表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

【短編】もう戻らない矢

作者: roka-ha

     プロローグ


 早朝の弓道場。鍵を外して、引き戸を開ける。弓道場に入って、右手にある神棚にまず神拝。揖をしてから、二礼二拍手一礼、そして再び揖。

 床に正座し、礼をする。

「よろしくお願いします」

 弓に弦を張る。大事な時に弦切れをしないよう、弦は先週から新しくしてある。

 安土に的をかけに行く。拳に触れる土が、思いの他、冷たくて気持ち良かった。

 更衣室に行き、靴下を脱いで足袋に履き替える。白い胴着を着て、黒い袴をはいた。髪は、ゴムで後ろに一つにまとめる。弓を引く時は、少しきつめに縛るのが好きだ。

――勝負していただけませんか?

 全身が映る鏡の前で、柔軟運動をする。上腕、両肩、背中、首を、順番に伸ばし、ほぐしてゆく。次に下半身。膝の屈伸、ふくらはぎと足首を伸ばす。正座をしてから、両腕を上に上げたまま、唇が床に触れる位、上体をゆっくりと前に倒す。これが仕上げ。

 立ち上がり、鏡の中の自分を見つめながら、両腕を伸ばし、背伸びをしながら、大きく深呼吸。両腕を水平にした時の両肩の位置を確認する。再び大きく深呼吸。よし。

 胸当てと下がけとゆがけを持って、射場に向かう。

 まだ彼は来ていない。約束の時間は、八時だ。あと一時間以上ある。

 夏の眩しい朝日を浴びて、五つの的が、整然と安土の上から浮かび上がっているように見える。

――私と、勝負していただけませんか?

 吹野薫と初めて言葉を交わし、勝負を申し出たのは、五日前のこと。他校の女子からの突然の申し出に、吹野薫は、驚いた顔をしていた。しかも、彼は、弓道の名門校である澤田高校の三年。弓道部の主将であり、先週終わったインターハイでも、個人準優勝を果たしていた。

 その彼に、弱小弓道部員の二年女子が、勝負を挑む。部員達が知れば、気が触れたと思うだろう。

 弓道場の一角に設置された巻藁の前に立って、巻藁矢を引いてみる。

 最初の一射は、いつでも緊張する。今日の調子はどうか。身体はほぐれているか。腕は十分に伸びているか、肩は上がっていないか。

 ビシイ!という音を立てて、矢は、巻藁に真っすぐ突き刺さる。大丈夫。コンディションはいい。良い射が引けそうだ。

 今日のこの勝負のことは、他の部員には言っていない。言えば、皆が大挙して押しかけて来て、見学したがるだろうから。知っているのは、真由子姉ちゃんだけ。

 朝ごはんを食べていたら、パジャマ姿で、欠伸をしながら起きて来て、

「これから行くの?」

 と訊くので、うん、と答えた。

「そう。思い切りやっておいで」

 と笑ってくれた。

お母さんは、知らない。お母さんには、何も話していない。


 時計の針は、もうすぐ七時を指そうとしている。そろそろ来る頃だろうか。心なしか、胸が波打った。やっぱり、緊張しているのかな。

 二年前のあの雨の夜の日から、この日を迎えることを、ずっと夢見ていた。他のことは何も見えなくなって、ただ吹野薫に勝つことだけを考えて、闇雲に弓を引いていた日々。

 的を見つめてから、弓道場の右側に見える県立病院の七階建ての白い建物に視線を移す。

 窓辺には、何の陰もない。

 そのまま、ゆっくりと視線を上に向ける。雲一つない、きれいな青空が覗いていた。

 心の中で、語りかける。

 佐倉さん。

 ようやく今日の日を迎えました。これから、吹野薫と勝負をします。良い射が出来ますように。

 どうか、見守って下さいね。

 出入り口の方で、物音がした。振り返ると、弓道着を着て、弓矢を持った吹野薫が引き戸の向こうに立っていた。


     1


「おめえは、有段者か?」

 あれは、二年になったばかりの春休みだった。私は、弓道場で、いつものように一人で朝連をしていた。射終わって、弓を弓立てに置こうとした時、突然、野太い声が聞こえてきた。

 見ると、出入り口の引き戸を少し開けて、六十代位の見知らぬおじいさんが、上り口に腰掛けていた。白地に薄い灰色のストライプのパジャマの上に、黒い革ジャンを羽織っている。白髪混じりの髪は豊かだけれど、顔はどす黒く、無精ひげが頬を覆っている。けれど、その目はつぶらで、どこか愛敬があって、子どものように可愛らしく、人をからかっているような目だった。足元には杖が置いてある。

 なんだか怪しいな。近所のおじいさんが朝早く起きちゃって、暇でやることがなくて、この辺を徘徊でもしているのかな。

 内心は胡乱に思いながらも、礼節を重んじるのが弓道。私は、きちんと会釈をしてから、いつも年長者に答える時のように、努めてはきはきと答えた。

「はい。二月に弐段になりました」

「ふうん・・」

 そう言って、おじいさんは、私の全身をじろじろと見た。

「いやね、俺んとこの部屋から、この弓道場がよく見えるんで、時々、眺めてたんだよ。おめえさんが毎朝、熱心に練習をしてるから、感心してたんだけどな」

 そこまで言ってから、おじいさんは、ふう、と溜息をついた。

「おめえさんは、何だ。何か目標でもあるのか。今度は、早く参段でも取ろうと思ってやっているのかい?」

 不躾な質問に、だんだん苛立ちを覚えながらも、私は答えた。

「・・はい。そのつもりですけど」

「駄目だな」

 おじいさんは、伸びた頬の髭を、手でざらざらと触れながら、きっぱりと言った。

「え」

「おめえさんの射じゃあ、参段は取れねえし、試合にも勝てねえよ」

 いきなりなんなの、このおじいさん、ちょっとおかしい人なのかな。どんどん中に入って来たら、どうしようか。そう思いながら、一方で、何か、とても大事なことを言われている気がして、私は、黙っておじいさんの顔を見ていた。

 おじいさんの無遠慮な言葉は続いた。

「俺が審査員だったら、おめえさんが束っても参段はやらねえよ」


 その日の部活は、最悪だった。

 何度引いても、おかしいくらいに的に中らない。矢所も、十時の方向だったり、三時の方向だったり、的に届かず、地表をすべる掃き矢だったり、滅茶苦茶だった。

「どうした、由布子。いつもは、バンバン中たるのに」

 副部長が、私の顔を覗き込んだ。

「今日は、いまいち、調子が出なくて」

 朝連の時にやって来たおじいさんのことは、誰にも言っていなかった。今は、朝連は私しかしていない。防犯上危険だと言われ、自由に練習が出来る朝連を禁じられるのは嫌だった。今は、一射でも多く弓を引きたい。的に中てたい。

「皆、ビッグニュースだよ!」

 部長が飛び込んできた。皆の動きが止まる。

「さっき倉田先生に聞いたんだけどね。今週末の八幡宮の奉納射会にね、どうやら、澤高の吹野先輩達も参加するらしいよ」

「きゃあっ、嘘お!」

「やったー!一度、あの射を間近で見てみたかったんだよね」

「同じ立になったら、どうしよう」

 皆が、一斉に華やかな声をあげた。 

 私は、自分の胸が、トクトクと音を立てているのを感じていた。吹野薫の名前を聞くといつもそうだ。音だけではない。吹野薫という、その文字を新聞のスポーツ欄で見つけただけで、私の胸は音を立て、心は、大きな石の塊を飲んだかのように、重く、苦しくなる。

 誰にも言っていない。私が弓道を始めたのは、一つ年上の、澤田高校の吹野薫が、弓道をしていたからだ。私は、吹野薫と同じ土俵に上がりたくて、彼といつか弓道で勝負をしたくて、ずっと練習をしているのだ。



 八幡宮の境内は、弓矢を持った中高生で溢れかえっていた。部長の後について、受付でエントリーする。

「じゃあ、こちらに、氏名と学校名を記入して下さい。最初の方だけ、学校の住所もお願いします」

 参加費五百円。八幡宮の奉納射会は、春と秋に行われる。午前中に中高生の部、終わったら一般の部になる。賞品が豪華なので、毎回、県内外からの参加者が集まり、盛況だ。普段は、試合にもなかなか勝てないうちの高校にも、丁寧に招待状を送ってくれるので、結構、皆、参加を楽しみにしている。それに、他校の人達に会ったり、他の人の射を見るのも、勉強になるし、楽しい。

 部長が皆の名前を記入している間に、私は、受付テーブルに置いてある紙に、さっと目を走らせた。

 あった。吹野薫の立は、七番目だ。私の立は、十四番。これなら、吹野薫の射を見られる。

 着替えをしようと更衣室に向かう。何やら人だかりがあるので、目を向けると、澤高の弓道部員達が、既に弓道着に着替えて、巻藁矢と弓を持って、巻藁室に向かうところだった。

 澤田高校は、男子校で、文武両道を謳う進学校だ。その中でも弓道部は、県でも毎回一、二位を争う強豪校だ。その澤高で、吹野薫は、一年の時から代表選手として県大会に出場し、個人の部でも優勝を果たしていた。弓道は、中学生の頃からやっていたと聞く。

「あ、薫先輩よ」

「やっぱり、なんか、貫禄あるよね。オーラっていうやつ?」

 同級生の美香達が、こそこそと話しているのが聞こえた。

 改めて気づく。そうか。そんな風に感じているのは、私だけじゃなかったんだ。

 私は、自分の個人的感情から、吹野薫に常に目が行き、意識してしまっていたけれど、それは、どうやら自分だけではないらしい。よく見てみれば、その場を通る見知らぬ女子高生も、足を止めて、吹野薫の姿をじっと見つめていた。

 そんな熱のこもった視線も、さり気なくかわすようにしながら、吹野薫は、巻藁室に消えて行った。


 射侯は、三人立二射場、四矢立射、三中以上が残って線的。

 もし、三中すれば、吹野薫と戦えるかもしれない。

 着替えながら、私は考えていた。また、胸がとくとくと鳴り始めた。

 澤高弓道部は、これまで八幡宮の奉納射会には参加して来なかったから、まさか、ここで吹野薫に会えるとは、思ってもみなかった。しかも、ここでの立は、男女関係ない。これは、千載一隅のチャンスなんじゃない?

