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 視聴覚室での出来事はすぐに生徒達の耳にも伝わり、保護者から誠志を懲戒免職にするよう声があがり、説明会では保護者の、彼に対する様々な罵声が飛び交った。誠志は黙り込んだまま、何度も頭を下げるだけで、それが保護者達の怒りをよけい買うことになった。

 教頭が必死になって、日頃の彼の教師としての活躍ぶりがいかに熱心で一途なものかを熱弁してはいたが、結局保護者の納得を得られないまま、説明会は終了した。

 職員室では、松田と教頭以外の教師からはしかと同然の扱いを受け、なかには、あからさまに誠志に聞こえる声で、なぜ、責任を取って学校を辞めないのか、その図太い神経が信じられない、などと言い出す教師も出てきた。

 教頭の頼みで、あの日誠志は教頭のしたことの責任を負うことになった。駆けつけてきた教師やまだ校内に残っていた生徒達は、三人をみてどうしたらいいか判断に迷うそぶりで、しばらく状況を見極めようと彼らを一人一人観察し、誠志と久美の唇から血がでていることから、一旦は教頭が暴力を久美と誠志にふるったものと結論づけようとしたが、慌てた教頭の、誠志と久美との密会の場にたまたま居合わせ、そんなことは止めるよう説得していた、というせりふが、その場においては異様な力を持ち得たのは、皆が、誠志と久美がふたりでいるところを一度や二度ではなく見ていたからだった。

 教頭のぶさいくな言い訳に反論をしなかったのは、久美のことを考えてのものだったが、さすがに教頭が、誠志が久美を犯そうとしたところを救った英雄に祭り上げられると、なんだかくだらなくって、教頭の白髪や、こぶみたいに垂れた両頬、ゆるやかに膨らんだ下っ腹が一変しみすぼらしく感じられ、子供相手にむきになり口げんかでもする時の、大人気なさに自省の念にかられるような恥ずかしさがあって、畳みかけるよう彼を悪者に仕立てようとする教頭の嘘に、久美の弁明も得られず、誠志はそれで汚名を被ることを決意した。

 必死になり弁解すれば真実を皆に分かってもらえる自信はあった。けれど、それをやると久美が喜びそうな気がした。彼は久美の思い描く通りにはならないためだけに無言でいたようだった。

 教頭はその件以来さらに、重成像を建てる活動を強め、熱心に保護者達に会への寄付を募っていた。誠志は、教頭の温情ということで、給料の減額と二週間の停職で済み、教職を退くことなくいられたが、生徒達は目に見えて彼を見下すようになり、授業もまともに受けるものもおらず、別の教科書を広げ、独自に勉強しだす生徒がいても、誠志は注意することも出来ず、ただ、黒板だけを相手に授業を行っていた。授業中、久美だけが彼の声を熱心に聴き、黒板に書かれた文字全てを楽しそうに書き写しているのが、彼には不愉快でならなかった。どちらにしろ久美を喜ばす結果しかなかったようで、彼は自分の浅はかな自己犠牲の精神を疑りはじめた。それでも黒板に書く手を休めず授業を進めていった。

 あの日、久美の叫び声を聞きつけた教師や生徒のなかに、いち早く新田の姿があったことを思い出した。新田が皆を連れてきたのだろうかとも疑ったが、真相を突き止めても何にもなりはしないから、そこで止めておいた。

 その場で、駆けつけた教師に訊かれても、久美は何も答えたくないとだけで、ひどい目に遭ったのだから当然だと、だれもそれ以上は、彼女から事件の真相を訊き出そうとはしなかった。

 そうなると、自然と教師も保護者も生徒達も、教頭の話に頼るしかなくなった。それに勢いを得た教頭のでたらめな英雄伝に、初めのうちは脳内で何度も反論をしていた誠志は、ふと、松田以外は教頭の言葉に誰も疑問を持っていないことを発見した。

 誠志をかばうのは松田だけで、職員会議に集まった教師達のなかに、井上先生の姿を見つけ、一番に彼を糾弾してくるのを、興ざめする心地で、むしろ滑稽だと鼻で笑ってやりたくなった。

