四 散り急ぎ華 後
刻は深更に入りて一つ、朱塗り格子を華々しく照らす灯火も、垣間見える女達の錦繍も今はない。大路を辛うじて浮かび上がらせる沿道の燈籠の火は申し訳程度の大きさで、歩く者の足元の闇を払うには事足りなかった。
「こちらです」
香月らの先に立って歩く男は茶色の詰襟に憲兵の証である記章を付けていた。皐乃街の外れまで二人を導き、手に提げ持っていた角灯で目の前の建物を示す。
香月は後ろを振り返る。暗いながらも、背後に付き従って歩いていた鷹信が微笑んで頷くのがわかった。
「ここが──?」
それは一見、小さな蔵の様に思えた。瓦屋根に漆喰の壁。それは街にある他のものとさして変わらない。違うとすれば、土台に当たる部分がない事位だ。
男が建物の扉を開いた。恐らく鉄で出来ているらしい扉は殊の外分厚く、普通の扉の倍程にも見える。外開きの白い戸の際と壁の開いた隙間から、夜よりも尚深い飲み込まれそうな闇が覗いていた。
問いに答えたのは、鷹信ではなく男の方だった。
「中でお待ちです」
香月は正面に顔を戻し、続く言葉を待ったが男はそれ以上答えない。やんわりと背中を押す鷹信に促されて、それ以上聞く事が出来ないまま闇へと足を一歩、踏み出した。
──きっと鷹信様はご存知なのだろう。
着物越しに伝わる温もりを頼りに、更に一歩足を踏み出す。
「──ひっ……!」
驚きと恐怖で、彼女の唇から悲鳴が漏れる。目の前に凝縮される漆黒の世界、その中心にいきなり白い物体が現れたのだ。格好は縦に細長く、ちょうど人の形に似ている。顔に当たる位置は濃く翳りを帯びていた──どう見ても亡霊にしか見えない。
「貴方は──」
怪訝そうな鷹信の声で彼女は我に返った。
「何故ここにおいでに?」
白い影がぐらりと揺れた。落ち着いて改めて見てみると、亡霊などではなくそれは白い面布を被った人間だった。
──人だったのか。
胸を撫で下ろした香月とは対照的に、鷹信は警戒心も露わに彼──男か女かはわからないが──に足早に近づいて行った。二言三言、小声で何やら話しかけている。微かに漏れ聞こえる声音には非難の色があった。ややあって、面布の人物が鷹信を振り払う様に扉に向かって歩き出す。
香月の耳にはっきり聞こえる、常になく荒げた鷹信の声。
「お待ち下さい! 話はまだ終わっておりません」
「それには及ばない。亡き骸を見に来ただけだ。皓慧様に宜しく伝えてくれ」
答える声は男にしては高く、女にしては低い。平坦で感情が伺えない口調も手伝って、中性的に思えた。
「宜しくだなんて、それではまだ──?」
鷹信の返答を無視して『彼』は、まだ開いたままだった扉から足早に出ていった。
「鷹信様……今の方は?」
香月は眉をひそめたままの鷹信に問い掛けた。彼の態度から察するに、恐らく貴族の──しかも身分が上の人間なのは何となくわかったが、如何にも謎めいた風体が彼女の好奇心を誘った。
鷹信はしばらく扉の方を見つめていたが、ふと気付いた様に香月を見やると「いや、ちょっとした知り合いでな」と言ったきり詳しく語ろうとしない。先に立って再び歩き出した。
「おいで」
振り向いて、手を差し伸べる。
「地下には一体何が……?」
鷹信は答えない。仕方なく彼女はその手を取った。
石の敷かれた人二、三人が立てる程度の空間の先は緩やかな石段となって地下へと続いていた。暗いながらも周囲の壁には蝋燭の明かりが等間隔で点いており、薄くその周囲を照らしている。それでも階段の幅も天井も狭く、閉塞感も手伝って現実離れした空間を作り出していた。静寂の中谺する足音、湿った独特な臭気──さながら『死』を思わせる、孤独と停滞に満ちた、それでいて空虚な世界。