 巻藁室も人でごった返していた。列を作って順番を待つ。もう吹野薫の姿はない。控室に戻ったのかな。

 どこにいても、私は吹野薫を見つけられる。私には高機能のセンサーがついていて、吹野薫の存在をピピッと察知してしまうのだ。

 嫌だなあ。私、これじゃあ、まるで、吹野薫に恋しているみたいじゃない。ああ、嫌だ。すごく嫌だ。

 巻藁矢で引いてみる。悪くない。この間、あの変なおじいさんに会った日から二、三日は、不調だったけど、あの後、矢数をもっとかけたら、また中りが出るようになっていた。もしかしたら、今日は、かなりいけるかもしれない。

 ゆがけを付けて、弓道場の出入り口に向かった。出入り口は、射が終わり射場から退場して来る人と、見学する人とが混じり合っていた。不意に、その人だかりが動いた。

「由布子、次、薫先輩の立だよ」

 慌てて、人垣の間から、頭を滑りこませる。第一射場の落に吹野薫がいた。

 立射なので、回転が速い。前の人の会の段階で、後ろの人は、どんどん弓矢を打起していく。

 そんな中でも、吹野薫は落ち着いているように見えた。ゆったりとした、大きな打起し、長い会。

 パアン!

 鋭い音と共に、矢が鋭く的に突き刺さった。周囲が、おおっとどよめいた。

「上手いなあ」

 進行係のおじさんが、唸るように呟くのが聞こえた。

 吹野薫が皆中した時は、場内で拍手が沸いた。吹野薫が揖をし、退場して来た。澤高の部員達がそれを歓声で迎えた。吹野薫もにこりと笑顔を見せている。

 私は慌てて背を向けた。その時、呼び出しがかかった。

「原さん。原由布子さん。甲斐女学院の原由布子さんはいませんか」

「あ、はい」

 慌てて弓立てから弓を持ち、矢を四本持って、控えの間の椅子に座った。

 射候の説明を受けながらも、集中出来ない。さっき見た吹野薫の射が目に焼き付いていて、脳裏から離れないのだ。私はあんな風に引けるだろうか。あんな風に中てることが出来るのだろうか。

「それでは、入って下さい」

 案内の声と共に、立ち上がる。

 試合にも出たことはある。審査も二か月前に受けたばかりだ。この神社での奉納射会も二度目の参加だ。それなのに、私はどこを見たらよいのか分からないくらい、動揺していた。

 第二射場の大前。立射なので、射位に立って四本の矢を置いたら、甲矢と乙矢の、二本の矢をとって、すぐに矢をつがえなければいけない。

 的正面を向き、物見をする。私の的はあそこだ。第一射場との境の目印が、安土にちゃんとあるから大丈夫。さあ、しっかり、胴造りをして、脚の裏のひかがみを伸ばして。

 心の内でそう言い聞かせるのだが、どういう訳か、両脚がぷるぷると震えてきた。

 弓矢を打起しても、引分けても、脚の震えは止まらない。むしろ、どんどん大きくなっているようだ。

 どうして脚がこんなに震えるの?どうやったら、この震えを止められるの?これじゃあ、きちんと踏ん張れない。中るわけない。

 そんなことを考えながら離した矢は、脚の震えと同じように、情けなく、ふるふると動きながら、的の横の安土にぽすっと刺さった。

 これじゃ、全然、駄目だ。話にならない。

 自分でもどうしようもなかった。見ている人に笑われるのではないかと思うくらい、私の脚は、最後の一本まで震え続けていた。大切な会など、ないに等しい射だった。

 電光掲示板には、赤字の×印が、縦に四つ並んでいた。



 エレベーターに乗って七階に行く。私の高校の近くに、真由子姉ちゃんが看護師として働いている県立病院が建っている。外来のロビーや、敷地内にあるスターバックスで、時々待ち合わせをしたことはあるけれど、入院棟に入ったのは初めてだ。

 面会時間のせいか、手に衣類が入った紙袋やビニール袋を持った家族らしい人達が、忙しそうに行き来している。チューブを腕に付けたまま、点滴の袋がぶら下がった台車を押して、トイレに向かう患者さんとすれ違う。着ていた白地に薄い灰色のストライプのパジャマに見覚えがあった。

 大部屋の前を通り過ぎる。扉が開いているので、中の様子が少しだけ見える。ベッド脇に置かれた椅子に座っている面会者と話をしている人、寝転んで雑誌を眺めている人、イヤホンを付けてテレビを見ている人、色々だ。

 二つ目の大部屋を通り過ぎようとした時、真由子姉ちゃんの、よく通る明るい声が聞こえてきた。

「佐倉さん、血圧を計らせて下さいね」

「はいよ。真由子さんの頼みとあれば、しょうがねえ。大事な血だけど、くれてやらあ」

 おじいさんらしき声が聞こえてくる。

「血圧を計るだけですから、血は要りませんよ」

 笑い声が聞こえる。部屋を覗き込んでみると、真由子姉ちゃんと目が合った。

「誰だい?」

「ああ、すみません。私の妹なんです。ちょっと忘れ物を持ってきてもらっていて」

 おじいさんが私の方を振り返った。

「そうか。そんな所に立ってないで、中に入って来なよ。冷蔵庫にジュースがあるぞ。お姉ちゃんにはいつも世話になっているからなあ。ちゃんとお礼を言っておかなくちゃあな」

「いいんですよ、佐倉さん」

「いやいや、さあ、来う来う。ジュースをくれらあ」

 手招きされて、おずおずと足を踏み入れる。真由子姉ちゃんの背に隠れて、よく見えなかったおじいさんの顔が、はっきりと見えてくる。豊かな髪に浅黒い顔、くりっと愛敬のある目。あれ、この人、どこかで会ったことがあるような。

 佐倉さんも目を瞬いた。

「あれえ、おめえさん、ひょっとして、そこの高校の弓道娘かあ?」

 やっぱりそうだ。この間、朝連の時にひょっこり現れて、暴言を吐いて去って行ったおじいさんだ。そう言えば、あの時着ていたパジャマは、この病院のパジャマだ。

「あら、佐倉さん、私の妹に会ったことがあるんですか?」

 真由子姉ちゃんが聞く。

「ああ、そこからな、弓道場が見えるんだよ」

 佐倉さんが窓を指差した。私と真由子姉ちゃんは、つられたように、窓際に行って外を眺めた。

 七階からの景色はとてもよく、大きな青空に、盆地を覆う優しい色合いの新緑、それを囲う山々が遠く見えた。うちの高校の校舎も見える。そして、確かに、ここからは、弓道場の射場がよく見えた。

「ああ、そうでしたね。この間、娘さんが話してましたよね。佐倉さん、弓道を長くやってらしたって」

「今はもう、脚が痛くて出来ねえけどな」

 佐倉さんはそう言って、自分の膝に手を置いた。

 真由子姉ちゃんは、、携帯電話で呼ばれて出て行った。

「ほれ、そこの椅子に座って、飲んでけ」

 目の前に缶ジュースを差し出された。健康的なカゴメの野菜ジュース。せっかくの好意なので、礼を言って、椅子に座り、プルタブを開けた。

「・・あの、こちらに入院していたんですか?」

「おお、そうよ。まあ、入院は、手術の時だけな。これから手術があるんだよ。普段は、月に一回の検診だな。四年前からな。もう慣れたもんよ」

 佐倉さんは、肝臓が悪いのだそうだ。家は、県北部の町にあるが、周辺の病院では、佐倉さんの病気に対応できないので、この県立病院に転院して来たそうだ。

 真由子姉ちゃんは、この病院に来た時、最初に佐倉さんの担当だった看護師で、その口ぶりからも、真由子姉ちゃんをかなり気に入っているようだった。

「それで、どうだい、弓は?ちったあ中るようになったか?まあ、あのままじゃ、無理だろうけどな」

 佐倉さんは、ペットボトルのお茶をぐいと飲んで、にやりと笑った。

 初めて会ったあの時、色々と言われ、無性に腹が立った。このクソじじい、と思った。けれど、この間の奉納射会での自分の無様な射を思い起こすと、佐倉さんの言っていたことは、間違っていないと思う。

 初めて会った時、佐倉さんは、俺が審査員だったら、束っても参段はやらない、と言っていた。

 束るとは、二射して二本共中るということだ。中らなければ、審査の対象にもならない参段の審査において、束っても落ちるというのは、射そのものが、おかしいということを指している。

 奉納射会で見た、吹野薫の美しい射が目に浮かんだ。

 悔しいけれど、今のままじゃ、駄目なんだ。何千回引こうが、朝連をしようが、自分には何か足りないものがある。それをきちんと知って、補わなければ、吹野薫には永遠に近づけない。

「あの・・、この間、お会いした時に、私の射では、参段にもなれないし、試合にも勝てないって、おっしゃっていましたね。どういうことでしょうか?中りはそんなに悪くはないんですけど」

「それだよ」

 佐倉さんは、私を指差した。

「中りはそんなに悪くない、じゃあ駄目なんだよ。正射必中って、言ってな、正しく引けば、自ずと中るようになるんだよ。教本を読んで勉強してないのか?おめえさんの射は、ひどいもんだ。歪な形、中て気ばかり。引分けの時には両肩が上がって、三重十文字が全く出来ていない。弓返りも手首を振っていて偽物だ。何百射やったって、おめえさんは、何にも修正していない、改善しようとしていない。それじゃあ無駄なんだよ。そりゃあ、時々の中りを楽しむつもりなら、それでもいいさ。でも、どうせやるなら、少しでも上達したいって思わないのかい?」

 顧問の倉田先生にも、これほどはっきりと言われたことはない。私は、ただ黙って佐倉さんの顔を眺めるしかなかった。

 私には目標がある。吹野薫と弓道で勝負をして、勝つことだ。もともと中りを楽しむ為に弓道をしているのではない。

 もっと強くなりたい。緊張のあまり、脚が震えて何も出来なくなってしまうなんてことがないように、技術的にも、精神的にも、強くなりたい。

「・・あの、私には」

 うん?という風に佐倉さんは、顔を上げて私を見た。

「どうしても勝ちたい人がいるんです。その人は、一つ上の三年の男子で、インターハイで上位に入る実力を持った人です。私は、その人と勝負をしたくて、その人にどうしても勝ちたくて、弓道を始めたんです」

