弐 咲き初むる頃 後
皐乃街の遊女の客の呼び込みは『顔見世』と呼ばれ、大きくは昼と夜の二部に分かれていた。昼は大体二刻辺りから四刻、夜は夕六刻から宵八刻 まで。女達は上は御職太夫から下は新造まで、格子楼と呼ばれる別屋に出向くしきたりとなっている。
「暇よねえ……」
人っ子一人通らない大路を籬──朱塗りの縦目格子をそう呼ぶ──から眺めながら、ぽつりと河西は呟いた。
「ほうれすね……。ひふもの事れすけど」
浅尾も退屈そうに大きな伸びをした。生欠伸を隠そうともしない。
勤めの内とはいえ、夜が本領の皐乃街である。彼女達にとって、客も取れずただ座っていなければならない昼の顔見世はこの上ない試練の時間だった。まっとうな人間なら誰しもが汗水垂らして働いている時間帯だ。
昼日中からこんな盛り場に近づくのは大抵野暮ったい田舎者の冷やかしと相場が決まっていたし、それすらも一日一人通ればましな方である。自然、女達の関心は色んな意味で寒々とした路地よりも、街内の商家から借りて来れる幼子や、道具を使った座興などに集まった。
「香月ちゃん、また『あれ』弾いてよ」
いつも通りの退屈な昼下がり。例によって、河西は当たり前の様に香月に琴の演奏をせがんだ。
「すみません、それはちょっと……」
「何、指の調子でも悪いの? 最近弾かないじゃない」
申し訳なさそうに首を縮める友人を、河西は怪訝な顔で見た。
「いえ、そう言う訳ではないんですけど。当分……顔見世で弾くのは遠慮しようかと思って」
ええ、と不満の声を洩らしたのは浅尾だった。
「何でですか。河西姐さんも妾らも、それだけが楽しみに昼ここに来てる様なもんなのに。ねえ桂」
浅尾は傍らに座る河西の二人目の禿に同意を求める。
部屋遊女に付く禿の数は位が高い程多い。遊女階級で言うと四段階あり、河西は香月と同位格の『天神』である。振り袖新造一人、禿二人が彼女に付けられるのが慣わしだ。
まれに禿一人しか付かない、香月の様な例外もいる。
お付きを決めるのは楼主だが、客が少ないのを理由に彼は香月の新造を別の遊女に回してしまったのである。位が上がっても風当たりが強いのは変わらないが、多くの人と接するのが苦手な彼女には、むしろそれが有り難かった。
「何で昼は駄目なのさ?」
腕半分程もあろうかという長煙管を、くわえながら河西が聞いた。
「そうですよ。こんな欠伸しか出ない昼どきに、何が悲しくて道端の埃なんか眺めてなきゃならないんです? 通る男もいるにはいるけど、百歩譲って不細工なのばかり。ま、それはそれで笑えますけど」
「浅尾。またおまえは毒ばかり吐いて」
姉遊女のたしなめる言葉もどこ吹く風。浅尾はからからと笑っている。
「だって本当の事じゃないですか」
全く、とこぼしつつ河西は煙管をくゆらせる。
「でも香月ちゃん、この馬鹿の言うのも一理あると思わない? 一曲位弾いても罰は当たないでしょうよ」
にこにこと二人を見守っていた香月の笑いが引っ込んだ。大抵この二人が掛け合い始めると、本筋から離れて小競り合いになるのだが、戻って来てしまった。思い通りにはいかないものである。
──目立ちたくない、なんて言えないし。困ったな。
大抵は三線と呼ばれる手に持つ瓜にやや似た楽器を使うので、彼女の箏琴はよく目立つ。ただでさえ位が上がって、それまでなかった同輩からの風当たりまでもが強くなったというのに、これ以上注目を集めるのは気が引けた。
だから琴を弾くのをためらっていたというのに──
「ううっ」
香月が返答に窮していると、浅尾が袖で顔を押さえて啜り泣き──明らかに嘘泣きだ──を始めた。
「あ、浅尾……ちゃん?」
「ひどいですっ……妾は香月姐さんの琴だけが生き甲斐だってのにっ……」
うろたえる香月を横目に、河西も大袈裟にため息を着く。
「そうだねえ……他にここで楽しみと言えば、食う事か反物位だし。いっそ自棄食いでもしてみるか。ねえ浅尾?」
いつの間にか浅尾は泣き真似を止めていた。
「そうですね、魚とか……」
「肉……」
「野菜……」
「酒……壁……瓦……」
