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柳里の華  作者: 伯修佳
3/13

弐 咲き初むる頃 前

 皐乃街の朝は、他の街に比べて遅い。大抵の客が、日が中天に近づく頃になってようやく帰るからだ。

 朝十刻、『居続け客』を除いて大方の客が帰ると、遊女達は広間で食事を摂り、それから風呂に入る。

 風呂場は大衆浴場の様に広く、同じく広い脱衣場は彼女達の情報及び愚痴の交換場でもあった。女同士気遣う事もなく、素裸のまま客の話に花を咲かせる。今日もそれは例外ではないらしかった。


「昨夜見た? 広間にいらっしゃったお大尽。どうやら王宮の方だったらしいよ」


 浴場内、湯気の向こうで話す声がする。共に浴槽の縁に腰掛けて、汗が身体を流れるままにしていた。


「本当に? またかたりじゃないの?」


「間違いないわよ。門番の話だと、大門で預けた刀に王家の御印みしるしが入っていたんだってさ」


 女の一方が心底驚いた様に声を上げた。


「太夫のお相手だから、大尽とは思ってたけど。でも、一国の主でもこんな場所に来るのねえ。王宮にはそれこそ、女なんてよりどりみどりだろうにさ」


「お高い貴族の女には飽きたのかもね」


 二人は同時に笑った。

 そう言えば、と一方の女がまた切り出した。


「その国王陛下のお連れの方、何と香月の客になったんだってさ」


「何だって? “あの”香月かい? ──物好きもいたもんだね。これで大出世間違いなしじゃないか」


「本当に。太夫ならいざ知らず」


 二人の声音に明らかに侮りの色が混じった。


「たまたまだろ。切見世に堕ちる所だったのに──全く、悪運の強い女だよ」


「違いない」


 女達は悔しそうに言うと、脇にあった桶で湯を被り、連れ立って浴場を後にした。


※※※※


 それより七日程後の昼下がり、香月は窓から綽花の木を眺めていた。

 花の終った綽花はすでに緑濃く、初夏の兆しを覗かせている。折しも今日はいきなりの夏日、蜃気楼が道端に現れる程蒸し暑かった。


「ああっ、もう! 何なのよこの暑さ。あたし、暑いのだけはダメなんだよね、苛々して来ちまう」


 訪ねて来た身でありながら、河西はしどけなく開いた胸元を扇子で扇いでいる。ふと、傍らで涼しい顔をして座っている部屋の主を訝しげに見た。


「香月ちゃん、あんた暑くないのかい?」


 見る方がばててしまいそうな姿態の河西に、香月は困った様に笑う事で答えた。

 体力があるとも思えないが、自分はそう暑さを苦にしない体質らしかったので。

 河西はなぜか恨めしそうな顔つきをする。ただでさえ開いた胸元を、両手でさらに左右に引き開けた。ちょうど乳房の付け根のあたり、びっしりと赤い斑点がある。


「いいねえ、汗っかきじゃないみたいだし。あたしなんか見てよこれ、この汗疹あせも。痒いったらない。ただでさえ、二日酔いで気持ち悪いってのに……」


「掻いてはいけません、河西姐さん。そこから黴菌ばいきんが入りますよ」


「そんな事言ったって、痒いんだもの!」


 胸元を掻きむしったかと思えば、身体を反らして着物の襟足から手を突っ込む。どうやら背中にも汗疹があるらしい。


「姐さん、それ汗疹じゃなくて蕁麻疹じんましんじゃないんですか? 全くもう、強くない癖にざるみたいに呑むからですよ」


 河西を中心とすると、ちょうど香月の反対側に座っていた年若の遊女がそう言った。河西は彼女をひと睨みすると、肘を置く為の脇息きょうそくにもたれて口を押さえる。


「やめてよ浅尾、せっかく忘れてたのに……うう、気持ち悪い」


 浅尾と呼ばれた娘は素知らぬ顔で扇子の風を姉遊女に当てる。部屋をあてがわれた高級遊女には、水揚げ(客取り始め)前の禿の他に、水揚げ間もない『振り袖新造しんぞう』と呼ばれる妹遊女が付いた。部屋遊女一人に新造が大体一人付くのが慣例で、部屋を持たされるまで姉遊女の世話をしたり、姉遊女が捌き切れない客の代役を勤めたりする。

