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柳里の華  作者: 伯修佳
11/13

五 残されるもの 前

「じゃあ、倉嶋様はこれからも変わらずお見えになるんだ。良かったね、香月ちゃん」


 河西の言葉に香月は複雑そうな笑みを見せた。

 昨日の今日の事とて、まだその顔には疲労の色が濃い。あの後自室に戻ってから、ずっと同じ事を繰り返し考えていたからかもしれない。

 河西はその顔を覗き込む。


「……あんまり良くもないみたいだね。その様子じゃ」


 側にある煙管盆から煙管を取り上げ、火を点ける。白い煙が長く鎌首をもたげる様を、ぼんやりと見つめるばかりの友人に彼女は苦笑した。


「見舞いに来てくれるのは嬉しいけど、それじゃどっちが病人かわかりゃしないよ。人の事より香月ちゃんは自分の心配した方がいいんじゃない?」


「河西姐さん、そんな風に言うもんじゃありませんよ。香月姐さんは本当に、ずっと姐さんの病に心を砕いてらしたのに」


 横から浅尾がぴしゃりとたしなめた。河西は顔をしかめる。


「そんなのわかってるよ。だからこそあたしは香月ちゃんに休んでもらいたいんだって。昼前だってのにそんな幽霊みたいな顔色でさ、お勤めにだって響いちゃうじゃないか」


 言ってから香月の方を見て、慌てて語気を和らげる。


「いや、だからね。あたしはほんともう大丈夫だから。今日から普通にお客も取るし、昼にも出るから。心配しないでいいんだよ」


「そうそう、今じゃ姐さん妾らよりも元気ですよ。やっぱ病も長居する人間は選ぶもんなんですねえ」


 河西は妹遊女を、睨み付けながら微笑むという器用な芸当をやってのけた。


「鉄の胃袋のお前に言われたかないよ! こないだだって腐った大福を食べてもけろりとしてたくせに」


「そんな事ありましたっけねえ?」


「あったよ!!」


 二人は言い合いながらもちらりと同じ方向を盗み見たが、いつもなら聞こえるはずの楽しげな笑い声は起こらなかった。焦点を結ばない不安げな双眸が、相変わらずただ宙を彷徨さまよっている。

 河西と浅尾は顔を見合わせて、仲良く同時に溜息をついた。


──姐さん達に気を遣わせている。


 困らせているのは香月にも充分わかっていた。ならばその思いやりを酌んでさっさと自室に戻れば良いのだろうが、一人になるのが今の彼女にはひどく心細くてたまらない。

 鷹信はこれからも来ると、確かに言った。表面上何事もなく通って、実際は葉山に贈られた柄樽の出所を突き止めると。来てくれるのは嬉しいのだが、それはまた、香月の身の安全を図る為でもあるという。己の身に危険が迫っているという事実も手伝って、とても安心する事など出来はしなかった。