「わかりました! わかりましたから、訳のわからない脅しやめて下さいっ」
香月が辟易して割り込むと、二人はたちまち顔を輝かせた。
「本当!?」
「弾いてくれるんですか。やったー!!」
「本当に、一曲だけですよ」
はい、と浅尾が右手を掲げた。
「じゃあ妾、踊り手やりまーす! どうせなら派手にやりましょう、派手に」
香月の『極力目立たない計画』は、この言葉で立ち消えとなった。多少捨て鉢な気分になって、彼女は琴を勇ましく掻き鳴らす。
浅尾は立ち上がり、その場でくるくると踊りながら曲に合わせて歌いだした。
華は散らすな
愛でよ浮かれよ
それが浮き世の
夢ならば
浅尾の謡が溌剌とした調べに乗る。残念ながら、喉はあまり聞ける方ではないが、音感は悪くないし、踊りもまずまずだった。師匠の河西も手拍子しながら共に歌う。こちらは艶のある声が美しい。
『寿楽踊』は当節娼妓の間で大流行した『口頭歌』の一種で、自分達の日常を古くからある歌曲に歌詞として付けたものだ。滑稽な曲に風刺の聞いた歌詞、鮮やかな衣裳の遊女がそれで歌い踊る様は華やかで 威勢が良い。
とりわけ浅尾は手足が長くしなやかで、花鳥の紋様を施した茜色の着物と相まってよく映えた。
昨夜枕に
腕を置いた
想い人
酒と同じに
目蓋開ければ
影も形も消え失せぬ
辺り明るいその内は
哀れうたかた
また迎え出づ
一つ、また一つと、音頭を取る手拍子が増えて行く。曲そのものはむしろ単純なものだが、段々と香月も興が乗って来て、知らず顔が綻んだ。
「──うるさいね、やめとくれ!!」
部屋の奥から怒鳴り声がした。見れば常盤が、脇息にもたれかかっただらしのない姿でこちらを睨んでいる。揃い始めた手拍子は瞬時に止み、辺りは不満とそれ以外の何かが籠もった、濁り気味の沈黙に包まれた。
「昨夜は忙しくて常盤姐さんはお疲れなんです。自分のお部屋ならいざ知らず、ちょっと遠慮のない振る舞いじゃあないんですか?」
横から甲高い声で咎めるのは言うまでもなく川瀬だ。姉遊女の両肩に手を添えて、同様に非難の眼差しを向ける。
さも痛いという風に常盤はこめかみを押さえて呻いた。
「ああ、ただでさえ頭が痛いってのに。この上あんな下世話な歌聞かされちゃ堪らないよ、川瀬。とはいえ、ここで部屋に戻れば葉山姐さんに申し訳ないし──」
「大丈夫、きっと太夫もわかって下さいますよ。常盤姐さんは稼ぎ頭ですもの。『こんな』場所では治るものも治りませんし」
浅尾は白い頬に朱を上らせてむくれている。両眼には不穏な光が宿っていたが、位が上なだけにさすがに口を引き結んで耐えているらしい。手拍子をしていた遊女らも空気を読んだのか、目を逸らしたりちらちらと双方を盗み見ていた。
「ふん、下世話なのはあんたの頭の中じゃないの? 常盤」
小馬鹿にしきった河西の声にその場の空気が凍り付いた。言った本人は落ち着きはらって煙管をふかしている。
常盤の片頬がぴくり、と痙攣した。
「……何ですって?」
足音荒く歩み寄る。格子際の河西に顔を近付けて凄んだ。嵐の前の様な剣幕を冷めた目で眺める河西は、煙管を口から離すと顔向きを変えずに、盛大な煙を吐き出した。
「うえっほ、えほっ!!」
「忙しくてお疲れなんでしょ、早く部屋帰んなさいよ。でないとこーんな風に身体に悪い事されちゃうわよ~」
常盤は咳き込んで涙目になりながら怒鳴った。
「か……河西! あんた妾らを敵に回す気!?」
「馬鹿馬鹿しい。子供みたいに敵味方ごっこ? 正しいとか悪いとか言いたいならお角違いだって話。あたしはあんたらの言い草が気に入らないから。ただそれだけ」
常盤と河西は、一同固唾を呑んで見守る中、しばし睨み合った。憎しみを満面にたぎらせた常盤と、冷淡に見下ろす河西。
先に目を逸らしたのは常盤だった。
「大した威勢よねえ。さすが、一時店の人気を太夫と争ったと言われるだけあって口が減らない事。何様だか知らないけど」
「さっさと消えなって言ってんだよ。この狸女」
言い終えると同時に河西は素早く身を引いた。常盤が持参の手鏡を投げ付けて来たからだ。目標を逸れた鏡はなかなかの早さで格子にぶち当たり、破片を部屋に撒き散らした。