 佐倉さんの目が悪戯っぽく光った。

「へえ、面白いじゃんか・・」

「どうすれば、強くなれるんでしょうか?これまでの自分の練習の仕方が、間違っていたことは、自分でも承知しています。正射必中とおっしゃいましたね。それなら、私は正しい射を引きたいです。その上で、強くなりたいです。もし、佐倉さんが、その方法をご存知でしたら、私に教えていただけませんか?」

 私は立ち上がり、深く礼をした。吹野薫に勝つ為だったら、もともと、何でもするつもりだった。

「まあ、顔を上げなよ」

 佐倉さんは、にやにやとした顔で言った。

「俺がこっちにいる間なら、見てやってもいいよ。ただし、条件がある。俺がいいって言うまで、的前には出るな。その大勝負も、俺が言うまでは駄目だ」

「はい。分かりました。どうぞ、よろしくお願いします!」

 私は立ち上がって、再び深く礼をした。通りかかった看護師さんが、不思議そうな顔をして、こちらを覗き込んでいるのが分かった。


     2


 患者さんである佐倉さんに、弓道の教えを乞うなんて、とんでもない、と、後で真由子姉ちゃんに、こっぴどく叱られた。けれど、佐倉さんの口添えと、看護師長さん、担当のお医者さんとも相談して、今までみたいに、朝食前にこっそりと抜け出す朝の散歩程度の時間なら、と外出許可をもらうことが出来た。

 顧問の倉田先生にも事情を話した。佐倉さんは、弓道をしている人なら知る人ぞ知る、有名な人だったらしい。

「本当は、あたしが教わりたいわあ」

 と羨ましがっていた。佐倉さんからの教えは、後できっちりとメモを取って、他の部員達にも伝えること、それが佐倉さんを弓道場に入れてもらう条件だった。


「よろしくお願いします」

 練習初日。巻藁矢と弓を持って、巻藁の前で、礼をした。

 朝の散歩の延長と言いながら、佐倉さんは、きちんと着替えてきている。この間は、素足にスニーカーだったけれど、今日は、真っ白な靴下を履いていた。

「まず、引いてみろ」

 佐倉さんの厳しい顔を目の前に、いつも通りに巻藁矢で弓を引く。

「両肩が上がっているから下げろ。押手も足りない」

「十文字を意識しろ。首をしっかり的に向けろ」

 次から次へと注意が飛ぶ。その度に、はい、と返事をした。

「引分けから会まで、顎を上げない!だから、口割が下がって、矢が上に飛んでしまうんだ。飛ぶその先まで考えて引くこと。でなくちゃ、的前に立っても意味がないぞ」

 もう時間切れだと、佐倉さんが杖をつきながら、病院に戻るのを見送ってから、再び、巻藁に向かった。

 全身が映る移動式の鏡を、目の前に置く。

 佐倉さんに教えてもらったことを、一つ一つ確認しながら、やってみよう。

 射術の法則は、射法八節によって説明される。

 まず第一節、『足踏み』。両足の親指の先端が、的の中心と一直線になるように、約六十度に足を開く。

「おいおい。足踏みが狭いぞ。それが六十度かあ?」

 今日は、最初から注意されてしまった。

 第二節、『胴造り』。足踏みを基礎として、上体を整える。そして、重心を腰の中央におく。

「両肩が、もう上がってるぞお。腰の線と平行にしろ。腰の位置は、足と平行。これが三重十文字だ」

「縦線を意識しろよお」

「胴造りを疎かにしたら、いい射は出来ないぞ」

 佐倉さんの言葉を反芻しながら、鏡で自分の姿を見る。駄目だ、まだ肩が上がっている。もっと落とさなくちゃ。息を静かに吐いて、背中の肩甲骨を下げるよう意識する。

 第三節、『弓構え』。胴造りを崩さないまま、ゆがけを付けた妻手(右手)で弦を取り懸け、弓手(左手)で弓の握り皮を持ち、手の内を整える。手の内を整えた後、ゆっくりと物見をする。今は、的ではなく、巻藁の印があるところ。

「顎が上がっているぞ。弓手、そんなにがっちり握りこむな。もっとゆったりとやれ」

 第四節、『打起し』。弓構えの位置からそのまま静かに弓矢を持った両腕を上げる。

 肩に力が入らないよう、息を吐く。

 第五節、『引分け』。打起した弓を弓手で押し、妻手で弦を引き、左右均等に引分ける。

「引分けから会にかけて、顎が上がっているから注意しろ。弓手肩、上がってる!何度言えば、分かるんだ。これだ。これをもっと下げろよ」

 ぐいぐいと左肩を押された。それでも私の肩は上がってしまう。

「腕で引こうとするんじゃない。背中で引くんだ」

 第六節、『会』。弓を引ききり、矢は的を狙っている状態。会は、無限の引分けである。

「縦横十文字だぞ。顎が上がると、身体が後ろに反っちまうんだよ。だから矢が上に行っちまう。首筋と矢が十文字になってないぞお」

「会で止めるな。伸合いが大事だぞ」

 第七節、『離れ』。矢を放つ瞬間のこと。

「体の中筋から左右に開くように。気合いの発動と一緒にだぞ」

 第八節、『残身(心)』。離れの後の姿勢。残身(心)は射の総決算であり、精神(残心)と形(残身体)をそのまま保たなくてはいけない。

 矢を放った後の、弓を持って両腕を広げている、鏡に映る自分の姿は、十文字とは程遠い、歪な形だった。

 巻藁から矢を抜いて、私は大きく息をついた。佐倉さんに言われた通りに、丁寧に射法八節をなぞるだけで、どっと全身に疲れを感じた。

 『弓道教本』は持っていたし、射法八節は、審査の学科試験に必ず出題されるものだったから、もちろん、知っていた。実際、毎日、やっていた。

 でも、はっきり分かった。

 やっていなかった。今から思えば、足踏みも胴造りも、なんて適当だったんだろう。胴造りなんて、これまでやっていたのは、ただの格好つけに過ぎなかった。引分けから会に至るまでの、形を重んじる弓道ならではのパフォーマンス位にしか考えていなかった。後は、会での狙いだけが全てだと考えていた。

 違ったんだ。どんなに正しく狙っても、土台が歪んでいたら、矢は真っすぐ飛ばない。的に中らない。私は、まず、自分の身体という土台から修正しなくてはならないんだ。

 許可があるまで的前には出るな、と佐倉さんに言われた意味が分かった。

 確かに、今のままでは、的前に立っても、何の意味もない。



 それから二週間後、佐倉さんが手術を受けることになった。術後は、高熱が出て、ベッドから起き上がれない状態なのだという。

 朝連にも顔を見せなくなった。もともと、今回の入院は、手術を行う為のものだったそうだから、佐倉さんに弓道を教えてもらうつもりだと言った時、真由子姉ちゃんがあんなに怒ったのにも納得がいった。佐倉さんは、病人なんだ。弓道が早く上達したかったからといって、私は、なんて考えなしで、自分勝手だったんだろう。

 佐倉さんは、口が悪い。こと、弓道に関すると、そこまで言うかと思えるくらい、ズケズケと物を言った。そんな風だったから、佐倉さんが、肝臓を悪くしていること自体、私はいつの間にか忘れてしまっていた。

 朝の散歩のついでと言いながら、パジャマでなく、きちんとシャツに着替え、上着を着てきた佐倉さんが、どんなに懸命に私に教えようとしていてくれたのかが、今更ながら分かった。私は、毎日、時間が許す限り、巻藁に向かった。

 佐倉さんに教えてもらったことを、少しでも形にしたかった。


 佐倉さんの容体が落ち着いたと、真由子姉ちゃんから連絡があり、放課後、お見舞いに行った。

 病室に近づくと、賑やかな声が聞こえてきた。佐倉さんの笑い声も聞こえる。

 顔を覗かせると、佐倉さんのベッドの周りに幾人かの人が集まっていた。娘さんらしい女性と、佐倉さんと同じ病院のパジャマを着たおじいさん二人が、お腹を抱えて楽しげに笑っている。

 佐倉さんが私に気づいた。

「おう、ハラユウ」

 佐倉さんは、私をこう呼んでいた。

「こっちに来う。おい、順子、ジュースを出してやれ」

 女性に向かって言う。

 佐倉さんの前に座っていたおじいさんが、声を上げて笑った。

「お、なんだなんだ、佐倉さん。高校生の彼女がいたのかい?こりゃあ、大したもんだ」

「このハラユウは、看護師の原真由子さんの妹だよ。今、俺が弓道をちっとばかし教えてやってるんだ」

 女性が笑って頷いた。

「あら、あなただったのね。父の弓道魂に火をつけてくれたのは」

 私は、ぺこりとお辞儀をした。やっぱり娘さんだった。

「あ、あの、佐倉さんには、いつもお世話になっています。原由布子といいます」

 順子さんは、にこりと笑った。

「こちらこそ。家が遠いものだから、なかなか病院まで来られないんだけど、父と電話をすると、いつもあなたのことを話していてね。あなたに弓を教えるのが楽しくて仕方がないみたい。それから、急に新しい靴下を買って来いなんて言ってね。弓道場では、裸足はいけないんですってね」

 佐倉さんの靴下が真っ白だった訳が分かった。あれは、下ろしたての靴下だったんだ。

 パジャマを着たおじいさんが、足を組みながら言った。

「それにしても、このおっさんは、粋だよねえ。お嬢ちゃん、見てご覧よ、このテーブル」

 ベッドに備え付けられたテーブルの上には、体温計と、氷が入ったカップ、なにやら化粧品のような、『MG5』の白いロゴが入った、白と黒のチェック柄の小瓶とスプレー、赤いブラシと手鏡が置いてあった。

「前に入院してた時、この佐倉さんと同室だったんだけどな、夜中の看護師さんの見回りの時間になると、カーテンの向こうで妙な音がする訳よ。シュッてな。なんの音だろうと思っていたら、プーンと、このエムジー5のスプレーの匂いが漂ってくるんだよな。ほんと、この親父さんは、洒落者だよ。やっぱり、エムジー5と言えば、佐倉さんだよなあ」

 佐倉さんが、髪を撫でつけながら、にやにや笑った。

「ちゃんとセットしておかなくちゃあな」

「実は、まだこっちにもコレクションがあるのよ」

 言いながら、順子さんが横のロッカーの下の引き出しを開けると、黒いキャップの小瓶が幾つも並んでいた。それを見て、また皆が笑った。

 看護師さんの見回りを意識して、真夜中にごそごそと起きだして、髪形を気にする佐倉さんの姿を想像したら、確かにおかしかった。弓道場では、いつも鬼のように怖い顔をして、ずばずば言うのに、真由子姉ちゃんや、他の看護師さんの前では、はい、はい、と返事をする、素直で、可愛らしい患者さんだ。