──それでなくとも、独りでいると考え過ぎてしまうのだから。


「おや祥、おかえり。買って来れたかい?」


 河西の声にふと気づいて顔を上げると、戸口に禿の姿があった。遣いから戻ったらしく、手に袋を抱えている。


「はい」


 祥は姉遊女に袋を渡した。紙の包みの上に「真砂まさご堂」と書かれている。皐乃街の中でも人気の菓子屋だ。河西は中身を確認すると満足の笑みを浮かべた。


「良かった~! ここの草餅、こないだは今時もう売り切れちゃってたんだよ。桂、お茶煎れてくれる」


 やった、と浅尾も歓声を上げた。河西は小鉢に中身を空けると、外袋を彼女に手渡す。


「あんたはこっち」


「そんな~!!」


 冗談よ、と笑って彼女は菓子を皆に勧めた。笑ってお茶を煎れる手伝いをしていた祥が、ふと思いついた様に振り返った。


「そう言えば姐さん、花糖果のいいのが入りましたって小父さんが言ってましたよ」


「へえ、そうなの? 買ってみようかしら。ここしばらく買ってないし」


「何でも新作みたいですけど」


「ふうん……新作ねえ。どんな味なのかしら」


 河西は新しいもの好きである。考える素振りを見せた。浅尾も草餅を頬張りながら俄かに興味を示す。


「わはしはめしにはってみはひょうか?」


「そうねえ──って、お前行儀悪い」


 浅尾の頭を軽く叩いて、彼女は部屋の隅の小さな小物箪笥の引き出しを開けた。きらびやかな布袋を取り出して中身を確かめる。


「あ……忘れてた。まだいっぱいあるんだったわ。浅尾買ってみてよ。んで一つ頂戴ちょうだい


「わかりました。でも高いですよ~」


 言いながらも甘い物に目がない浅尾は既に二つ目の草餅に手をつけている。傍らを振り向いて「美味しいですね、香月姐さん」と声をかけた。


「こ、香月姐さんっ!?」


 香月は全く草餅に手をつけていなかった。河西に半ば無理矢理握らされた緑色の菓子は、きつく握り締められて哀れ原型を留めない程潰れている。


「どうしちゃったんですか! どっか具合でも──」


 咎める声で弾かれた様に顔を上げる。上げたと同時に立ち上がり、香月は駆け出した。


「香月ちゃん! どこ行くの」


 河西の声を無視して、部屋の襖を開け飛び出した。玄関に向かって廊下をひた走る。


──ありえない。


 優しい人だ。いつだって彼女は自分に良くしてくれた。


──でも、それなら説明がつく。


 柄樽の蓋が割られていたのも。そしてそれが部屋から持ち去られていたのも。

 恐ろしい考えだと思った。そんな事を考える自分を軽蔑したい。だが恐怖と同じ速さで、脳裏に閃いた考えは骨組みを繋いで次々と形を成していく。


──毒が仕込まれたのが、花糖果だとしたら。


 楠王は「口にするものには気をつけろ」と言ったという。ならば葉山は酒を確かめたはずだ。蓋が割られていたのはただそれを確認する為だけだったとしたら。

 つまり柄樽が持ち去られたのは、『毒が入っていたから』ではなく『入っていなかったから』かもしれないのだ。残っていれば、当然誰かが確認する。そして無害だという事がわかれば、花糖果が疑われただろう。現に葉山は花糖果の袋を投げ出して死んでいたのだから。

 それに引き換え、花糖果は。身請けが決まってから客を取っていない彼女は、口にする事はなかったのではないか。晴れの門出という日、使者を迎えるに臨んで久しぶりに『それ』を口にする可能性は高い。自分がずっと懐に入れていたのだから──少なくとも覚えている限りでは──安心しきっていたに違いない。

 柄樽を持ち出すのも、花糖果をすり換え外に持ち出して始末するのも隣室にいる河西ならば可能だ。あの部屋は物置なのだから、行李の中に隠す事など造作もない。

 だとすれば、病で客を取っていなかった河西の花糖果が、買ったばかりの様に沢山ある事も説明がつくのではないか──


──鷹信様に知らせないと。いえ、その前に。


 考えすぎなのかもしれない。少なくとも河西一人であるならば、こんな事は考え付きもしなかっただろう。──だが。


──あの日、柄樽が届いたのは昼見世の前と聞く。すり換えられたのは当然それ以前だ。


 確かめなければならない。花糖果をいつ、河西が買ったのか。そ知らぬ振りをして本人に聞く事などとても出来そうにない。

 もしかしたら、義方が指図したのかもしれないのだから。


※※※※


 真砂堂は遊廓相手の商売を続けて九十年の老舗である。街の片隅にひっそりとある店構えは古めかしい。職人気質の店主のせいか、人気の割に繁盛している様にはあまり見えなかった。


