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柳里の華  作者: 伯修佳
2/13

壱 花の蕾

 往来は夕闇に覆われていた。

 商売柄、宵の口には往来全ての灯火を掲げるのがこの界隈かいわいの常ではあったが、今はまだその兆しは少ない。大路沿いに並ぶ店から漏れる薄明かりがかろうじて、行き交う人々の覚束おぼつかない足元を照らしている。

 人はここを『皐乃街さのまち』と呼んだ。

 何代か前の、街を作った者に付けられた正式な名はあまり知られていない。街の至る所に植えられた綽花の木のせいか、いつの頃からか、春を冠するこの名で呼ばれる様になった。

 街で働く者達の特殊な生業なりわいを表す言葉として、それはいかにも相応ふさわしかった。

 人通りはまばらである。無人に近い昼よりはいくぶん増えた、という程度だ。荷物を抱えた商人や職人風の男達、遣いに出された下働きの女などが忙しく通り過ぎて行く。店を出す準備だろう、矢継ぎ早に指示を出す店主の大声も聞こえる。

 その人々の合間を縫って、少女が一人、小走りに通りを急いでいた。

 薄闇の為顔ははっきりしないが、あどけないふっくらとした頬といい小さな身体つきと言い、年はまだ十に満たないだろう。

 にも関わらず不思議と大人びて見えるその少女は、唐突に道を駆け出すでもなく大声ではしゃぐでもなく、ただ早足で先を目指していた。

 手に包みを抱えているのは遣いの途中らしく、つぶらな瞳をくるくると動かして時折辺りを伺いながら、大路をまっすぐ進んで行く。軽やかな動きに合わせて、着物の袖が鮮やかに翻った。

 目的の場所にさしかかった時、遠くで馬蹄の音がして、少女は振り返った。頑丈そうな木造の大きな門が見える。

 街と外とはこの門を潜り抜けないと行き来できない。その機会が自分に訪れる事はしばらくないと、少女は主人に言い聞かされていたので知っている。今まで『あれ』を通り抜けたのはただ一度きり、この街に移り住んだ時だけだった。

 主人はまた、街には大きく分けて二種類の人間がいる事も教えてくれた。すなわち、自由に行き来出来る人間と、そうでない人間と。

 少女はだから、後者だった。そして今、門扉近くの検め所で武器を預けて──庶民は持つ事を許されていない──いる入街者は、やはり前者の典型の様だった。

 天蓋付きの、美しい四頭立ての馬車に乗っているのが見える。自由に出入り出来る者にも格があり、大抵の者は二頭立ての、屋根のないものに乗って来た。

 どうやら、並のお大尽ではないらしい。華美な装飾はないお忍び用のしつらえが、素材の高級さを逆に引き立てていた。少女以外にも、道行く人々が皆そちらに見惚れている。好奇心もあっただろう、降りて来た馬車の持ち主は若い貴族の男だったのだから。