 松田以外の教師達も同様で、教頭の言葉を一心に聞き入って、自ら考えることを止めてしまったかのような教師達の態度は、教祖の言葉に頼り、ありがたいお言葉みたいに全てを受け入れる信者達の姿を見ているようだった。その光景は吐き気がするほどで、誠志の傍観したような態度が気に喰わないと、ひとりの教師が、彼を怒鳴りつけるのも、そらぞらしく映って見えてしまうだけだった。

 久美が誠志を罠にかけたことは疑いようのないことだった。しかし、策略というような上等なやり方ではなく、ほとんど無策で、どうしようもない稚拙な行動をしたにも関わらず、皆みごとに思惑通りの感情に変化させられていた。扇動というのは複雑な方法では駄目で、むしろ簡略化したやり方こそ、その威力の絶大さがあるようだと、あの時、教頭の熱のこもった話し振りに、飽きた様子も見せない教師や生徒達の態度は、自らの考えを裏づけしてくれるようで、誠志は冷笑まじりの皮肉のひとつでも、生徒達の前で披露してやりたくなる。

学校のなかでは、松田だけに真実を話していた。話を聞き終えるとすぐに松田は、疑いを晴らし教頭を退職させるべきだと息巻いたが、彼が久美のことを告げると、「実はな。あの稲生ってやつにな、うちのクラスのなかにひどい目に遭わされたっていう男子がおって、そいつに訊いたら、稲生ってのはそうとう裏表の激しい性格らしいぞ」と言って、久美の異常性を話しはじめた。

 それは、以前に渡り廊下で見た光景そのままに、交際を申し込んだ男子を一喝し、彼女の外見に似つかわしい方言で、男子の容姿にまでふれ、ひどく罵られたというものだった。その内容自体には驚きはしなかったが、久美にしては不用意な行動がひっかかった。視聴覚室には、あずき色したカーテンが備えつけられてあり、あの時それが開けっ放しにされていたことを思い出し、それが久美の、彼女自身の未成熟なからだに掛けた保険のようで、そういった細部にまでこだわる彼女が、彼が近くにいる時だけ行われる、彼だけを不愉快にさせる、彼の性質を知り尽くした絶妙な行動が、新田や他の生徒を巻き込み出せば、自然と彼女の悪いうわさまでも広がり、結果、自分の首を絞めることになる事態を、あの久美が考えつかないわけがなかった。だとすれば、教室内で見せた楽しそうな笑顔は彼女の強がりだともとれる。そう彼の推測が確かなものとなるにつれ、久美もまた、彼と同様に追いつめられ、判断力を鈍らせていることが、しだいに理解されてくる。

そういった彼女の思惑や心理状態が、輪郭を覗かせ窺い知れるようになると、彼はどうしても心底から彼女を憎む気にはなれず、むしろ哀れみの情が芽生えさえし、彼女の奇怪な言動は、悪意のない子どもじみた、愛情への渇望を浮き彫りにさせ、いじらしくもあり、そういったものに隠された、あるよこしまな疑惑に、全神経が集約され導かれていった。

 彼はその日、学校を去ることを決意し、松田にだけそれを打ち明けた。彼の、融通の利かない性格を知る松田は、考え直すように勧めたものの、内心では彼の心変わりを期待してはいなかった。二度説得をしたあと、松田は自嘲気味に、「おれみたいな奴にしか教師は務まらんけん、そのほうが沢口にはよかかもしれんな……」と苦笑いをしてみせた。

 誠志の退職が生徒達のうわさにのぼり始めた頃、久美が学校に来なくなった。稲生家に連絡をしても両親は例の親しみ易い口調で誠志にも対応をしてくれるので、当事者であるはずの両親が一番彼に優しくすることが信じられなかった。久美がいつか言った両親の愚痴が、それとは聴こえなくなり、もしかしたらあの時真実を告げていたような気がしてきた。

 さらに数週が過ぎた後、久美が家出をしたと両親から連絡が来た。誠志の退職日を狙ったかのような久美の失踪にも、それほど神経を乱されることはなかった。あれほど肩肘張って守ろうとしてきた教職を捨てると気持ちがこれほど穏やかになれることを彼は素直に受け入れ一時の休息を楽しもうと考えていた。

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