「ええ? いつの話だい、それ」


 客に応対する為の、擦り切れ色褪せた長卓と同じ位年季が入った顔をした店主は、のんびりと怒鳴り返した。どうやら耳が少しばかり不自由らしい。


「ですから、今日じゃないんです。河西さんの所の禿がここ数日の内に花糖菓買いに来ませんでしたか」


 焦る気持ちが、香月を性急にさせている。あくまでのほほんとした店主の反応に、叫びだしたい衝動を必死に抑えた。


「はあ……あったかねえ? ついさっきなら来たけどさ。あれは河西さん所の祥ちゃんだろ? いっつも贔屓にしてくれてね。その事じゃないのかい」


「いえ、ですから今日の事じゃないんです──」


 もうずいぶん前から、何度同じ問答を繰り返しただろう。気の入らない返事をしながらも、店主の手は何故か正確に、出来上がった菓子を休みなく卓の上に並べている。


「最近もの忘れがひどくてねえ……」


 歯噛みする思いを押さえ付けて、香月は尚も食い下がった。


「お願いです。何とか思い出してみて下さい。遣いはもしかしたら男の人かもしれません」


 しかし彼女の懇願もどこ吹く風と、店主は空の盆を持って店の奥に引っ込んでしまった。


「小父さん!!」


「わかってるよ。こっちも商売があるんだ、急かさないでおくれ」


 ややあって戻ってきたその手には、新たな焼き菓子が載っている盆を携えていた。再び卓上に並べ始める。


「そうさなあ……花糖菓は毎日出ているみたいなもんだからね。特別あつらえでもしない限り、あんまり覚えてないなあ……河西さんね……」


 手を動かす事で記憶を辿っているらしかった。呟きながら並べていく。


「ああ、そうだ。やっぱり」


 その手がふと止まった。


「思い出しましたか!」


 香月は思わず身を乗り出した。


「それで──いつ頃ですか?」


「だけどあんた、何でそんな事知りたいんだい」


 店主の人の好さそうな顔が疑いに曇っている。彼女は慌てて言い訳を必死で考えた。


「それは──河西さんに頼まれたんです。最近飴を頼んだはずなのに、出来てないかって」


「は? そんな事さっき祥ちゃん何も言ってなかったよ」


 店主の皺だらけの額は更に溝を深くする。


「あ、そうなんです。祥ちゃんが帰って来てから思い出したとかで──」


「ふうん……ちょっと待ってな」


 彼はおもむろに卓の下からぼろぼろの帳面を取り出すと、めくり始めた。


「台帳があるんですか……」


 脱力し項垂うなだれた香月を全く黙殺して彼は一人頷く。


「うん、そうだ。頼んでないよ」


「──は?」


 彼女は顔を上げた。


「河西さんさ。頼んでないよ、間違いなく。寿楽の注文はここ数日ないから、頼まれれば覚えてるだろうし。帳面にも書いてない」


「そう……ですか」


「葉山さん所じゃないんだろう? あの人なら特別誂えだし、よく覚えているよ」


 踵を返しかけた足が止まった。


「──太夫の?」


「ああ」


 店主は再び菓子並べに専念し始めた。


「琅華祭のすぐ後だったかねえ。禿が頼みに来たよ──尤も、それは取りに来るのも同じ子が来たけどね」


※※※※


──そんな馬鹿な。


 真砂堂から帰る道すがら、大路を歩きながらも香月の頭は混乱を極めていた。

 河西は何もしていない。少なくとも琅華祭前後には。では誰がどうやって、花糖菓をすり替えたと言うのか。──そもそも、本当にこの推測は合っているのか?