「大丈夫か」
気遣わしげに見上げて来る鷹信の顔。半ば闇に溶けている。
「……はい」
危うい足取りながらもしばらく階段を降りて行くと、広い空間に辿り着いた。
「ここだ。──着いたぞ」
鷹信の声にふと我に返って香月は握り締めていた彼の手を離した。強く縋っていた部分が赤くくっきりと跡になっている。
彼女は赤面した。
「すみません……」
鷹信は己の手を見て苦笑している。
「気にするな。それより──こちらへおいで」
彼が手招きする方へと香月はこわごわ歩み寄る。踏み締める床のひんやりとした気配、そして仄かに匂う──
甘い香り。
寿楽の座敷程もあろうかという、大きな掘り抜かれた空間に、壁に沿って木箱が積み上げられていた。恐らくは氷室なのだろう、箱の所々から食材らしき端が見え隠れして、部屋の中央に置かれた燭台数本の炎が映えて光る。
燭台が置かれている辺りは意図して場所を設けてあり、従う様に何人かの人影が見えた。そして彼らの背後──床に何やら四角いものが敷いてあるのが闇の中でも看て取れる。
人影の一つが動いた。
「よく来てくれたな、香月。身体の具合は良くなったか」
「……陛下」
楠王が手にしていた角灯を顔付近に掲げる。彼の背後に楼主夫婦、それにもう一人憲兵が控えているのがわかった。
「これは一体──」
狼狽えて香月は辺りを見回して、そして絶句した。四角い──床に敷かれた──中央が僅かに膨らんで──
「太夫……!!」
立ち上る甘い香りは、枕元にて焚かれた鎮魂の抹香。
楠王は背後を振り返ると角灯で横たわる葉山の遺体を示した。
「夜でも今時期は暖かいからな。腐敗してはと思って僅かな間だけこちらに移しておいた」
硬直した状態の香月を背に鷹信が彼に一礼する。それを合図にした様に楼主夫婦と憲兵は静かに出て行った。楠王は遺体を凝視する香月をしばらく見つめていたが、やおら膝を付いて葉山に掛けてある真白い掛け布団をめくった。
「……聞けば其方は薬の知識に明るいとか。なれば勿論、その作用や服した時の症状も熟知していよう。この状態を見てわかる事があれば教えて欲しい」
だが楠王の台詞は半分も彼女の耳には入らなかった。意識を占めるのは、あの時の記憶。
見開かれた両の眼は血走ったまま。苦しげに歪められた表情、空気を求める様に精一杯開いた口、ありえない程反り返った身体──
目を堅く閉じて耳を塞ぎ、彼女は激しく首を横に振ろうとして──止めた。
──約束したんだ。……でも。
「すまぬ。辛いかもしれないが、堪えてくれ」
楠王の声が徐々に近づいて来る。それで恐る恐る彼女は目を開けた。驚いた事に彼はすぐ側まで来ていた。
「頼む。この通りだ」
一瞬の後、その両手を床に付く。彼女に向かって土下座して見せた。
「陛下!?」
香月よりも早く、鷹信の方が狼狽えて叫んだ。流石に予想していなかったらしい。
楠王は頭を垂れたまま尚も言った。
「私は葉山を殺した者を、何としても捕らえなければならぬ。事情があって、王宮からは薬師を呼べないのだ。酷な話だとは百も承知だが、今は其方だけが頼りだ」
「陛下……」
香月は楠王を見、それから思い切って横たわる葉山の面に視線を移した。先刻の様な衝撃はもはやない。太夫部屋で見たのと同じ、安らかで美しく、それでいて血の気の失せた死顔がそこにあるだけだった。
顔を伏せた王の表情は彼女には伺い知る事が出来ない。それでも一国の主人がたかが遊女の自分に頭を下げる事の重大さがわからない程、香月は愚かではなかった。