 浅尾は河西付きの振り袖新造である。年は十五、苦海のかげりを感じさせない溌剌とした娘だが、玉にきずなのが『三度の飯より噂話が好き』な事だった。


「私は横から何度か小声で止めましたよ? 客だってもう酔い潰れていたじゃありませんか。うちは酒場じゃないって言うのに」


「よく言えたもんだね? あの爺さんが潰れた時、あたしあんたに『水持って来て』って言ったでしょ。ちょっと香月ちゃんも聞いてよ!」


 と河西はいきなり身体を起こして香月に訴えかけた。


「は、はい?」


「コイツそしたら、何気ない顔して何やったと思う? 水差しに酒満杯にして持って来やがったのよ!!」


 指差された当の本人はそっぽを向いて口笛を吹いている。


「そんなの、騙される方がどうかしてますよねえ」


「河西姐さん、もしかしてそれ呑んだんですか?」


 今度は香月が睨まれる番だった。とばっちり、というやつである。


「当たり前よ、ただでさえこっちは酔っ払ってんのよ? わかるわけないじゃない。途中でさすがにおかしいと思って止めたけど、もう後の祭り。だから二日酔いの半分はコイツのせいなのっ」


 河西は閉じた扇子を浅尾の頬にぐりぐりと押し付けながら言った。


「痛ーい!! 何するんですか、商売道具なのにっ」


「言っとくけどね、このままあたしの胸焼けが治らなかったら、今日のお勤め全部あんたに代わってもらうからね?」


「大丈夫ですって! ほら~、姐さんの好きな氷菓子買って来てあげますから」


 二人の掛け合いをくすくすと笑いながら香月は言った。


「胸焼けには山芋が効きますよ。煎じて飲むといいんです」


「へっ? そうなの」


仙石堂せんごくどうに頼めば、調合してくれるでしょう」


 寿楽ご用達の薬屋の名を香月は挙げた。


「ふうん……香月ちゃん、何でそんな事知ってるの?」


 河西も浅尾も不思議そうな顔をしている。香月は慌てた。


「あ、わかった」


「えっ──」


「あんたもそんな顔してるくせに酒呑みなんじゃな~い?」


 にやにや笑いの意味がわかると、香月は身振りで否定した。自慢じゃないが、酒は一滴も呑めないのだ。


「と、とんでもない。それに、脾懈ひかいは胃薬ですよ。二日酔いの薬じゃありません」


「脾懈? 何よそれ」


 香月は思わず口を押さえた。


「ひ……意外と薬になるんです。益良井姐さんから以前聞きましたのでたまたま知ってて、それで」


 誤魔化し紛れに彼女は元・姉遊女に責任を押しつけた。


「ああ、益良井さんねえ。あの人がね……意外。そんな話、知っていそうには見えなかったよ」


 香月が水揚げからしばらく振り袖新造として仕えた益良井は、つい最近客に請けだされて寿楽を出ていった。彼女にとっては非常に厳しい先輩だったので、もちろんそんな話を教えてもらう機会はない。

 女ばかりが集まる世界は──男だけ、の場合にも言えるかもしれないが──上下関係が非常に厳しい。元来、女という生き物は同性に点が辛いものである。ましてや目下の者となると、猫可愛がりするか、事あるごとにいびり倒すかどちらかに分かれやすい。益良井の香月に対する扱いは後者だった。

 朝から晩まで小間使いとして働かされ、部屋の主がしなければならない仕事まで押しつけられた。気に入らない嫌な客は全て後輩に相手させ、空き時間には退屈だから何かしろと要求する。わからないなりに香月が世間話をしてみると、つまらないと言って煙管盆を投げ付けて来た。