 彼女は祭前の河西の言動を懸命に反芻する。

 緊張する香月の部屋に来て、「切らしている」と花糖菓を欲しがった事。

 客に心中騒ぎを起こされた事。そしてそれから、彼女は身体を壊した──


──証拠だ。


 香月は思考に沈んでいた面を上げた。小走りに大門に向かって引き返し始めた。正確には門の横にある憲兵詰所に。


──河西姐さんの持っている花糖菓。あれを何とか手に入れられれば。


 鷹信に調べてもらえば、中に毒が混入されているかどうかわかるだろう。そして彼女の考えが正しければ、今王宮で調べている葉山の花糖菓には──何も入っていないはずだ。

 そうでなければ、「遺体の傍に残してあった意味がない」のだから。


──先に鷹信様にお知らせしなければ。


 以前鷹信本人から、倉嶋領よりは王宮の方が近いと聞いた事がある。彼女は早馬で手紙を届けてもらおうと詰所の前まで辿り着いて、ふと横を向いた。

 視界の端を占める、黒い影。


──まさか。


 義方が大門で馬車を預けて、こちらへと歩いて来るのが目に入った。詰所はすぐ隣に近い。見る間に彼は香月の隣にやって来た。

 が、身構えた彼女の予想に反して、彼は何事もなかったかの様にその場を通り過ぎた。

 香月は遠ざかる義方の背中をしばらく凝視してから、慌てて中に入り手紙を頼んだ。用事を済ませ、来た時同様にまた駆け出す。


──もしかしたら、花糖菓を持ち去るかもしれない。


 そうなったら自分になす術はない。柄樽が見つからない以上、唯一の手がかりだというのに。


──こうなったら、正面からぶつかるしかない。


 息急き切って寿楽に戻った彼女は、河西の部屋に向かった。部屋に踏み込もうと扉に手を掛ける。


「駄目ですよ、香月姐さんっ!!」


 背後から浅尾が駆け寄って来て香月を羽交い締めにする。


「離して!」


「どうしちゃったんです! お客さんがお見えなんですよ? あんまり失礼じゃないですか」


 平生からは想像出来ない激しい抵抗に、浅尾が怯んだ隙をついて腕を振り払う。力一杯扉を引き開けた。

 だが部屋には誰もいない。


「河西姐さん……?」


「あれ、先刻までいたんですけど……おかしいな」


 背後から浅尾も部屋を覗いて首を傾げた。


「でもきっと、義方様とどこか歩いてらっしゃいますよ。それより一体どうしちゃったんですか?」


 香月はそれには構わず、いきなり部屋の奥にある薬箪笥の引き出しの中を物色しだした。仰天して浅尾は彼女の腕を掴む。


「ちょっと! 何やってんですってばっ」


「急いでるの。訳は後で話すから離して!」


「いーえ、離しません! 姐さんのお留守にそんな勝手な事、例え香月姐さんでもさせられません!!」


 振り払おうとする力と、止めようとする力が拮抗して揉み合いとなった。両腕を押さえられた香月は思案した挙げ句、引き出しの把手に噛み付いて歯で無理矢理開けた。


「止めて下さいっ! 何なんですかもう!?」


「──ない」


「えっ?」


 いきなり力の均衡を失って浅尾は軽く後ろに倒れそうになった。それを何とか持ち堪えて先輩遊女を恨めしそうに睨む。


「今度は何ですか? もう気が済んだのなら、姐さんが戻る前に帰ってもらえますか」


 香月の脱力を反省と受け取ったらしかった。言いながらも「さあさあ、早く」と肩を力任せに押して戸口に追い立てる。


「……ごめんなさい」


 か細い謝罪に浅尾は表情を和らげる。一つ溜息をつい た。


「妾よりも、姐さんが知ったらがっかりなさいます。落ち着いたらこっそり理由聞かせて下さい」


 香月はそれには答えず、河西の部屋から静かに出て行った。


──遅かった。


 当てもなく廊下をとぼとぼと歩く。焦燥と喪失感が襲って来る。苛まれて目の前が真っ暗になりそうだった。

 葉山は口封じに殺された。河西が同じ目に遭わないという保障はどこにもない。証拠になる物がなくなれば、後は彼女が消されるかもしれないというのに。


──部屋に帰って、鷹信様からの返事を待つしかない。


 辿り着いた自室の扉の前に立って襖に手を掛けた。こうしている間にも、義方は証拠を始末しているのかもしれないと思うとやるせない。

 力を籠めようとした矢先、襖の向こうから声が聞こえて動きを止める。


──え?


