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切支丹館取り壊しに反対する市民団体の活動は過激化し、市長への脅迫の手紙まで送られたことが地元紙で報じられたが、それが本当に市民団体の送りつけたものか、その証拠も示されておらず、誠志はその記事の全てを信用する気にはなれなかった。

 市民団体の中心人物の一人である、地元の歴史研究家である、佐々木教授と面識があったことも理由のひとつだった。

七十歳を越え、なおも歴史探求への意欲は衰えず、熟考冴えわたる教授が、自分たちの不利になるような安易な阻止をやるわけがない。そう決めつけ、誠志は新聞の記事は市よりの記者が書いたものに違いないと、そこで新聞を畳み、卓上に放った。

 隣の、英語教師で、誠志と仲の良い松田が新聞を拾い上げ、誠志が読んでいた紙面を開いた。

「ああ、これか。老朽化しとったってな。四十年も経つなら無理もなか」

「いや、市は耐震調査もしとらんって話しらしい」

「PH測定か。でも古か建物ならアスベストの問題もあるとやろ?」

 誠志は、切支丹館にアスベストが使われている箇所も確かにあるが、市民団体が専門機関に調査を依頼した結果、取り壊す必要はないという報告がなされたことに加え、当初改修だけのはずだったのが、改築に変更されたのは、市側の思惑が先行し過ぎたためだということを、矢継ぎ早に説明した。

「なるほど。改修なら一億、改築事業に変更したら七億円の援助金が入るんか。なら、そうするわな。市は合併しても赤字は残ったままやし」

 松田はこの土地の出身であるにも関らず無関心すぎる、と彼がもっとこの問題を取り上げるべき必要のあることを訴えた。

「でも、反対派なら自分たちに不利な証拠はださんやろ? アスベストのことにしても、専門機関ってどこのどいつらのことや?」

 誠志は、市が調査をせずに改築が必要だとした根拠が薄いこともまた事実だ、と力説した。

「沢口は反対派か。頼むから仕事休んでデモなんて真似やめてくれよ」

 笑いながら誠志の肩を叩き、まだ授業開始のチャイムは鳴っていなかったが、松田はそのまま職員室を出て行った。

 誠志は、自分が反対派よりの思考になりつつあるのを危惧していた。自分は思い込みの激しいところがあるから、一旦そうなってしまえば間違いなく職務放棄し、反対活動に従事する可能性がなくはないことを理解していた。

 ひとりの人間に大勢を突き動かすような、強力なちからを持ったものなど、それこそ特別な存在としてある人物なのだろうから、自分のような凡人は、せいぜいなるようになっていく世の出来事を後追いするしかできはしないだろう。

 チャイムが鳴り響き、彼は教科書を手に立ち上がった。授業が始まってしまえば、余計なことを考える隙間もないほど熱中し、生徒のために国語を教え込んでやるのが、今自分に出来る精一杯なのだ。そう意気込み、今日最初の授業へ向かうため、三階の三年生の教室までの階段を、勢いをつけ駆け上がっていった。

 三年生の二学期となれば、もう大学受験までの追い込みが優先で、残りの授業も駆け足で行い消化するのみで、ほとんどの時間を模擬テストに費やしていた。誠志も受験対策に力を入れていたから、授業開始から十五分の小テストを、繰り返し生徒にやらせていた。

 小テストの答え合わせの途中、小説の心情を推察する問題に、ひとりの生徒が疑問をぶつけてきた。

「なんで問題の製作者と自分の意見が一致せんと点数がもらえんのですか?」

 思春期にありがちで、誠志のような大人にはありきたりな、もう何度も尋ねられた、それでも、彼らにとっては正当で、素朴な疑問に、彼は前もって用意して置いた、彼自身の見解を述べ始めた。

 国語教育は、特におまえの抱く疑問には答えを与えてやれるほどの全能性はない。それを考えることこそが、柔軟で、吸収性の高い学生時代に最も必要なことなのだ。だから安易に答えを求めようとせず、あえて苦しみのなかに身を置いてみろ。不条理さに悩むことで、人格はより形成されるのだから。

 彼の、ひとりよがりな熱の入った言葉は、生徒達にはいまひとつこたえなかったようで、別の生徒が、「先生、じゃあ答えにあるような考え方に、おれ達を誘導しようってことなんか?」別の生徒が続いて言った。

「そんなこと考えだしたら国語の成績が落ちるわ。先生おれ達ば混乱させんでくれよ。大学受験に落ちたらどうしてくれっとや」

 誠志は、少なくとも自分にはそんなつもりがないことを、冗談めかしに答えた。

「いっとくけど、おれは日教組じゃないからな」

 教室中に、いっせいに生徒達の笑い声が響き渡った。


 昼休み、今度の中間テストの問題を考え、去年、一昨年の傾向から、誠志なりに本番の受験のやまをはっていた。

前任の、国語教師の試験問題を参考にし、自分なりの改良を加え、より有用で実践的な問題に作りかえてやろうという野心から、手元にあるだけの参考書では物足りないような気がして、もっと何か役立つものでもないか考え図書室へ向かった。

 途中の廊下で久美と尚子がおしゃべりをしていた。その前を横切る際、ふたりは笑い声をいっそう高くし、誠志が通り過ぎるのを見送っていた。彼は久美と視線を合わせないよう努めた。久美が自分の行き先を先回りしているようで、彼はどうしても神経が高ぶってしまい、腹立たしさが勝り、三年生に出す今度のテストは難しいものにしてやれ、といった理不尽な悪意まで生じてきた。

 何もされていないのに、誠志は久美にしてやられたようで、あまり子供だといって軽んじていたら、いつか本当にとんでもない目に遭うような予感があった。視線は目指す先におき、素知らぬ態度で通り抜ける。そういった対応をとる時点で自分がどれくらい久美のことを意識しているのかが窺え知れるので、誠志はさらに落ち着かなくなる。

 田舎の学校の図書室では、やっぱり何の収穫も得られず、ただ久美から受けた不快感だけが彼の手元に残った。すぐに戻ってしまうとまた久美が廊下に居そうだからと、誠志はもう少し粘ることにした。本棚の下にある辞典を開くと、小さく薄い白色の虫が、旧字体の文字の上を斜めに横切ろうとしている。誠志は辞典を閉じ、虫が潰れて小さなしみになるところを空想しながら、両手で強く押さえつけた。

 図書室から職員室へ戻る途中、誠志は来た時と別の道を通ることにした。二階の奥まったところにある図書室から、そのすぐ下にある職員室までの階段を使わず、久美のいた廊下を通らずに済む、遠回りな道順を選び戻っていった。

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