やぎのくに ④
飛び込んで、周りを見渡してみれば、彼女にはわかることがいくつかあった。
まず、沼に張っていた黒色は水中まで浸透しておらず、むしろ濁りなく、綺麗に水中を見ることができるということ。
それから、当初予想した通りに、沼の周りを囲っていた蔦から伸びていた枝葉は沼の底まで生い茂っていて、本当に王冠のような模様を象っていたことだ。不思議なのは、光の届かないはずであるその沼の底の枝葉は青々としており、薄ぼんやりと灯りを灯しているようにみえたことだった。水中が綺麗に見えるのは、そのせいかもしれない、と少女は思った。沼の底の岩石は枝葉に同調するように青白く光っているようにみえる。それが枝葉の発する光を反射しているのか、はたまた岩石自体が発光しているのかは、少女にはわからない。少女は沼の底を探るように泳いでいく。不思議と息苦しさは感じない。逆に翼を得たようだった。いや、この場合は尾ひれだろうか。そう考えると少女はくすくすとわらってしまう。
その時、ふと、きらりと光る何かが目端に映った。
少女は身体をひるがえし、そちらへと泳いでいく。
気が付けば、そこは沼の底の中心にあたる場所だった。
まるで神殿の真ん中に据えられた宝箱ように、そこに大きなアコヤ貝が鎮座していた。
少女は直感する。あれの中に、黒山羊の言っていた「黒い沼の真珠」があると。
少女はそれに手を伸ばす。貝は閉じている。しかし少女は直感していた。否、どこかで知っていたのかもしれない。きっと手を伸ばせば、この貝は不思議な呪文と唱えずとも、ぱっくりと口を開けるであろうと。果たしてその通り、貝は少女を受け入れるかのように、口を開いた。中には、大きく、淡く薄青色に発光して、限りなく真円に近いと思われるように丸く、そして高い気品を感じさせる真珠が三粒あった。貝に飲み込まれるかもしれない、そんな恐怖は、少女には微塵もなかった。真っ直ぐに手を伸ばし、真珠を掴もうとする。
だが、少女のその手を阻んだものがあった。
それは触れた瞬間に色を現した。
薄桃色のような膜。
それが少女の触れようとする指と、真珠との間を阻んだのだ。
もう一度、指先を伸ばす。その膜は柔らかく指を押し返すが、しかし確実に、少女と真珠との間に頑としてその接触を阻むように存在している。
途端に息苦しくなったように感じる。気のせいなのか、そうでないのか、それはわからない。えらを奪われてしまった魚のような感覚を得た少女は、水面に向かってゆっくり上って行った。
少女が水面から顔を出すと、山羊は膝を抱えて沼の淵の、木の幹の下に腰かけていた。
そのまま泳いで行き、沼の淵に辿り着いて、山羊の下へと彼女は駆け寄る。
手ぶらの少女を見て、山羊は諦観したような表情を見せた。
「やっぱり、採れなかった」
悲しそうに、めぇ、と鳴く。少女がしゃがむと、再び、銀色と紅色とが見つめ合ったが、紅色はすぐに下を向いた。
「でも、もう少しだったのよ?確かに真珠はそこにあったわ」
「でも、届かなかった」
めぇ、と再び悲哀の鳴き声を発する。彼は背筋を更に丸める。
「……なにかしっているの?」
少女は覗き込んで尋ねるが、山羊は答えない。
「いいわ。もう一度、わたし、いってみるわ。何度かやってみれば手が届くかもしれないもの」
少女がもう一度、沼に飛び込もうとした時、山羊が声を上げた。
「君はなんで、そんなに何度もやろうって思えるんだい?」
少女は振り返って彼の紅の瞳を見やる。彼の瞳は、揺れているように思えた。少女は山羊の下へ戻ると、彼の隣に柔らかく腰を下ろした。
空を飛ぶなにかが、思い出したように鳴き声を上げた。風が沼の周りの木々を揺らすと、沼の水面に葉が落ちて小さな波紋を作った。その風が少女の銀色の髪を静かに揺らした後、少女は山羊の顔を覗き込むように顔を傾けて言った。
「わたしね、もう一度『おはよう』を言いたい人がいるの」
紅い視線が再び銀色の視線と交わる。
「その人はね、わたしが『おはよう』って言っても、いつも何も答えてくれないの。それでも、わたしは何度でも言って、その人にいつか……なにかを期待しているの」
視線は、今度は外れない。
「わたしって悪い子なのかしら?」
少女はふわりと笑う。
そのまま、山羊と同じように自身の膝を腕の中に抱え込んだ。
めぇ、と山羊はまた一声だけ鳴く。それから沈黙が少し続いた。
「僕は、いや、僕たちはね、諦めてたのさ」
山羊が不意に、そう口にした。視線を前に向けるが、それは視線から逃げた先ほどとは明らかに違ったように思えた。
「黒い羊が干し草を独り占めすることも、僕らがあんな姿になってしまうことも、受け入れてたのさ」
少女は何も言わない。ただ顔を膝に預けて、彼の瞳を横から覗き込みながら、話に耳を傾けている。
「だから、不思議だったのさ。君の言葉が。君の行動が。気まぐれだったのさ、君に黒い山羊のことを話したのも。でも思えば、真珠のことを言い出した時から、なんとなく僕たちは期待してしまったのかもしれないのさ」
少女にはその時、ふと、山羊が笑ったように見えた。それが何に対する笑みかはわからなかったけれど。
「君は言ったよね。すてきな山羊さんだって。紅茶が美味しかったって。僕たちがたくさんいたらすてきだって。本当は知っていたのさ。黒い沼の真珠が採れないことも。きっと黒い山羊も知っていたのさ。知っていて、ついてきたのさ」
山羊は、少女の方に向き直る。
「僕は、僕たちは悪い仔なのかい?」
らんらんと輝く紅く大きな瞳が、そこに戻ってきているような気がした。真剣な眼差しだった。
「そんなことないわ!だって山羊さんたちは『そうありたい』だけだもの!」
少女は山羊の両手をしっかりと握った。山羊は少し面食らっている。
「むずかしいことは、わたしにはわからないけれど『そうしたい』『そうありたい』って思うのは悪い事じゃないわ!だってそれは、山羊さんたちの『ゆめ』で『ねがい』だもの!」
山羊はしばらく大きな目を更に見開いていた。その表情が穏やかなものに変化したのをはっきりと感じ取る。
「ひとつだけ、うまくいくか分からない方法を、僕たちは知ってるのさ」
決意のこもった瞳。それを少女も感じ取る。
「君が触れたのは、薄桃色の幕みたいなものだったかい?」