やぎのくに ①
「めぇ……めぇ……」
ゆさ、ゆさと、身体を揺さぶられる感覚がして、少女はゆっくりと目を開いた。
起き抜けに、少女が目にしたのは、二足歩行の一頭の山羊だった。
後ろ足で立ち、らんらんと輝く紅く大きな瞳を持った山羊は、少女が目覚めると、
「めぇ、めぇ、もう夢が始まる時間だよ。目を覚ます時間さ」
高い、しわがれた声で、そう告げた。
そこは広大な草原のようだった。
彼の他にも多くの山羊がいたが、それらは四足歩行であった。彼女の目の前にいる山羊だけが二足歩行でそこに立っており、白いシャツを着ていて、目と同じ色の赤いサスペンダーが、彼の履く黒いパンツを釣り上げていたのだ。
四足歩行の山羊たちは、草原のあちらこちらにまとまっている。数のほどはわからないが、それらは普通の山羊と同じく、めぇ、めぇと鳴いては、そこらを歩いて回っていた。
黒く、短く刈られているかのような草原はどこどこまでも続いているように見えた。
空は闇に包まれているが、異様なのは、星も月もまるでなく、それでいて適度に橙色の明るさを保っていることだった。
「ここは、ゆめのなかなの?」
少女はぱちくりと目をしばたたかせる。
にわかには信じがたいが、自分が先ほどまでとは別のどこかにいる。それだけが理解できたことだった。
「うん、そうさ。でも違うのさ。ここは夢だけど夢じゃない」
二足歩行の山羊はしわがれた声で、めぇ、と一声鳴いてから続ける。
「夢をみるには夢が必要さ。でも僕たちは夢をなくしたのさ」
「なんだかよくわからないわ」
「とられてしまったのさ。干し草と一緒にね」
山羊はめぇ、めぇと鳴く。
「目を開く時間なのに、朝なのに、夜なのに、夢が始まらないのさ」
「わかったわ!山羊さんの『ゆめ』をさがせばいいのね!」
肯定する代わりに、山羊はまた一声めぇ、と鳴いた。
すすけてしまったのか、長年の汚れがしみついたのか、あるいは元々そういう色だったのか、壁と床が黒茶のレンガで出来た家に山羊と少女はいた。机と椅子は古びたマホガニー。山羊はどこから持ってきたのか、とてとてとやってきて、すっと少女に一杯の紅茶を差し出した。
「砂糖は好きなだけ。ジャムはラズベリー」
しわがれた声で、山羊はミルクを置き、ひづめで器用にカップの取っ手を掴んで、自分の分の紅茶をすする。
「これはアールグレイね!」
少女が感心して、角砂糖をふたつ入れると、山羊は肯定するように、めぇ、と鳴いた。
「黒い仔山羊がいるんだ」
カップを空にした山羊が、少女に向かって言った。
どうやらこの山羊は紅茶をもう一杯飲む気はないらしい。
「そういえば、あなたは白い山羊さんだものね!」
少女は、両足を前後にぱたぱたとぶらつかせた。
「あいつは大きな力を持っているのさ。だから干し草はあいつの独り占めなのさ」
「干し草を食べられないとどうなるのかしら?おなかを空かせてきゅーってたおれてしまうの?」
山羊は頭を振った。
「僕以外にもたくさん山羊がいただろう?」
「えぇ、めぇめぇ鳴いていたわ」
「ああなってしまうのさ。この国で干し草を食べられない山羊は、よっつのヒヅメで歩いて、なにも考えなくなってしまうのさ」
少女は紅茶をふうふうしてから、カップに口をつける。柑橘系の香りと角砂糖の混じった甘みが少女の口の中に広がった。
「でも、その黒い山羊さんはどうしてそんなにえらいの?」
山羊は空になったカップに昏い目線を落としている。紅いその眼が、更に憂いを帯びたように見えた。空のカップが彼の気持ちの空虚さをそのまま示しているように思えた。
「あいつは……お母さん山羊の血を濃く継いでいるのさ」
少女は頬杖をつく。なにかを考えているようだ。
「僕らのお母さんはみんな一緒さ。中でもあいつは血が濃いから、干し草を独り占めできる。僕らのお母さんはみんな一緒さ、老いた母さんはなにもいう事ができないのさ」
「なにか他のもので黒い山羊さんを満足させられないかしら?」
少女はくりっとまるい銀色の瞳を右上に滑らせてそう言った。
「他のもの?」
「そうだわ、そうだわ!そうなったら干し草をきっと投げ出すに決まっているもの!」
めぇ、と山羊は鳴いてから少女に疑問を投げかけた。
「でもそれをどうやって知るんだい?」
その問いに、少女は純粋無垢たる笑顔でこう答えた。
「黒い山羊さんに直接聞いてみればいいのよ!」