「どうしたの、香月ちゃんため息ついちゃって」


 河西の声に香月は我に返った。首を静かに横に振る。


「何でもないです。姐さん達が仲良しで羨ましいと思って」


 河西と浅尾は一瞬揃って固まった後、「ええっ~!?」と二人仲良く同時に叫んだ。そして同時にお互いを睨む。


「冗談じゃないわよ、こんなおしゃべり!」


「妾だって嫌です!寝言と歯軋はぎしりで合奏できる先輩なんてっ」


「え、姐さんそんな事出来るんですか」


 目を丸くした香月ではなく、浅尾を向いて河西は不穏な目付きで笑った。


「おまえ、これから仙石堂行っておくれでないか?」


 常にない口調と、鬼気迫る不気味な笑顔。さすがの浅尾も引き際を察したのか、素直に「ハイッ」と返事して部屋から出て行った。


「……ったく、先輩の面子も何もあったもんじゃないわ」


 呆れ顔で河西はぼやいた。相変わらず香月は笑い続けている。


「浅尾ちゃんと姐さんって、姉妹みたいですね」


 そうかしら、と扇子で扇ぐのを再開しつつ河西は渋面を作る。その表情がわざとらしくて、香月は心底二人が羨ましいと思った。女社会も、こんな先輩なら悪くないだろう。


「そういやさ、今日はおいでになるの? あの──倉嶋様だっけ」


 話す間も惜しんで激しく顔に風を当てているので、 声が微妙に震える。


 香月は部屋の片隅、文机ふづくえの上に乗っていた小冊子を手に取って開いた。


「いいえ……今晩は多分いらっしゃらないと思います。日が違うので」


「何、その本みたいなの」


「倉嶋様から頂いたんです。お見えになる予定を記してあるからとおっしゃって」


 中を開いて河西に渡す。いかにも上質な紙の上に暦が書かれていて、予定表らしく所々印がついている。たまに書き込まれている覚え書きは、手蹟しゅせきも美しく墨もかすれがないので、正に文様と見紛う程。


「さっすが、侯爵家の若殿様よねえ……それとも家来の方のお手蹟かしら」


 河西はしばらくためつすがめつしてから、感心しきりに小冊子を返して寄越した。


「やっぱり国王様の腹心ともなると、お忙しいんでしょうね」


「ご自分の領地の仕事もおありの様ですから」


「香月ちゃん、知ってたの? 倉嶋様がどういう方なのか」


 香月は首を横に振る。初めて鷹信が客となった日の翌朝、彼が帰った後に楼主夫婦に呼ばれ話を聞かされた時も、実際彼女は自分に起こった出来事が信じられずに呆然としたものである。

 楼主はそんな彼女に、当分の間切見世への格下げは見送りだ、と鼻息荒くまくしたてた。彼の話によると倉嶋鷹信は今を時めく国王の側近中の側近で、十七侯爵家の一つの当主でもあると言う。血筋もさる事ながら、その政治手腕や温情ある人柄によって治める領国は、恩恵を受けて飢える事を知らないとまで噂されている。

 そんな大物の目に止まった香月を遠ざけるなど、釣れた魚をみすみす逃す様なものだと夫婦は口を揃えて言った。何せ、倉嶋家の若当主は道楽に馴染みがない事で有名で、美男の聞こえが高い割には艶聞えんぶんの類をとんと耳にしない。

