序
風にさらわれて、一片の花びらが彼女の枕元に落ちて来た。
見上げれば、幽玄な程の淡い紅色が目に優しく映る。開け放たれた窓の真下に佇むのは樹木、人に綽花、と呼ばれ慣れ親しまれて来た春の名花だった。
やや下向きに細く枝を伸ばし、面長く繊細な花弁を開き、それでも滅多な風雨ではしなるだけで枝の折れぬ事から、時によく女人に喩えられた。
満開に咲き誇る花には残念ながら、それ程の強さはないと見えて、折からの雨に散らされた花びらがはらはらと舞い落ちて行く。
見慣れたはずの風景を眺める彼女の心に、今はそれがひどく真新しく、不吉に思えた。
──雨が降っていたのか。
彼女はわずかにきしむ身体を起こして、今が何時頃かを確かめようとした。
が、伸ばされた二本の腕によって、かろうじてまとっていた緋色の襦袢を剥ぎ取られ、引き寄せられた。
「……朝じゃねえだろ、まだ」
着物を取ったのは男、そして男は彼女を一晩金で買った客だった。
開いた口から、まだ残る昨夜の酒気が鼻につく。眉をひそめた彼女に構わず、男は露わになった白い柔肌をまさぐった。
彼女は人形の様にされるがまま、荒々しい欲情を受け入れる。
「無口な女だな。今日が水揚げじゃないだろうに」
それは常々、彼女の雇い主からも言われている事だった。何を話して良いものか見当がつかず、結局返事位しか出来ない。
なので大抵の客はそう言う。
黙ったままの彼女に苛立ったのか、男は急にその手を離して、突き放す様に背を向けた。
「つまらねえ──云とも寸とも言いやがらねえし」
客の言葉が彼女を困惑させる──これもまた、お決まりの展開だ。
「この店一番の上物だって言うから、どんな佳い女かと思えば。見てくれだけか」
「申し訳……ありません……」
彼女はとりあえず謝った。客を怒らせたのは、何か自分が粗相をしたからだと思ったので。
「ちっ。お高く止まるんじゃねえよ」
そう言うと、男は彼女の細く折れそうな手首を乱暴に引き寄せ、布団の上に押し倒した。
彼女の煙る様な睫毛に縁取られた茶色の瞳は、窓際の綽花に注がれ、花散る姿を見つめたまま。
──彼女はかつてこの花に喩えられたものだった。楚々としていて 華やか、けれどどこか儚げな綽花の様だ、と。
今は彼女にとって、綽花は疎か世の全てが、どうでもいいものとなっていた。
なぜ、と問う気力さえ失って、もはや明日という日の意味さえわからない。
見つめる事に疲れて、落とす視線が部屋の隅に、ひっそりと置かれた古びた琴を一瞬とらえた。
彼女の瞳に感情が蘇る。
泣くに泣けない、哀しい夢を思い出した様に。