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柳里の華  作者: 伯修佳
12/13

五 残されるもの 後

 大路に足を踏み入れ、先刻の悲鳴の主を探して辺りへと視線を彷徨わせる。予想はしていたものの街の混乱は惨憺さんたんたる有様だった。逃げる人々、砂利につまづいて恐怖に我を忘れただ狂った様に叫ぶ者もいる。軒並ぶ店はほとんどが戸板を閉め、取り残された者達を役人が保護しようとしているが、あまり功を奏している様には見えなかった。

 大門に向かって走りだす事十数歩、香月はようやく路の真ん中で鷹信の姿を発見した。地面に両膝をつき、腕に誰かを抱えている。


「鷹信様──河西姐さん!」


 鷹信は振り返り、走り寄って来る彼女に渋面を見せた。


「来るなと言っただろう」


 冷たい声音だった。本気で怒っているのがわかる。


「……すみません……」


「私が信じられないのか。其方達の身を案じればこそ、中に留まる様に言ったのだ」


 悲しげに打ち萎れる彼女に、鷹信はふと息を吐いて表情を和らげる。


「……河西は無事だ、ただ失神しているだけらしい」


 香月は彼の腕の中で青白い顔をしている河西を一通り検めた。確かに大きな傷は見当たらない。少しばかり首の辺りが赤く腫れていたが、内出血としては軽いものと思われた。


「……あの、人……は」


 何と呼んでいいものかわからずそう尋ねる。


「義方──尾上か。まだ捕まらないのだ。寿楽を出たすぐの所で、潜伏していた私の部下に不意を突かれて体勢を崩した。それでもここまで逃げ続け、手傷を負うとようやく河西を手放して行ったのだ。動けない程の傷ではないはずだが、姿がない。恐らくどこかの店の陰にでも隠れたのか……」


 彼は河西を香月に委ねると、再び険しい表情で路へ視線を向けた。


「──河西を頼む」


 不安が拭い去られたわけではない。──それでも、これ以上勝手は出来ないだろう。


「はい。お気を……付けて」


 語尾がほんの少し震えた。

 鷹信はそのまま走り出す。ややあって、憲兵が二人戸板一枚を剥がしたものを持ってこちらに駆け寄って来た。怪我人を乗せて運ぶ指示を受けたらしかった。

 河西が寿楽に向かって運び去られたと同時に、甲高い叫び声が空を貫いた。


──あれは。


 河西を見送っていた香月は背後を振り返った。大路を逃げ回っていた人々は減り始めていたが、灰色の刑吏の官服に交じって、鮮やかな着物の色が見え隠れしている。

 そしてそこに、見覚えのある少女の姿を認めた。


「──環ちゃん!」


 葉山の禿だった環が、泣き叫びながら走り回っている。背後から追われているらしかった。追っているのは一人ではない。

 義方が彼女のすぐ後ろに。そして更に後ろに鷹信と役人達がいた。


「無駄な足掻きは止めろ、尾上!!」


 鷹信の叫びを引き金に彼は環に一気に飛び掛かる。その鉤爪が獲物を捕らえる間一髪、憲兵の持つ槍が右肩を貫いた。

 とどろく絶叫。環はこけつまろびつしながらも何とか逃げ出し、少し離れた所でへ

たり込んだ。


「うああああぁぁぁ!!」


 獣の咆咬ほうこうとしか思えない声を上げて義方は尚も暴れ回る。捕らえようとした何人かは爪を身体に受け、呻きながら後ろに倒れた。憲兵が更に槍で両の手足を何度か貫く。流れだした血で衣服を濃く濡らして膝を地に付くと、ようやく彼は静かになった。