 男色家という話も聞かないので、今までは『仕事一筋の朴念仁ぼくねんじんだろう』が皐乃街の大勢の評価だったのだ。

 その倉嶋侯が遊女を買う。ここの人間にとっては青天の霹靂へきれきと言っても過言ではなかった。もっとも、当の買われた香月は霹靂を通り越して困惑してさえいたのだが。

 鷹信は、去り際にこれきりではないという証にその予定表を渡しながらこう言ったのだ。


──世の中には色々とつまらぬ事が多いが、それに縛られているおかげでそなたに『しつこい』と飽きられるのだけは避けられるだろう。


 歯の浮く様な台詞を吐いた時の鷹信の、およそ似付かわしくない暖かな笑顔を思い出して──香月は笑んだ。


「何よ~、思い出し笑い?」


 揶揄やゆする河西の声に我に返って彼女は赤面した。


「今、倉嶋様の事考えてたでしょ」


「ち……違います!」


 反射的に出た否定の言葉は、河西のにやにや笑いを深めただけだった。


「いいなあ、倉嶋様って聞く所によるとすごい佳い男らしいじゃない。あたしなんか、昨夜の客は酒癖は悪いし口は臭いし……」


 またも口臭にこだわっている。どうやらよほど臭かったらしい。


「酒癖悪いって、殴られでもしたんですか」


 見た目に傷やあざなどはない。それでも身体に暴力でも、と不安になった香月の言葉を河西は軽く払った。


「説教よ、説教。馬鹿にしてるったらないわ。遊女に道を説くなんてさ──だから呑まずにはいられなくなったって訳」


「そう……だったんですか」


「ま、もっとも半分以上はあの馬鹿が悪いんだけどね」


 湿りかけた空気を晴らす様に、河西は意地悪く顎をしゃくって見せた。


「馬鹿って言えば、馬鹿に買いに行かせたその不快だかってやつ、仙石堂にちゃんとあるのかしら」


「……脾懈、ですよ。河西姐さん」


「そうそのヒカイとかっての。こんな街の薬屋に売ってるの?」


「ありますよ、間違いなく。逆に『ここ』だからあるんです」


「どーゆう事?」


 香月は一瞬ためらったが、正直に話す事にした。河西ならば大丈夫だろう。それに、『過去』もさすがにここまで追ってはこれないと思った。


「脾懈は少量で胃や腎などのを整えますが、調合によっては避妊薬にもなるんです」


 河西はたっぷり五を数える間程感心していた。


「へええ~。なるほどね」


 庶民にとって馴染み深い食材も、加工の仕方如何いかんによっては薬になる。山芋は胃腸薬、強壮薬や避妊薬、果ては抗痙攣けいれん薬と用途は様々だった。呼び方も強壮薬の場合は『山薬』とも言う。──さすがにそれを河西に言う必要はなかったが。


「香月ちゃん、あんたって……」


「な、何でしょう」


 言葉に出さずに友人は表情で問い掛けて来る。それが形になるのを香月は怖れた。


「──汗疹には、どうしたらいい?」


「はい?」


 河西はまた胸元を掻き出していた。


「この痒さ、どうにかしたいんだってば。何か付けた方がいい?」


 しばしの間、香月はまじまじと河西の顔を見つめていたが、ふと気付いて


「それは……汗を流した綺麗な肌に天花粉をはたくのがいいんじゃないかと……」


 多分庶民なら誰でもが知ってる知識を、たどたどしく口にする。


「掻いた傷には?」


 河西が『逃げ道』を用意してくれた事に彼女はようやく気付いて、安堵の笑みを洩らした。


「それは、辛子でも擦り込んでみたらどうでしょう」


「ああ、そうね傷に染み込む痛さが効いて……って、治るわけないじゃない! 何の趣味よっ」


 だが河西の顔は笑っていた。

 この街に住む遊女達は誰しもが、辛い過去を背負って生きている。

 故郷で貧困の為口減らしに売られて来た者、盗賊に家族を殺されて売られた者。そして香月の様な没落貴族の娘も、実は珍しいわけではなかった。

 過去の重みで、誰しもが口を閉ざしてしまう。それは仕方のない事。

 だからと悲嘆しても、それで傷が癒えないのなら──笑い飛ばすしかない。

 彼女のそんな態度が、香月は好きだった。


「昼のお勤めにはまだ時間があるわよね。あたし、一旦部屋に戻るわ。白粉はたく前にこれ何とかしないと」


 河西は着物の襟を閉めると立ち上がった。


「え、でも浅尾ちゃんが」


「犬猫じゃないんだから、一人で帰って来れるでしょ」


 言葉とは裏腹に、河西の顔は企みの表情をしている。


「それは……確かに」


「祥、行くよ。じゃあね、香月ちゃん」


 部屋の端に座っていた自分の禿を呼ぶと、きびきびと友人は出ていった。


──汗疹、大丈夫かしら。


 香月が見た所、赤くなっているとはいえまだ出血しているわけでも腫れているわけでもないが、油断は禁物だろう。ただでさえここは──多くの人間が出入りするわけだし──衛生的とは言い難い。


「彩」


 彼女は禿を呼ぶと、文机から紙を一枚取出し筆で何事か書いて折畳み、それを渡した。


「この紙に書いてある物を宝来屋ほうらいやで買って来て」


「はい」


 質問しない様女将にしつけられている禿は、素直に返事して出て行った。


──ここにいる医者はあてにならない。病は予防しなければ。


 頼んだ物はごくありふれた、そう値の張らない食べ物だ。ただ、加工する事によって膏薬にもなる。その加工は香月がするつもりだった。

 皐乃街に医者がいないわけではないが、薬礼やくれいは非常に高い。脾懈は山芋が原料なのでそう値は張らないが、純然たる薬草だと話は別だ。費用はかけないに越した事はない。