 彼女は耳を疑った。


──今この部屋には、彩しかいないはずなのに。


 香月は慌てて襖を引き開けた。


「あ、香月ちゃん」


「……河西姐さん!?」


 部屋の真ん中にいつもの様に陣取って、河西はにこやかに微笑んでいた。戸口に立ったまま、彼女は驚きかつ脱力した。今度は安堵の為に。


「こちらにいらしてたんですか……」


「さっきはどうしちゃったの? 何だか大慌てで出て行ったけど」


 いっそ呑気とも思える口調に香月は緊張を解いて苦笑を浮かべ、中へと足を踏み出した。


「何でもないんです、それより姐さん」


 義方はどうしたのか、そう訊ねようとして彼女は絶句した。


「あ、ごめんね香月ちゃん」


 上座には客用の、緋色の座布団が敷かれている。


「いなかったものだから、彩ちゃんに出してもらっちゃった」


 その上に座る、黒い出で立ち。相変わらず表情は読めない。ただ真っ直立ち尽くす香月を視線で射抜く。


「義方様が──香月ちゃんに訊きたい事があるとおっしゃってるの」


※※※※


 香月は彼を凝視したまま一歩、また一歩と後じさった。襖の縁に背中をぶつけてようやく立ち止まる。

 義方は苦笑混じりに河西に向けて言った。


「これはまた、随分と嫌われたものだな」


 河西は眉をひそめ困惑の表情を浮かべる。


「香月ちゃん、どうしたの? 義方様に失礼じゃない。こっちにいらっしゃいよ」


 だが香月は咄嗟に返事が出来なかった。真っ白になってしまった頭で、次に自分が取るべき言動を必死に探す。

 河西は恐らく花糖菓を持っている。そして今この時、通常ならありえない他の遊女の客が自分を訪問するという行動だ──彼の質問は推測するまでもない。

 彼女はしばらく義方を睨みつけてから、ゆっくりと再び部屋の中に入っていった。二人に向かい合う位置に立つ。戸口を開け放したまま。


「……丁度妾も貴方様にお訊きしたい事がありました」


 緊張の余り、声が擦れる。


「私に?」


「太夫を殺したのは──貴方ではないのですか」


「香月ちゃん!」


 非難する河西の声を義方は手をかざして制止した。


「良い。……香月、その問いに対する答えは『否』だ。私は葉山を殺していない。殺した犯人を知ってはいるが」


 香月は予想外の答えに面食らってすぐには反応出来なかった。


──犯人を知ってる?


「そ」


「そんな馬鹿な──と言いたいのだろう。だが、事実だ。私は皐乃街に、そいつを探してやって来たのだから」


 その場に呆と立ったままの香月を彼は見上げた。


「この際誤解がない様に説明させてもらおう。私は研医殿に勤める薬師だ。久我義方は故あって偽名だ──本名は、尾上と言う」


 彼は言葉を切って、来客にお茶を出そうか迷っている様子の禿を一瞥して 言葉を続けた。


「久我子爵は存在しないが、私が追っている者も同じ『久我』と言うのだ。そしてその者を炙り出す為に名を借りた。楠王陛下や倉嶋侯とは王宮での面識はないが、本名で無用に目立つのは避けたかったのもある」


「ちょっと待って下さい」


 香月はつらつらと並べられる彼の説明を遮った。


「仮にそんな方がいるとして、どうして犯人だとわかるのですか?」


 何かの罠だ、と心のどこかで囁く声がする。それでも問い掛けずにはいられない。


「半年前の、王宮での事件の事は聞いているか?」


「は、はい」


「あの時、久我と言う人物が疑わしい行動をしたのを私は見ているのだ。その後すぐに彼は王宮から姿をくらました。私独自の情報により、ここに潜伏しているという事がわかった。現に」


 彼は今度は河西を振り返った。

 河西はにっこりと笑う。


「浅尾がそれらしき人物が客として来たのを見ている。尤も、面布を被っていて顔ははっきりと見えなかったらしいが──声や体型などの特徴から、ほぼ彼に間違いないだろう」


 面布の人物、それは確かに以前浅尾が「胡散臭い」と話していた客の事だろう。香月にも記憶に新しい。確かに怪しくはある。──だが。


「その方が久我様だと言う証拠もないでしょう。それに」


 義方は怪訝そうな顔をした。


「それにとは?」


「あ──いえ」


 香月が彼を見た時、傍にいた鷹信の反応は特殊な物だった気がする。そう、例えば楠王など目上の親しい者に対する様な。

 それとも本物の久我が王に匹敵する身分であるから、彼等は自分に『命を狙っている黒幕』を教えなかったのだろうか?