「口に猿轡さるぐつわを。応急手当てしてから運べ」


 鷹信は部下が義方を運び去るのを見届けてから、座ったまま震えている環の元へ近づいて行った。


「大丈夫か」


 問い掛けに対する少女の反応は鈍い。震えは収まったらしいが、呆然と大きく見開いた目をゆっくりと鷹信に向けただけだった。


「香月、連れていってあげなさい。──立てるかな」


 安心させる様に少女に向かって微笑む。尻餅を付いたまま環は首を横に振った。鷹信は上体を傾けると両手を差し伸べた。

 少女の華奢な白い右手がそれを掴む。


「くらしま、さま」


 上唇にだけ紅を差した小さな口が開いて、たどたどしい言葉を紡いだ。


「どうした?」


 鷹信はその続きを待って彼女の顔に耳を近付ける。

 視界の端に赤い色が動くのがわかった。環が囁く。


「──死ね」


 首筋が、針で刺された様に痛んだのはほぼ同時だった。

 鷹信は怪訝そうな表情でその走り去る後ろ姿を見ながら、右の首筋に手を当てていた。拭う仕草をしてから己が手のひらを見る。

 突然、不自然な動きで大きく身体を痙攣させると、もがきながら地に倒れた。

 喉が何かに塞がれている、そう思った一瞬の後、声が出ない事に彼は気付いた。呼吸する事もままならない。息を継ごうと肺を動かすと、おかしな脈動感と共に心臓を鷲掴みにされた様な苦しみが襲ってくる。そこから全身が千切れんばかりの痙攣へと変わった。

 それまで聞こえていた外界の音、見えていた物も何もわからない。五感さえも総て苦痛のみに支配される。

 頭が内側から締め付けられる感覚と共に、彼は意識を失った。


※※※※


「……鷹信様……?」


 香月がそれに気付いた時、環はすでに鷹信の傍を離れた後だった。子供のものとはとても思えない身軽さで、飛び上がって風の様に大門へと走っていく。

 路の真ん中にくずおれた鷹信に駆け寄ろうと足を踏み出した。両足が思うように動かない。環が離れた後、鷹信は発作を起こしたかに見えた。それは彼女が書物で知る、ある毒物の中毒症状によく似ていた──身体のどこかで本能の様に察知してから、香月は自分自身をひどく遠く感じていた。


──早く助けなくては。


 何故なのだろう、この両足はどうしてこんなにも鈍重にしか動かないだろう。

 不意に視界が反転して、鷹信の姿が見えなくなった。それが自分の足がもつれて転んでしまったせいだと、彼女はそれすらも気付かなかった。


──嘘でしょう、そんな。


 目の前から消えた鷹信。彼は──失われた──もう──もしそうなら──消えたも同じ事──

 無意識に玉砂利を握り締める。


「……つ。香月」


 自分を呼ぶ声がすぐ傍から聞こえているのを、わかっていて彼女は無視した。


──手の施し様がないのなら。


「……しっかりしろ。早く──を助けないと」


──やめて。


 耳を塞ぎたかった。


──放っておいて。


 もう駄目なのだ。ならば、『そこ』に戻るのは嫌だった。鷹信のいない世界なんて。


「いい加減にしろ」


 僅かに苛立った声がして、彼女の両頬に立て続けに衝撃が走った。

 後からじんわりと、頬に熱さを感じて香月は我に返った。


「悪いが、呆然としている時間はない。倉嶋侯を治療しなければ」


「……玲彰様」


 焦点を結んでなお、動こうとしない香月に彼女は眉をひそめた。鷹信の傍らに近寄りはするものの、暴れもがき苦しむ姿を見つめるだけで手は出さない。そのまま振り返った。


「記憶に誤りがなければこれは麻珍中毒の様に思えるが。其方の方が専門だろう。腰を抜か

していても助からんぞ」


「──助かる……?」


 香月の唇からきしんだ笑い声が漏れた。それと同時に頬を涙の雫が伝う。

 彼女は笑いながら泣いていた。


「麻珍毒の治療が──ここで──出来るとおっしゃるのですか?」


 嘲る様な声音だった。


「性の病や感冒を診る程度しか能がない医者しかいないこの街で──研医殿並みの治療が行える、とでも?」


 玲彰はすぐには問いに答えなかった。ただその双眸に狼狽える様子はない。静かに、涙を零し嘆く香月の姿を見つめていた。


「──薬さえもない。研医殿に例え運べたとしても、ただ馬車に乗せただけでは死期を早めるだけです。保ったとしても、一刻もかかる道中半ばにも至らず、毒は全身に回るのです。それでも貴方様は、助けろとおっしゃれるのですか!?」


