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 教頭の鈴木は、自らを鈴木重成(すずきしげなり)の子孫だとふれまわっていて、誠志が赴任した頃から重成の記念碑を建てるための会を立ち上げ、自らが発起人となり資金集めに、彼や松田達教師も巻き込んで寄付を求めていた。松田からは、余所者の教頭にはたいした伝も権限もないから断わったところで、いやがらせなどはできないから安心して断われ、と言われていた。実際、誠志は今までに一度も寄付をしなかったし、教頭からなんら圧力もなかった。

 教頭がこの土地において余所者扱いされていたのは、本当に土地の出身者ではないからという、単純な理由からだった。だからこそ馴染みの薄いこの土地に劣等感を抱き、なんとか自分の権威を築こうと、教頭は重成の子孫という話を持ち出し、この土地の人達に取り入ろうとしていることが、周りからの噂で誠志の耳にも伝わってきていた。

 教頭は、鈴木という苗字だけが同じで、他には子孫だというこれといった証拠もなかった。年配の教師に訊けば、教頭の親戚もここにはいないという答えが返ってくるだけだった。

 その重成が英雄扱いされるきっかけになった、天草・島原の乱の際、命を挺し村民を救ったという逸話も、最近歴史研究家によって、その証拠が全くないことから、信憑性は薄く、偽りである可能性が高いことが分かると、教頭の立ち上げた会の勢いは衰え、会に寄付をするものは激減し、それでも諦めず、教頭は少数の協力者とともに、現在も活動を続けていた。

 歴史研究家として長年に渡りこの土地で活動を続けている佐々木教授から、誠志は切支丹館改築に反対する市民の会に加わるよう何度も催促を受けていたが、教師という立場を理由にそれをやんわりと断りつづけていた。      

佐々木教授は、重成の英雄伝の偽りを指摘した研究家の一派で、それで教頭は最初のうちは、教授と親しくする彼のことを、反対派だと決めつけていたが、一度教頭の前ではっきりと、自分が中立の立場を守っていることを、その理由とともに述べてやったら、それしばらくは何も言ってこなくなった。

 佐々木教授とは二週間前に天主堂であったきりで、その際、市が天主堂を、国の重要文化的景観に指定するための申請を目指し、来年にはその調査が開始されるということを聞かされた。

「これで、天主堂だけでも救うことができそうだ」そういって、もう自分が若くないこと、自分が死んだ後の土地の将来を嘆き、教授は、誠志達若者に、自分達の活動の後を継いでほしいと頼んだ。彼は何も答えられなかった。

 文化的景観の指定を国から受けることができれば、いずれ世界遺産への登録を目指すことになるだろうから、そうなるといろんな制限が天主堂に課せられ、自由に利用できなくなる可能性も大いにあった。保存という側面から考えると正しい判断にも思われるが、保存のために、別のチャペルを建設し、それを維持するのに多額の費用がかかり、補助金がでても以前より負担が増した、他の教会の例を知ると、彼はどちらがいいのかまた悩みはじめる。そういえば、西平の椿も市指定の天然記念物であることが、それらに引っぱられるよう、浮揚してきた。

 肘をつき悩む誠志の机は、教頭の席から離れた場所にある。机の前に置かれた教科書や資料などが目隠しになり、教頭の顔をじかに見なくて済むので、わざと整理もせず、だらしなく机の上を散らかしていた。となりの松田は彼の思惑とは違い、教頭や校長の前でも無遠慮な態度を崩さない自由人だったから、単なる片づけ下手が机の上を汚くしていた。

 松田の、山積みされた参考書や辞典が、大きさも異なるそれらはなぜかバランスよく崩れる気配もなかった。誠志の机にまで侵食していた松田の本を慎重に押し返しながら、誠志は教頭が自分に声をかけてきたのに、すばやく手を止め、横を向いた。

