0日目
うすら寒い風を感じ、秦野は目を開けた。
最初に目に映ったのは、黒々とした空間だ。言葉にできないようなおぞましい気配が、辺り一面に漂っている。
体を起こして、周囲を見渡してみる。この空間はどうやら無限に続いているようで、時々吹き抜ける風が、彼の灰色の短髪を揺らした。
一通り状況を確認した彼は、当然のように思った。ここはどこだ、と。
「ようやく、目を覚ましたか」
突然、頭上から透明な声が降ってきた。秦野が顔を上げると、いつからそこにいたのか、少女が宙に浮いている。長い銀髪に、桜色の瞳。白い肌に、露出度の高いドレス。怪しい笑みを浮かべる彼女は、秦野をじっと見下ろしていた。
「ここはどこだ」
赤色の瞳を彼女に向け、素直に疑問をぶつけると、彼女は「はぁ?」と言いたげな顔をした。
「人間の分際で、その口の聞き方は何だ。恥を知れ」
その言葉に、秦野は思わずむかついた。いきなり現れた上に、この高圧的な態度。誰しもが腹を立てるだろう。
「おまえは誰だ」
「無知な人間め。全く傲慢極まりないが、特別に教えてやろう。私はディアボロス。つまり悪魔だ」
……悪魔? 悪魔だと? 秦野は彼女に軽蔑の目を向けた。恐ろしいほどに悪魔に見えないが、この少女は、一体何を言っている。
「貴様は死んだ。だが幸運にも、貴様は私に選ばれた。喜びに震え、そしてひれ伏せ」
「……は?」
疑問符が口から零れ落ちる。全く、意味不明だ。
確かに、秦野は死んだ。逆上した父に何度も頭を殴られ、傍で倒れていた弟ともども血を流しながら意識を失った。明日から大学生。そんな矢先のことだった。死んでからどれほどの時が経ったのかは分からないが、気づいたらここにいた。
しかし、と彼は思う。死後の概念についてはよく分からないが、悪魔(自称)が目の前で「貴様は幸運だ」とのたまう話は、一度も聞いたことがない。どんな冗談より、確実に心臓に悪い。
「貴様は私と契約して、神を殺す権利を手に入れたのだ。その手で神の息の根を止めてみせろ」
「……意味が分からない」
「物分かりの悪いやつめ。貴様は私の言葉を素直に受け入れ、そして歓喜していれば良い」
何の事情も話さない少女に、秦野はイライラしてきた。死んだと言うのなら、地獄でも何でもさっさと連れて行ってほしい。
「おまえと契約するとか、神を殺せとか、一体何なんだ。情報不足で、話にならない」
冷たくそう言い放つと、少女は非常に面倒くさいと言った感じで髪をいじり、しぶしぶ話し始めた。
「我々魔界人の目的は、天界をもその手に収めることだ。だが天界は、魔除けの結界が強く、私のような力のある悪魔でも乗り込むことができない。だから、死への未練がある愚かな人間と契約を交わし、天界に送り込むという作戦を打ち立てたのだ」
「いわゆる、世界征服か。馬鹿ばかしい」
秦野が吐き捨てると、彼女は桜色の瞳を見開き、凍てついた視線を放った。
「貴様のような凡人には理解できんと思うが、天界はひどくすさんでいるのだ。本来、天界と魔界は相容れぬものだが、最早そのようなことを言っている場合ではない。腐った神々を消し去り、天界を立て直さなければ、いずれ全世界が崩壊を迎える」
その言葉に、秦野は少し驚いた。少女が言うには、世界の崩壊を防ぐために、神を殺してほしいとのことだ。どうやら、ただの征服とはわけが違うらしい。
「……本当かは知らないが、言いたいことは分かった。だが、何故俺なんだ? 俺には何の力もない」
「貴様は、神を恨んでいる。……そうだろう?」
耳を撫でるような透明な声。心を読まれたようなセリフに、秦野は顔を歪ませた。
……そうだ。彼の家族がおかしくなったのは、母が怪しい新興宗教に手を伸ばしたからだ。「これは神が示した定めだ」と言い、母は大金を寄付し、根拠のない商品を買い、集会に足しげく通った。父は稼ぎを使われたストレスから、次第に実の息子に当たるようになってしまった。彼は弟を守るために、いつも痣だらけになった。しかし、いくら「大丈夫だよ」と言っても、弟は泣いた。両親の変貌に耐えられず、いつも涙を零していた。
……こうなってしまったのは、全て神のせいだ。母が大声で叫ぶのも、父が拳で殴るのも、その拳で自分や弟が辛い目に遭うのも、全部神のせいだ。いつしか彼は、そう思うようになっていた。
「貴様が苦しい思いをしたのも、天界にいる神の所業だ。どうだ? それでも貴様は、神を許せるのか?」
少女のセリフは、まるで悪魔の囁きだった。
「今なお、腐った神のせいで苦しんでいるやつがいる。貴様が制裁を与えることで、そいつらは自由の身となれるのだ」
秦野は自分の手を見つめる。神を殺せば、救われるやつがいる。弟も、そして自分自身も、きっと救われる。
「神を駆逐したとき、ようやく貴様は報われる。前世の不遇を晴らす術は、神を殺すことだ。そうだろう?」
神を殺せば、報われるのか? 神を倒せば、あの苦痛が消滅するのか? ……秦野の心は大きく揺れる。
「さぁ、私の手を取り、契約を交わせ。その手で神を殺し、全ての無念を晴らせ!」
すっと差し出される、白い手。黒い紋章が浮かび上がった手の平は、彼の同意を待っている。
これは、チャンスだ。死んだ彼に与えられた、悪魔的なチャンスだ。
「……分かった」
秦野は息を吐いて、少女の手の平に右手を置いた。――刹那、彼の甲に熱が走り、繊細な紋章が刻まれる。
直後、秦野は目をふさがれた。少女の両手が、空間に溢れた黒い光を遮る。
「目を閉じろ、転生者よ。天界へ赴き、神を殺めろ」
……激しい睡魔が彼を襲う。彼は決意し、ゆっくりと瞼を閉じた。
「……行ったか」
背後から声がして、銀髪のディアボロスは振り向いた。屈強な肉体の男性が、長い黒髪を揺らしながらこちらに近づいてくる。
「無事に送り出しました、サタナス様」
ばっとその場にひざまずき、彼女は恭しく答えた。先ほどまでの態度と大違いだ。
「どうだ、上手くいきそうか?」
「サタナス様の計画通り、順調に進んでおります。彼には『暗黒騎士』の称号を与え、神々を駆逐してもらいます」
「そうか、期待しているぞ」
そう言うと、サタナスはゆっくりと後ろを向いた。
「……絶対に、神々を滅ぼしてみせます」
彼に聞こえないぐらいの小さな声で、ディアボロスはつぶやいた。