11
一年の国語を、井上先生に代わり見てやることになり、これで取り壊しが決定してからもう七度目の代理授業だった。さすがに生徒達の間からもうわさが流れ、そのことを訊かれる度、誠志は適当な言い訳を彼女の代わりにしていた。その日は自習ということにして、職員室に戻ろうとした誠志に、野球部の丸坊主が、
「井上先生のせいで沢口先生も大変ね」
「井上先生にも考えがあるとだけん。お前らは気にせんでもよか」
教室からは反発の声が起こった。
「先生、おれたちは先生より長くここにおるけん、よう親から話ばきくと。ここじゃ隠し事なんかできん」
「役所に入るにはコネがいるってことも、だれでんしっとるけん。しらんとは先生んごたる余所から来た人だけや」
野球部の言葉に追随して、新田が発した言葉に誠志は私的な怒りを覚えた。役所のことを引き合いに出してきたことが、唐突であまりにも会話の内容とかけ離れていたのもあり、彼は新田を睨みつけ、もし新田が次の言葉を言おうものなら、殴りつけてやろうとさえ昂奮していた。そして、正面の生徒達全員を見据えるように、自分ではもう肩までこの土地に馴染んでいるのだと、皆に話して聞かせた。
「三年目じゃ、おれもまだ余所もんか?」
「せんせい、おれは十六年住んどる」
生徒達の笑いに、誠志は苦笑するのが精一杯だった。そのやり取りの間、珍しく久美が彼と目を合わそうとしてこなかった。
久美が授業終りに、分からなかったところがあると質問にやってきた。その際、すばやく生徒名簿の間に薄い黄色の便箋を差し込んできた。教卓の壇上で起きた、ほんの一瞬の出来事に、生徒達の誰も気がついたふうな様子はなかった。新田ひとりを除いては。
新田は、気難しい、ませた頭脳を持った少年の、世間を自己の内で結論を急ぐあまり、悩み抜くということを軽視する、いわゆる、あたまでっかちな生徒だった。決めつけがひどく、クラスでは親しい友人もいないようだった。いつも教室の、自分の机だけを領域とし、休み時間になっても、そこから離れていこうとしない。周りの生徒も彼を気にかけてやるものもおらず、初めのうち誠志は、せめて自分だけでも打ち解けてあげようと、新田に、特別な親しみを持って話しかけるよう努めていたが、それが気に入らないらしく、新田はよけいクラスから遠のくような拒絶の態度をとるようになってしまった。新田との膠着した関係が、久美の思惑により、なんらかの進展が見出せそうだったが、それが悪い結果になるという可能性が高いことも、彼には分かりすぎていた。新田は間違いなく、久美が彼に手紙らしきものを渡したところを目撃していた。はやとちりな新田が、発作的によからぬことを企みはしないか、誠志はまた別の不安が脳裏をかすめた。
職員室内において、周りを警戒しつつ、便箋を開け、手紙を読む。
「先生。実は、わたしは教頭先生に頼まれて沢口先生を見張っていただけなんです。放課後下記の時間に視聴覚室まで来てください。証拠をお見せしますから」
具体的なことが書かれていなかったので、誠志はどうしようか迷ったが、教頭に頼まれた、という文から久美がそれを知り得ていることが心にしこりを残した。また田舎の無差別に放流されるネットワークが働き、久美がその情報をつかみ、自分を呼び出す口実に利用しようと目論んだ、と考えれば合点がいった。文面には書かれていなかったが、彼は久美がひとりで視聴覚室にいる姿を想像していた。
見張りなどしても何も得られないことは誠志自身がよくわきまえていた。佐々木教授の誘いにも、井上先生の叱咤にも自分の立場を境界線上に置くことを止めなかったのだから、久美の文面には嘘くささだけが滲み出ているようで、彼女が殉教祭以来おとなしくしていたのも、彼女自身これ以上誠志を追い詰める方法が尽き、ついにこんな幼稚な行動にでたと考え、ではどうしてそこまで自分に固執するのか、久美の内心がさらに底深いものに感じられ、彼は真相を知りたいおもいから、彼女の誘いにのってやることにした。