 だとしたらそんな相手とあんな風に会話が出来るものだろうか──


「何でも……ありません」


 考えれば考える程混乱して来る。この男の言う事を──この男を信用していいものなの か、結局問題はそこに戻って来る。

 黙ったまま考え込んだ香月を義方はしばらく見守っていたが、一つ溜息を付いて立ち上がった。


「どうやら、この者に信用してもらうのは無理の様だ。別の方法を探そう」


「義方様……」


 河西は困惑と非難の眼差しを香月に向ける。


「香月ちゃん、後生だから義方様の事、信じてもらえないかしら。犯人が捕まれば倉嶋様も

喜ばれるでしょう」


 義方は食い下がる河西を遮った。


「いや、無理にとは言わぬ。遊女には客の秘密を守る義もあろう」


「でも! このままじゃ義方様が」


「私は大丈夫だ。……邪魔したな、香月」


 義方は微笑むと、立ち上がった河西の肩を抱いて戸口へと歩き出した。


「……お待ち下さい」


 背後から呼び止める微かな声に彼は足を止める。


「香月?」


「それでは、今までの行動は全て本物の久我様を見つける為だと言うのですね」


 義方は首だけ振り返って答えた。


「そうだ」


「あの──瑯華祭の夜も?」


「瑯華祭……ああ、其方が葉山に折檻されていた時の事か」


 香月の中の何かが、この男を信じるのは危険だと告げている。それでも、黙ってみすみす帰してしまうのはもっと取り返しが付かない事になる気がした。


「はい」


 彼は人形の様な顔に僅かに苦笑を浮かべた。


「確かにその通りだ。私は葉山に接近し、陛下が久我の事をどこまでご存知なのか聞いていないか探りを入れようとしていた。てっきり一人で戻って来ると思った彼女が其方を連れていたのでいささか驚いたよ」


 折檻、と聞いた河西が側で目を丸くしている。彼は尚も続けた。


「彼女も哀れな事をした……まさか口封じに殺されるとは。私がもっと早くに久我を捕らえてさえいれば、こんな酷い事にはならなかったろうに」


「──語るに落ちるとはこの事だ」


 開かれたままの襖、その廊下から聞こえる凛とした声。義方と河西は慌てて振り返り、香月は瞠目したまま戸口を見つめて動かない。


「香月。其奴そやつの言う事を真に受けてはならぬ」


 声の持ち主が、十数人の手勢を従えてそこに立っていた。


「鷹信様!」


 鷹信は一人部屋に踏み込むと、香月と義方の間にに立ちはだかった。


「尾上。博士卿たる其方が、こんな所で何をしている」


 義方は元通りの無表情に戻っていた。


「少し雑談をしていただけです。この香月は、私の馴染みの友人というので。それが何か問題でも?」


 冷酷にも思える程の鷹信の険しい顔に、彼の口調が笑い混じりになった。


「何か誤解をされているのではありませんか? 私は別に、貴方の敵娼あいかたをどうこうしようと思ったわけではないのですが」


 鷹信は答えなかった。無言のまま、視線だけで義方の背後、出入口を固めた灰色の官服の人垣を示す。


「一体どう──」


 つられて怪訝そうに首を巡らせた義方の表情が強張った。


「あ……」


 灰色の群像の中、そこだけが色を抜いた様に白い。


「何故──いや、そんな筈は……」


 白い面布。身に纏う、同じ色の外套。

 距離があるにも関わらず、彼は部屋の奥へと後じさった。

 間違いなく、室に現れた謎の人物だった。遠目からでもわかる、細い体躯は──成年の男とは確かに思えない。男というよりは少年、少年というよりは──


「倉嶋候の問いに答えるが良い。尾上」


 布を震わせて、よく通る声が室内に響く。耳当たりの良い美しい声だったが、酷薄な程に抑揚がない。

 義方は恐怖に似た表情を浮かべたまま立ち尽くしている。


「どうした、少し見ぬ間に上司の声も忘れたのか」


「……あ、貴方様が何故、この様な所に」


 面布の人物は外套の隙間から音もなく両手を出した。垣間見える、白地に金の刺繍が施された洋装の袖から、白磁の様なすらりとした指が現れる。

 顔を覆っていた布が取り払われると同時に、金褐色の長い髪の束が肩を伝って滑り落ち

た。

 鷹信の背後から固唾を呑んで様子を伺う香月の耳に、河西が短く声を上げるのが聞こえる。驚いたのは自分だけではなかったという事らしい。

 それは若い女だった。青白い、神経質そうな繊細な顎、高い鼻梁。唇は血のごとく紅く、紫玉にも似た透明な双眸は髪と同じ色の睫毛に縁取られていた。玲瓏たる美貌の持ち主だが、造作が余りに整い過ぎていて人形めいた印象を受ける。