「佐倉さん、手術は痛かったですか?」

 私が訊くと、佐倉さんは首を振った。

「麻酔が効いてるから、全然、痛くねえよ。それよりも、手術の後に熱が出てな。朝、足がふらふらして立てねえんだよ。だから道場にも行けなくて、悪かったな」

「そんなの、全然、いいんです」

「どうだ、練習、やってるか?ほれ、ちょっと手を見せてみろ」

 弓を持つ方の左手の手のひらを開いて見せると、佐倉さんの目が楽しそうに光った。

「うん。弓道をしている手になってきてる。いい手だ」

 豆だらけの手のひら。弓の握り皮が当たる親指の根元の皮は固くなっている。爪も伸ばせないし、クラスメイトがしているピンク色のマニキュアも似合わない、ごつごつとした私の手。

 それでも、佐倉さんにそう言ってもらえて、嬉しかった。


 その晩、お風呂に入った後、居間でストレッチをしていると、真由子姉ちゃんが帰って来た。

「お帰り。今日、日勤だったんだ」

「そうだよ。あー、今日も疲れたあ。ご飯何かある?お母さんは?」

「事務所。あたし、カレー作ったよ。まだ鍋に入ってるから、あったかいよ」

「やった。じゃあ、それ、貰う。その前にまず、ビールいい?」

 バッグを放り出して、どかどかと台所に向かった。冷蔵庫の扉が閉まる音、次にビールのプルタブをプシュッと開ける音がした。

「ぷっはー。やっぱ、仕事明けの一杯って、最高だわね」

 言いながら居間に来て、柱に寄りかかったと思ったら、そのままずるずると座り込んだ。病院で、きびきび働いている姿と大違いだ。

「お母さんは、全然、飲まないよ」

「ああ、あの人は、仕事そのものがアルコールみたいなものだから」

 真由子姉ちゃんが、さらりと言う。

 私の家は、お母さんと真由子姉ちゃんとの三人家族だ。お母さんは、弁護士をしていて、家に併設した事務所で、朝から晩までいつも仕事をしている。原家では、朝ご飯も晩ご飯も、適宜、自由。それぞれ手が空いた者が作ったり買ったりして、後に台所に来た者が、それを貰ったら、後片付けをするシステムになっている。

 両親は、私が二歳の時に離婚した。父の浮気が原因だったそうだ。と言うのは、その騒動が起きた時、私は物心がつくかつかないかの年齢だったので、父の記憶は全くない。

 お母さんは離婚後、猛勉強をして司法試験に合格し、弁護士事務所を開設して、女手一つで私達姉妹を育ててくれた。今、バイトもせずに、高い弓道具を揃えてもらい、好きなだけ弓道三昧の生活を送っていられるのも、お母さんが、私達と食事をすることもなく、一心不乱に働いてくれているおかげなのだ。

 それを考えると、もう何も言えなくなる。ご飯くらい、一緒に食べられたらいいのに、とか、佐倉さんていう面白い人に弓道を教えてもらっていることとか、本当は、お母さんに色んなことを話したいけれど、話せないまま、時が過ぎる。いつも、こんな感じだ。

「今日、佐倉さん、元気そうで安心した」

 そう話しかけると、真由子姉ちゃんは、ほんのりと赤くなった頬に手をあてて、頷いた。

「娘さんがお見舞いに来てたから、やっぱり嬉しそうだったね」

 さすがに看護師だけあって、真由子姉ちゃんは、余計なことは言わない。私も佐倉さんの病状を訊くのは止めていた。

「ねえ、真由子姉ちゃん、エムジー5て、知ってる?」

「知ってるよ。佐倉さんのでしょ?」

 楽しそうに笑った。

「あんなにたくさん揃えてあって、あれって、男の人がよく使うやつなの?」

「さあねえ・・」

 真由子姉ちゃんが首を捻る。

 私は、小さく呟いた。

「・・お父さんも、使っていたのかな?」

 今日、佐倉さんの髪からほんのり漂ってきたスプレーの香りを思い出す。それと同時に、色々な風景が、脳裏を猛スピードで過った。

 雨の日の夜。触れあう傘と傘の下、喪服を着た人達。白い菊の花で囲われた写真。目を細めて笑っている知らない男の人。パールのネックレスをつけた運転中のお母さんの横顔。白くて細い首筋。

「由布子」

 名を呼ばれて、はっとする。目の前には、少し心配そうな表情をした真由子姉ちゃんの顔があった。

「なんか、ぼうっとしてたよ、大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 エムジー5のスプレーの香りが消えない。あの雨の夜に見た、写真の中で笑っていた父の顔。真っ赤な目をして挨拶をしていた学生服を着た少年の姿。

 私は、ゆっくりと唇を開いた。きっと、誰かに言いたかったのかもしれない。

「ねえ、真由子姉ちゃん、お父さんには息子がいるでしょ?」

 缶に唇をつけていた真由子姉ちゃんの動きが止まった。

「どうしたの、急に」

「真由子姉ちゃん、私ね。お父さんの息子を倒そうと思っているの」

 真由子姉ちゃんの目が大きくなった。

「もちろん、相手は男だし、素手じゃ勝てないから、弓と矢を使って勝負するの。お父さんの息子は、弓道をしているの。私ね、だから今、佐倉さんに弓を教えてもらっているんだよ」



 父が亡くなったのは、私が中学三年生の秋だった。

 父に会った記憶はない。母方の親戚の話から、私が生まれる前、父が浮気をした時に相手の女性に子どもが出来て、女性は父に黙って出産したものの、自分も子どもも病気になって、結局、父に頼らざるを得なくなった。その際、全てが発覚し、お母さんが父に離婚届をつきつける形になったと聞いた。

 父は、相手の女性と子どもの元に行った。お母さんは、慰謝料や養育費を請求しない代わりに、今後、真由子姉ちゃんと私との面会を望まないことを父に約束させた。父はそれを受け入れた。

 私は、あの雨の夜の日まで、父という存在に対し、自分がどのような思いを抱いていたのか、よく思い出せない。思慕の念は、もちろん、あったと思う。でも、物心つく頃から母子三人の生活が、当たり前だったし、猛烈に働くお母さんの代わりに、真由子姉ちゃんがよく私の面倒を見てくれた。

 時々、小さな赤ちゃんが乗ったベビーカーを押すお父さんと、その横で楽しげに笑っているお母さんとすれ違ったりすると、ああ、恥ずかしくなるくらい絵に描いたような家族の姿だなあ、なんて思ったりした。それでも、この世に、自分に父親がいるとは、考えられなかった。

 だから、あなた達のお父さんが亡くなった、今からお通夜に行くから、支度しなさい、とお母さんから言われた時も、正直言って、

 あ、お父さんて、本当にいたんだあ。

 位にしか、考えなかった。父が実在していたことに驚き、しかも、隣の市にいたことに驚いた。一度着替えた制服に再び腕を通し、三人で車に乗って、通夜会場の斎場に向かう道中、私の心の中は、悲しみとは程遠い状態だった。

 斎場には、人がぽつぽつと集まっていた。

「お焼香をするわよ」

 お母さんが黒いバッグから数珠を取り出して言った。私は、前の人がやっていたのを真似ながら、お母さんと真由子姉ちゃんと一緒に焼香をした。

 並んでいる親族に挨拶をする。男性と女性と二手に分かれていて、右側の一番前に、黒い学生服を着た少年が座っていた。遠目からでも分かる、端正な顔立ち。眼を真っ赤にしながらも、私達がお辞儀をすると、きちっと頭を下げた。左側の女性の列には、その母親らしい人が髪を振り乱して泣き崩れ、隣のおばさんに支えてもらっている。

 ああ、この女の人が、お父さんの浮気相手かあ。

 手を合わせながら、祭壇の中央に置かれた父の遺影を見上げる。

 白い菊に囲われた額縁の中で笑っている人は、見ず知らずのおじさんだった。

 全く知らないおじさんだ。

 父方の親戚の人か、お母さんが来た事に気づいたらしく、走り寄って挨拶に来た。真由子姉ちゃんも一緒にお辞儀なんかしている。

 私は、話を続けているお母さん達を背にして、再び、参列者にお辞儀を続けている少年を見つめた。消耗した顔つきだけれど、膝の上に置かれた二つの拳はぎゅっと握られていて、少年の生真面目な性格が、なんとなく感じ取れた。

 あの人は、お父さんと浮気相手の子ども。つまり、私の異母兄って、こと?

 急に人が集まって来て、周囲がざわめき始めた。二メートル以上ある長い棒のようなものを持った男子高校生の集団が、ざわざわと会場に入ってきた。防水の為か、その長いものにはご丁寧にナイロン袋が被せられている。

 側にいたおばさん達の中から、ぽそぽそと声が聞こえてきた。

「ほら、澤高の弓道部の子達よ。薫君、一年生なのに、弓道がものすごく上手いんだってね。インターハイにも出たって、めぐみさんが言ってたわ。成績もすごく優秀らしいよ」

「だからあんなにしっかりしているんだね。ほんと、明るくて、いい子だし、頼もしいわ」

「これなら、義男さんも、安心して、めぐみさんを任せられるね」

「おしどり夫婦だったからねえ。めぐみさん、落ち着くのに、相当、時間がかかるわよ」

 男子高校生達が、順番に並んで焼香をした。どの生徒も、背筋をぴんと伸ばし、お辞儀の仕方が妙に礼儀正しい。

 少年は、同じように礼をした。ああ、ああいう礼の仕方は、弓道をしているからなんだ、と私はぼんやりと思った。

 帰りの車の中は、皆、無言だった。

 私は、助手席に座り、雨に打たれて滲んだ窓の外を眺めながら、父の家族を見た時から胸の内で感じていた、ある違和感の正体を探っていた。

 写真の中の人は、知らないおじさんだった。そのおじさんが亡くなって、優秀な息子が悲しみを耐え忍び、妻は、髪を振り乱して泣いていた。まるで映画の中みたいな風景。周りの人も、義男さんは、本当に優しくて、いい人だったね、なんて言っていた。

 いい人?いい人って、浮気するの?