 目的の店の前で呆然としていた少女は、ふと我に返り中に入る。言い付けられた用事を終え、再び外に出た時には、男も馬車もすでに立ち去っていた。

 代わりに、大門に提灯が灯り、外からたくさんの人がなだれ込んで来る。灯火は次々と掲げられた。

 重たげに枝垂しだれかかる綽花の下、鳳凰ほうおうかたどった黒塗り骨の行灯が大路沿いにいくつも浮かび上がる。

 それを合図と賑わいだした街中に、少女は夜が始まった事に気付いた。

 往時よりもさらに急いで、道を引き返す。なだれ込んで来た人々は立て襟の洋装──貴族の男の外出着だ──、着物など色々で、瓦屋根が並ぶ街並みに微妙な彩りを添えていた。

 そう言えば、外の世界には提灯や瓦屋根の木造建物の他に、玻璃はりまった灯籠や、石造りの背の高い建物があった事を、少女は懐かしく思い出していた。


「何やってんだい! 夜が明けちまうよ」


 通りのもう大分向こうから、少女の主人が怒鳴る声が聞こえた。慌てて小走りに店に戻り、明るい色に染め抜かれた暖簾のれんをくぐる。


 店は娼家。屋号を、『寿楽じゅらく』と言った。


※※※※


「あんた、ここがどこだかわかってんのかい? 遊女はね、客を取って幾らのものなんだ。昨日今日来たばかりじゃあるまいし、未通娘おぼこぶるのも大概におし」


 寿楽の一室の上座、並んで座った中年の男女の女の方が、長煙管ながぎせる煙管盆きせるぼんに乱暴に置くと怒鳴った。

 怒鳴られた遊女は身をすくめている。名は香月こうげつ、年は十八とまだ若い。艶やかな黒鳶色の髪に抜ける如き白肌、茶色の瞳を持つ美しい娘だった。

 細い肩をさらに狭めて押し黙る様は、萎れた花にも見える。


「聞いてんのかい! 何とか言ったらどうなのさ。これでおまえの客なしの夜は三日めだ。禿かむろだっておまえよりは役に立つだろうよ」


 まあまあ、と男 の方が説教を遮る。太りじしの激昂していた女は『女将』と呼ばれる男の妻だ。男は楼主ろうしゅ、寿楽を束ねる、遊女達の雇い主である。


「どちらにしても、香月。このまま行く様なら来月から切見世きりみせに格下げするからそのつもりでな。馴染み客のつかない遊女には部屋を与えられない。こっちも商売なんだ。一年もいれば、いかなおまえでもそれ位わかるだろう」


 目尻が垂れ下がっているせいか、常に笑って見える楼主の口調は穏やかだ。だが見据える目は全く笑っていない。実際の所、主人夫婦はこの無口なおどおどした娘に辟易していた。

 最初の頃、きめの細かい浮き世離れした美貌に惹かれて足繁く通って来た客も、彼女の余りの不器用さに興醒めして次々と他に鞍替えしていった。それでもまだ、一日最低一人位はなんとか客が付いていたのだが、ここ半月ばかりめっきりそれも減ってしまった。たまに指名されても翌朝そそくさと帰ったきり、二度目はないという有様である。

 彼らとしても、彼女が優しい娘であり、妹分の禿に対して思いやり深い事も承知していた。不用意に敵を作る刺々しい性格でもなく、仲の良い遊女とはきちんと話せる。

 せめてそれらの半分でもいいから、客に応用してくれたら──自分達もこんな気を揉む必要もないのだが。


「困ったもんだよ、あの娘にも」


 香月が自分の部屋に退がった後、楼主はため息混じりに言った。


「伯爵家だか何だか知らんが、これだから貴族の女は困る。なまじ育ちがいいもんだから、諦めが悪い」


「もう貴族様なんかじゃありませんよ」


 女将はぴしゃりと言い放った。


「落ちぶれて娘を売り飛ばした時、もうその家の由緒だの名誉だのは終わっているじゃないか。今の世の中、どんなに王様がいいまつりごとをなさろうと、貧乏はなくならないし、もっと苦しい思いをしてる奴もいる。切見世に行ってあの娘も少しは学ぶでしょうよ。ここと違い、あそこは部屋なんて与えられない。ぼうっとしてたら他の遊女に客を横取りされちまうね。挙げ句の果てに野垂れ死にさ」


 皐乃街に遊廓は三種類ある。

 貴族や富裕階級 を主な客層とする『総籬そうまがき』。

 官吏や商人相手の『半籬はんまがき』。

 そして下層階級──後ろ暗い職業をしている者もいる──の相手をする事が多い『切見世』。

 建物も小屋じみていて衛生も悪く、中には病に侵され格下げされた遊女がいる場合もある。それだけに揚げ代(料金)も非常に安く治安も悪い。一晩に五、六人の相手をさせられる事もあった。


