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5. 恋をはじめよう

 



 気づいた時には、バルコニーのひとつに連れ出されていた。ホールの中とは対照的に、月が照らすだけのやわらかな闇と、静けさがある。まだ握られたままに指先に視線を落とすと、その手に力が込められた。



「姫様、どうして何も言わないの?」

「……わ、からない」

「わからない?」



 わからない。

 自分の気持ちをそのまま言えたのは、たぶん相手がアルトリウスだからだ。


 ずっと会いたかった。でも会ったらびっくりして、困惑して、恨めしいような気もして。アルトリウスに触れたら嬉しくて、ちょっと怖くて、すごく懐かしくて。そう思っていたらクリスティーナと呼ばれて、また戸惑った。


 そういういろいろな感情が一気に襲ってきて、今どんな気持ちなのか、わからない。



「そっか。ちょっと、急ぎすぎたかな。でも、嬉しかったんだよ」

「どうして……」

「わかるよ。すっごい視線を感じて振り向けば、君がいるんだもん。『お前どういうことだ』って姫様の声が聞こえるくらいそっくりな顔してたよ」

「だって、あんまりにも変わらないから。人間ではなかったのかと思ったほどよ」

「案の定失礼なこと考えてたね。それで、怒られると思って目を逸らしたんだ?」

「やはりバレていたのね……その通りです」

「そうしたら髪飾りが見えて、確信が確信に変わった」

「どっちも一緒じゃない。……そんな早くから見えていたのね」



 私は髪飾りに触れて、未練がましかったかなと笑った。



「それ、どうしたの?」

「レッセル領の商人から自分で買ったのよ。二十年ぶりの珍しい品で、二十年前はあなたが買っていったんだって言っていた」

「ああ、あそこか。石の色が少し違うから気になってたんだ。姫様にあげたやつは、俺が持っているから」

「アルトリウスが?」

「遺品として、ね」



 そろそろ休憩のためにバルコニーに出てくる人がいてもおかしくないが、外は変わらず静かなままだ。分厚いカーテン越しに聞こえてくる音楽に一度目を向けてから、アルトリウスに視線を戻す。



「あの、ね」



 数度、視線が行ったり来たりする。アルトリウスの瞳をのぞき込む度に、何を言うべきか迷って、結局言葉を飲み込んでしまう。



「俺は、諦めないから」



 何かを堪えるように吐き出された言葉に、殴られたような衝撃を感じて息を呑んだ。私は、クリスティーナは諦めた。恋を、諦めてしまったのだから。



「俺は姫様が好きだったよ。今も好きだ。だから諦めない。何を捨てたって君を手に入れる」

「田舎男爵家の娘と騎士伯さまなんて釣り合いがとれないし、そんな簡単なことでは、ないのよ」

「身分差がなんだっていうんだ!あの日……君が王女としてヴァイセルに行ったときだって、全部捨てて俺の手だけ握ってくれればよかったんだ。そうすれば、俺は君を……」



 アルトリウスが掴んだままの私の指先は震えている。それをぎゅっと強く握った彼は目を伏せた。さらりと黒髪がその目元を隠し、影が落ちたその表情は良く見えない。いいや、影のせいじゃない。滲んだ涙でよく見えないからだ。私は唇を強く噛んだ。口の中に鉄の味が広がるのにも構わず、唾をこくりと飲み下せば、最初に喉をせり上がってきた感情は怒りだった。



「国を、民を捨てて自分だけ逃げられるわけないでしょ!あなただって、諦めたくせに!私が悪いみたいな言い方しないで。私は、私はあなたが騎士として傍にいてくれれば、好きだと言えなくても、傍にいてくれればそれでいいって思ったから、自分で選んだのよ。あなただってそうでしょ!?」



 いまさら何を言うんだろう。諦めた日の悔しさ、苦しさ、憤り、愛しさ。いろいろな感情が混ざり合って、名前を持てなくなったそれが爆発した。心のまま言葉を吐き出せるのはアルトリウスの前だけだった。それなのに、恋心だけは彼にさえも言えなかった。その枷は重く、しかしクリスティーナが大事に抱えていたものでもあった。その枷が壊れた今、私を縛るものは、縛ってくれるものは、何もなかった。