「当たり前だ」


 澱みなく、はっきりと不快げに玲彰は答えた。つかつかと歩み寄り、香月の襟首を掴む。


「説明は良い。それ位の事、私が知らぬとでも思うか。いいか」


 紫色の瞳に強い意志の光が浮かんでいる。


「一度しか言わぬ、よく聞け。大事なのは治せるか治せないかではない。『治す』か『治さない』か、だ」


 彼女は襟首を掴んだまま香月を鷹信の元まで引きずって行った。乱暴に放り投げる。


「祈りは真実そう願わなければ届かない。何故其方は侯の為に泣く? 患者を救えないからか? そうではあるまい」


 言って香月の傍らに片膝を付く。左手に持っていた黒い鞄の留め金を外し、中を開いた。

 泣き腫らして真っ赤に充血した香月の目が驚きに見開かれる。


「──玲彰様」


「だから絶望するのは早いと言うのだ。医者が患者より先に望みを捨ててどうする」


 鞄の中身は細長い玻璃の容器がならんでいる。口を同じ玻璃栓で密封されているものだ。容器の口付近に薬剤の名札が貼ってある。

 香月の生家では粉末で薬剤を扱っていたが、研医殿ではより純度が高い方法で調剤されていると聞いていた。恐らくこれがそうなのだろう。


「鎮静剤……それに注射器までも」


 注射用の薬剤は薬剤と滅菌された水を配合して作られる。注射器も注射液も手間暇は散薬より遥かにかかる上に保管等が難しい為、概ね高価で民間ではまず手に入らないのだった。


「持てるだけの鎮静剤を数種類と、滅菌水を持って来た。この際感染症がどうのと言っている場合ではない。不届きかもしれんが、これで何とか凌げるだろう。投薬は──其方、出来るな」


 香月は顔を伏せていた。即座に返って来ない返答に玲彰の眉がぴくりと上がる。


「──はい」


 震える声で答えると、香月は顔を上げた。その両目に覚悟が宿っている。

 玲彰は満足そうに微笑んだ。


「では、私に出来る事があれば言ってくれ」


「玲彰様は鷹信様を押さえていて下さい」


「わかった」


 頷いて玲彰はもがき、唸り声を上げ続ける鷹信の肩に手を掛けた。が、鋭い力で容赦なく跳ね返される。彼女はその勢いで遥か後ろに倒れこんだ。


「玲彰様! 大丈夫ですか」


「……ちょっと待っていてくれ。片側からでは無理だ」


 彼女は大路を見回した。不幸にも三人の周囲に憲兵は疎か、人の気配はまるでない。軒並ぶ店は全て閉まっており、もはや閑散とした路地に、不気味な唸り声ばかりが響く──


「あそこが、良い」


 玲彰は一番近くの店の前に立つと、おもむろに外套の合わせ目から短刀を取り出した。鞘から刀身を抜くと、締め切ってある戸板のわずかな隙間に刃先を差し込んで、捻り込む。出来た空間に鞘を差し込むと、手前側を握り力を込めた。

 木が裂ける音がして、戸板が外れる。間髪置かず彼女は中に踏み込んだ。

 呆然と見守る香月の前に、店の──奉公人だろうか、体格の良い男二、三人を連れて戻ってきた。


「玲彰様──」


「時間がない、始めよう」


 無表情のまま呟く。あんな短時間でどうやって説得したのか。疑問を飲み込んで香月は鷹信を振り返る。今はそんな事を聞いている場合ではない。


「では、両腕と両足を押さえて下さい。……鎮静剤を投与します」


 大の男三人、それに玲彰に押さえられて、さすがに鷹信は地に固定された。その衣服を緩める。脱がそうと少しでも腕を持ち上げるとまた彼は暴れた。男達の腕が引っ掻き傷で一杯になるのに然程さほど時間は掛からなかった。