「この街には神も仏もない。強いて言うなら、大枚を落として行くお客こそが神だ。客を掴むも掴まないも、自分の覚悟次第なのさ」


 女将が言葉を切って煙草をくゆらせると、外から店の宣伝に奏でられる華やかな楽の音と、男女の笑いさざめく声が聞こえて来た。

 賑わいの聞こえる大路側を見やって、楼主が先に立ち上がる。


「まだ宵の口だ――さ、仕事仕事」


※※※※


 香月が自室に戻ると、隣部屋の遊女河西かさいがちょうど出てくる所にかち合った。

 派手な柄の着物の襟元から、真っ赤な半衿はんえりが覗いている。


しょうに聞いたよ。切見世に移らされるんだって?」


 尋ねる声に蔑みの色はない。単純に心配して聞いているのが、口調や態度でわかった。

 香月は頷いた。


「親父さん、いつからって?」


 楼主は雇われた者達から『親父』と呼ばれている。


「……来月からだそうです」


 いつにも増して力ない声。白粉おしろいで塗り固めた顔を、河西は同情に曇らせた。客を迎えていたのか少し酒の匂いがする。


「それじゃあと三日か……幾らもないねえ。今夜は?」


 客は付いたのか、の問いに彼女は首を横に振った。


「元気出しなよ。きっとすぐ戻って来れるよ、稼ぎが良くなればまた戻してやるって女将さんも言ってみたいだし」


「そうなればいいのですが……」


 香月はさらに肩を落とす。ならば一生戻って来れまいと思った。


「こればっかりはどうにもならないねえ……。所詮しょせん、あたし等は品物だから」


 寿楽では唯一、香月と仲の良い年上の遊女は壁に背中をもたれさせて言った。淡々としている。


「売れなければ値段が下がるし、価値がなくなれば即切り捨てだ。ここは牢獄さ、年季が明けるまで繋がれる、ね」


 皐乃街の全ての店の年季は十年と定められている。それまでに遊女は必死に借金を返済しなければならない。年季内に返済するか、『落籍らくせき』──客に借金を肩代わりして払ってもらい、請け出される事を指す。大抵の場合、めかけとしてその後の人生を買われるのだが──されるしかない。さもなければ、店の下働きになると言う、第二の牢獄が待っているからだ。


「おおい。いつまで待たせるんだ」


「はあい、今すぐ~」


 河西は背後、閉じられたふすま越しの声に甘ったるく応じた。


「うるさい奴だよ。口も臭いし最悪。──ま、酒が入りゃわかんなくなるけどね」


 首を戻してうんざりした様にささやく。香月はその言葉にかろうじて笑みを作った。


「じゃ、あたしもう行かなきゃ。香月ちゃん、せめて来月まで諦めないで頑張ってよ。何がどう転ぶかわかんないし」


 彼女は香月の肩を軽く叩くと、襖の向こうへと戻って行った。


──所詮、あたしらは品物なんだ。売れなければ値が下がる。


 部屋に一人で座っても、その言葉が頭から離れなかった。いっそ品物ならば、何も感じなければ良いものを、と思う。

 脂ぎった中年男のたるんだ身体、色惚けした老人がまさぐる枯れ枝の様な指。

 たまに若い客もあったが、どういうわけか彼女を選ぶ男はどこか嗜虐しぎゃく的で、噛まれたり殴られた事も何度もあった。挙げ句「つまらない」と言って投げ出されるのだ。

 いずれも金に困らない、傲慢ごうまんな男達ばかりだった。

 指が、舌が、身体が──。

 女将は「客を付ける為には手練手管てれんてくだが必要だ」と言っていた。

 香月にとって、客との一時は責め苦でしかない。ましてや駆け引きなど、吐き気が喉に込み上げてどうして出来ると言うのだろう。


──遊女は嘘で出来ている。


 河西などはそう言う。ならば嘘をつける程弁の立たない自分は何なのだろう。

 河西は人気者で、馴染み客のあしらいが実に巧い。貴族の客が少ないので派手に稼いではいないが、彼女のさばけた性格を好んで指名して来る者も多かった。


──どうせ遊女になるのだったら、河西姐さんの様な性格に生まれたかった。


 渇ききった心を、えぐっていく劣等感。河西を羨ましく思うだけで何も出来ない自分が、惨めでたまらない。


──だって、出来ないもの。どうすればいいと言うの?