「頭を、お上げ下さい」
彼女もまた膝を付き、王よりも下に頭を下げる。
「では──」
「承知致しました。未熟ながらこの香月、精一杯勤めさせて頂きます」
死体を検めた経験は実はない。自信はなかったが、やるしかないと言う思いに駆られていた。
「そうか。やってくれるか」
楠王の声が安堵に満たされた。
「有り難い。これで葉山も浮かばれよう」
彼女はそれには答えず、彼の傍らを通り抜けて亡骸の脇に屈み込んだ。
「一つだけ、陛下にお聞きしたい事がございます」
二人に背を向けたまま問い掛ける。
「何なりと言ってくれ」
香月は振り返った。
「陛下は太夫の亡骸を──身体そのものを御覧になりましたか」
予期せぬ問いに戸惑ったのか、返答には間があった。
「いや。見てないが……?」
「ではお願いでございます。妾が遺体を検めさせて頂く間、お二人とも向こうを向いていて下さいませ。決して振り返りませぬ様」
返答がない主君の代わりに鷹信が問い返す。
「香月、私はともかく陛下までというのは」
「いいえ」
常に似合わぬ毅然とした面持ちで彼女は撥ね付けた。
「太夫がお亡くなりになって既に半日は過ぎております。今日のこの暖かさや、雨が降っていた事などを併せて考えればそれなりに腐敗が進んでいるでしょう。陛下であれば尚の事、お見せするわけには参りませぬ」
鷹信も返す言葉を失って黙り込み、三人の間に沈黙が訪れた。
「そうだな。香月の申す通りだ、私は見ない事としよう」
「しかし」
「恐らく葉山もそれを望まないだろう。あれは誇り高い女だったから」
楠王は臣下に苦笑して見せると、遺体に背を向けた。
「香月が真実を見てくれれば良い。……頼んだぞ」
鷹信が続いて背を向ける。香月は二人に向かって一礼すると、枕元に跪いて白い袷の襟元を開く。
細心の注意を払って、ゆっくりと遺体をうつ伏せに動かして背中を観察した。
「遺体はいつ頃ここに移動されたのですか」
背を向けたまま楠王が答えた。
「宵六刻頃だ。坊主が寺に引き取りに来る時間だったらしくて、それを断ってここに移したんだが」
「そうですか……」
着物を元通りに整えると、彼女は瞼を持ち上げて 裏側を観察した。次いで口の中を覗き込む。
それきり黙った。
「──香月。終わったのか?」
余りに長い沈黙に焦れて、楠王は声をかけた。はい、と小さく返事が返ってくる。微かに震える声音を訝んで振り返ると、仄暗い室内でも彼女が狼狽しているのがわかった。
「どうしたのだ、大丈夫か」
「は──はい……」
王の問いにも視線を合わせようとしない。他の事に気を取られている風に見えた。
「遺体の様子を見る限り──薬による中毒死と見て間違いないかと存じます」
「そうか。それで毒の種類は」
「……恐らくは麻珍を服したのではないかと」
内心の動揺を押し隠した淡々とした声に、二人は予想以上に驚きを見せた。
「麻珍だと? 確かか」
「はい」
楠王は眉を顰める。
「以前人に聞いた事がある。古代から伝わる猛毒だ。しかしあれは今では原料の麻珍が手に入らないと言うぞ」
香月は首を横に振った。
「何代か前の国王様が麻珍の栽培を禁じられましてからは、確かに存在しない事になっております。しかし」
「──それ以前に所持していた者がいれば話は別、か」
「はい」
厄介だな、と彼は腕組みをして考え込んだ。
「麻珍とはどの様な毒なのだ」
鷹信が問う。
「白色無臭の粉末にて保管される薬物です。微量ならば強心薬に使われ、多量ならば筋肉を硬直させ、呼吸不全などで死に至る事もあります。味は非常に苦味が強いとの事なのですが、口から体内に入った場合早ければ四半刻で作用するかと」