 私も、一応、あの人の子どもなんだけど。あのおじさん、浮気して子どもを作った後、素知らぬ顔をしてうちのお母さんと生活していて、そしたら、次は、私が生まれたんだよ。

 胸の中が、見えない縄にしめつけられているようにむかむかした。吐き気がする。少年の真っ赤な眼も、端正な顔も、挨拶に来た弓道部の男子生徒達も、視界の邪魔になる、彼らが持っていた長い弓も、無性に腹立たしくなった。

 なあに、泣いてるのよ。

 どうして、私が車の中で、こうやってどうしようもないことを考えなくちゃならないの?

 弓道が上手いって?

 あなたが弓道に励んで、両親と楽しく暮らしている間、私は、何も知らずにいた。

 父やあなた達母子が、こんなに近くに暮らしていたことも、絵に描いたような家族をやっていたことも。

 夜遅くまで事務所の机に向かって、厚い書類を睨んでいたお母さんの横顔を思い出す。化粧っ気のないこけた頬で、私を見て、笑う。由布子、もう遅いわよ、早く寝なさい。

 言い様のない怒りが沸いてきた。

 今すぐ斎場に戻って、祭壇に飾りつけられた白い菊の花を、引きちぎって遺影に投げつけ、その場にいる人達に、大声で父の過去を喚きたい欲求に駆られた。

 この人は、最低です。この泣いている奥さんは、他人の旦那さんに手を出して、子どもを作りました。その子どもがこの人ですよ。このおじさんとおばさんのおかげで、私の母はひどい目に遭ったんですよ!

 額に当たるガラス窓が冷たい。私の目は、流れ落ちる雨だれを見ていなかった。自分の胸の中に沸き出てきた激しい怒りを感じながら、私の脳裏にくっきりと浮かんでいたのは、あの少年だった。

 言ってやりたい。優秀なあなたの両親がどんな人間で、一人の女性に、そしてその子どもたちにどんなにひどいことをしたのかを。

 でも、駄目だ。ここで私が喚いたら、お母さんが恥ずかしい思いをする。一生懸命に私達を育ててくれたお母さんと、私達家族が、あの家族に負けることになる。

 そんなのは、絶対に嫌だ。

 でも、少年に何も言わずに、何もせずに、この葬儀に訪れたことを、ただの過去のものとしてしまうのは、腹立たしい。悔しい。

 この思いを、少年にぶつけずにはいられない。

 少年の名前は、吹野薫。あの日から、この名前が頭を離れたことはない。



 巻藁に刺さった矢を抜いて、私は、息をついた。鏡に映る自分の姿を見つめる。

 いつもの早朝練習。佐倉さんから言われたことは、もう暗記している。部活中も、的前に立たず、巻藁練習しかしていない私を、皆、不思議がった。

 自分でも、時々、どうして毎日毎日、巻藁練習ばかりしているのかと思う。一年生が的前に立ち、的中させたりすると、さすがに焦りも感じた。

 『弓道教本』を改めて読み直して分かったことがある。佐倉さんが私に教えようとしたことは、もともとこの教本の中に書かれていた。立ち方から、射法八節に至るまで、佐倉さんは、私に基礎の大切さを説こうとしていたのだ。

 それは、的前に出ている部員達の射を見れば明らかだった。確かによく中る。けれど、胴造りは崩れ、縦横十文字も完成されていない。会など、ないに等しい。乱れた離れ。それでいて、今日は何射中ったと、喜んでいる。

 私も同じだったんだ。的に中てることだけを考えていた。吹野薫よりも多く的に中てられれば、それでいいと思っていた。吹野薫に勝ちたい。その為に、自分は弓道をしていた。

 けれど、佐倉さんが私に教えようとしてくれていることは違う。的の中て方じゃない。そんな技法じゃなく、もっと根本的な、基礎中の基礎、的に対峙する際の姿勢、とでも言っていいかもしれない。

 繰り返し巻藁練習をしていく内に、私は、それに気づき始めた。顧問の原田先生も、私の巻藁練習を見て、

「原さん、すごく上手くなっているね」

 と言ってくれた。

 特に、弓手肩を上げないでおくことが、一番難しい。弓矢を打起して、引分けに入る時、弓手肩を上げないで引くには、肩甲骨を下げ、背中の筋肉を相当使って引かなければならない。それをする為には、第一節の『足踏み』と、第二節の『胴造り』をきっちりしておくことが、必要不可欠なのだ。佐倉さんは、私に、弓道にとって、最も大切なことを教えてくれた。

 再び、弓構えから打起しをしようとした時、出入り口の引き戸が音を立てて開いた。振り向くと、杖を手にした佐倉さんの姿があった。

「おはようございます!」

 思わず弓矢を打起したまま言うと、佐倉さんは、手をひらひらとさせた。

「ああ、そのまま、やれ、やれ」

 私は、頷いた。巻藁に顔を向けた。

 少し、緊張した。でも、いつもの練習の通りでいいんだ。しっかり肩を落として、左右均等に引分けて。会に入っても、弓手は、伸びて伸びて伸びて。

 バシッ!という音が響いた。大丈夫、悪くない。

「もう一回」

 佐倉さんは、黙って私の巻藁練習をずっと見ていた。

「そろそろ時間か」

 佐倉さんが腕時計を見た。気づくと、八時近くになっていた。私は慌てた。

「佐倉さん、散歩時間が長すぎるって、怒られてしまいますね」

「ああ、もういいんだよ」

 佐倉さんが鷹揚に笑う。

「俺あ、今日、退院なんだ。手術が終わったから、家に帰れってさ。お昼前に、娘が車で迎えに来てくれる」

 すごく嬉しそうだ。

「良かったですね。おめでとうございます」

 そう言いながら、私の心は複雑だった。弓道を教えてもらえるのは、佐倉さんが入院している間という約束だった。

 まだ巻藁練習しか見てもらっていないのに、時間切れになってしまった。もっと、色々と教えてもらいたかったのに。

 そんな気持ちが顔に表れてしまったのだろう。佐倉さんは、がはは、と笑った。

「そんな顔するなって。これから月に何回か定期検査があって、こっちに来るからな。娘に頼んで、朝早くに車で送ってもらうわ」

「本当ですか?ありがとうございます!」

 お辞儀をする。自分でも情けない。あんなに巻藁練習をやっておいて、まだ不安なのだ。

「それよりもさ」

 佐倉さんがにこにこ笑った。愛敬のある目が細くなった。

「おめえさん、上手くなったな」

 佐倉さんの顔を見つめる。

「いいよ」

「え?」

「的前に出てもいいよ。でも、的前に出るとまた感じが変わるからな。射形が変になったら、すぐに巻藁に戻って、そのつど確認すること。いいな?」

「はい!」

 私は深く礼をした。涙が浮かんだ。

 毎日、巻藁練習を始めて一か月、ずっと欲しかった佐倉さんからの的前許可が、ついにおりたのだ。


     3


 インターハイ県予選、男子個人決勝。電車を乗り継いで行ける会場だったので、私は、部の友達三人と連れだって、見学に行った。勿論、三人は、吹野薫ファンだ。

 決勝ともなると、選手の学校の弓道部員や家族、一般の見学者などが、朝から観覧席を確保しようと殺到する。私達も、朝一番の電車で地元の駅を出発し、開場一番に乗り込んで、なんとか見やすい席を確保することが出来た。

 決勝開始の声と共に、選手が入場して来た。緊迫した雰囲気が観覧席にも漂う。

 澤高では、個人決勝に残ったのは、吹野薫のみだ。澤高の弓道部員達は、私達からほんの少しだけ離れた場所に座っている。私達は、今日は私服だから、甲斐女学院の生徒が来ているとは分からないだろう。

 射が始まる。やっぱり決勝だけあって、矢は、パン、パンと軽快な音を立て、どんどん的に中っていく。審査とは違い、前の人の会の段階で、弓矢を打起しているので、気のせいか、後の人の射が、どんどん早くなっている気がする。やっぱり、緊張しているのかな。

「由布子、薫先輩、次、入場だね。ドキドキするわあ」

 隣に座っていた美香が、興奮したように言った。

「うん」

 個人的事情をわざわざ話す気にはならないので、私も、皆に合わせて、吹野薫ファンということにしている。

 吹野薫は、十番目。五人立なので、次の立の落、最後の射者になる。

 先頭の大前が入場してきた。国旗に礼をして、本座に向かって進む。二番から落は、大前に続いて、足の動きを合わせて進む。さすがに決勝。普通、大抵は、足の動きがどこかで乱れてしまうのに、一糸乱れぬというのは、こういうことを言うのだろう。

 落の吹野薫は、観覧席から見て、一番遠くに立っている。それでも、その姿は大きく見える。八幡宮の奉納射会でも思ったけれど、吹野薫は、姿勢がいい。背筋がぴんと伸びている。立ち方、歩き方、座り方、坐しての回り方など、基本体が完璧に出来ている。射を見なくても分かる。この人は上手い。

 大前が立ち上がり、胴造りを始めた。二番も、立ち上がる。

 吹野薫は、三番の打起しで、立ち上がった。足踏みから、射法八節を行う。胴造り、弓構え、知らず知らずの内に早くなりがちな周囲に反して、ゆったりと落ち着いている。

 落前の射が、引分けから会に入った。吹野薫は、物見をし、ゆっくりと弓矢を打起した。

 大三をとり、大きく引分ける。弓を押すという表現を使うけれど、実際は、胸を開いて、左右の腕を広げるという感じ。その動きは、まるで水が流れるように自然だ。

 そして長い会。静寂の後、放たれた矢は、鋭い音を立てて、的のど真ん中、白い的心に中った。

「っしゃあ!」

 澤高弓道部員が声を上げた。

 隣では、美香がガッツポーズをしている。私も両手をギュッと握っていた。

 左の弓手を開く。最近は、中指の先が握り皮によく当たり、皮が何度もむけて、固くなってきている。佐倉さんは、これを見た時、どこか嬉しそうに笑って言った。

「普通は、痛くて逃げちまう。これは、いいマメだ。痛くても続ければ、その内、固くなって、痛くなくなるよ」

 的前許可が下りてから、一か月が経つ。佐倉さんはあれから、二週間に一度、定期検査の際に、早朝練習を見てくれた。

 巻藁練習から、一か月振りに的前に出た時の感動は、忘れられない。

 射位に立つこと、立って、的と対峙出来ること。それが本当に嬉しくて、気持ちよくて、体中がぞくぞくして、そして足が震えた。

 けれど、的を意識し出すと、途端に、それまで練習してきた胴造りが崩れた。

「ほらほら、教えてきたこと、全然、やってねえぞお」

「妻手、引く時は、肘で引くつもりでやれ。手首は使わないぞ」

「引分けの時に、首が当たるくらい弓手肩が上がってちゃ、駄目だろ」

 佐倉さんの言葉を、そのつど、メモし、反芻しながら、練習した。メモには、的の絵を描いて、常に矢所を記録した。練習が終わった後は、何故、そこに矢が飛んだのかを考える。