 うずくまって、来るはずもない客の為に敷かれた布団の端を握り締めた。

 女将が無理矢理誰かを引っ張って来させなければ、香月を指名する者はほとんどいない。ゆえに部屋は今夜も静かだった。

 遊女見習いの禿も今は広間の宴会に駆り出されている。今日は身分の高い貴族がお忍びで──宴会にお忍びも何もありはしないだろうが──やって来ていると聞いた。相手をしているのは御職太夫おしょくたゆう、店で最高位の遊女だ。香月とは天と地程も違う、権勢並びなき寿楽の華。

 彼女は部屋の片隅に立て掛けてある、古びた琴に手を触れた。

 表の装飾が何一つない、簡素な楽器。“売り”になるからと、唯一取り上げられなかった彼女の私物だ。

 切見世に移る時は始末すると女将は言った。あそこにそんな風流人はいないからと。

 静かに、辺りに遠慮するかの様に、香月は琴を弾き始めた。

 凛と澄んだ音色が部屋を満たす。

 彼女の生家は学芸を尊ぶ家柄だった。家族は皆、学問をよくし絵を愛で、歌を唄い楽を奏でた。

 だから生まれてから十八の年まで香月は、それしか知らずに生きて来たのだ。


「ごめんなさい、香月……」


 彼女は源氏名を琴の名前に拠って付けられていた。亡き父親からもらった、たった一つの形見。

 音が歪んだ。心が乱れてそれ以上弾けず、琴の上に泣き伏した。


「……おや、もう終わりか?」


 男の声がした。驚いて彼女が辺りを見回すと、どうやら声の持ち主は窓の外にいるらしかった。


「残念だな、もう少し聞きたいと思ってたのに。皐乃街にも風流な人がいるものだね」


 香月は恐る恐る、窓から辺りを見回した。

 彼女の部屋は一階の角だった。よって窓は他の部屋より多く、隣の店側と裏手側二箇所にあった。隣の店側は垣根と垣根の間が道になっていて、真ん中に綽花の木が何本も植えられている。

 その綽花の木の間に、男は立っていた。

 年の頃は二十代半ばであろうか、まだ若く、すらりとした体躯に端正な容貌。亜麻色の髪に怜悧そうな銀灰色の瞳が涼やかだった。

 白地に青の刺繍が施された上質そうな詰め襟の洋装をしているところを見ると、貴族――それも相当高貴な――に間違いなかった。

 同じ貴族出身の香月にはそれがわかる。伯爵たる父は学問を貴族に教えるのが役目だった。徒弟には他ならぬ王や、王の側近、十七侯爵の子息も含まれていたから、屋敷には時折彼らが訪れた。

 男の身なりは、その者達と似ている。

 驚いて目を見開いた香月の視線と、笑みを含んだ彼のそれとがぶつかった。

 香月は一言も話せなかった。だからと言って逃げる事も出来ず、ただ男を見つめている。綺麗な眼をしている、そう思うばかりで何も考えられずに、永遠にも似た呪縛の中にいた。


「邪魔をしてしまったようだね」


「いえ――とんでもございません」


 男はどこか憂いを帯びた表情をしていた。


「お耳汚しを致しました」


 そう言って彼女は頭を引っ込めようとする。


「名は何と言う?」


 動きを止めて、香月はまた男の方を見た。


「今夜、客はいるのか? なければ琴の音を一曲、所望したい」


 男は相変わらず微笑んでいた。物腰が柔らかいからか、或いは自分の身体ではなく曲を、と言われたからかもしれない。

 意外な程自然に、彼女の口から言葉が出てきた。


「こうげつ、と。この琴も、わたしも、そう申します」


「こうげつ、か」


「……香る、月と」


「良い名前だ」


 それ以上語らず、男はきびすを返して去って行った。

 しばらくの間、呪縛の余韻に香月は窓辺から動けなかった。


「香月姐さんっ」


 禿のさいが息急き切って部屋に駆け込んで来る。いつもであれば、やんわりとでもはしたない振る舞いをたしなめる香月ではあったが、今ばかりは次の言葉を待ってそれ所ではなかった。


