エンカウント
紅蓮に光る瞳は、薄暗い温泉街の道路上で異常なほどにその存在を主張していた。
最近は空虚な表情が多かったが、最初に出会った頃はいつも控えめで柔らかい表情をしていたはずの田中さん。
今、俺の目の前にあるその顔は職場での印象を完全に消し、この前に見た天使の面影が見え隠れしていた。
「なんですか?」
田中さんは、落ち着き払ったまま中原に尋ねる。
「驚かないんだな。俺の姿を見て」
「…………」
「向こうの別荘で、人が焼け死んだ」
「そうですか」
「お前だな」
「違います。他に用がなければ、これで」
こともなげに言い放つ田中さん。
会社のある東京から遠く離れた長野の地で、たまたま発生した「人が焼き殺される」という事件のあったすぐそばで、ノアとルナが「敵」だと断定した存在がいるはずの座標と同じ場所に居て。
アーティファクトであることは知ってる。
でも、少なくとも彼女は、人を焼き殺すような人には見えなかった。
普通の女の子だ。これから、さやの友達として、俺も仲良くなれたはず……。
本当に、彼女が犯人なのか?
思考が混乱してまとまらない。
そんな俺に、中原はある提案をする。
「このままじゃ、はぐらかされて逃げられる。センパイ、一か八か、寸止めで行きます」
「……なに?」
「実力差を見せつければ、観念するかもしれません。なに、当てたりしませんよ」
「……ああ」
地面を這う粉塵が、静かな通りに舞い上がる。
ピリッ、と空気が張り詰めた。戦闘態勢をとったウェアウルフの放つ闘気が、そうさせたかのようだ。
田中さんは表情を変えないまま、両手の指を順番に、軽く曲げ伸ばしした。
ヒュウッ、と風が吹く。
それは、ウェアウルフが纏った風。一瞬で敵との間合いを詰める、獣人化した中原の、人外の移動速度が作り出した旋風────。
普通であれば間違いなくこのままヒットする、超高速で放たれる右ストレート。
普通の人間であれば反応すらできないはずの、異次元の攻撃。それを目の当たりにすれば、戦意を喪失して、事を有利に進めることができるかもしれない──
というその期待は、見事に裏切られる。
高速移動する中原の真正面で、田中さんがいたはずの場所で、爆弾でも爆発したかのように鮮やかな紅蓮の炎が立ち昇る。それは、まるで神社やお寺で行われる巨大なお火焚きのようで、二階の屋根くらいまで一瞬にして拡大した。
「くっ……」
中原が急ブレーキをかける。
巨大な炎は渦を巻きながら、田中さんのいた位置で一点に集中したかと思うと、今度は急速に明るく、大きくなった。
飛んでくる!
中原は、突進からの直角移動、急速サイドステップを敢行。
飛ばされた炎は、中原のいた位置を通り過ぎたあたりの地面に当たって、地面をしばらく轟々と燃やし、やがて、消えた。
田中さんがどういうつもりで巨大な火炎を放ったかは、火を見るより明らか……というか、火を見たからこそ明らか、だった。
凄まじい炎。迷うことなく、一撃で息の根を止める意志を感じる攻撃。
中原が視線を「敵」に戻す。
田中さんは、今度は両手にそれぞれ、さっきの炎を纏っていた。つまり、次はさっきのが二つ来る。
「センパイ。マズいっす」
ゼウスを通じた中原の声。中原は、ゆっくりと道路の中央位置に戻る。
「俺が避ければ、ほとんどが木造っぽいこの周りの建物は大火事になってしまうっすよ。だからといって、俺、身体中が毛だらけだから、あんなの食らったら、一瞬で燃やされちゃいますよー……」
さっきまでの威勢がすっかり消え去った中原。
確かに、正直、相性が悪い。敵の攻撃を、中原は避けるしかない。
さらに場所も悪い。不用意に避ければ、こんな密集した木造建物、市街地大火は避けられない。
それに、あまりにも敵の攻撃は強力。あんな大きくて速い炎の塊、避けるにしても、いつまでも避け続けることができるかどうか……。
「なあ。なんでなんだよ」
中原は、ガラガラな声で、悲しそうに言った。
両手に紅蓮の炎をかざす彼女の顔は、すでに俺が知っている田中さんの表情ではない。
冷徹で、感情が感じられない、まさに無機質というのがピッタリだ。
その彼女は、オオカミ男に向かって口をひらく。
「『なんで?』 まるで、私のことを知っているかのような口ぶりですね」
「…………」
「普通は『誰だ』のはず。……獣人よ。あなたは、『誰』ですか?」
夜の街区に吹いていたさっきまでのヒヤッとした風は、轟音を上げて輝く巨大な炎によって熱い風へと変わっていた。
互いに無言のまま牽制する時間が過ぎ、あとは交戦の合図を待つのみとなったその時、
「え……な……なに?」
ごうごうと鳴る炎の音に紛れて聞こえた、聞き慣れた声。
中原は、田中さんから目線をできるだけ外さないようにしつつ、後ろから聞こえたその「声」の主を確認するため、警戒しながらゆっくりと振り向く。
そこには、さやがいた。
「えっ! オオカミっ!……ひっ」
さやは、きっと、俺たちを追いかけてきてしまったのだろう。こっそり出てきたつもりが、去り際の姿を見られたのかもしれない。
二つの燃え盛る火柱と、恐ろしいオオカミ男を同時に目撃したことで怯えるさやは、顔を引きつらせて後ずさりする。
そうだ! 逃げろ!