狸と呼ばれた女はわなわなと震えている。
「もう一遍言ってみな!! その減らず口、二度と叩けない様にしてやる!」
周囲から悲鳴にも似た声が上がった。
常盤が河西に掴みかかる。横面を張ろうとしたが、逆にその手を引っ張られた。重心を奪われ、廊下に面した格子より左側の壁に身体ごと叩きつけられる。しかし衝撃が少なかったのかすぐさま取って返し、相手の結い上げられた髪を鷲掴みにして反撃する。二人は二転三転して店の中を取っ組み合うので、禿も遊女も巻き添えを避けて逃げ回るしかなかった。
「やめて!やめて下さい、河西姐さん──二人とも!!」
香月は悲鳴混じりに叫んだ。
「妾が琴を弾かなければ済むでしょう!?」
「そんなのっ」
常盤の左頬を殴りながら河西は答えた。
「これはあんたには関係ないの。あたしとこの女の喧嘩なんだから、黙って見ておいで」
体重のこもった張り手に常盤は人ひとり分の距離を吹っ飛んだ。さすがにすぐは立ち上がれず畳に手を付く。
「河西姐さん、お見事!」
横合いから浅尾が囃し立てる。泣きそうな香月とは反対に、この事態を心から楽しんでいるらしい。
「河西っ! あんたよくも姐さんを」
倒れた姿勢から顔だけをこちらに向けて睨みつける常盤に川瀬が駆け寄った。
「今度は妾が相手だっ」
「すっ込んでな、この小娘が!!」
建物を揺るがす程の恫喝。川瀬は立ちすくんで動けなくなった。別の理由で動けない香月の横で「ちっ、残念」と浅尾の呟きが聞こえた。どうやら川瀬が加われば自分も加勢するつもりだったらしい。
「そう、そこ右! おっしゃ、やったー!!」
「浅尾ちゃん! 応援してる場合じゃないでしょっ」
「何言ってるんですか。こんな時応援しないでどうするんです? 香月姐さんだって、本当は腹立ってたでしょ。いい気味ですよ」
「そんな事言ったって──」
果たせるかな孤立無援となった香月は、途方に暮れて辺りを見回した。
河西も常盤も、身体じゅうもう痣だらけだ。常盤は太り気味で痩せぎすの河西に比べ動きが鈍重だったのか、傷はどちらかと言うと彼女の方が多い。さっきまでの威勢はどこへやら、今にも泣きそうな顔をしていた。それでも降参しようとしないのは、なけなしの自尊心というものか。
表の路地は相変わらず閑散としている。時折風に吹かれて塵芥が舞い上がる程度、その静寂を突き抜けて、火事雷のごとく響き渡る、女達の喚き声──
「お止め! お前達。ここをどこだと思ってか!!」
それまでの騒ぎが嘘の様に、部屋の中は静まり返った。
「──太夫」
河西の呟きを合図に、全ての遊女が居住まいを正して上座を向いた。
「全く。お前達はこんな短い間もおとなしくしていられないのかい? 皐乃街きっての総籬の名に泥を塗る気か」
年の頃は二十三、四であろうか。目鼻立ちのはっきりとした華のある容貌。太夫の位を表して、十本はあろうかと言うかんざしがぬば玉の黒髪を飾っている。
彼女は長い打掛の裾を捌きながら、遊女達が空けた花道を通って騒ぎの中心へと歩み寄った。
「姐さん!」
常盤は救いの神とばかりに姉遊女に縋り付いた。
「葉山姐さん、あたしはただ注意しただけなんです。客もいないのにこいつらが馬鹿騒ぎするから。そしたら──河西の奴があたしを侮辱して来て!」
一気に言い募ると泣き出した。その様子を冷ややかに眺めて河西はうんざりした様に口を開く。
「言っときますがね、太夫。先に手を出して来たのはそいつです。侮辱してきたのもね」
葉山は怒気をはらんだ鋭い眼差しで二人を睨みつける。並の遊女ならそれだけで竦み上がろうかという所だが、腰が引けないあたり河西も中々肝が据わっていた。
「しかも常盤は最初から喧嘩腰でした。だから買っただけです」
「喧嘩っ早いのはあんたの方だよ! この阿婆擦れっ」
河西は常盤の額に顔を近付けて凄む。
「ああ? まだボロボロにされ足りないかい」
「いい加減におし!!」
腸まで揺るがす葉山の怒鳴り声に、二人は仲良く口を噤んだ。