「ご指名が入りました。女将さんが、念入りに支度する様にと」


 香月の鼓動が大きく、早くなる。


──あのお方だろうか。


 ついさっきの出来事からして、その確率は高い。期待するなと香月の心のどこかがささやく。もしあの青年であっても、実際に会って抱かれれば、どうせ翌朝には飽きられるのだ。

 優しそうな顔をしていても、いざ床に入るとどうなるかわかったものではない。人の裏表にはもう失望したのではなかったか、と。

 行き場を失くして死んでいたはずの香月の心が、なぜか今日は揺れ動いた。


「香月、入りますよ」


 ようやく支度が終わった頃、襖の向こうから女将の声がして、彼女は驚いた。

 部屋の前にいる彩が、準備を整えた旨を告げたのだろうが、返って来た声が『遣り手』と呼ばれる老婆ではなく女将とは。どうやら、よほどの身分の客らしい。


「……はい」


 高鳴る胸に、声が震える。

 平伏して待つ彼女の前で、襖が左右に開かれた。


「香月に、ございます」


「聞かせてくれるね、先程の音色を」


 慈愛に満ちた声。低く優しく、耳朶じだに響く。

 香月は顔を上げた。綽花の幻想などではない、生身の男の姿が、そこにあった。


※※※※


 燭台の灯りが、わずかな風に揺れて影を動かした。

 どれ程の時が経ったものか、饗応に出された酒食も箸が止まりつつある。男は多くを呑まず、酔って騒ぐわけでも潰れるわけでもない。ましてや口説いたり床入りする素振りなど毛程も見せず、ただ他愛のない話で香月と会話していた。


「そうだ」


 油断していた香月の表情が強ばった。


「はい」


「琴を所望したいと言っておきながら、まだ肝心のそれを聞いていなかったな。弾いてくれるか?」


 内心安堵して、彼女は琴を手元に引き寄せた。

 青年は声を上げる。


「この琴は……まさか?」


「どうかなさいましたか」


「あ、いや……。これはもしや劉幻りゅうげんの作ではないかな」


「ご存じなのですか?」


 驚きとわずかな不安を込めて、香月は聞き返した。箏琴『香月』は確かに名匠劉幻の数少ない作品の一つだ。寡作な上にこだわりの強い彼は、作品に華美な装飾を付けない。ただ、使われる素材は一級品以上で、彼女が持つ『香月』にも、芳香が漂う特殊な木材が使用されていた。

 実は裏面に『月夜』が精緻に彫り入れてあり、それが名前の由来と言われている。

 もしや自分の素性が知れるのではと、にわかに不安になる。遊女としての己を恥じる香月にとって、それ以上の屈辱はない。

 だが男は「以前見た事があってな」と言ったきり、それについては言及して来なかった。


「実際に劉幻の琴の音色が聞けるとは思わなかった。嬉しいよ」


 単純に感激しているらしい。


「始めてくれ」


「あの──どの様な曲にいたしましょうか」


 努めて冷静に香月は聞いた。


「どんな?」


「明るい曲や哀しい曲、静かなものから荒々しいものなど。色々ございます」


「そうだなあ」


 男は考える仕草をした。そん な動作一つ取ってもとても優雅で、育ちの良さを伺わせる。


「やっぱり、さっき弾いてた曲がいいな。あれを頼む」


「はい」


 頷いて、香月は弦を爪弾いた。

 琴は切なく歌いだす。音と音との連なりが、音楽の川となって、現れては消え、せめぎあい、流れて行く。

 曲目は遠い任地へと旅立つ父親を偲ぶ子の嘆きを表したもの、生まれ育った土地の山河に、畑に、家の内に愛しい人を思って待ち続けたその辛さが、物悲しい曲調で綴られている。