 社会人の五段審査や、全日本弓道選手権の試合を見に、東京の明治神宮内にある弓道場にも出掛けた。それらの動画を撮って、何度も見返した。

 高校生だけでなく、大学生や社会人の射も見るようになってから、佐倉さんの教えの意味が、どんどん分かるようになった。

 胴造りの大切さ、縦横十文字を堅持すること、会における詰合いと伸合いの重要性。それでも、自分の身体で、それが出来ているとは全く言えない。いつも、いつも反省する。どうしてもっと弓手を押し続けられないのか、狙いを本当に定めたのか、最後まで伸び続けられたか。

 今、こうやって目の前で、吹野薫の射を見て、つくづくと思う。

 この人は上手い。私が佐倉さんから何度も繰り返し注意されていることを、吹野薫は、しっかりとやっている。それも、全く自然に、流れるように。

 こうやって決勝戦に出ている選手達を見ていても思う。皆、同じ射法八節を行っているのに、その射には、その人の個性が出る。

 吹野薫の射は、すごく綺麗なのだ。綺麗で、堂々としていて、格好いい。そしてよく中る。

 佐倉さんが言っていた、正射必中とは、このことなんだ。吹野薫の射は、限りなく正しい射に近いのだ。だから中る。だから、見ている私達は、こんなにも、彼の射に引き込まれる。

 私も、こんな風に、弓を引きたいな。

 吹野薫のように、堂々と、的の前に立ちたい。

 もっと、強くなりたい。

 あれから、真由子姉ちゃんと、吹野薫について話したことがあった。浮気したお父さんについて、浮気相手とその息子について、真由子姉ちゃんはどう思っているのかを尋ねると、

「別に、どうも思ってないよ」

 とあっさりと言われた。

「だって、あたしは、お父さんとお母さんのいざこざをこの目で見ているもの。お父さんの弱いところ、優しいところも知っていたからね。まあ、しょうがないかなって感じよ。浮気相手と息子を支えるつもりで家を出たくせに、自分が先に逝っちゃうってところが、何とも間が抜けてるけど」

 真由子姉ちゃんはちょっと苦笑してから、真面目な顔になった。

「でもね。由布子には、怒る権利があると思う。あんたはあまりに小さかったから、何にもお父さんとの思い出がないわけだもんね。だから、あの子との勝負もいいんじゃないかと思う。それで由布子の気が済むんだったらね」

 あの時、真由子姉ちゃんにそう言ってもらえた時、私の心の中の石が、かすかに動いた。分かってもらえた、という思いと、違う、という思い。

 何が違うのか、あの瞬間にはよく分からなかった。けれど、こうやって吹野薫の射を見た後だからこそ、分かった。

 そっと胸を押さえた。自分の心、自分の気持ちを確認する。

 ああ、そうか。今、私は、吹野薫が、父を奪った浮気相手の息子だから倒したいのではなく、一人の弓道人として、勝負をしてみたいんだ。

 いつの間にか、自分の気持ちがこんな風に変化してしまっていた。

 そしてその変化を、私は今、ごく自然に、静かに受け入れていた。



 佐倉さんが緊急入院となったと知ったのは、それから数日後のことだった。

「由布子、佐倉さん、一昨日から、また入院したんだよ」

 真由子姉ちゃんが、家に帰るなり、言った。

「え、でも、弓道場には来てないよ」

「駄目なのよ。外には出られないの。今日、佐倉さんから、由布子に伝えてくれって言われたから」

 真由子姉ちゃんの厳しい顔つきに、佐倉さんの容体が、かなり悪いことが分かった。

「明日、お見舞いに行ってもいい?」

 翌日の放課後、真由子姉ちゃんに教えられた病室に向かった。佐倉さんの病室は、ナースステーションの斜め前だった。扉は開いていた。

「こんにちは」

 声を掛けながら入ると、真ん中に置かれたベッドの上で、目を瞑っていた佐倉さんが、ゆっくりと目を開けた。

「おお・・、ハラユウか・・」

 低い、かすれ声でそう言ってから、私の顔をじっと見つめ、少し笑みを見せた。

 佐倉さんは、鼻に酸素を送るチューブをつけ、腕に点滴の針を刺していた。

「わりいな。こんなんだから、ベッドから動けないんだ。家で、便所に行った後、急に力が抜けて立てなくなっちまってな。そのまま病院に担ぎ込まれちまったよ。いつもは、ちゃんと入院の準備をしてくるのにな。足に力が入らなくて、自分で立てねえから、そこの窓からも、おめえさんの練習が見えねえんだ」

 佐倉さんの言葉に、私は、慌てて首を振った。

「そんなの、いいんです。ゆっくり、休んで下さい」

「まあ、今度の入院もそう長くないとは思うけどな。二週間くらいしたら、退院できるんじゃないかな。そうしたら、またいっぱい見てやるよ」

 顔色は悪く、黄色がかっていたけれど、佐倉さんのいつも通りの明るい口調に、少しほっとした。

「どうだ?練習はやってるか?朝もまだやってるのか?」

「はい。今は、引分けの時に、妻手が強すぎて、引き過ぎてしまっていて、矢を引き込みそうになるので、これをどうしようか悩んでいます」

 佐倉さんは、うっすらと笑った。

「大きく引けるのは、おめえさんのいいところだけどな・・。射を見てみないことには、何とも言えんなあ・・」

 佐倉さんは考えるようにしてから、あ、と私の顔を見た。その目がキラキラと光った。

「そうだ。今じゃあ、携帯電話で写真が撮れるんだろう?それを持ってこいよ」

 私も、そうか、と頷いた。

「それなら、動画も撮れます!」

「動画?」

「はい。実際に動いている画像です。ビデオみたいなものです。画面は小さいですけど、誰かに射を撮ってもらいます」

「へえ、今は、便利なもんがあるんだな。よし、それを持って来てみろ」


 翌日から、部活中に動画を撮ってもらってから、帰り際、病院に寄って、それを佐倉さんに見てもらった。

 佐倉さんは、いつもチューブにつながれたまま、ベッドの上で横たわっていた。食物は一切、口に出来ず、栄養は、点滴を通じて体の中に取り入れられているそうだ。

「不思議と腹も減らねえんだよ」

 と言っていた。

 時々、他の見舞客がいたり、順子さんが来ていた。誰かがいると、佐倉さんは、以前と同じように明るく笑い、冗談をぽんぽん飛ばした。ベッドの近くのテーブルには、相変わらず、エムジー5のスプレーと赤いブラシと手鏡が置いてあった。

「よお」

 私が来ると、佐倉さんは、目を細めて笑った。

「どうだ。妻手は直ったか?見してみろ」

 早速、携帯電話の画面を、真剣な顔で覗きこんだ。

「引分けの時に、先に妻手から引いちまってるんだよ。大三にいったら、左右均等に素直に開けばいいんだよ」

「なかなか素直になれなくて」

 と、私が答えると、佐倉さんは破顔した。

「そうだなあ。おめえさんの射は、本当に頑固だったからなあ」

 時々、順子さんが一緒にいて、横に座って、私達の話を聞いていた。奥さんを早くに亡くされた佐倉さんには、順子さんしか家族がいなかった。

 真由子姉ちゃんが、様子を見に来た時に一緒になった時、順子さんが真由子姉ちゃんに言った。

「由布子ちゃんがこうやって来てくれて、うちのお父さん、本当に嬉しいと思う。私も毎日は来られないから、ありがたいと思ってます。真由子さんにも、いつもよくしてもらって、お父さん、二人とも自分の子どもみたいだ、なんて言ってるのよ」

 横でそれを聞いていた佐倉さんは、

「そうだ。お前が長女で、真由子さんが次女で、由布子が三女だ」

 と自分も、子どもみたいに言った。真由子姉ちゃんに対しては、少し甘えたようになるのが面白い。

 誰かがいると、佐倉さんの周りはいつも明るくて、笑い声があって、佐倉さんの容体が重篤であるとは、とても思えなかった。

 佐倉さんが言っていたように、本当に、もう少ししたら、食事も取れるようになり、また早朝の練習にも顔を出してもらえるような気がしていた。

 けれど、佐倉さんの顔色は、ますます悪くなり、日に日に黄色みを増していった。常に微熱があるそうで、以前より、呼吸が苦しげになっていた。

 そしてある日、佐倉さんの病室が、ナースステーションの目の前に移動になった。


 その日は金曜日で、いつものように動画を後輩に撮ってもらってから、病院に向かった。エレベーターで、七階に着いた時、ちょうど順子さんが廊下のソファーに座っているのが見えた。

「こんにちは」

 声を掛けると、順子さんは、はっとしたように顔を上げた。その目は涙で濡れ、真っ赤だった。

「・・ああ、由布子ちゃん。良かった、今日、来てくれて」

 順子さんは吐き出すように呟き、立ち上がって、よろよろと近づいてきた。なんだか様子がおかしい。

「あのね、由布子ちゃん。今日、先生から緊急の連絡があってね。うちのお父さん、容体が悪化して、たぶん、もう今日か、明日か、もってもそのくらいだって・・」

 順子さんが胸の前で握りしめている手が、かすかに震えていた。涙が目から溢れるのも構わず、順子さんは続けた。

「さっきまで寝ていて、今、ちょうど目覚めたところなの。・・でも、いつ、どうなっても分からない状態だから、今の内に、話しておきたいことがあったら、話をしておいてって。いずれ、昏睡状態になって。もう話も出来なくなるから。・・良かった、由布子ちゃん、今日来てくれて。明日は、学校お休みだし」

 現実だということは、順子さんの声音と強張った顔を見れば分かった。ただ、自分の心がそれを受け入れていない。

 心臓が固まったみたいだった。横を通り過ぎる看護師さんの白い後ろ姿や、のんびり歩く患者さんのパジャマの柄が、目の端に、まるでスローモーションのように、ゆっくりと映った。薄いストライプのあの柄、初めて弓道場で会った時、佐倉さんはあのパジャマを着ていた。