「二人とも、自分の顔を鏡で見てごらん。今晩よくもそんな身なりで見世に出れると思ったもんだね。親父さんに折檻してもらわなきゃわからないか? ちょっと他所様より躾が甘いからって付け上がって」
言って常盤の顎に指をかけ上向かせる。傷に触れたのか、常盤が小さく悲鳴を上げた。
「そ、そんな。付け上がっているなんて、とんでもない……」
葉山は乱暴に手を離すと河西の顔も同様に覗き込んだ。目を逸らし黙ったままの河西を、放り捨てる様に床に落とした。
「理由はどうであっても、客に買われての妾らなんだ。それを忘れるんじゃない! それに香月」
「は──はいっ」
すでに充分縮み上がっていた香月は、いきなりの呼び掛けに心臓が止まりそうに驚いた。
「太夫、香月ちゃん は関係ないんです。あたしらが」
「お黙り河西。お前達が騒ぐって言ったら、この娘の琴に合わせる時だろ。妾が知らないとでも思っているのかい?」
図星を指されて、さすがに河西は二の句が継げなかった。
「香月。誰もが琴の音を聴きたいとは限らないんだ。程を弁えて、大概におし。──返事は?」
ひたと香月に注がれる、切れ長の強い意志を表す瞳。
「……はい。申し訳ありません」
「お前達も!」
葉山は周囲を見渡した。
「さっさとお勤めに戻りなさい。残り刻もあと僅かなんだ。さあ、散った散った!」
格子楼の中は遊女位によって、それぞれの座り位置が決まっている。成り行きを見守っていた他の遊女達も、ようやく持ち場へと戻って行った。
彼女達の口から時折、何故か諦めにも似たため息が漏れる。肩をすくめ素っ気なく妹遊女達を促す河西と共に移動しながら、香月の心は重く湿っていった。
葉山は格子部屋の最上座に敷かれた雛段に座って煙管を吹かしている。背後にしつらえた屏風に彼女の衣裳が映えて、まさに輝くばかりの女王振りだ。
二千人以上とも言われる皐乃街の遊女の中でも、四位階の最上『太夫』の位をもらえる者はほんの一握りだ。遊女位というものは、客の人気が高いだけでなくその質──いかに金持ちの客を取れるか、によって変わっていくものである。ゆえに客層に王侯貴族が多い遊女などは破格の待遇がつく。それだけ店の格が上がるからだ。
『総籬』の『御職太夫』の葉山には、雇い人であっても楼主夫婦も一目置いている。彼女は店の看板を背負うだけでなく、全ての遊女を統括し采配を振るうのを許されていた。
遊女達は時折会話するものの、その囁きはさざ波のごとく小さい。葉山に遠慮しているのは明らかだった。
──無理にでも断れば、こんな事にはならなかったのに。
自分が煮え切らなかったばかりに、正しいはずの河西が叱られてしまったのだ。しかも葉山に。ただでさえ彼女が苦手な香月は、出来るならなるべく関わり合いになりたくなかった。
「──気にするんじゃないって、香月ちゃん。うちらが原因なんだから。ごめんね、とばっちり食わせちまって」
彼女の内心を見透かしたかの様に、河西が呟いた。すみません、と浅尾も頭を下げる。
香月は苦笑した。
「大丈夫です。それより姐さん、お怪我の方が。今晩、ご指名があるんじゃないんですか」
「平気よ。こんなかすり傷」
言うそばから着物に擦れたのか、ほんの少し顔をしかめた。
「……まあ、自業自得って所かしら。今晩くらい休んだって罰は当たりゃしないでしょ」
浅尾も笑って言った。
「もう当たっていますもんね」
「そうそう。何だったらこの浅尾先生もいるし」
陽の傾きと共に、午前に大路を通り抜けて商売に出向いた者達がぽつりぽつりと戻って来た。それでも脇に逸れ、絢爛たる花々を眺めようとする人間はまだ少ない。中には街と取引のある店に勤める馴染み客もいたが、所用で出ただけだからと笑って去って行った。
誰も何も言わず、退屈なだけの時間を過ごしたしばらくの後、突然女達の間でざわめきが起こった。そのため息とも喜びともつかぬ気配にいち早く気付いたのは浅尾である。
「姐さん達、見て下さいよ。あの人」
促されて香月と河西は通りに目をやるが、見渡す限り人っ子ひとり通る気配はない。
「どの人? 誰もいないじゃない」
