2日目(Ⅰ)
腕の中には、泣き出しそうな菫の顔。肩を震わせて、ぎゅっとしがみついてくる。
「兄ちゃん、こわいよ……」
一階から聞こえてくるのは、両親が罵り合う声。どうせ、母がまた変な物を買ってきたとか、そんなところだろう。
「大丈夫だ、菫。明日も学校だろう? あんまり泣いたら、目が腫れるぞ」
菫は耐え切れなくなったのか、青い瞳を伏せて涙を零し始めた。
「兄ちゃん、おれ、学校行きたくないよ……。みんなに言われるんだ、『おまえの家、おかしい』って」
「……」
何も、言えない。おかしいなんて、そんなこと分かり切っている。
「もう、いやだよぉ……」
流れる涙が、服を濡らす。もうどうしようもなくて、ただ「大丈夫だよ」と言うことしかできなかった……。
「……し、もしもーし!」
……声を掛けられて、ωははっとした。背中には、ざらついた壁の感触。どうやら、ウトウトしていたらしい。
「あぁ、良かったっす。おれが目を離した隙に死んだんじゃないかと思って、ちょっとヒヤヒヤしちゃったっすよ」
彼の顔を覗き込んでいるのは、尖った耳を持つ、肌の白い青年だった。リーフグリーンの瞳をこちらに向け、少し長めの金髪を垂らしている。粗末な恰好をした彼は、ωが目を覚ましたのを見て、「あー、良かったー! 死体の処理とか、したくないっすからねー」などとしゃべっている。
「……誰だ?」
「ちょっ、おれらのナワバリで勝手におねんねしてた挙句、いきなり質問っすかー!?……まぁ、いいっすけど。おれは:。んで、あんたは?」
「俺はωだ。悪かったな、勝手にウトウトして」
大通りから離れた下町。ここには、ナワバリが存在しているようだ。
「:。ナワバリに侵入したってやつは、そいつか?」
後方から低い声がして、:はぐるっと振り返った。
「あっ、{}さん。そうっす、ωっていうらしいっすよ」
二足歩行の青いトカゲのような出で立ちの彼は、灰色の瞳でωをギロリと睨むと、虹色に輝く逞しい尾で地面を軽く叩いた。その風貌から、ここのボスであることがよく分かる。
「ふん。どんなやつかと思ったら、人間か。どうやら、ここら辺のルールも知らないようだな。統括区ζの出身か?」
不愉快だと言わんばかりに、彼は大きな鼻息を鳴らした。
「どちらにせよ、ここに足を踏み入れた以上、生きて帰れると思うなよ」
今にも八つ裂きにしてやると言った雰囲気に、ωはピリついて背中の大剣に手を伸ばした。こんなところで死ぬわけにはいかない。ならば――。
「まぁまぁまぁ!! {}さん、ちょっと落ち着くっす!」
一瞬即発の二人の間に、:が慌てて割って入った。
「見てくださいよ、この人間の剣! なんか、戦闘力高そうじゃないっすか?」
ωの剣を指差しながら、彼は話を続ける。
「殺すのは簡単っすけど、せっかくなら前線に出したらどうかと思って」
「……この人間を、作戦に加えたらどうか、ということだな……?」
「も、もちろん、一時的に……」
ボス風の{}はωの様子をじろじろと見つめると、
「ちっ、せいぜいこき使ってやる」
と言い捨て、青い腕を組んで去っていった。
「はぁー、何とか丸く収まったっす」
{}が足音を鳴らしながら帰った後、:はほっと胸を撫で下ろした。
「助かった」
ωはそう言って、すっと立ち上がった。戦闘にならずに安堵したのは、彼も同じだ。
「全く、おれに感謝してほしいっすよ!」
:は少し怒ったようなニュアンスながらも、ωの顔を見てにこっと笑った。
「じゃ、行くっすよ」
「……行くって、どこに?」
「そんなん、おれたちのアジトに決まってるじゃないっすか。あんたには、作戦を手伝ってもらうって話になったんすから」
そう言えば、彼らは作戦がどうとか言っていた。途端に、ωは面倒ごとに巻き込まれたような気になる。
「作戦とは、一体何のことだ?」
「最近、おれたちの仲間のエルフが、違法店に売り飛ばされちゃったんすよ。風俗街で嬢に捕まっちゃって、まぁあいつも相当バカだなーって思うんすけど、仲間は仲間なんで、助けに行きたいんすよ。けど風俗関係の店って、全部εの息が掛かってるじゃないっすか。だから、あんたにも手伝ってもらおうと思って」
「ε」。ωは頭の中で、その文字を反芻する。
「ε……、神のことか」
「そーそー、混沌を象徴する、あのε神っす! 考えただけでもおっかないっすよ!」
……これは、思わぬチャンスが到来した。彼らの作戦に便乗して、ε神を殺せるかもしれない。
「分かった、協力する」
「物分かりが良くて助かったっす! 人間さん」
:は「人間さん」という単語をやたらと強調して、ωに向かって薄く笑った。