「由布子ちゃん、お父さんと会って話してやって。たぶん、これが・・」

 噤んだ口元で、順子さんが言おうとしている言葉が、分かった。

――たぶん、これが最後かも知れないから。


「お父さん、由布子ちゃん、来てくれたよ」

 気持ちの整理もつかないまま、順子さんの後について、病室に入って行った。

 ハア、ハア、という苦しそうな呼吸が、入口まで聞こえていた。目を瞑っていた佐倉さんが、ゆっくりと目を開けた。

「・・おお、来た、か・・」

 絞り出すように、そう言って、佐倉さんは、目を大きく開けて、じっと私の顔を見た。

「・・き、のうから、熱が出て、下がらなくてな。足も、こんなにむくれちまって、立てねえんだ。まだ、おめえさんの射を、見て、やれねえ、な・・」

 私は何も言うことが出来ず、ただ、立ち尽くすしかなかった。

 ちょうどその時、真由子姉ちゃんが様子を見に来た。点滴の機器の具合を確認した後、佐倉さんの耳元に口を寄せ、ゆっくりと言った。

「佐倉さん、どうですか?何かして欲しいことはありますか?」

 佐倉さんは、震える声で答えた。

「足と腹が腫れて、苦しい・・。俺あ、早く、元気に、なって、家に帰りてえよ・・」

 その瞬間、私の目から涙が溢れ出た。その場にいることが出来なくて、私は慌てて病室を出た。トイレに駆け込み、その場にしゃがみ込んで、涙を拭った。

 今、ああやって言葉を交わしている佐倉さんが、もうすぐこの世界からいなくなってしまうことが、信じられない。信じられず、ただ悲しかった。

 トイレから出ると、真由子姉ちゃんが、廊下で待っていた。

「大丈夫?」

 頷くと、真由子姉ちゃんは、真剣な目で私を見ながら、言った。

「聞いたでしょ?佐倉さんは、元気になって、家に帰りたいと言っているの。それが佐倉さんの願いなら、どんなにつらくても、周りの人は、それに沿わなくちゃいけないの。佐倉さんの前では泣かないで。だって、佐倉さんは元気になろうとしているんだから」

 私を見つめる真由子姉ちゃんの大きな目には、涙はなかった。悲しみよりも、遥かに強い意志の力で、涙をぐっと身体の中に封じ込めているようだった。

 私は、何度も頷いた。その時に、また涙が滲んでしまったけれど、すぐにそれを手の甲で拭った。もう一か月近く、ずっとベッドの上で、二十四時間チューブに繋がれて、一歩も動けなくても、何も食べられなくても、それでも、佐倉さんは諦めていない。生きようとしていた。

「・・うん。さっきの佐倉さんの言葉を聞いて、佐倉さんの気持ちがよく分かった。それが佐倉さんの願いなら、私はそれを徹底的に支持する。佐倉さんの前では、絶対に涙は見せない」


 自転車に乗って、病院近くの農協の直売所に、桃を買いに出掛けた。佐倉さんは、これまでずっと水しか口に出来なかったけれど、ゼリーのようなものだったら、食べてもよいと、先生からの許可が下りたのだ。

 あれから、病室に戻ると、動画を早く見せろ、と佐倉さんが言うので、今日撮った動画を見てもらった。ベッドの角度を少し上げ、はあはあと、つらそうな息をしながらも、食い入るような表情で、画面を見つめる佐倉さんを見ていたら、また涙が出てしまいそうになったので、慌てて席を立った。

「そうだ。佐倉さん、桃を食べませんか?桃だったら食べられますよね?」

 佐倉さんは、画面から目を離し、嬉しそうに目を細めた。

「そうだなあ、桃かあ。食いてえな・・」

「私、買ってきます」

 自転車に乗って、病院の敷地を出た途端、私の目から、涙がまた溢れ出した。

 農道の両脇に続く田圃には、緑色の稲が風に乗って、同じ方向に、まるでモダンダンスを踊るように、激しく揺れていた。盆地を囲う遠くの山々が、ふんわりと涙で滲んだ。いつまでも滲んだ。

 私はこの時、泣きながら、何か喚いていたのかもしれない。農道を歩いてすれ違う人々が立ち止り、不審そうな目で、私を振り返るのが分かった。


 直売所で桃を購入し、病室に戻った。早速、桃の皮を剥いて、食べやすい大きさに切り、佐倉さんの口元に近づけた。

「佐倉さん、桃ですよ」

 からからに乾いた唇をゆっくりと開けた佐倉さんの口の中に、柔らかな桃をそっと入れる。桃が、するりと入った。

 佐倉さんは、目を瞑り、口をゆっくりと動かして、それを何度も噛みしめるようにした。桃が、佐倉さんの喉を通るのが分かった。

 目を開けた佐倉さんが、私を見て笑った。

「・・うめえなあ。こんなうめえもの、食ったことねえよ」

 順子さんと私もご相伴にあずかった。舌の上でとろけるその桃は、つるりとなめらかで、とろけるような甘さだった。本当に、こんな美味しいものはないと思った。佐倉さんがこんな瑞々しくて、甘い桃を食べられて良かった。

 次第に、窓の外に夕闇が迫ってきた。夜の準備をしているのか、院内は静かだった。時々、点滴の終了を告げる、ピーピーという音が、どこからか聞こえてきた。

 佐倉さんは、うとうとと眠りかけているようだった。胸の上にかかった布団が、呼吸に合わせて、ゆっくりと上下している。

「・・由布子ちゃん、もう暗くなったから、そろそろ家に帰った方がいいね」

 そっと、順子さんに促された。その声に、佐倉さんが反応して、うっすらと目を開けた。黒い瞳が私を探して、じっと見つめた。

 私は、佐倉さんに顔を近づけた。めいいっぱいの笑顔を作った。

「佐倉さん、また来ますね」

 もう、会えないかもしれない。これが最後なのかもしれない。そう、感じた。

 伝えたいことはない?佐倉さんに言っておきたいことはない?今、それを言わなくては。後悔しないように。

「佐倉さん、私、佐倉さんにお会いできて、弓を教えていただけて、本当に幸せです。ありがとうございます」

 立ち上がり、深く一礼した。

 顔を上げた時、佐倉さんは、顔を傾けて、私をじっと見つめていた。

 ドアに向かおうとしたその時、

「ハラユウ」

 と、呼び止められた。振り向くと、

「・・いいよ」

 と佐倉さんは、絞り出すように言った。

「え?」

「勝負を、・・許す。上手くなった。・・よく、頑張った」

 そして佐倉さんは、にこりと笑った。細めた目の奥に、初めて出会った時に見た、あの、どこか愛敬のある瞳が、光っているのが見えた。



 インターハイが終わって三日後、私は、澤高の校門前で吹野薫を待った。

 夏休みの午前中に、澤高弓道部が練習をしているという情報を、美香から得ていた。そして、吹野薫も、インターハイが終わったにもかかわらず、翌日から練習を続けていることも。

 男子校なので、出てくる人が皆、制服やジャージに身を包んだ男子ばかりなのには、改めて驚いた。校門の陰に隠れるように立っていたが、それでも、ジロジロと見られた。でも、ここで怯んでいては、吹野薫との勝負まで辿り着けない。

 ようやく吹野薫の姿を見つけた時は、思わず走り寄っていた。

「私、甲斐女学院の弓道部二年の原由布子と言います。吹野さんにお話があります」

 弓道部員らしい人達が周りにいたが、私はもう、吹野薫しか見ていなかった。いつも遠くから見ているだけだったから、気づかなかったけれど、吹野薫は、見上げてしまうくらい、背が高かった。肩幅も広い。

 吹野薫の目は、真っすぐ、私の顔を見ていた。

 はやしたてる周囲を先に行くよう促してから、吹野薫は、改めて私に向き直った。

「話って、何?」

 私は、これまでずっと心の内で繰り返してきた言葉を、ようやく唇に乗せた。少しだけ、身体が震えた。

「突然の申し出ですが、私と勝負していただけませんか?」

 吹野薫は一瞬、何を言われたか、分からないといった表情を見せた。

「え、と、勝負?」

「はい。弓道で」

 インターハイで個人準優勝となった吹野薫は、ようやく私の来訪の意図を汲み取ったらしかった。

「それは、いつ?場所は?」

「私はいつでも大丈夫です。もしお疲れでなくて、早くて構わなければ、今週末の土曜の朝ででも。場所は、私の高校の弓道場でやっていいと、顧問の許可をもらっています。立会人などはいません。私、一人でお待ちしています」

 私が、ただの思いつきで言っているわけではないと分かってきたのか、吹野薫の表情が、きりっと引き締まってきた。

「その勝負の射候は?」

「四矢座射、勝負がつかない時は、射詰でお願いします」

 一礼して、吹野薫の返事を待った。しばらくの沈黙の後、吹野薫が言った。

「分かりました。勝負の申し出を受けさせていただきます。今度の土曜日、そちらの道場に伺います」


     4


 朝の陽の光を浴びて楽しむ烏と雀の鳴き声が、安土の後ろに広がる林から、賑やかに聞こえてきた。

 吹野薫と私の他には誰もいない弓道場は、いつもよりずっと広く、静かに感じられる。

 入口に立ち、ゆがけをした妻手で四本の矢、弓手に弓を持ち、私は、後ろにいる吹野薫に振り返って言った。

「それでは入ります。よろしくお願いします」

 吹野薫が頷いた。「よろしくお願いします」

 左足から入場して、神棚に礼。呼吸を意識しながら、本座まで進む。私の後ろに、吹野薫が続く。全ての動きは、大前である私を基準として行う。

 一の的の前で、的正面にゆっくりと向きを変え、その場に跪坐。隣に吹野薫の気配を感じながら、的に向かって、共に揖。

 息を吸い、吐き、再び吸って、立ち上がる。三歩で射位に進む。跪坐をし、開き足をして脇正面を向く。

 四本の矢を体の前方に置き、確認しながら、二本の矢を手に取る。一本目は甲矢。二本目は乙矢。羽根の表面の向きが異なっている。

 腰の辺りで持っていた弓を、体の前に持っていき、床の上に立てる。妻手で弦を持ち、弓を左に回し、甲矢の筈を弦に掛ける。乙矢を弓手の小指と薬指で挟んで、妻手を腰に戻す。

