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広い空間の館内にある、ひとつの展示品の前で立ち止まり、久美の父親が彼に手招きし、ガラスケース越しのマリア観音像を指差し、
「どうです? うちにあるのと違わないものでしょう?」と誇らしげに誠志の同意を求めてきたが、彼はほかの展示品が見たくって、適当に父親の喜びそうな感想を返し、満足そうに頷く父親を残しその場を離れていった。
照明の暗い館内でも、展示品には強く光が当てられていた。かくし部屋の前を横切ると突然、オラショの祈りが流れ、反射的にその方を振り向いたら、柱にある、十字架に祈る実物大の人形の復元ジオラマが、ひと際照らしだされて彼の網膜に焼きつけられた。祈りの声は、センサー感知で流れるしくみになっており、彼がかくし部屋に近づきすぎたために、勝手に驚くはめになり、誰もそれを見ていなかったことを、ひとりで安心していた。
さらに展示品を見てまわる。香炉の内にマリア仏と十字が刻まれたものや、仏像が十字架に変わるからくり、キリシタンの葬儀に使われた経消しの壷など、様々な工夫を凝らし隠れキリシタン達が禁教時代を過ごしてきたことが窺える品ばかりで、時間をかけ、一つ一つ展示品の説明文を読んでいくと、いつの間にか彼は、入り口に辿り着き、館内を一周していた。
そのまま正面玄関を抜け、ロザリオ館前のベンチに腰かけ、丘の上を見上げ、南国系の樹木が多く、ブーゲンビレア、パンジー、ビオラといった鮮やかな色彩の、冬咲きの花が広がる天主堂の庭に、春先になればヤブツバキがもっと色数を増してくれるから、そうなれば複雑で、目にうるさいくらいに天主堂を引き立て飾りつけるはずだった。
ヤブツバキが天草灘に沿ってあるのが、天主堂からでも一望でき、温暖な土地柄もあり、山の斜面に自生したヤブツバキ林は観光に一役買っていて、毎年三月には椿まつりが開催され、他の特産品と並び、名産品として椿油も売られていた、その時の光景を彼が懐かしく思い浮かべていたら、そっと久美がひとりで彼の隣に座り、「疲れたんですか? 顔色良くないですよ」
肩にかけたバックからハンカチを取り出し、誠志の額を拭おうとするのを、彼が手の甲で遮り、大丈夫だからと、久美の細い手を押し戻した。
「……心配してやってるのに」
「余計な気づかいはいらん。それより、またお父さん達を置いてけぼりにしたのか?」
久美は苦笑し、「置いてかれたのはわたしの方です。あのふたりにはわたしは不要なんだから」
誠志はそういえるだけの根拠があるのか訊いた。家のなかでも手をつないだり、キスしたりしている姿をみれば、誰だって疎外されたように感じるでしょう。両親の仲が良すぎても子供には悪影響になることもあるんですよ。
誠志はそれで久美が自分に父親代わりをさせようとしていることを納得した。そういうつもりの愛しているならば、なんとか久美の期待に答えられそうだとも考えた。
ロザリオ館に下りてきた人々を指差し久美が訊いてきた。悪魔とはなんですか、と。彼が、角を生やし、毛むくじゃらの、牛みたいな姿の生き物を連想し、そう答えた。
「違いますって、そんなこと訊いてんじゃなくって、この人達ですよ。悪っていうのは、遠いおとぎばなしや、神話にでてくるやつじゃなくって、ふつうの、にんげんのことを訊いてるんですよ」
そんなことに頭を使わず、もっと別なことに興味を持て、と彼がいうのを、「先生が言ったでしょう、悩んで苦しめって」と素早く切り返した。
黙りこむ彼に、久美が祗園橋に連れて行ってほしいと頼んできた。誠志が、それなら両親も誘うべきだというのを制し、もう許可はもらっています、なんなら今携帯で確認してみましょうか、とあきらかに不愉快な様子をみせた。
どう考えてもそれは久美の虚言であることは想像がついたし、それでも誠志はやっぱり両親にことわっておくべきだと譲らなかった。
わかりました、と久美がロザリオ館の前にある、特産品売店に立ち寄り、みやげものを選んでいた両親のもとへ駆けて行き、両親に話しかけると、ベンチに座りその様子を眺めていた誠志の方を見やり、両親がそろって軽く会釈をした。
勢いのついた足取りで、久美が肩で息をしながら、両親の許可はもらえましたから、もう大丈夫です、と汗ばんだ手で、彼の手をとり、ベンチから腰を上げるように急かし、彼よりも先に、ロザリオ館の駐車場に停めてあった車の助手席側に立ち、ドアのロックが解除されるのを待ち構えていた。
「先生の車って飾り気がないですね。今度なにか、アクセサリーでもあげましょうか?」
さっさと助手席に座り、手の届くところ全てに触れ久美が楽しそうに、車内の模様替えを提案しているのを、誠志は何の気なしに聞き流し、祗園橋近くにある有料の駐車場が混んでいてくれればいいのにと願っていた。
久美が助手席に座ったことで、海を近くで眺めることができないと、残念がっていたものの、その表情にはみじんもそんな色はなかった。むしろ海を眺めるために、誠志をまず視界に入れなければならないことを嬉しがる素振りさえ窺えた。
昼時の、西海岸の反対車線は混んでいて、本渡へ帰る道は通りがよく、早く久美を座席から降ろしたい彼にとっては好都合だった。久美が、クラスの男子の名をひとりずつあげては、あの子はナルシストだ、あの子のつけている香水が鼻に障る、あの子は陰気だ、つまりはクラス全部の男子をけなし、誠志がいるせいで、彼女は交際相手を見出せないと、その責任を押しつけようとしてくる。彼にとっては見当違いも甚だしく、いいかげん、その話題は飽きていたので、相槌だけうち、本渡までの帰路を、無言で車を走らせていた彼の視界を、ガソリンスタンドの看板が横切った。熊本市内から本渡までに掛かる輸送費のため、熊本市よりもガソリンの値段は高く、看板から数字が取り外されていた。
山間は切り開かれ、次々と住宅地にされると、誠志のような余所者が住居を構えるようになり、それに伴い土地の値段も上がり、家賃も熊本市内と変わらないほどに跳ね上がっていた。実生活の、些細な、それでも身に迫る不安に誠志が耽り始め、提供する話題に、彼が全く興味を示さないので、やがて久美から退屈そうなあくびが洩れると、彼はふと、我に返り、強張っていた神経が、幾らかほぐれているようだった。