 今の香月自身の心そのままの曲だった。ゆえにさらに演奏に没頭し、知らない内に瞑目しながら引き続けた。

 男は身じろぎ一つせず、演奏に聞き入っている。

 温かい何かが頬を流れている事に、曲が終わって初めて香月は気付いた。慌てて袖で拭おうとする。


「待ちなさい」


 男は立ち上がり、壁近くに掛けてある上着の懐から布を取り出した。

 労る様にそっと涙を拭う。


「御前様──」


「『御前』はよしてくれ。何だか爺さんになった気分だ」


 男は苦笑した。

 思わずつられて彼女も笑みを形作る。


「そう、その顔だ。笑顔の方がずっと良い」


「ご――」


 またうっかり口にしそうになった言葉を、手をかざす仕草で男は遮った。


「たかのぶ、だ」


「はい」


 涙を拭った布を彼は卓に置いた。


倉嶋くらしま鷹信が私の名だ――だから鷹信でいい」


「鷹信様……」


「今は それだけ、という事にしておいてくれ」


 言って鷹信は口元に人差し指をかざした。内緒だと言わんばかりに。

 香月は素直に頷いた。


――本名なのだろうか。


 その考えを慌てて打ち消す。この街で、貴族が本名を名乗る事はまずない。遊興にふけるのは家門にとってやはり不名誉である。店の側としても、金さえ置いて行ってくれれば、客の素性にあれこれ詮索する様な野暮な真似はしない。だから平気で身分を偽れる。


「ありがとう。素晴らしい音色だった」


 その言葉に憶測から我に返った香月は、無意識に布団の方へ視線を向けた。

 やはりあの場所に行くのだろうか――


「さあ、もう休んでもいいぞ」


「……えっ?」


 言葉の意味を図りかねて、思わず彼を凝視する。


「最初に言っただろう。私はそなたの琴の音を買う、と。そなたの身体を買ったわけではない」


 それまで浮かべていた笑みを消して、真摯しんしな表情で鷹信は言った。少しの後、ようやく彼が言わんとする意味がわかると、蒼白になって香月は平伏する。


「申し訳、ございません」


「どうした?」


 うつぶせた彼女の瞳には、再び涙が溜まっていたが、鷹信からは見えなかった。なので彼はただ驚いて尋ねる。


「……ご機嫌を損ねてしまったのですね」


「え? いや別に、そんな訳ではないが」


 香月は顔を上げた。遊女の駆け引きなど頭から消え去って、悲壮な覚悟さえ表情には浮かんでいた。


「お勤めを果たさねば、妾が叱られます」


「香月……」


 青年は、心底困惑した様に頭を掻いた。しばらく考え込んでいたが、


「……わかった」


 と香月の手を取った。

 香月は目を閉じて荒れ狂う心を鎮める。いつまで経っても、身体を蹂躙じゅうりんされる恐怖には慣れない。大丈夫、きっとこの人なら優しいだろう、そう必死に言い聞かせた。


「……鷹信様?」


 てっきり床に導かれるなりされるものだと思っていた彼女は、ふわりと訪れた感覚に目を見開いた。

 柔らかく抱き締められ、鷹信の体温と、仄かな香りが伝わって来る。男女の抱擁というよりは、親が子を慰める様な仕草だった。──守られていると、そう錯覚させられそうな優しさ。

 背中を軽く、宥める様に叩かれる。幼い頃悪い夢を見て泣きながら起きた彼女を、心配して一晩中添い寝してくれた父を思い出した。


「これで楼主にも叱られまい。指一本触れなかった、とは言えないのだから」


 香月の耳元で彼が低く囁く。彼女は笑った。


「……そうですね」


 香月は彼の胸に手を置いて、再び目を閉じる。長い睫毛(まつげ)の端から、涙が一筋流れて行った。

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