「そうだよ!君への気持ちを言葉にして、傍にいられなくなるくらいならと、君の騎士であることを選んだ。それは、あの日の俺の、意思だ」



 私の八つ当たりを意に介さず、アルトリウスは叫ぶように言い返した。ぶつけられた痛いほどの肯定。予想外の答えに、私は言葉に詰まってしまう。



「それなら、今さら何でそんなこと言うの?」

「……はは、なんでだろうね。」



 アルトリウスは私へと手を伸ばした。その手は優しく頬に触れ、横に垂らした髪を一房すくっては、くるりくるりともてあそぶ。視線は、交わらない。



「俺はずっと君に恨み言を言いたかったのかもしれない。君は早々に逝ってしまったけど、俺は君への想いを抱えたまま、何十年も生き続けなきゃいけなかったんだ。君だけずるいって、思ってたのかもね。……それに」



 手に取っていた髪を耳にそっとかけ、ようやく目が合った。私が好きだった、碧い瞳は夜を映して、深く深く私を惹きこんでいく。



「君は身分差って言うけどさ。案外、王女の君がほぼ平民の俺を攫うことなんて簡単だったんだ。逆は難しいけど。伯爵の俺が今の君を攫うことが簡単なようにね。それがわかった今、あの日の君が諦めてしまったことがなおさら腹立たしいのかも」



 じっと聞いていた声は、自分勝手な理論を紡いでいく。



「あのね、王女と伯爵じゃ背負っているものも前提も全然違うじゃない。しかも自分のこと棚に上げてるし」

「わかってる。だからこそ、俺は今の君を諦めたくないんだ。君を手に入れることは、今の俺には簡単なことだ。ね、そうでしょ?」



 ね、と言われても。

 私は今までのアルトリウスの言葉を振り返り、いくらか冷静になって考えた。……よくわからない。クリスティーナの十九年間をもってしても、1から10を通り越して100まで行くようなぶっ飛んだ言葉を理解できるはずもなかった。思わず零れた音は、なんとも間抜けで。



「……ぼ」

「ん?」

「ぼ、暴論!!意味わからないし!アルトリウス、自分で何を言ってるのか分かってる!?あなたの屁理屈は十年以上聞いたけど、今のは稀にみる駄作よ!何にも伝わってこない!私はどうしたらいいのよ!」



 立場、身分、恥。そういうものを一切忘れて、昔のように叫んだ。それは王女と騎士でありながらも、その垣根の間から互いに手を伸ばし、触れることができていた、懐かしい日々。どうやら色褪せることなく私の中にあって、今でもほのかに熱を放っているらしい。


 感情のまま吐き出した言葉にどう収集をつけようか迷っているうちに、アルトリウスは先に噴き出した。そのままけらけらと笑っては私の頭を軽く撫でる。



「あっはは、確かにすごい言い様だね、俺。うん、自分でもよくわかんなくなってきたかも。ごめんね、姫様」



 手つきと同じく軽い調子のアルトリウスには、先ほどまでの張りつめた空気はもはやない。そうすれば私にも少し余裕は生まれてくる。彼の言葉をもう一度飲み込み、底にある思いを汲み取ろうとした。



「……つまり、あの時もやればできただろうって言いたいのよね、あなたは。それが今になってわかったから、今からやろうとしているのよね」

「そうそう、そんな感じ。流石、十五年俺と口喧嘩してきただけあるね」



 やり直すつもりなのだ。アルトリウスは。あの日からもう一度。

 あの日の私たちが選べなかった選択肢が、今、目の前にある。それを今度こそ、掴もうとしている。私が、クリスティーナであったことを思い出してから、ずっと見て見ぬふりをしてきた選択肢。アルトリウスは、すでに手を伸ばしているのだ。