俺がそう願ったのは、万が一にもさやを人質にとらせたくなかったから。
本来なら、親友である田中さんがそんなことをするはずはないだろう。だが、さっきまでの田中さんの表情を見る限り、その考えはもはや何の確証も有さなくなってしまったからだ。
しかし、さやは勘付いてしまう。
オオカミ男の向こう側にいる、見慣れた親友の姿。両の手に炎の塊を携えた、紅蓮の瞳の、親友の姿に。
「……え? まゆ……?」
声を聞いた田中さんの様子が変わる。
冷徹で容赦のない表情は、さやの声と姿を認識すると溶けるように消え去った。
「困っていたら相談して」と俺が言った時に彼女が見せた顔。今、見せているのはその時の顔に、そっくりだったのだ。
視線が飛び、うろたえながら後ずさる。
「う」という、うめき声ともいえる一言が漏れ、両手で燃え盛っていた紅蓮の炎は、フチから順に、まるで空気に溶け散るように消えていく。
「どうして? どういうこと……?」
「あ……あ……」
さやの表情は、田中さんの表情と映したように同じに見えた。息を荒げ、動揺を隠せず、しかし視線は外すことなく田中さんに固定していた。
さやにはショックだったかもしれないが、どうやら田中さんは、さやのことをどうでもいいとは考えていないらしい。アーティファクトとしての自分の姿を、さやには知られたくなかったのだろう。
ならば、もしかすると、さやなら田中さんを説得できる可能性があるのかもしれない。
と、俺が思い始めた時だった。
街灯が照らす光の隙間……闇の中から、もう一人の人物が音もなく現れる。
闇の中にあって煌々と輝く真紅の瞳は田中さんと同じ。
暗くてはっきりと認識するのが困難だったが、おそらく肩くらいの長さの、外っパネした黒髪の……
歩いて近づいてくることで、徐々に街灯の照射範囲に入り、毛先が青色になっているのがわかった。
俺たちと同じ、ゼウスにログインした赤い瞳。
だが、その瞳の中で、何かがクリン、と回った気がした。
「ナキ! 待って……」
「お前は下がりな。お前の命は何よりも優先されるんだ。こいつは、オレが相手する」
「オレ」と言った澱みのない高飛車な声は、明らかに女性のものだった。
妖艶に膨らんだ胸、身体を形作る美しいラインも相まって、きっとこいつは女性だろうと俺は思った。
「……くっ」
田中さんは、踵を返して温泉街の道路を走り去ろうと動きだす。
「待てっ!!!」
「まゆ────っ!!!」
同時に叫んだ、中原とさや。
中原の視界に映るさやは、後ろ姿が小さくなっていく田中さんを懸命に追いかけた。
駆け出したさやの行く手に、ナキと呼ばれた女が立ち塞がる。
間髪入れずに、ナキは胸元に手を入れた。
「中原! さやをっ」
俺が叫び終わった時、ナキの手には黒い金属が握られていた。
そのまま撃たれれば、確実にさやの胸へと直撃する向きに構えられた銃口。無駄なく流れるような動作から、一切のためらいが感じられないタイミングで発砲する。
ピュン、ピュンという軽い音。
ほとんど反射的に口から出た俺の指示に、ウェアウルフもまた反射で応えていたのだろう。
凶弾とさやが交錯したはずの瞬間、中原の視線は全く違う場所で、抱きかかえたさやを映していた。素早くさやを回収し、一足飛びに付近の建物の影へと隠れたのである。
「ひっ……」
中原の視覚映像に映る、恐怖に歪んださやの顔。オオカミ男に抱かれた女の子などそうはいないだろうから、怯えるのも無理はない。