──苦しいのだ。


 麻珍毒は身体の筋肉を蝕む。五体は言うに及ばず、はらわたまでもが筋によってあるべき機能を果たしているから、まず呼吸がおかしくなるのだ。大気を取り込む事が出来なくなる上に、身体が劇的な痙攣を繰り返す──触れただけでそれは誘発されてしまう。


──もう少しだけ。お願いだから、堪えて下さい。


 手は震えていたが、泣きそうな気持ちはさすがに通り越していた。自分を叱咤しながら、鎮静剤を滅菌水と配合する。


──失敗は許されない。


 鷹信の全てが今、この一時に掛かっているのだ。

 薬剤はいずれも、人の治療に使える量が決まっている。慎重に調合用の容器に流し込んで、揺らして混ぜる。


──器具が圧倒的に足りないけれど、今は仕方がない。


 そもそも、劇薬の治療を外でするのが希なのだから。

 出来上がった注射液を注射器で吸い上げ、鷹信の腕を──衣服の袖を捲り上げる。血管を探して消毒した。針を射して薬剤を注入する。

 痛さによる刺激のせいか、鷹信は一層暴れだした。


「鷹信様……っ、辛抱して下さい……もう少し」


 哀しみで胸が締め付けられる。身体は毒と戦って暴れているというのに、暴れれば暴れる程、毒の回りは早くなるのだ。


「──香月」


 彼女は黙って視線を呼ばれた方に上げた。玲彰の言いたい事はわかっていた。


「もう少し──効き目の強い薬を投与します」


 先程使ったものの隣の薬剤を同じ様に調合し、新しい注射器を使う。投与した後、彼の手首を軽く押さえて脈を計った。

 後は──もう、祈るしかない。


「……少し収まった、か?」


 狂気にも似た鷹信の痙攣が少しずつ穏やかになっていくのを見て、玲彰はようやく息をついた。男達を手伝って片足を押さえながら、患者の容体を調べる姿に問い掛ける。


「香月?」


 応急手当てが巧く行ったというのに、香月の顔色は冴えなかった。しきりに鷹信の目蓋を持ち上げて目を覗き込んだり、脈を計っている。


「どうした、まだ何か問題があるのか?」


 彼女の面はみるみる蒼冷めて行った。


「──薬が、強すぎたかもしれません」


 鎮静作用がある薬剤は、麻珍の直接の解毒剤としてではなく、重篤な──中毒症状の中で最も命を脅かす──痙攣を鎮める為に使われる。それが現時点で出来る、この猛毒の処置方法だ。だが、鎮静剤自体も非常に強力な薬なので、量を間違えば死に至る場合がある。鎮めすぎて逆に身体の機能全てを止めてしまうのだ。