放課後、久美の手紙に指示された通りの時間に、彼は視聴覚室へ向かった。もしこの手紙を利用して告白でもされようものなら、その場ではっきりと断わり、せめて痛手を最小限にとどめてやることが、教師として自分が彼女にしてやれる精一杯だと信じて疑わなかった。
五時半を過ぎた、三階の視聴覚室まで辿り着くまでの間、ひとりの生徒とも出くわすこともなく、この時期、三年生は学校に居残って勉強するものはおらず、ほとんどの生徒達は塾で、受験テクニックの追い込みをしている頃だろう。それは教師の誠志にとって寂しくもあった。教え子達が志望する大学に合格してくれるのならば、塾で受験対策を十分すればいい。けれど、それを考えると教師としての自分は、受験の前ではまるで無力のような存在にさえ思える。いったい生徒達は合格を勝ち取った時の喜びを、自分と塾講師のどちらと本当に分かち合うつもりなのだろうか。沈み込む面持ちのまま、視聴覚室のドアを開けた。
教頭が、久美の体に覆いかぶさるように抱きついているのが、まっさきに視線の先に入った。言葉もなく、こちらを見つめているだけの誠志を振り返り、教頭が久美から体を離した。
久美はふたつ重ねた長机の上で仰向けのまま身動きもない。教頭が慌てふためき、誠志に事情を説明していたが、どの言葉も誠志の耳には入ってこなかった。机上に横たわったままの久美の、制服の乱れたところから露出した肌が、反対側の校舎からわずかに届く明かりに、ほとんど暗闇に近くなった室内でも強調され、そこだけに誠志の意識を惹きつけ、捉え離さなかった。
ふいに久美が身を起こし、まだ誤解だと言い張る教頭の背後から、彼を押しのけ誠志の目の前に歩みより立ち、いっさいの憎しみをぶつけるような形相で睨みつけ、誠志がその瞳の恐ろしい輝きに身をすくめ、弱々しく睨み返すのが精一杯なのに恥ずかしさを感じていると、彼女が思いがけない強さで、彼の両腕を縛るように抱きつき、むりやり、ほとんど叩きつけるようにして、激しく唇を押しつけてきた。
唇越しに歯がぶつかり、血の味が口の中に広がっていく痛みが先に来て、誠志はすぐにはそれを拒絶することができないでいた。
久美の腕力が思ったよりも強かったことで、よけいにむきになり、彼が手加減なく、彼女の両腕の拘束を解き、片手で顎をかちあげ、彼女のよろけた拍子に、両肩を握りつぶすくらいに爪をたて掴み、男の腕力の限りを尽くし突き飛ばした。
久美が長机とパイプ椅子を弾きながら床に倒れていった。遅れて金属のぶつかり合う、神経を削るような音がいっせいに押し寄せてきた。
久美のスカートがめくれ、膝から血が滲んでいるのが暗がりでもはっきりと覗けた。久美が上半身だけ起こし、首だけ誠志の方を向き、乱れた前髪が顔半分を隠し、その影から悲しみの眼差しで、彼だけを睨みつけ、腹の底に溜まったものの全てを吐き出すような金切り声を何度も上げ、人が集まってくるまで叫ぶのを止めようとはしなかった。久美の下唇が切れ、傷口が、張り叫ぶたびに広がっていった。血が制服のネクタイにまで垂れていた。叫び声に混じり赤い唾が飛び散った。
教頭はふるえているだけで、パイプ椅子を手すり代わりに立っているのがやっとのようで、口は動いていたが、声が喉のところで塞き止められたように、吐息すらなかった。
誠志の唇がじんじんと痛み、口内に溢れてくる血の唾液を飲み込むごとに、鉄の味が知覚された。叫び声に呼ばれたらしい、複数の人の乱暴な足音が近づいてくるのが、久美の息注ぐちょっとの間だけ聴こえてきた。ドアが開いていたことで、誠志はそわそわしだし、視聴覚室から逃げてしまおうかとさえ、その足音に脅えだした。が、体が硬直しきって、両拳を握りしめ堪えるのがやっとだった。