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 丘の頂上から千人塚を見下ろせるところまで歩き、てっぺんにある十字架を視線においたまま、彼にも十字架を見るように手招きした。

 殉教戦千人塚(じゅんきょうせんせんにんづか)の周りを囲むようにして、ジャノメエリカの桃色花が咲き始めていた。誠志が久美のとなりに来ると、千人塚にわざわざそんな花を植えたのは、わたしのような意地の悪い女に違いない、と独り言のように呟いた。彼が同じように塚を眺め、「そうとも言い切れないだろう」

 久美がうなだれ、いいえ、そういうのは女にしかできないことです、きっと女の仕業です、と頑なに主張した。彼女は一度だけ誠志の横顔を、彼が気づかないほど素早く盗み見て、耳元へため息をつくような、けだるく重い口調でしゃべりだした。

「扇動って、それを実現させようとやっきになっているときはいいけど、いざそうなってしまうとつまらないものね。わたしは先生を愛してるっていってきたけど、それは全部嘘。わたしに従う人たちは大勢いるから。バカみたいにみんなわたしを信用してくれる……、クラスの子達、近所の大人達……、だからわたしには反対勢力の存在が必要だったんです。そんな時、先生の青臭い教師像を語る姿に、わたしは生涯の宿敵を見つけたときのような、複雑な悦びを初めて感じられたんです。毎日が楽しかった。先生の嫌がりそうなことを考えるために、先生の表情や、話す言葉の裏を観察したりして……、充実してました。わたしはいろんなやり方を模索し、それを行動に移し、先生を責め抜いた。くだらないものから、ちょっと激情的なものまで、いまおもうと恥ずかしいくらいのやつ……、新田を使ったのはあきらかに失策だったけど、それらを先生はわたしの仕業だと承知の上で、懸命に堪えてこられた。先生は、先生の目指す目標のひとになれたんですよ。わたしの与えた苦行に耐えることで、いまの先生は、このロザリオを頂けるくらい立派な聖職者になったんですよ」

 頬を叩いた。丘の頂上にこだまする反響が、誠志の脳内に跳ねかえり唸っていた。感情の赴くままに、久美を、一切の加減もせずに、彼は右腕を振りぬいていた。教頭が、職員会議で見せた虚偽の擁護の言葉や、同じ職場で働く教師達の黙秘のいじめにも、生徒達の冷淡な眼差しにもなかった、圧倒的な屈辱感が、彼の体を振るわせた。いままでにない感情が全身を占め、久美のうずくまり、はたかれた頬を強く押さえ、必死で痛みに堪えている姿にも哀れみさえなく、全身を覆う屈辱の怒りは衰えることはなく、その炎はさらに勢いを増していくようだった。

「お前のはそんな大層なもんじゃない。子供のいたずらだ。俺を陥れたって? そうじゃない。お前に同情したから黙ってただけだ。でももう情けはかけんぞ」

 もう公園とは呼べなくなった、掘り返された地面の、沈み込むような感触のなかを進み、石段を踏みつけるようにして下りていく彼の背中に久美が、自分は六歳の頃、教会に勤める、青く冷めた目の外国人の神父に、服を脱がされ体中を撫で回されたことがある、と悲鳴のような叫びで訴えてきた。仕返しをしたまでだ、と。両親に話しても信じてもらえなかった、だから復讐してやろうと、その日決意した。

「わたしは不幸なんです――」

誠志は振り返り、静かに息を吐いた。

「それが本当のことだとしても、遅すぎる。ひどい仕打ちだな。でも、それだけしか思わん。ほかには何もなか……」

「……」

 誠志が久美に背を向け再び歩き出すと脅える声で、

「教頭がなんで重成像に拘るか知ってますか、あいつは建設会社と繋がりが――」続けようとする彼女の言葉を遮って彼が言った。

「市が建設会社に前金で一千万円支払っとることか? それならもう地裁に住民監査請求書が出されとる、おまえが背伸びなんかせんで子供らしゅうしとけば、助けてもやれたのに……」

 先生を助けようと思って、わたししだいで教頭を陥れることもできるのに、まだ教師に戻れるのに、と久美がひざをついた姿勢で、服に付いた泥を払おうともせずに、切々と嘆くのにも、彼は非情な返答を叩きつけた。

「おまえはおれの邪魔しかしとらん。現に退職したんだって、おまえのせいじゃなかか――」

 誠志の本心に、ふたりが別々の感情を、同時に抱いた。彼は、自分の意思の底にある、利己的なものに突き当たり、偽りの自己犠牲を確認した。

 彼女は、彼の言葉に精神的な拒絶と、突き放された絶望感に、複雑な涙を滲ませた。

久美が、涙で濡れた顔に薄笑いをうかべ、「……そうだった、あんたもう先生じゃなかったわ、……じゃあ、はやく消えろ……」と口がうまく動かせないらしく、躓きながら、口調に勢いもなく、ほとんど口篭るような、か細い声だったので、彼は全部を聴きとれなかったが、もう先生ではない、という言葉だけが際立って記憶に残り、長い間後をひいた。

 それでも、切支丹館跡地から遠ざかる距離に平行し、久美のとぎれとぎれの、寂しく卑屈に泣き笑う声はしだいに薄れ、坂を下る彼自身の硬い足音にもかき消され、自らに対する憤りだけが、心のうちにくすぶり、いつまでも鈍く疼いていた。

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