「四半刻か……」
鷹信は考え込む仕草を見せた。
「葉山が遺体で発見されたのは確か、昼見世の前だったな──其方が部屋に招き入れられたと」
「はい……」
香月の表情を見て、彼は慌てて付け足した。
「あ、いや。其方を疑っているという話ではない。つまり、毒の効果が表れるまでには早くて四半刻だ。ならば葉山が毒を体内に入れたのはその前頃になるだろう。──彼女と話していた時、部屋や本人に変わった事はなかったか?」
「変わった事ですか……」
香月はあの日の記憶を辿ってみる。
殺風景な部屋だった以外、特に変わった事などない様に思えた。部屋の主人は少々おかしかったけれども。
「太夫は多少ご様子が変だった気も致しますが……お酒に酔っていらしたみたいなので、何とも申せません」
「酒? 部屋を検めた憲兵からはそんな報告は受けていないぞ」
「え──」
思わず鷹信の怪訝そうな面を穴が開く程凝視した。
「そんな筈は──……ではあの柄樽には、手を付けていなかったという事でしょうか?」
「香月」
鷹信は楠王と顔を見合わせてから、ひどく静かな声で答えた。
「葉山の部屋には、柄樽などなかったよ」
香月は一瞬停止して、片手で頭を押さえた。彼は何を言っているのだろう?
「すみません……よくわからなくて」
「其方、葉山は酔っていると思ったのだな?」
香月は慌てて頷いた。
「何故なら、柄樽が部屋にあったから。そして恐らく──飲まれた形跡があったから」
「は、はい。木蓋が割られていたのです。それに、花糖菓が落ちてましたので」
「花糖菓?」
香月は頷く。
「お酒を飲んだら、妾共は必ず花糖菓を口にします。遺体の横にその袋が落ちていましたから、てっきり」
鷹信は再び考え込んだ。
「葉山自身から酒の匂いはしたか?」
「いいえ。そこまでは」
「──なるほどな」
納得した様に頷く。楠王は黙ったままだったが、どうやら彼も事の次第を理解したらしかった。
ただ一人、わからない香月だけが戸惑っている。
「どういう……事でしょうか」
答えたのはまたも鷹信だった。
「今日の昼過ぎ、 陛下の使いを名乗る者が寿楽に柄樽を届けに来たと言うのは確かに楼主等から聞いている」
「陛下の?」
楠王が横から口を挟む。
「残念ながら、私はそんな物は送っていないがな」
鷹信は何に対してか一つ咳払いして続けた。
「そして其方は、葉山の部屋にそれが置いてあるのを見たと言う。──にも関わらず、彼女が亡くなった時部屋からそれは消えていた。そうなれば考えられる事は一つしかない。毒は酒に混入されていて、何者かが──十中八九犯人だろうが──それを持ち去ったという事だ」
「そうだな。苦味のある代物なら、酒に入れれば判別しにくいだろう。香月が申す袋の中身は、今調べさせているが」
香月はしばらく考えた後「そうかもしれません」と答えた。声に得心が行かない覚束なさが出ている。
「香月?」
「鷹信様、だとしても太夫は一体何故殺されたのでしょう」
よしんば毒が酒に入っていたとしても、そんな手の込んだ真似をしてまで殺されなければならない理由とは何だろう。客が遊女を殺すならば大抵心中を図る。少なくともそれ以外の理由を彼女は知らない。
そう思って口にした疑問に、二人は殊の外長い間お互いの顔を見合わせていた。
「──話してやれ、鷹信」
「ですが」
自嘲気味にうっすら笑む王と、眉をひそめる臣下。
「仕方があるまい。これだけ巻き込まれてしまっては。万が一にはお前が守ってやれ」
鷹信は躊躇いがちに頷くと、香月に顔を向けた。