 ―――そっか。選んでいいんだ。

 私を見つけてくれたなら。アルトリウスがそう決めたのなら。私も覚悟を決めないと。今度は諦めない。そう言わなくちゃ。


 私はアルトリウスの頬に手を伸ばして、そっと触れた。夜風に少し冷えた肌にはしかし、確かな温もりがあって、私は泣きたくなって、代わりに笑った。



「そうね。あなたが正しいのかも」



 アルトリウスがそうしてくれたように、指先に髪を絡める。くるりくるり、私ほど長くはないからか、すぐに落ちてしまう。アルトリウスはくすぐったそうに目を細めた。



「隣国の王子に嫁いだ王女と筆頭騎士だった時と比べれば、三十二歳の騎士伯と十六歳の男爵令嬢の結婚なんて、スキャンダルでも何でもないし。お互い独身で不倫でもない。あり得なくはない年の差だし、お互い同意の上なら犯罪にもならないでしょう」

「犯罪って……」

「どう波風立たせずに進めるか、考えなくてはね」



 アルトリウスは苦笑するけれども、私は真剣に話しているのだ。アルトリウスが独身でいることにどれほど貴婦人たちが注目しているか、考えてほしい。憧れの騎士伯が、男爵令嬢ごときと結婚する。国中が阿鼻叫喚に包まれることを想像して、くらりとする。



「大丈夫だよ。言ったでしょ、君は姫様のままなんだって」

「どういうこと?」

「君はクリスティーナという名前を失ってなお、誰もが思わず姫と呼んでしまうほどに気高く美しい」



 二人でいるとき、アルトリウスが茶化さずに歯の浮くようなセリフを言うのは珍しい。私は少しどきっとした鼓動を誤魔化すように、へらりと首をかしげて見せた。



「な、なあに、急に?」

「自分がどれだけ周りを魅了しているか、気づかないのは昔からかな。今日だってご令嬢がたに囲まれていたじゃない。姫様の人たらしは相当だからね。姫様に楯突く奴なんていないよ」

「それは私が王女だったからでしょう?」

「……試してみる?」



 アルトリウスはおもむろに踵を返すと、私の手を優しく引いてホールへつま先を向けた。促されるままにカーテンをくぐると、変わらず華やかな夜会は続いている。アルトリウスはどこか楽しそうに、軽い足取りで進み、ある人の前で立ち止まった。


 それはこの国の主たる国王陛下。私は焦りを心に押し込めて、静かに頭を下げた。



「国王陛下、少々よろしいですか?」

「ああ、構わないが。アルトリウス、そちらの方は?」

「ティターニア・レッセル嬢です。彼女のことはあとでお話しますが、先にこの場をお騒がせする許可をいただきたく」

「何をするつもりだい?」

「ちょっとした余興ですよ。陛下もどうぞ、お楽しみください」



 余興。心底楽しそうな声音だが、私がこの場で頭を上げることはできない。頭上で交わされる言葉をただ聞くだけだ。結局、国王はアルトリウスの好きにさせることにしたらしい。私は弟だった国王を少し恨みながら、またアルトリウスに手を引かれるまま歩いた。


 アルトリウスはホールの前方へまっすぐ歩いていく。陛下が指示したのか、楽団の演奏は止み、ざわついていたホールは私たちが進むうちにすっかり静まっていた。静かにしろと誰が言ったわけでもないのに、迷いのないアルトリウスに気圧されてしまったように、誰もが私たちを見つめていた。


 アルトリウスはホールの前方、一段高いフロアに私を誘導すると、名残惜しそうに手を離した。そんな顔をされても、私にはいまだ何が起ころうとしているか分からない。ただ、吐息さえも響いてしまいそうな静寂の中、彼を問いただすこともできない。今、私たちはここにいるすべての人間の視線を集めている。決して比喩ではなく。アルトリウスは段差を下り、私から人ひとりぶんの距離を取ると、私に向き直り、ゆっくりと腰に手をやった。



 ざわり、とホールが蠢いたのは、アルトリウスが腰に佩いた剣を抜いたからだ。彼は騎士伯であり、王宮での帯剣を許されている。夜会でも変わらず、彼の役目は王を、民を守ることであるからだ。しかし、彼が剣を抜くということは、ふつう非常事態を意味する。アルトリウスが剣を抜いたのならば、私を敵と認識したか、あるいは―――



