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退職してからしばらくは引越し作業に忙しく、外出することも近所への買出しくらいの日々だったが、ようやくアパートを退出する目処も立ち、久しぶりに教会へ行ってみることにした。
それまでは、久美の両親に会うのを恐れて避けていたのが、引越しの日取りが決まった途端、まあ二度と会うこともないだろうからといった開放的な気分が誠志を教会へと向かわせた。
ここ最近は近所の目も、まるで彼を監視しているような強張った視線で、彼の外での行動も控え気味になっていた。
平日の教会は人の気配もなく、なんとなく教会の中へ入るのも躊躇われ、誠志は教会の周りをうろうろしている不審者みたいに、外から建物の中を覗き見ているしぐさが自分でも空しく感じられ、まだ着いてから10分も経っていないのに車に乗り込んでしまった。
彼の思い描いていた教会の雰囲気ではなかったことで懐かしむ気分にはなれなくて、すぐにそこを離れて行った。彼のちょっとした下心に反して、彼を気遣う生徒はなく、ただ一人として彼のアパートを訪れ慰めの言葉をくれる者もいなかったことに落胆した自分に、彼は腹が立った。
無償の行為として教職についていたつもりの自分が偽りに思えて、今までどれほど無理をして生きてきたのか、彼自身思い知らされた。結局自分はそうなりたいと願う唯の人でしかなかっただけで、教職者などには程遠い凡庸な人間だったということだ。それならいっそ久美の誘惑に乗り行くところまで行ってしまえば、結果は同じようになっただろうし、誤解を解くことをする必要もなくなり、偽善をする為にこんな葛藤を抱え去ることにもならなかっただろう。
一昨日に会った新田のつまらない嫉妬からの中傷にも、同じように感情的なやり方で怒鳴りつけてやればよかった、と久美からの嘘まみれの手紙を受け取り、正義感を着飾った新田の正論まみれの抗議に馬鹿正直な対応をとってしまったことも、まだ自分は教職に未練があることを物語っていた。
感情の表面的なところでは、もう決断を下したはずだったのに、ちょっとした他人の言動でこんなにもあっさり揺らいでしまうことが、彼にはまだ迷いのあることを自覚させた。
うまく偽善者にもなれず、かといってカッコ悪く開き直りも出来ない、自分はどこまでもどっちつかずな奴だった。本当は久美に惹かれていて、どこかで久美と立場を捨ててしまいたい気持ちを受け入れることが出来なかったばかりに、彼女にいいように翻弄されていったことを誠志は理解できるようになれていた。
彼は堅苦しく物事を見すぎていたために、返って全体を見通すことが出来ず極端な思考に陥っていたそれまでの日々を省みて、何も久美を好きだという感情まで偽ることはなかったことに思い至った。
その感情を含め、教師として久美に接していればよかっただけなのだ。好きだからどうこうなるわけではない。行動を起こさなければ恋愛に発展していかなかった学生時代を思い起こせば簡単な理屈だった。彼は、好きだということを認めてしまえば即久美と体の関係にまで進んでしまうという極端な理屈を勝手に作り上げ脅えていた。最近のそれらしい事件を見れば男の教師なら誰だって少しくらい考えるだろうその手の関係。
それを認めたくなかったのは、誠志が自分だけは特別な存在でありたかったからで、そこに久美のような生徒の付け入る隙があった。彼は純情という言葉が似合う精神の未だ未成熟な大人でしかなかった。彼は聖職者という言葉に縋る心の弱い人間であった。何かに縋りたいのは誠志も、久美も同じだったからこそ二人の関係が奇跡的に、また歪に噛合い一時の奇妙な関係性が出来上がっていただけのことだった。
そんな関係性に誠志が気づき始めた頃、ようやくその土地を去る実感と決意が、彼に久美との対峙する時を知らせた。