「体温は」


 問いは簡潔を極めていたが、さすがに玲彰の表情が険しくなった。


「下がり続けている様なのです。脈や呼吸の数も、減りが急過ぎる……まだこれからは何とも申せませんが」


「困ったな……」


 香月は鷹信に覆い被さると、人工呼吸を始めた。

 その間にも必死で考える。玲彰の言う通り、絶望するにはまだ早い。今度はそう思うしかなかった。


「とにかく──馬車をこちらに持って来よう。確認するが、倉嶋侯が暴れる可能性はないのだな。その逆はあっても」


「はい」


 口を離した時に答える。


「ではお前」


 玲彰は鷹信を押さえ付けていた男達の一人に声をかけた。


「先に憲兵詰所に行って、倉嶋侯の馬車を持って来てくれ」


 既に彼女の部下の様に従順にふるまっていた男は、初めて躊躇う素振りを見せた。


「し……しかし、街中で馬車は」


「問題ない。今は非常時だ」


 打開策を考えながらも、男と玲彰のやりとりを耳にして香月は無意識に考えていた。


──皐乃街では乗り物を使うのは法度なのだ。街に住む者にはそれが染み込んでいる。


 一瞬浮かんだその記憶を振り払って、考えを元に戻す。

 集中しなければ。何かあるはずだ、鎮静を緩和出来る何かが。


「私は寿楽に行って楼主と話して来なければならん。お前、もし何か咎められたら『玲彰』の名前を出せ。詰め所ならばそれで通る筈だ」


──これがもし、昏睡した患者ならば。


「──承知、致しました」


 渋々ながら男はようやく大門に向かって駆け出した。


「玲彰様!! お待ち下さい!」


 叫び声に、寿楽に向かって身を翻そうとしていた玲彰は振り返った。

 確信を得たとも、開き直ったとも見える落ち着いた香月の表情。


「お願いがあります。この先に『仙石堂』という薬屋があるので、そこから『山薬』をもらって来て下さい」


「山薬か。……成程な」


 頷くや否や、玲彰は寿楽とは逆方向に──薬屋の方へと駆けていった。

 皮肉な事だが──山薬がないという懸念はなかった。胃薬と避妊薬と原料を同じくする生薬。強壮薬もまた、遊廓では当たり前に扱われているだろう。

 果たして、いくばくもしない内に玲彰は片手に紙袋を提げて駆け戻って来た。


「ありましたか!」


「あった。だが、これをまさか注射するのか? 散薬だぞ。粗すぎる。溶けないのでは」


「それでも──飲み下す力がない以上、他に仕様がありません。やってみます」


 絶句した玲彰から薬の袋を受け取り、中から薄茶色の粉末を内袋ごと取り出した。滅菌水に溶かし、鎮静剤と同じ様に注射する。

 通りに荒々しく馬蹄の音が近づいて来た。街並みにおよそ不具合な、美しい曲線を持つ蒼と銀鼠ぎんねず色の馬車だった。


「来たか」


 玲彰がそう呟いた。御者台から馬車と同じ色の服を着た男が深刻な表情で降りて来る。


「其方を呼びに行かせた者はどうした」


「ここにおります」


 馬車の中から、男の声がした。次いで駆け降りて玲彰の脇に立つ。

 彼女は確認する様に頷いた。鷹信を押さえている男達にも指示を出す。


「倉嶋侯を馬車の中に」


「あの、玲彰様」


 男達がゆっくりと患者を運ぶのを香月は不安げに見守っている。


「研医殿までの道程ですが、人工呼吸をお願いします。応急処置がきちんと働けば、それで何とかしのげると思います」


 一瞬の間を置いて玲彰は答えた。


「それは構わぬが。問題は研医殿に入ってからの事だ」


「えっ?」


「今、侯をあそこに連れて行ったとしても、治療出来る者がおらぬ」


「……それはどういう事ですか」


 自分でも血の気が引いて行くのがわかる。


「尾上がその筋の治療の専門だったのだ。研医殿では実力で地位が決まる。奴はとにかく能力は高かったからな。だが、恐らく部下も息がかかっていよう。治療を任せて逆に毒を盛られては敵わない」


「そん──な」


 香月は顔色を失った。駄目だ、と今度こそ目の前が真っ暗になる。

 皐乃街にいる間なら、何とか手も尽くせよう。自分がいる間なら。

 しかし、外に出た後はどうする事も出来ないのだ。


──ここまでしても。


「玲彰様──貴女様では駄目なのですか」


 思わずその肩に縋りついた。


「知識はあるが、実際の治療は専門外だ。其方の様に出来るかどうかわからぬ」


 触れた所から仄かに体温を感じる。人である、とようやく確認出来る──その位、玲彰の言葉は温かみを欠いていた。怒りの余り、張り詰めていた香月の緊張が限界を越える。思わず怒鳴った。