「それを話すには、研医殿の事が関わって来るのだ。少し込み入った事情でな」
「研医殿? あの王宮に隣接している、学士ばかりが住まう所ですか?」
彼は頷く。
「そうか、其方の父上も博士なら出入りしていたろうな。確かにあそこは医学を極めんとする者達の城だ。尤も、研究している内容は産業にも深く関与しているが」
「その重要機関が、今回の件に関係あると言うのですか」
「ああ。研医殿の利権をめぐって陛下はずっとある者にお命を狙われている。葉山はその刺客の手引きをしていたのだ」
鷹信はそこで言葉を切って香月を見つめた。理解を促す様な沈黙だった。冷えきった室内の空気が彼女に染み渡る。寒気を感じた。
「まさか。そんな……」
有り得ない。少なくとも香月には信じられなかった。
「太夫が……? だってあの方は、寿楽の最上位の遊女で、陛下の想われ人で──」
楠王に視線を向けた。
その瞳に、表情に答えを──或いは救いを探す。
彼は何とも形容し難い顔をしていた。複雑、としか言えない様な。答えは汲み取れない。
それでも香月には充分だった。
「証拠は──証はあるのですか」
半ば怒り混じりに鷹信に向き直る。
「だって可笑しいではありませんか。太夫は確か何年も前から寿楽にいた筈です。刺客として送られるなら、その頃から企てなければなりません! しかも陛下があの方を気に入るとも限らないのに」
「確かに。だが、最初はそうではなかった者が刺客に加わった場合は有り得るだろう。彼女は脅迫されていた。夏の宴で座敷を襲った者達を手引きしたのは──葉山だ」
本来なら予め、抵抗を削ぐ為に酒に毒を盛って楠王を殺し、残った鷹信は後から来た刺客が殺す予定だったと言う。それが不測の事態で予定が狂い、逆に彼らは捕えられてしまった──そう彼は説明した。
「其方はさっき証があるかと問うたが──捕えた者の自白で判明し、陛下が直接葉山に聞いた。彼女は全てを白状する事と引き替えに己の安全を要求し、陛下は身請けして護ろうとなさったのだ」
だが間に合わなかったがな、と横から呟く声がする。香月はその言葉に潜むものを知りたく思った。
「では、太夫は口封じに殺されたと……」
口封じ、と言う言葉に引っ掛かるものを感じて口籠もる。
命を狙われた楠王。皐乃街で起きた殺人。狙われていると知っていた彼ら。
根本的に何かが可笑しい。
香月の頭の中で線が繋がった。
「何故、お二方は『ここ』にいらしたのですか。皐乃街に──命を狙われている時に」
不敬なのは百も承知、それでも非難せずにはいられない。
実際彼女は激昂していた。楠王が遊里通いなどせず、王宮でおとなしくしてさえいれば、少なくとも葉山は死なずに済んだかもしれない。二人が出会って惹かれ合った事がこんな結末を呼んだというなら、余りに哀し過ぎる。
楠王は答えない。いつもなら横から庇うであろう鷹信さえもが何も言わなかった。
「どうなのですか! 何故何もおっしゃらないのです」
言い訳しないのは潔さから来るものか、或いは本当に虚を突かれたからなのか。
ややあって、ぼそりと楠王が呟いた。
「……其方の言いたい事はわかる。勝手な理屈だ。王宮が危険になったから、外に逃げてきた。それだけだよ」
「陛下──それは」
「つまりそういう事だろう?」
眉をひそめる臣下に彼は自嘲の笑みを見せた。そこには王者らしい鋼の芯の様な強さは全くない。
「香月、責は全て私にあるのだ。……そもそも、半年前に解決せねばならない問題だったの
だから」
「半年前、でございますか」
「ああ」
それは王が今の様に頻繁に皐乃街に通い出す少し前の話だと言う。