中原は、そんなさやに「しっ」と沈黙を促す。中原の視界の下端には、獣のような人差し指がかすかに映っていた。
人間くさい仕草をするオオカミ男に情が湧いたのか、それとも、中原がこの瞬間にゼウスで話しかけたのか。中原の目を見つめるさやの表情は、恐れの色を急速に薄めていった。
無言のうちに行われた中原とさやの意思疎通の時間を破り、固いもの同士が衝突するような音の連続が、周囲一帯に鳴り響く。
中原たちの盾となる建物にヒットした銃の弾は、ごっ、ごっ、というメリ込むような音をたてていたのだ。
いつまで続くのだろう、と思いながら、建物の裏からの脱出法を、俺と中原で画策していると、突如として銃撃が止む。
息を殺して俺たちが警戒する中、ナキが静かに問いかけてきた。
「お前たち……波動を、殺したか?」
壁の角から覗く中原の視界の中、ナキの瞳は、やはり何かがクリンクリンと回転していた。それは、まるでルーレットを回り続けるボールのように……
次の瞬間、
「ビンゴだぁああっ! よくやったよ、真弓ぃっ!」
歓喜に打ち震えたナキの声が、夜の闇に高らかに響く。ナキは大きくガッツポーズをし、これ以上ない喜びを全身で表現していた。
やがてゆっくりと顔を上げた時には、その表情は一八〇度違うもの──
すなわち、中原を睨みつけ、歯を食いしばり、しかし口角は明らかに上げ……
ナキは片手を前に突き出して中原を指差し、殺意と喜びを同時に中原へ叩きつける。
「とうとう捕まえたぞ……波動を殺した者たちよ」
バレた……?
そんな! 嘘だ。
騙されるな、中原!
「くっくっく……中原達也。それに……新堂ミミ、だね」
敵の口からミーの名前が出た瞬間、俺の理性が悲鳴をあげた。
そんな俺の意識の中で、ノアとルナが早口で、慌てたように声をあげる。
「ネム! 大変だっ、ミーちゃんがっ、」
まさか。
バカな。そんなバカな!
俺の心臓に、敵の冷たい手が直接当てられたかのようだった。
心拍は早鐘のようになり、心が正常な温度範囲をどんどん外れていく。
息が早くなるのを止められない。俺は、すぐにゼウスを使ってミーへ電話をかける。
通話状態となった途端、俺は矢継ぎ早に言葉を浴びせた。
「ミー! お前の視覚映像を俺に見せる件、すぐに承認しろ!」
「…………」
「おい! ミー、どうした!」
完全にパニックになる俺をよそに、「承認」は、速やかに行われた。
ミーはまだ生きている。
その事実を認識し、俺は辛うじて理性を取り戻す。だが、耳を澄ますも、一言もあいつの言葉は聞こえてこない。
やがて見えたミーの視覚映像は、廊下。
見覚えがある。俺は何回か、中原と一緒にミーの家で飲んだことがあるから。
ここはおそらく、ミーが一人暮らししているマンションだ。あいつの部屋の、玄関ドアを出たところの廊下。
マンションの廊下は、天井の電灯がチカチカし、時折、闇に近い暗さに包まれる。
その廊下の先に、一人の女が立っていた。
狭い廊下を埋め尽くす、銀色に眩く光る大きな翼。
バサっと羽ばたくごとにフワッと舞い散る光粉は、電灯が消えている短い時間、闇に包まれた廊下にキラキラと煌めく。
こうして電灯の下で見ると、その髪は透き通るような紫色。まるで人形のように、微動だにせず立っている。
以前に見た冷徹な表情はそのままに、紅蓮に光る瞳を、じっと、こちらへ向けながら。