「偽名を使ってまで遊里通いとは。研医殿に出勤もせずに。それだけでも充分背任の謗りは免れまい」


 義方は目に見えて狼狽え出した。


「ご、誤解です。私はただ」


「私が何も知らぬとでも?」


 淡々とした声が、ほんの少し冷笑の響きをはらんだ。


「其方や、其方の主は少しばかり策を弄し過ぎた。身分を偽って研医殿に籍を得、麻珍毒を手に入れたまでは中々の手際であったが。宮殿の女官を見せしめに殺す位ならば、直接陛下を狙えば良かったのだ」


「何の事やら、私にはさっぱり──」


「あれで気づかぬ程、我が王は愚かではない。久我や其方らの行動、掌握せずして罠を張るものか、たわけが」


 鷹信が横から口を挟んだ。


「瑯華祭の時捕らえた賊どもが其方らの事を自白したのだ。よってここ数日の行動を全て監視させてもらった。だから白を切っても無駄というわけだ」


「何かの間違いでございます! 久我を──そう、久我めを捕らえて下さいませ。奴が私に罪を着せようとしているに違いありません!!」


 取り乱した訴えに答えたのは女の方だった。


「……見苦しい事よ。其方は先程自分が賊であるのを証明しているというのに」


 義方は女を睨む。


「どういう事ですか」


「其方『葉山は口封じで殺された』と申しただろう。それは何故だ? 何故その事実を知っている?」


「そ、それは勿論、葉山が賊の仲間であったと聞いたからです。当たり前では」


 そこまで言って彼は絶句した。女の面を凝視する。


「──そう、葉山は刺客の手先であった。では誰からそれを聞いた?」


「私は……」


 義方は香月に視線を移した。鷹信が彼女に問う。


「香月。其方この者に葉山の事を話したか?」


 香月は激しく首を横に振った。義方は更に狼狽える。


「ち、違う。そう、久我でございます。久我が葉山に接触しようとしていて、それを目撃致しました」


 女はこれ見よがしに溜息をついた。


「では刑吏府にてその旨陛下に申し上げるが良い。久我の証言と合わせてご判断下さるだろう」


 彼女が鷹信を見、鷹信は部下に合図を送る。官服の集団が義方を取り囲んだ。


「今──何とおっしゃった」


 義方は蒼白な顔で女を見る。


「久我はとうに我々が捕らえて監禁している」


「そんな馬鹿な!!」


 それまでからは想像もつかない、怒気と狂気をはらんだ叫びに周囲が静まり返った。


「……馬鹿な、とはどういう意味か」


 全く変わらない、女の静かな声。義方の表情が更に変わった。恐怖から、魂を抜かれた死人のそれへと。


「久我は己が身柄を拘束しているのに──とでも言いたいのか?」


 彼は答えない。女を見据えたままの血走った両眼を、ややあって力なく畳に落とした。


「連れていけ」


 鷹信の指示で刑吏らが動く。義方の身体に手をかけた。

 不意に、笑い声が響き渡る。


「くっ……くく……ははっ」


 義方は笑っていた。

 ひどく耳障りな声だった。尋常ではない様子に香月も河西も、周囲の誰もが凍り付く。彼にはもはや優美な物腰は欠片も感じられない。声と同じ、生物ののりを外れた様な不吉な気配が満ちている。

 彼は唐突にわらいを収めると鷹信を睨んだ。


「私一人を罠に掛けて、それで勝ったと思うな」


 彼の動きに鷹信が前に出る。だが一瞬遅かった。

 河西の悲鳴が上がる。


「河西姐さん!!」


「動くな。この女が死ぬぞ」


 義方は河西の首根を左腕で押さえ付けていた。右腕の指先は鉤爪さながらに折れ曲がり、彼女の白い喉元を狙っている。


「私の爪には毒が仕込んである。貴様らが少しでも動けばこいつの喉笛を掻き切るぞ。そう

なれば倉嶋、お前達の面目は丸潰れだ。それでもいいのか?」


 刑吏達の中から悪態を付く声が聞こえる。中には動こうとする者もいたが、鷹信は手をかざしてそれを制した。


「そうだ。そのままでいろ」


 義方はにやりと笑う。無表情は演技だったのか、悪意に満ちた不気味な笑顔だった。常に河西を盾の様に全面に押し出して、じりじりと戸口に近寄る。炯炯けいけいとした目で辺りを油断なく睨み付けながら後退りし、廊下に出て階段に達すると人質をわずかに持ち上げて、引きずる様に降りて行った。


