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 切支丹館前にある殉教公園は大勢の人だかりで、取り壊しが決まった最後の年というのもあり、彼が見た中で、今回が一番の盛況ぶりだった。

 小学校低学年の、男の子は白い布を肩に掛け、女の子は白衣姿に白いヴェールを花輪で飾ったものを被っている。おとなしくしていられないのか、時々走り出す子も見られた。

 今年は珍しく松田も参加するというので、誠志は松田と連れ立ってやってきていた。

 まだ日の暮れる前でも丘の上の寒さは厳しく、誠志もフリースのジャケットを、タンスの奥からあわてて引き出し着ていた。

「はよ始まらんかね。歩くか、中に入れてもらわんと寒くてたまらんわ」

「四時から始まるから、もうすぐだ」

 松田はやっぱり帰ろうかと愚痴っていたが、子供の頃に何度もここを訪れた思い出を誠志に語り、その様子で、松田なりに切支丹館の取り壊されるのを寂しく想っていることが分かった。

「いざってなると、なんかこみ上げてくるもんのあるなぁ。子供の頃は退屈で遊び場にもならんかったから、どうでもいいと思っとったけど」

 館の入り口付近が騒がしくなってきた。そろそろ開始の時間が迫ってきていた。午前中祇園橋で行われた神道祭典には行けず、残念だったが、夜の行列の方が雰囲気は濃くあって、彼はそこで切支丹館に最後の別れをしようと考えていた。

 千人塚に人だかりができていた。仏式法要が開始されていた。千人塚を取り囲むように人が集まり、千人塚の前に造られた壇上では、誠志の知らない文句を読み上げる少年の姿があり、その周りを囲む人だかりの口の動きが、少年の唇の動きを後追いするような輪唱の声が公園内に反響し、不規則な音の揺れ動きに彼が酔っているうちに、隣にいたはずの松田が、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。それに気づいた後でも、彼は構わず神道法要が終わるまでそこから離れようとはしなかった。

 信仰するものの違う人々が一堂に会し、互いの宗派を超え認めあう、この土地ならではの寛容さがなせる業が、余所者ながら誠志にも誇らしく、この土地の住民達の人当たりのよさを実感していたから、ここでは宗教でのいざこざもないと言い切れるようだった。

 一時間ほどして、今度はカトリックミサが同じ場所で行われる。それも見届けようと、その場を離れずにいた彼の背後から、久美が声をかけてきた。

 軽く挨拶を済ませ、誠志は今日ぐらい久美から解放されたいというささやかな願いが、容易くかき消されてしまったことに失望を禁じ得なかった。

「先生、陣中旗を見に行きませんか?」

唐突に久美が誘ってきた。

 彼が何も答えないうちから、もう切支丹館へ駆けて行く、久美の、弾むような歩みの後を不本意ながらも、誠志は追っていった。

 陣中旗は殉教祭の間だけ本物が展示され、普段はレプリカが展示されていた。左右にアンジョと云う羽根を付けた二人の天使が、アベマリアを唱え合掌する姿が描かれ、右側で祈る、天使の絵の上方にある赤黒いシミは、血痕だと伝えられていた。合唱する天使の中央には大聖杯、その上に聖餅が描かれてあり、陣中旗の上部にはポルトガル語で『いとも尊き聖体の秘蹟ほめ尊まえ給え』という意味の文字が書き添えられてあった。

 誠志と久美は殉教祭の行われるなか、ふたりで本物の陣中旗を、ほかの観光客に混じり眺めていた。周りを気にしてか、おさえた声で久美が話しはじめた。

「この旗に皆がいっせいに付き従い命を落したんだから、不思議。わたしには、なんだかおたまじゃくしがしっぽ振って泳いでいるようにみえる。ああ、違う、これは精子だ。子宮に向かっていく精子なんだ。そういうふうには見られない?」

 くだらない。そう吐き捨て、誠志は自分の名前にかけてわざと久美がそんな戯言で、また自分の心を乱そうと企んでいるのだと勘ぐり、警戒心を強めた。

「わたしはまるで一つの子宮のようだと思いません?先生」

 わたしに告白してくる男の子達は皆おたまじゃくし、いや、精子だった。あれが最も似ている。そして先生もわたしに群がる精子のひとつ。でも安心して。わたしは一億のそれの中から先生ただ一個だけを受け入れますから。卵子と結びつく前の精子は男女の区別もまだつかないのに、それが向かう先は必ず女なんですよ。男女が行き着く先はいつも女だということを、先生も、もう認めたらどうですか。自分の本心に、わたしを愛しているという事実に。

「稲生がどういう理屈でおれに構うのかはしらんが、たぶん、クラスの連中と賭けでもしとるのか、それでおれを口説き落とそうって企みなら、きかんぞ。稲生、お前こそいい加減にせえよ」

 あはは、と久美は館内に無遠慮な笑い声を響かせ、誠志を馬鹿にした目で見つめ、

「先生は案外臆病者なんですね。そんな俗っぽい理由でわたしが先生に近づいているなんて考えて、おかしい」

 なら、お前の真意はなんだ、と誠志が声を荒げた。

 何度も言ってるじゃない。久美はじれったそうに、ガラスケース越しの陣中旗を見つめたまま、「先生といると不快な気分にさせられる」

「ならもう近づいてくれるな。お互いのために」

 久美は答えないままでいた。周りの興味本位な視線だけが、誠志に向けられていた。我慢できず、

「……灰の水曜日ってのは、復活祭の四十六日前のことをいうんだってな。気になって調べたよ」

 彼がやわらげた口調で、場の空気を変えようとしたが、彼女はそれにものらず、じっと陣中旗の生地にある、小さなシミを黙視するだけだった。彼はもう話すこともなく、久美をその場に残し歩き出した。

 入り口のベンチでたむろしていた作業着の男二人の会話が、切支丹館を後にしようとしていた彼の足を止めた。

 男達は、会話の内容からキリシタンではないことが判断できた。一人が、市が特定の宗教に肩入れしていると不満を洩らした。

「神道と仏教がカトリックの引き立て役にもなっとらん」

 確かに、切支丹館は前庭の聖杯をはじめ、どこもかしこも十字架だらけで、他宗教の入り込める余地はないほどキリスト教一色だったし、市が観光客を呼び込むために、キリスト教を特別に持ち上げていることも事実だった。役所と特定の宗教が結びつくことも危険なことだ、という男の言い分はもっともな気がする。そうなると、彼はさらに自分の立場が分からなくなってくる。 

 誠志は、これ以上中立の立場に居続けることから逃げてしまいたくなり、あの国語の女教師みたく、佐々木教授達の会で思う存分、不満や不条理さを訴え、右と左に分かれ戦い合うのもいいかもしれないと、投げやりな心境に落ちていった。

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