「ほら、あそこですよ」
よく見れば、大路の遥か向こう側に針の様な輪郭が見える。
「お前ね。あたしは遠眼鏡じゃないんだから……」
「いい男じゃありません? 滅多にお目にかかれない位」
河西は目を細めてしばらく見ようと努力するも、軽く脱力してため息をついた。
「アレがいい男なら、田圃の案内子だって美男子さね。お前、どういう視力してんだい?」
「まあまあ。ほら、近づいて来ましたよ」
男の姿がようやく指一本程度の大きさになって初めて、香月達にも浅尾の言葉が誇張でないのがわかった。まだ青年とも言えそうな若い風貌に、目を奪う黒一色の貴族服。そんな姿でさえ魅力を感じる程、甘く繊細な顔立ちをしている。
河西は男の顔を愛想なく眺めると、すぐに興味を失った様に目を逸らした。
「あたしは駄目だね。あーいうのは」
浅尾は口を尖らせる。
「んもうー。姐さんは好みが偏ってますよね。筋肉隆々がお好きなんでしたっけ?」
「そうじゃないけどさ」
「じゃあ妾、頑張ってもいいですよね。身なりも立派だし、申し分ないお客じゃありませんか」
幸いにも、男は花を摘む気があるらしかった。格子際に近寄ると、女達を一人ひとりその濡れた様な黒い瞳で見つめる。その色香にあてられたのか、平生以上に熱心に手を伸ばし秋波を送る声で店の中は騒然となった。中にはなぜか頭痛がひどいはずの常盤も混じっている。恐らくこの時冷静だったのは、しきたりで一見の客を歯牙にかけない葉山と、怖じ気づいた香月と、河西だけだっただろう。
「旦那、寄って行きませんか」
「うんと楽しませてさしあげますよ」
「旦那なら特別におもてなし致しますから」
「そんなに一度に言われては、選べないよ。誰も皆いい妓ばかりだね」
顔を裏切らない甘く響き良い声に、女達は一層嬌声を上げる。それでもどこか決め手に欠けるらしく、男は止まる事なく──徐々に香月達の方へと近づいて来た。
──確かに美男子かもしれないけど。何だかこの人……。
それはもしかしたら単なる偏見かもしれなかった。けれど鷹信の清廉な美貌を知る彼女からすれば、目の前の男はあまりに蠱惑的で、危険な空気を纏って見えた。
──この人は、やめた方がいい。
本能が感じる恐怖に従って、彼女は客引きをしなかった。もっとも普段も特に積極的ではないのだが。
「どうしたのだ。猫にでも引っ掻かれたのか?」
男の声がすぐ傍で聞こえて、香月は振り返った。顔中生傷だらけの河西が、気乗りしない口調で答える。
「ええまあ。いるんですよ、丸々としたのがね」
「それはまた罪作りな猫だ。飼い主の恩を仇で返すとは」
男は河西の顎に指を掛けると、そっと上向けた。唇が触れ合う程に顔を近付ける。
河西は顔を背けるわけでもなく、挑む様に見返した。
「ええ、痛いんです。だから今日はお休み。こんななりじゃ、興醒めしますでしょ? 他を当たって下さいな」
男もまた、興味深げに河西をしばらく見つめていたが、ふと笑って、
「傷があっても活きは下がらぬと見える。──気に入った」
と手を外した。
「其方名前は?」
河西は面倒臭そうに立ち上がると、渋々名乗った。
「妾は高価うございますよ」
「当然だな」
女遊びに慣れている、と思わせる口調だった。
廊下奥から六十がらみの老婆がするりと現れる。『遣り手』と呼ばれる取り次ぎ役だ。
遣り手婆が先に、河西を挟んで三人は廊下の奥に消えて行った。格子楼は渡り廊下で本楼に繋がっている。昼見世で付いた客は夜見世までもてなされるのだった。
「ずるい、姐さん。嫌なら妾に回してくれれば良かったのに……」
浅尾の言葉に香月は不安になった。そう、なぜあれ程嫌がっているのに断らなかったのか。断れば、必然的に妹遊女の浅尾が相手したものを。普段の河西ならそうしたはずなのに──
男が去った事で、香月は安堵すると共にとても嫌な予感がした。気のせいだと無理矢理自分に言い聞かせる。
花と麝香がない交ざった様な不思議な香が鼻腔をくすぐる。それが男の残り香だという事に、香月はしばらくしてようやく気付いた。香に紛れて、僅かに薬の匂いがする事も。