「倉嶋様!」


 部下の切迫した呼び掛けに彼は頷いた。


「お前達は先に奴を追え。街中に待機させてある別組と合流するんだ。囲い込み、街の外れに追い詰めろ。私もすぐ後から行く」


 彼らは勢い良く返事して走り去った。鷹信は背後を振り返る。


「香月」


「鷹信様、姐さんが──わた、妾も」


 香月は顔色を失ってがたがたと震えていた。

 彼はそっと肩に手を置くと、静かな、けれども有無を言わさぬ口調でそれを遮った。


「其方はここにいなさい。河西の事は私に任せるのだ。必ず無事に連れ戻してみせよう」


 言って傍らに佇む女を見る。


玲彰れいしょう様もここにおいで下さい。街中は危険です」


 彼女──玲彰は頷いた。


「わかった。香月の事は請け負おう」


「お願い致します」


 部屋の外から俄かに騒ぐ声が聞こえた。廊下に人が集まり始めたらしい。役人達と入れ違いに香月の部屋に向かおうとやって来た楼主夫婦が、彼らの後を追う鷹信の勢いに驚いて戸口を譲った。

 その背中に香月は叫ぶ。


「鷹信様!」


 彼はほんの少しだけ振り返った。


「良いか──くれぐれもそこを動かぬようにな」


 そう言い置いて前に顔を戻した。遠ざかって行く背中を見守りながら、彼女は不安と恐怖にうち克とうと懸命に自分を宥める。

 必ず、と彼は約束した。だから自分も守らねばならない。今までどんな言葉でも、彼が言えばそれは真実だったのだから。

 楼主や遊女仲間達が恐る恐る寄って来て、香月の無事を確かめねぎらいの言葉をかける。応えながらも、心は外の気配を窺うばかりだった。


「大丈夫だ」


 静かな声。ふと、傍らにいた玲彰の双眸と彼女のそれがまともにぶつかった。余りの冷静さに戸惑う。


「倉嶋侯は有能な人物だ。己の言った事は必ず守る」


 香月は何故か視線を外した。そうしたくなったのだ。


「残念ながら、今其方が出て行っても足手纏いになるだけだ」


「……わかっております」


 唇を噛み締めた。

 淡々と述べる口調の、内容が的を射ているだけに悔しくて仕方がない。

 人質に取られたのは河西なのだ。そもそも、自分は彼女を案じて捜し回っていた。見つけたのも束の間、最悪の事態を迎えてしまったというのに──落ち着けと言う方が無理ではないだろうか。

 伏せていた目を上げ、玲彰をすがる様に見つめた。


「行かせて、もらえませんか」


「駄目だ」


 玲彰は彼女の肩に両手を伸ばした。掴んで、そのまま押さえ込む。


「倉嶋侯との約束だろう」


──わかっている。わかっているけど。


 部屋の開いた窓から外の騒ぎが風に乗って聞こえて来る。明らかに複数の人の悲鳴が含まれていた。恐らくは義方のせいで逃げ惑っているのだろう。

 尚も玲彰に目で訴える。

 首を横に振る仕草が返って来た。


「気になるのはわかるが、堪えるんだ」


 その言葉に被さる様に、一際大きな女の悲鳴が上がった。切迫した、尋常ではない事態を表す金切り声も。


──河西、姐さん。


「香月。駄目だ」


 彼女の表情に危険を感じたのか、肩に加わる力が強くなった。その瞬間、身体の奥深い所で何かが弾け飛ぶ。


「香月!!」


 自分でも思いがけない乱暴な力で、香月は掛けられた手を振りほどいた。玲彰や楼主夫 婦、遊女達の引き止める声を全て無視して、外の世界へと駆け出して行った。

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