「『大事なのは治すか治さないかだ』と仰ったのは貴女様ではありませんか!」


「それはそうだが」


 玲彰にたじろぐ様子は全くない。


「もっと確実な方法があるではないか」


「──は?」


「誰だ!! 馬車なんて大路に入れたのは!」


 少し離れた場所から楼主の怒鳴り声が聞こえたのはその時だった。二人は揃って声のした方を振り返る。

 寿楽の楼主夫婦が、これ以上ないという位険しい顔で鷹信の馬車に向かって駆け寄って来た。後ろには若衆を数名引き連れている。

 玲彰は答えた。


「呼んだのは私だが」


「貴女様が?」


 威圧に動じない様子に楼主はわずかに鼻白んだらしかった。


「非常時と言う事で大目に見てもらえまいか。人命が懸かっているんだ」


 そう、本当ならば時は一刻を争う事態なのである。玲彰でなければ、引き止められて激怒していたかもしれない。


「人命と。ははあ」


 楼主の相槌はわざとらしさを極めていた。


「其方達と議論している暇はない。香月を借りていくぞ。この者がいなければ、倉嶋候は助からん」


「れ、玲彰様!?」


 驚いたのは香月である。そんな事が可能なのか──固唾を呑んで楼主夫婦と玲彰を見守った。

 楼主の表情は変わらない。


「残念ですが、それは承服しかねますな」


「何──」


「貴女様の事は倉嶋様より高貴な御方と伺っております。ですがこの皐乃街にはしきたりと言うものがございまして、例え国王様でも破れば罰を蒙ります。そうでなければ街が成り立ちますまい」


 楼主の下がり気味の眼尻と、愛敬のある顔つきに翳りが見える。怒気をはらんだ凄味が全身から溢れていた。荒くれ者を何人も従える、夜の世界の主の面目だ。

 一気にその場が緊迫したかに見えた。


「……そうか。其方の言う通りだな」


 返って来た答えはおよそ場にそぐわぬあっさりしたものだった。楼主は眉をひそめる。


「では罰をお受けになると?」


 いや、と玲彰は楼主に背を向けると香月の背中に手を掛けた。


「馬車に乗りなさい」


 言葉の意味がわからず香月は一瞬停止する。


「え──」


「何を馬鹿な事を! おい、お前達止めさせろ!!」


 楼主の怒号で男達が馬車の周囲を取り囲む。


「──私に触れるな!!」


 飛び掛かろうとした一同は、静かだった玲彰の突然の大喝に行動を躊躇った。人離れした容姿から放たれる覇気に気圧されてさえいる。


「楼主、罪を問われる前に一つ聞きたい。この香月の身請け代は、亡くなった葉山太夫より高いのか」


「な……」


 請け出しが決まった遊女を死なせた、かつてない不祥事を引き合いに出され、さすがに楼主は目に見えて怯んだ。


「──いえ。太夫は別格の遊女でございます。比べるべくもございません」


 彼が答える隙に、玲彰は香月を馬車に無理矢理放り込んだ。


「では、葉山の身請けの際に積んだ代金で香月を身請けしても文句はあるまい」


「し、しかし。それとこれとは」


 慌てる楼主を尻目に、言いながら自らも馬車に乗り込む。扉を勢い良く閉めると、窓だけ開けて顔を覗かせた。


「お待ち下さい!! 勝手な真似は許されません!」


「そうですよ! 一体、何様のつもりですか!?」


 既に馬車は緩やかに走り出していた。馬に蹴られるのを恐れて、馬車に近寄れるものはいない。楼主夫婦だけが、罵りながら後を追う。


「──その言葉、そっくり其方等に返そう」


 顔を出したまま、玲彰が叫ぶ。


「人が作った法ならば、人を守れぬ事などあるまい。変えられぬ事もな。勉強させてもらった」


「門番! おい、なんで大門を閉めない!?」


 大門の両脇に陣取る憲兵は微動だにしない。

 朗々とした声が馬車から続いた。


「以降皐乃街について法を改める様、王后玲彰の名において陛下に──皓慧様に、よく申し上げておこう。十七侯爵にもな」


 その言葉が聞こえたのか、体力がついえて追跡を諦めたのか、彼らはその場に立ち止まった。呆然とした顔が、みるみる視界から遠ざかって行く。やがて、塵のごとく霞んで見えなくなると、馬車は窓を閉め、街の外へと門を潜り抜けていった。

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