 部屋に一人きりになった香月は、ふと畳に扇が落ちているのに気が付いた。


「これ……河西姐さんのだわ」


 山吹の地に紅梅の菱紋様の扇。香月が決して持たない、艶やかなものだ。

 香月は扇を持って部屋の外に出る。もう河西は自分の部屋に戻っただろうか。足早に廊下を渡り、三部屋向こうの友人の元へ急いだ。

 部屋の襖に、萌黄色の扇が架けられていた。


──いる。


 この辺りの遊廓は大体どこでも、部屋遊女は自室の出入口に飾り扇を架けておく。自分が中にいると示すのだ。普通の扇と違い、全くの無地だが色はどれ一つとして同じなものはなく、店が遊女に渡す身分証明になっている。


「か……」


 彼女が目の前の襖に声をかけようとしたその時、背後右側のそれが開いた。


「おや。香月じゃないのかえ、そこにいるのは」


 鼻が詰まった様な声に振り返った刹那、香月はその持ち主に思い当たって咄嗟とっさに固まった。

 名を呼ばれた本人ではなく、甲高いが愛らしいと言えない事もない声がそれに答える。


常盤ときわ姐さん、もうあの人は『天神てんじん』の位に上がってるんですよ。『姐さん』とお呼びしなきゃならないんじゃありません?」


 鼻詰まり声は空とぼけた様に言う。


「おやまあ、そうだったかしらね。禿も連れずに廊下を歩いているもんだから、あたしはてっきり下女にでも格下げされちまったのかと思ったよ」


 二種類入り交じった笑い声が、いくぶん開けられているであろう部屋から漏れ聞こえる。甲高い声がまた言った。


「常盤姐さんが見間違いされるのも無理ないですよ。だってあの人、お客がたくさんついたから位が上がったわけじゃありませんもの。御職の葉山姐さんみたいな迫力としては、ねえ──」


「運も実力の内、というからね。貴族のお坊っちゃんにはああいった一見儚げなのがいいんだろうさ」


「あら、そんなに大きな声じゃあ聞こえてしまいますよ?」


「そうだったね」


 二人はそこでまた笑った。その笑い方といい話し声といい、話題の主に聞かせる為に言っているのは明らかである。

 その本人である香月は、蒼白な面で廊下に立ち尽くすばかりで何も出来ず、ただ二人の言葉を聞いていた。自分を傷つけるための中傷だとわかっているからこそ、怒りで身体が震えて逆に動けない。

 反応がないのをいい事に、常盤の嫌味はまだ続いた。


「それともアレかしら、大物狙いだったから普通のお客は鼻にも引っ掛けなかったのかもね。下手なりに上手くやったもんだ」


 香月は手を握り締めると背後には目もくれず、急ぎ足でそのまま通り過ぎた。笑い声はまだ背中を追い掛けて来ていたが、それを払う様に、彼女にしては大きな声で友人を呼んだ。

