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その週は佐々木教授に誘われて切支丹館の記録撮影を行うことになっていたので、誠志も個人的な感情もあって、思い出として切支丹館周りの写真を数枚撮るつもりでカメラを用意してきていた。
教授からそんな考えを聞くことになるのは、誠志としては意外なことだったが、もう市の決定を押さえ込むことが困難になっていることは誰もが疑わないところまで来ていたから、穏やかな教授の態度には、彼も同情せずにはいられず、中立の立場をとる自分を一旦忘れ教授の手伝いをすることに決めた。
教授の傍には同じ学校の井上先生もいた。国語の授業をすっぽかす彼女の為に誠志は何度か代理授業を行っていた。彼女は何かしらの反対運動に参加することが生きがいらしく、もっぱら市や県などといった公的機関を敵視するのが常だった。公務員でありながら、といった皮肉が誠志の口をついて出そうになることもよくあるが、彼女は校長に対し不思議と発言権を持っていたので、他の教師からは扱い難い人物として避けられることが多かった。
教授に指示された場所に撮影用の三脚を立てる。それを数回繰り返し、合間に教授と世間話をする。井上先生は無口で、二人の会話を窺う様子で聴いている。時々、警戒するように誠志が彼女の方を見ると、おもしろくない様子でこちらを、彼より先に見ている。
佐々木教授に一目おかれている誠志を嫌ってか、彼女は彼に対し好意的ではなかった。自分達の活動に参加しようともせず、時々こうして佐々木教授と会っている誠志を、彼女はひどく優柔不断な人物のように考えていた。誠志も彼女の考えが分かっているので、同様に好意的な態度で話しかけるまでにはいたらず、黙々と教授の手伝いを続けていた。
作業に集中しようとすれば、久美のことが頭の中をかき回してくる。彼は久美を気にかけていることはもう認めていた。自分のことを不器用ながらも慕ってくれる彼女を好かないわけがない。教師としての立場はそれでも崩すことはないとも依然誓っていた。
人当たりの良さそうで、その実誰も心を寄せる者を持たない、家族間でも問題を抱える子供を救える自信はなかった。教師の職域を超えた活動にあたる難解な問題を解決出来ると自惚れるのは間違いで、自分の立場で可能なことと、不可能なことをはっきりと自覚できて初めて彼女への手助けというものができることもある、と彼は考えていた。
自分は決して人並み以上の優れた教師ではない。まだ経験も浅い新米。だからこそ己の力量を見誤るおそれを意識しなければならない。はりきって安請け合いし、結局中途半端に終わるような教育では生徒達のためにならない。三年間で出来ることなどたかがしれているし、自分だけが教師ではない。だから的を絞って、せめてわずかながらの教訓めいたものを彼、彼女らの意識に留めておくことができれば、一応の教師としての役割ははたせたと思うことにした。
教え子の心に残ることが教師としての勤めなのかと考え出すと、それはひどく身勝手なような気がしてくる。何も記憶に残らなくても、誰が言ったかは忘れたが、その言葉や行動だけは覚えているといったものでも充分に彼らの血肉となりえるのではないのか、と考え彼は教師として自分はまだまだ未熟でならないような気がしてきた。
井上先生が彼に近づいてきて、教授との距離を確かめながら、取り壊し反対の活動に署名すらしないのはどういうつもりかと問い詰めてきた。その問いかけに素直に答えたら彼女との衝突を避けられないことは必死だったから、彼は極力彼女の活動を否定しないよう配慮した言葉で、ただ署名すると自分の教師としての立場が気にかかるのでと答えた。
井上先生は誠志を小心者で自分を持たない意志のないつまらない人間だという評価を下したようで、彼を見下した表情でそれ以上何も訊こうとはしなかった。
自分の考えを貫こうとすれば、彼女のような人物とも衝突することになる。かといって周囲との関係に目を背けることもできない。協調を重んじることは美徳でもある。誠志は無理を通そうと苦しんでいる自分がいかに愚かな考えに落ちているのか理屈では理解しているだけに、感情はまるでついてこないことが残念でしょうがなかった。ここ最近の季節代わりによる気温の変化についていけずに、彼はくしゃみを誘われた。もうそろそろ殉教祭の行われる時期になろうとしていた。