいた。
「女将もお人が悪い事。これなら師匠なんて要らないじゃありませんか」
香月の表情を見て彼女は「いえね、怒って言ってるんじゃないんですよ」と笑った。
「最初話を聞いた時、実は不安だったものですから。宴まで時間はないし、まだ成り立ての天神さんとの事でしたし……要らぬ世話で良かったわ」
香月はさっきとは別の意味で身を縮めた。あまりに手放しで褒められるのも居心地が悪いものだ。
才能がある者に出会えたのがよほど嬉しいのか、栴璃は瞳を輝かせている。
「本当は次回から手合せと思っていたけど……すぐにでも『月下董泉』が出来るわね。一度私が弾いてみるから、お聞きなさい。太夫は前回のおさらいをしましょう」
「はい」
ことここに至るまで、葉山は完璧に気配を消していた。否、実は彼女は黙っていただけで、演奏に没頭するあまり存在を香月が忘れていたに過ぎない。急に彼女は、些細な事がひどく気になりだした。
葉山は普段から自分の演奏を快く思っていない。そうでなければ前日の様な台詞は出て来ないだろう。
今の曲が終わった後も、彼女は顔色一つ変えなかった。やはり面白くないのだろうか、稽古の後、常盤達の様に嫌がらせをされるのだろうか──
そんな香月の懸念をよそに、葉山の稽古は続いた。普段から姿勢が良い優美な手足が、身体が、さながら蝶の様に舞い踊る。
「はい、よろしいです。きちんと仕上がっていますね。後は天神との通し稽古で問題ないでしょう」
師匠の声に、現実に戻った香月は愕然とした。
──曲が。
「天神、あなたの腕前なら一度聴けば充分でしょう。弾いてみて下さい」
香月は膝に置かれた両手できつく着物を握り締めた。確かに琴の稽古に楽譜はなく、奏者は耳だけを頼りに曲と技術を写し取る。
だから今の師匠の琴を、何を於いても聴いていなければならなかったというのに。
「太夫。今日はもうあなたは結構ですよ。昼に指名があるのでしょう? 支度を始めなくては」
せめて栴璃と二人きりなら──闇に一筋見えたかに思えた光明だったが、葉山は「出来るだけ曲を聴いておきたいから」と、答える。退路は見事に断たれてしまった。
──落ち着かなきゃ。
彼女はわずかな記憶を頼りに弾き始める。音が散らばるのを掻き集め、 繋げようと必死になればなる程、指先からそれはこぼれ落ちて行った。
──葉山が。
──見ている。
「少し練習が必要ですね……」
ため息混じりに栴璃が言った、明からさまな落胆の台詞が──その後しばらく香月の頭から離れなかった。