 ここまでは、後ろの吹野薫も私に合わせて同じ動作を行う。さすがに余計な音一つ立てない。けれど感じる。ひっそりと静かな中に、熱い闘志のような空気。圧力のようなもの。それとも、これは私の心が、勝手にそう感じているだけなのだろうか。

 勝負の申し出をした時の、私と目を合わせた瞬間の表情で分かった。何かを恐れるような、同時に期待しているような、物言いたげな表情だった。

 吹野薫は、私が誰かを知っている。私が、自分の父親の娘であることも。私達は、半分だけ血の繋がりがあることも。

 立ち上がり、的を見ながら、足踏みをする。射法八節の始まり。ゆっくりと視線を正面に戻す。弓の本弭を左膝頭の上におく。胴造り。これが射の要となる。

 胸がどきどきした。緊張ではない。吹野薫と、今こうして一緒に的の前に立っている。それを目標に弓道を始め、ずっと練習してきた。感慨深いと言うのも違う。何だろう、この感覚は。

 的を見つめ、ゆっくり弓矢を打起して、引分ける。顎を上げないで、肩を下げて。左右均等に。

 会に入った。弓の左側に、的が半月のように見える。的を見つめて、伸びて、伸びて、伸びて。そして、離れ。

 放たれた矢は、的の三時方向にわずかに外れた。

 外れた。でも、射は悪くない。

 ゆっくりと弓を倒して、物見を静かに戻す。足を閉じ、その場に跪坐する。

 脇正面を見つめながら、後ろの吹野薫の射を待つ。静かだけれど、かすかに感じる気配。ゆっくりとした間合い。

 ビュンッという弦音の後、矢が的を射抜く、パアンッという快音が聞こえた。

 さすがだ。一本目から取りこぼさない。

 再び立ち上がり、的を見て、足踏みをする。射法八節の始まり。隣にある吹野薫の的は見ない。自分の的だけを見る。ゆっくりと視線を戻し、胴造り。これが射の要。いつでも、何度でも、ずっと同じ。

――そんな胴造りじゃ、中るわけないぞお。

 佐倉さんの声が聞こえるようだ。口を酸っぱくして、いつも言われていた。そんなことを思い出し、薄く微笑んでいる自分に気づく。

 的を見つめて弓矢を打起こす。ゆっくりと引分け、会。そして発射の時を待つ。

――まだだ。伸びろ、伸びろ、伸びろ。

 妻手が自然に弦を離すのを待つ。

 矢は真っすぐと放たれ、パアンッ、と的に中った。

 矢所を注視する。的心からわずかに三時方向。いい感じだ。

 再び跪坐し、床に置いたもう二本の矢を妻手で取り、腰に戻し、吹野薫の射を待つ。

 軽妙な弦音の後の、矢が的を貫く鋭い音。早い!

「パンッ!」

 音を聞いているだけでも分かる。力強く、安定している。本当に、この人の射はすごい。出来ることなら、この人の後の立で、目の前で、その射を見たかった。

 再び立ち上がり、的を見つめる。足を踏み開く。そして、胴造り。これが基本。

 力量は明らかに違う。でも不思議と動揺も焦りもない。

 この人と、ずっと勝負したいと思っていた。あの通夜の夜、不自然な程に長い弓を持った集団を目にし、あの少年が熱意を持って取り組んでいるという弓道で、少年を叩きのめしてやりたいと願った。

 少年を育てた父と浮気相手に対する、子どもじみた、ささやかな抵抗。誰にも言えなかった鬱屈した思いを、こうやって具体的な目標を掲げることで、消化しようとしてきた。

 そして来る日も練習を続け、佐倉さんと出会って教えを乞い、巻藁から徹底して基礎を繰り返し、ようやく佐倉さんからこの勝負の許可をもらった。

 それなのに。

 思わず笑んでしまう。涙が出そうになる。

 今、私は、吹野薫に勝とうと思っていない。

 勝負をしようと話を持ちかけたのは自分の方なのに、自分は、今、自分の射のことだけを考えている。自分の胴造り、自分の会。今、出来る精一杯の射を、悔いのない射をすることだけを考えている。

 ゆっくりと打起す。

 佐倉さんと出会ったから。佐倉さんが私に教えてくれたから。

 弓道は、誰かを負かす為にあるものじゃない。ただ、今、この時、この場所に在って、最善の射をする為に、自分の身体と弓矢とが一体となること。心を澄まし、呼吸を整え、もう二度と戻らない矢を放つこと。

 左右均等に引分け、会に入る。

 的を見つめながら、自然に矢が放たれるまで、伸びる、伸びる、伸びる。

 矢は、的心からわずかに外れて、的に突き刺さった。

 再び跪坐して、吹野薫の射を待つ。弦音に続いて、矢が的に中る鋭い音が響く。

 弓を立て、最後の乙矢をつがえる。立ち上がる。

 的を見ながら、足踏みをする。

 その時、風に乗って、ふっと緑の匂いがした。視線をゆっくりと戻す。そっと息を吐いた。

 ああ、知っている。この匂いは、あの時の匂いだ。佐倉さんに食べてもらいたくて、桃を買いに自転車で農道を走っていた時に嗅いだ、風に揺れていた青い稲の匂い。あの時の匂いが、今、この弓道場まで届いている。

 あの日、最後に佐倉さんは言った。勝負を許す、と。

 そして、私は今、分かった。弓道に勝負など、もともとない。あるのは、ただ、こうやって同じ立で弓を引く私と吹野薫の姿だ。

 佐倉さんは、私に勝てと言ったのではない。自分の射をしろと言っていたんだ。

 この一射を、精一杯。

 さあ、最後だ。

 私は、的を見つめ、弓矢を打起した。


     エピローグ


 吹野薫を見送ってから、戸締りをし、着替えを終えて、荷物を弓道場の引き戸の前に置いた。

 再び、射位に立ってみる。的は片付けたので、黒い安土だけが静かにこちらと対峙しているのみだ。

 終わった。

 私、四射三中、吹野薫は、皆中。勝負を決める射詰の必要もなかった。

 矢取りに行って分かった。私の矢は、的心から三時方向や六時方向に中っていたけれど、吹野薫の矢は、二本が並んで的心、二本がそのわずか下に刺さっていた。圧倒的な力の差だった。

 二人で、安土整備をした。こてで、安土に空いた穴をならしながら、隣にいた吹野薫が、

「・・あのさ、俺さ」

 と、話しかけてきた。

「俺、君のこと、知ってたよ。俺の両親と君の家族のことも。親父が俺達のところに来たいきさつも。君が甲斐女学院で、俺と同じように弓道をしていることも」

 私は吹野薫の言葉に何も答えられなかった。本当は分かっていた。吹野薫は何も悪くない。私も吹野薫も、父親が共通という、どこかいびつな家族を持ってしまった。けれど、だからこそ、私達は今、ここにいる。それに、私は、今、不幸ではない。

 重い空気を払うように、吹野薫が明るい口調で言った。

「八幡宮の春の奉納射会に、甲斐女学院も来てたよね。あの時に、初めて君の射を見せてもらった」

 あの無様な射を見られていたとは思わなかった。思わず顔を覆う私に気を留めずに、吹野薫は続けた。

「でも、今日、目の前で見せてもらって驚いたよ。君の射、この短期間で変わったね。ものすごく上手くなった。誰か先生について教えてもらったの?」

 頷くと、吹野薫は、初めて、人懐こい笑みを私に向けた。

「今だから言うけど、君も弓道をしていると知った時、俺、いつか君と一緒に弓を引けたらいいなと思ったんだよ。俺にとっては、それは、ある意味、目標というか、夢みたいなものだった。だから、君から勝負の申し出があった時、本当にびっくりした。まさか、こんなに早く実現出来るとは思わなかったよ。・・弓、これからも続けるよね?」

 真剣な表情で見つめられた。

「はい」と、頷く。

「またいつか、真剣勝負をやろう」

 そう言って、屈託なく笑う吹野薫の顔を見た時、父の葬式以来、澱のように胸の中に溜め込んでいた雑多な感情が、すうっと、消えていくのが分かった。胸がどんどん楽に、軽くなる。

 何故なら、この時、私は、嫌ではなかったからだ。あんなに憎んでいた相手なのに。

 こうして話が出来て、笑みを交わしている。またいつか弓道の勝負をしようと約束をしている。嫌ではなく、むしろ、心地いい。

 私は、吹野薫の言葉を、嬉しいと思ったのだ。


 視線を転じて、病院の建物を見つめる。そして、空に。夏の太陽は、もう蒼空に高く上がっている。今日も暑くなりそうだ。

「佐倉さん」

 そっと話しかけた。

「見ていただけましたか?四射三中で負けました。でも、悔いはないです。佐倉さんに教えていただいたことを、心の中で繰り返しながら、今、自分に出来る最大限の射を引くことが出来ました」

 そう言えば、後で真由子姉ちゃんに聞いたところ、佐倉さんのお寺の宗派は、浄土真宗だそうだ。

 調べたところ、浄土真宗では、人は、死んだら、その瞬間に仏様になると考えられているそうだ。

 それを知った時、佐倉さんは、光のような存在になって、ぷかぷか浮いて、こちらの世界を眺めているようなイメージが浮かんだ。

 エムジー5のスプレーをシュッと一吹きし、手鏡を眺めながら、赤いブラシで髪をなでつけて、今週は、こっちの射会、来週は、あっちの審査会場と、忙しく飛び回っているんじゃないかな。

 そして毒づくのだ。駄目だ、駄目だ、駄目だ、胴造りが全然、なってない。弓手肩が上がっている、と。

 ずっと空を見つめていたら、眩しくて、涙が浮かんできた。

「佐倉さん、私、これからもずっと、弓道を続けます」

 この手で弓矢が持てなくなるまで。自分の足で、的前に立てなくなるまで。

 そして、きっと、いつかまた何処かで、吹野薫と真剣勝負をするだろう。それが一年後か、五年後か、三十年後になるかは分からないけれど。

「だから、どうか、ずっと見守っていて下さいね」

 シャッターを下ろし、神棚に向かって神拝してから、引き戸の前で正座する。

 誰もいない弓道場に、両手をついて礼。

「ありがとうございました」


              


〈参考文献〉

財団法人全日本弓道連盟編『弓道教本』第一巻 射法篇




お読みいただき、ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