1日目(Ⅴ)
「はぁ……はぁ……」
風俗店を後にしたωは、街から大分離れたところでようやく足を止めた。全身から汗が噴き出し、彼は額を大きく拭う。
『何だ、随分と無様な声だな』
物陰に入って呼吸を整えていると、突如ディアボロスが割って入ってきた。
「この力は、一体何だ?」
ωが布を巻いた右手の平を広げると、そこからは黒々とした空気が溢れてくる。
『戦闘経験のない貴様が闇雲に突っ込んだところで、跡形もなく消されるのが落ちだ。だから貴様には、『暗黒騎士』の称号を与えた。天界人は、その力を不浄だと言って忌み嫌っているからな。貴様にはぴったりだろう』
「暗黒騎士……?」
ωにはよく分からなかったが、この力を使って上手く立ち回れということだろう。
『暗黒の力は、闇へと身を落とすことによって完結する。今はまだ分からんと思うが、強くなりたいと願うのなら、闇に身をゆだねろ』
手から零れ落ちる空気は、見る者を途方のない虚無へと誘う。彼は微かな恐怖を感じ、すぐに手を下ろした。……無暗に使用するのは、止めた方が良いのかもしれない。
『で? 貴様は先ほどまで一体何をしていた? やたらガヤガヤと五月蠅いところにいたようだが』
知ってか知らぬか、彼女のセリフはわざとらしい。
「金がないから、酷い目に遭った。おまけに、天女みたいなやつ殺されかけた」
『天女? ……ああ、εの手下どもか。良かったな、貴様。早くも神連中に接触できるとはな』
神の手下? 彼女たちがそうなのか? 神聖さからはほど遠いが……。
「あんなのが、神の部下なのか?」
『だから言っただろう。最早、天界はその程度なのだ。神が横暴な言動を繰り返した末、下界と変わらぬほどにまで落ちぶれている』
その言葉を聞いて、ωは内心傷ついていた。母が信仰していた神も、所詮この程度だったのか?
『喜べ。手下どもに目をつけられたら最後、命が消えるまで追い回されるぞ。暗黒の力を覚醒させる、絶好の機会だ』
彼女は下品な声をあげて笑い出した。彼の不幸を盛大にあざ笑っている。
「ふざけるな。神と接触する前に死んだらどうする」
『まぁ、そうかっかするな。金は貴様自身で何とかしろ。そこまで手を貸してやる義理はない』
「おい――」と突っかかった瞬間、ブツリと声が途絶えた。物騒な世界に転生させておきながら、甚だ不親切だ。
空を見上げると、ネオンの合間からは見知った夜空が見える。天界であるはずなのに、空の上ではないらしい。恐ろしいところに飛ばされてしまった気しかしない。
時間感覚の狂うような雑踏の中、ωは一人ため息をついた。眠くないわけではないが、命が狙われている今、呑気に寝ている場合ではない。彼は人の少ない道に入り、静かに夜が明けるのを待った。
ωとの会話を切った後、ディアボロスは赤いソファにふんぞり返り、ボリボリと得体の知れないものをかじり始めた。骨のような白い破片が、彼女の口から零れ落ちる。
「あの人間、私が干渉できる期限内に、暗黒の力をものにできるのか……?」
魔王城の一室で、行儀悪く足を組みながら、独り言をつぶやいている。
「いや、してもらわんと困る。あいつには、サタナス様の望む姿になってもらわねばな」
彼女は少し遠くを見遣る。その桜色の瞳は、何を考えているのだろうか。
「あいつが神々を駆逐し尽くしたとき、サタナス様の悲願は叶う。そして……、私の復讐も終わる」
その言葉は、まるで凍てつく氷のようだった。