彼は語りだした──王宮で女官が自分の身代わりになって亡くなった事、犯人は間違いなく宮廷の中にいるらしいとまで調査した事を。
「……それで私と鷹信は一計を案じた。犯人を外におびき出そうと。油断出来る程度に人が多く、ある程度外界から閉鎖された空間が条件としては望ましかった。場を移せば、彼らも計画を練り直さねばならない。その隙を突こう──という目論みだった。まさか連中がこうも迅速に口封じを出来るとは。目算違いも甚だしい」
「陛下──」
「救いたいと、勿論思った。だから──身請けの日もあれ程口にする物には気を付けろと言ったのに」
楠王は葉山の遺体の枕元にかがみこんだ。色艶を失くした青白い頬を、額を撫でる。その背中に向かって鷹信が告げた。
「消えてしまった柄樽の行方を探します」
王は振り返らず答える。
「そうだな。袂に隠して運べる大きさのものではない。遊郭に柄樽が来る事が珍しいかどうかわからんが、誰かが店の外に持ち出して始末したなら、必ず目撃した者がいるはずだ。草の根を分けてでも見つけ出せ」
「──はっ」
鷹信が一礼しても、彼は頓着する様子もない。ただ、今は身じろぎ一つしない恋人に柔らかく触れている。鼻筋を辿って、唇をなぞり──そのまま呟いた。
「鷹信。葉山の遺体を、三稜村まで運ぶ様手配してくれ」
「畏まりました」
先に部屋に戻っていてくれ、と香月に言い置いて鷹信は室から出て行った。
香月は踵を返しかけたが、どこかしら釈然としない思いが彼女の足をその場に留める。
楠王は相変わらずこちらを向かないままだ。まるで世界を拒むかの様に。
「……太夫はこれからどうなるのですか」
所在なさを紛らわす為にそう尋ねると、返事は思いの他早かった。
「彼女の亡骸は今晩の内に皐乃街から出されて三稜村まで運ばれる。そこが生まれ故郷だそうだ」
明瞭な、凛とした声。香月が聞く限りでは、ごく普通にしか思えない。──しかし。
「遊女は年季が明けるか死ぬ場合以外はここを出られぬと聞く。せめて眠る場所だけでも、遊女寺などではなく家族の傍にしてやりたいと思ってな」
「陛下……」
香月の脳裏に、最後に見た葉山の言葉が蘇る。あの時は純粋に自分の事を心配してくれているのだと思った。だが──もしかしたら──それを自分に言い聞かせていたのだとしたら。
守りたいものは、家族だったのだろうか。それとも。
彼女は唇を噛み締める。
──後悔ならし尽くした。それでも、もう少し早く発見出来ていたなら、手当てを──
ふと気づいた。葉山の遺体を検めた時から生まれていた、疑惑の雲がその姿形をはっきりと現す。
「あの」
「どうした。もう戻っても構わないぞ」
楠王は怪訝そうな顔をしている。
「何故、王宮から薬師を呼べないのですか。出来ましたらお聞かせ下さい」
彼はしばらくの間黙って香月を見つめていたが、やおら口を開いた。
「それを聞いてどうする」
「王宮の薬師は危険だから──そういう事ではないのですか」
答えには更に間があった。
「其方、何を言いたい? いや」
猛禽の様な鋭い視線がまっすぐ香月を射抜いて来る。
「何を知っているのか、教えてはもらえまいか」
怯む事なく、彼女は答えた。淀みなく紡がれる自分の言葉に、少なからず驚きながら。
「妾は麻珍毒が確実に手に入る場所の名を聞いた事があります。医者ならば誰もが出入りする、最も薬剤が豊富な所だと。違いますか?」
楠王が目を見開く。
「あなた様を狙う者は王宮に──それも、研医殿の中枢にいる可能性が高い。お二人ともそれに気づいていた。だから薬師を呼べなかったのですね」