 教頭が最近の調子はどうだ、と訊いてきた。これから本題に入る時の予備動作、もしくは準備運動のような言葉に、彼は決まり文句の順調です、を返してやった。

「そう、順調か。そういや最近は、佐々木さん達と会ったりしてるのか?」

 ほらきた、と誠志はそれでも気のないふうに、いいえ、と答えた。

「うん、ならいいんだが、あんまり他人を悪く言いたくないが、君は佐々木さん達と親しくしないほうがいい。沢口先生の耳にはまだ入っていないだろうけど、ほかの教師達の間ではうわさがたってな、君と、井上先生が同士だっていうものまで出てきて、わたしはそんなことないと信じとるけど、君にまで学校を休まれちゃあ、代わりの先生がもういないもんで、それで一番困るのは誰かっていったら、そりゃ生徒達なんだから、君はもっと自分の職務に専念せんか。もう天主堂やキリシタンなんかとかかわらんほうがよかぞ」

 教頭が誠志の肩を軽くたたき、念を押すように、もう一度肩に手をかけ、指先に力を込めた。

「わたしは中立の立場です。切支丹館や天主堂に訪れるのは、この土地にできるだけ馴染むことが、ここの生徒達の気持ちを理解する最も有効な方法だと考えただけで、他意はありません」

「わたしもだよ」と教頭は、鈴木重成を引き合いに出し、自分のルーツを知ることが、余所者のわたしにとっても、この土地の住民と分かり合う最善策だと信じているから、重成の像をわたしが発起人となって建てたいんだよ。そうつけ加え、君がわたしの会に協力をしてくれれば、君にも重成の恩恵があるかもしれない、と思わせぶりな一言を最後につけたし、職員室を出て行った。

 誠志は、重成の恩恵という言葉に、教頭がいかに重成の影に自分の尊敬や感謝を期待しているのかが、はっきりとしたかたちで覗けたことに、思わず笑い出しそうになってしまった。虚栄心の塊、と彼は呟いた。しかし、なぜ自分なのだろうか、松田ではないのは納得できる。彼ならすぐに断ってしまい、さらに教頭の胸中にある利己的な感情までも指摘してしまうことは容易に想像がつく。そうすると、自分にはどこか付け入る隙があるために、佐々木教授や井上先生、敵対する教頭までにも目を付けられる原因が、自分の中立的な立場にあるように思われてならない。その考えが明確になるにつれ、彼はやはり、自分は右か左かを選ぶしかないのかと、失望の境地に至り、気持ちは沈みこむばかりだった。


 休み時間、一階の渡り廊下の、外から隠れたところで、久美が男子生徒とふたりでいるのが、男子生徒が稲生さん、と呼んだので、誠志は反射的にそちらに目をやってしまった。

もう何度もそういった、偶然を装い誠志の視界に入り込もうとする久美のやり方にはうんざりしていたので、誠志はすばやく向き直り、気づかないふりを決め、通り過ぎようとしたら、久美がはっきりと、こちらまで届く大きな声で、「あんたみたいなガキとは付き合えんわ」と男子生徒を怒鳴りつけた。誠志が、予想外の大声に驚き、そちらの方を振り返ると、久美がしてやったりのにやけ顔で、彼が久美を見るよりも速く、誠志へ視線を送っていた。

 彼は悔しがり、腹に込み上げてくる苛立ちをこらえ、何も聞かなかったことにして、次の授業のある教室へ歩き出した。久美にも、右か左か結論をつけなければならないことが、切実な問題であることを、彼が痛感すればするほど、出口のない苦悩に追い込まれていくようで、その脇にある、自分の男としての気持ちが、久美に惹かれつつあることを教示していることを認めることが、彼を本当に苦しめている原因であることは明らかだった。

 くだらない。こんなことに振り回されるなんて自分らしくもない。しかも自分の教え子だというのに、ここ最近の落ち着かない心地ときたら自分でも呆れるくらいだ。

 しかし稲生だけにはどうしても、あの学生時代にあった初々しい感情を捨てきれないどころか、あれが再び身に感じられたことの懐かしさに、嬉しさまで覚えているではないか。そんなことをするために自分は教師になったのではない。忘れろ、校内では自分が男であることを忘れてしまえ。教職者、聖職者、サラリーマンではない、自分の目指す先は教師を越えたところにある、と誠志が必死に抵抗すればするほど、彼がいかに久美に縛られているのかが、彼自身、より強力に意識されるだけで、柔軟性のない自分の思考が疎ましくて仕方なかった。

 それから、いつか、久美が訊いてきた悪魔についての考えが、彼の脆い意思を貫き、風穴を開け、あの問いかけの意味が、おぼろげながらに、彼女の本性に少しだけ近づいた、かすかな手応えを与えた。



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