 襖が開いて中から祥が顔を出す。その後ろから声がした。


「どうしたの? 香月ちゃん」


 部屋の奥に、鏡台に向かって身仕度する河西の姿が見える。彼女は振り返らず言った。


「ごめんね、今ちょっと大事な所だから」


「あ……いえ」


 息苦しい気持ちがまだ続いていた香月は、そう答えるのがやっとだった。禿に渡した扇が持ち主の文机に置かれる。横目でそれを見ながら河西は「あっ」と声を出した。


「嫌だ、これ忘れて来た? あたし汗疹に気を取られてたのかしら」


 丸い鏡に、白く塗りたくった顔が呆れた表情で写っている。眉も紅も入れていない為、それこそ塗り壁にしか見えない。


「ごめんね、わざわざ届けてくれて」


「いえ、いいんです」


「どうかしたの?」


「──え」


「顔色が冴えないから。何かあったのかと思って」


 どうしてわかるんだろう、と香月は驚いた。河西はこちらを振り返りもしないのに。


「何でも、ないですよ」


 そう答える彼女の背後で、勢い良く襖が開く。


「ひどいですよ、河西姐さんっ!! 人を遣いに出しておいて、さっさと帰っちゃうなんて!」


 香月が思わず振り返ると、浅尾が汗まみれの姿で立っていた。手には『仙石堂』と書かれた袋が、皺くちゃの状態で握られている。


「おや、遅かったね」


 河西はそれでも振り返らない。細い紅筆を瞼で動かして、器用に縁を赤く染めていく。


「おまえまたご主人と長話して来たろう?」


 姉遊女の指摘に浅尾ははっきり顔色を変えた。どうやら図星だったらしい。


「な、何言ってるんですか。薬が出来るのに時間がかかっただけですよ」


「へえ、薬がねえ。おまえに頼むとなぜかいつも、出来るのに時間がかかる様だけど」


「気のせいです!」


 不遜にも浅尾はきっぱりと否定する。河西はそれで黙ったが、香月には彼女の無言が逆に「全く、このお喋り好きが」と言っている様に思えなくもなかった。浅尾は誰彼構わず長話につき合わせてしまうと聞いているから。


「そんな事より、河西姐さん。廊下で鳥がさえずってましたよ。えらい不っ細工なのが」


 何事もなかった様に浅尾は話を切り替える。


「鳥い?」


「はい、一羽は狐顔でもう一羽は狸顔です」


 何の事かわからずきょとんとする香月の後ろで、河西の背中が震えている。笑い声が聞こえた。


「おまえ、また本当の事をお言いでないよ。今あたし眉書いているんだから、曲がっちまうだろ」


 浅尾は至極爽やかに微笑んだ。


「あ、鳥よりも狐と狸と有体に言った方がいいですね。中身もそっくりだから」


「狐と狸って……まさか」


 言葉の意味がようやくわかってさすがの香月も危うく吹き出しそうになる。確かに常盤は丸顔に団子鼻、川瀬──甲高い声の方だが──は瓜ざね顔に細い吊り目の持ち主だった。


「そっか、香月ちゃん狐と狸に何か言われたんじゃない?」


 ようやく化粧を終えたらしい河西が、振り返って言った。


「えっ」


「わかるわよ、それ位。倉嶋様が香月ちゃんの客になってから、 あの二人暇さえあればその話ばっかりだもの」


 河西は文机の脇に置かれた引き出しの一つを開けると、艶やかな織地の巾着を取り出した。

 中からさらに紙に包まれた飴に似たものを出す。紙を剥いて口に入れた。不味まずい物らしく、渋面を作る。


「狐は葉山太夫の振り袖新造だし、狸も元はそうだった。平たく言えば取り巻きさ。香月ちゃんが太夫の対抗馬になるのが許せないんじゃないかしら」


「知りませんでした……それであんな」


 河西は何に対してかため息をつく。


「まあ、そこが香月ちゃんのいい所なんだけど。自分が考えてることわりが通じない人間はいるもんさ。そういう奴に限って想像力とかなく、自分の物差しで他人を計りがち」


 黙り込んでしまった友人を見て、河西は首をひねりながら言った。


「太夫が一言きつく叱ってくれればいいんだろうけど、あの二人本当取り入るの巧いからねえ。わからないのかもしれない。──ま、もっとも見て見ぬふりってのもありそうだけど」


 口調と表情から、はっきりと刺があるのを感じ取って香月は驚いた。人当たりの良い河西ではあるが、生粋の平和主義ではないらしい。


「ま、何にせよ、いちいち気にしてちゃやってられないわよ? あんな奴ら、鼻であしらう

位の気構えでいなきゃ。きりがないもの」


「そうですよ。一人現れたら十人はいます。ねずみみたいなもんですから」


 浅尾も横から付け加えた。


「……そうよね」


 頷く香月に河西は笑いかける。


「ちなみに浅尾は売られた喧嘩をいっちいち買う趣味だから、真似しないように」


 「趣味じゃなくて主義です」と言う後輩の頭を彼女は拳で軽く殴って立ち上がった。


「それより香月ちゃん、昼のお勤めの時間になるよ。早く支度しておいで」


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