「我が剣を捧げることをお許しいただけるならば、この身に誓いを」



 アルトリウスは剣を袈裟懸けに一振りすると、片膝をついて抜身の剣を捧げ持った。いろいろとすっ飛ばしてはいるが、これは騎士叙任式の作法と文言だ。アルトリウスは粛々とした言葉とは裏腹に、挑むような瞳で私を見つめている。


 一瞬ざわついた会場も静まり、貴族たちが固唾を呑んで見守っているのがわかる。余興というのは、王女と騎士ごっこか。呆れながらも、私はアルトリウスの初めての叙任式を思い出していた。クリスティーナが隣国に嫁ぐ少し前、アルトリウスが騎士として認められるその日、私は同じように彼の前に立ち、剣を捧げられた。十七歳の私と、少し緊張していた十五歳のアルトリウス。覚えているとも、鮮明に。アルトリウスの言葉も、表情も、どこで息を吸ったかさえも覚えている。


 私は捧げられた剣を受け取った。手袋越しとはいえ、刃はひんやりと冷たい。十七年前の叙任式では真新しい剣だったが、今は傷もある使いこまれたものだ。何度も剣をダメにして買い替え、あのときと同じものではないはずだが、剣の重みや長さ、意匠はよく似ているように感じられた。


 私はずしりと重いその剣をゆっくりと見つめてから、言葉を紡ぐ。この剣の重みは、騎士の命の重みだ。いつか父に教えられたことを思い出す。これが、私たちが背負うものなのだ、と。



「今このときより、あなたがわたくしの剣となり、弱者を慈しみ、強者に立ち向かい、わたくしを裏切ることなく、欺くことなく、常にわたくしとともに在ることを誓うのならば、応えよ」



 すくうように両手で持っていた剣を持ち変える。右手で柄をしっかりと握り、切っ先を跪くアルトリウスに向けた。アルトリウスは左胸に当てていた右手を剣に滑らせ、刃にそっと口づける。この口づけを以て、誓いは成立する。私は続けてアルトリウスの肩に剣の刃を置く。それを合図に、アルトリウスが優しく笑った。



「我が身を貴女の剣とし、我が身を貴女の盾とし、貴方の言葉をこの身に刻み、貴方の想いをこの心に刻み、貴女の慶びを増し、貴方の憂いを払い、この身が朽ちるとも、常に貴女とともに在り続けることを、この剣に誓います」

「―――アルトリウス・ティルナノーグ。汝を騎士に任命します」



 剣の平でアルトリウスの首筋を一度打ったら剣を引く。はじめのように両手で持ちなおし、アルトリウスに返せば、騎士叙任式の真似事は終わりだ。満足したかと彼の表情を伺えば、ふっと笑われる。いくらか心臓に悪い。真意は読めないが機嫌は悪くなさそうだと、茶番の終わりを夢見たが、結果から言うとそれは夢のまま終わった。


 アルトリウスは一度立ち上がって、剣を腰に佩いたままの鞘に収めた。周囲はまだ静まり返ったまま、私たちの一挙手一投足に注目している。この空気をどうするのだろうと睨みつける前に、アルトリウスは私の手を取り、再びその場に膝を折った。



「ティターニア・レッセル嬢、我が唯一の愛しい姫君。私と結婚していただけますか」



 私は漏れる息をとっさに呑みこんだが、会場のご令嬢からは悲鳴が上がった。それが感嘆なのか、悲哀なのか、ただの驚愕なのか考える余裕は私にはない。ほかのことなど視野に入れられないくらい、アルトリウスはまっすぐに私を見つめている。その言葉が外面という殻に包まれたものだとしても、根底にあるものを私はもう貰っている。それならば、私が返すべき答えはひとつだ。



「はい、よろこんで」



 満足そうに笑うアルトリウスは、周囲から表情が見えないのをいいことに、私しか知らない顔をしていて。不覚にも表情を取り繕うのを忘れて笑ってしまった。


 もう一度、今度こそ。

 垣根を越えて手を繋ごう。


 ―――あの日の続きから、恋をはじめよう。





閲覧、ブックマーク、評価ありがとうございます。

ひとまず区切りとして、今後は後日談を投稿していきたいと思っています。少し期間が開くかもしれませんが、また読んでいただけると嬉しいです。

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