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彼がその学校に赴任してから初めて担任を任された一年一組は、全体的におとなしく見えていたのは束の間で、ひと月も経たないうちに皆それぞれ本来の個性を現し、彼を困らせはじめた。
特に彼を長く深く悩ませる難題を持ち込んできた久美という、成績も良く対人関係も巧く、クラス委員に選ばれた時は、彼も生徒達と同様に、久美が適任だと内心喜んでいたほどしっかりとした、彼女の育ちの良い、穏やかな人当りがあれば、このクラスをまとめる基盤のようなものを築き上げるのも、それほど難しいことではないように思われ、彼は達観していた。
しかし、そのクラスの中心になってほしいと願っていた久美本人が、四十人の生徒のなかで、最も彼を悩み苦しめる存在になるとは、その時の彼は一握りも考え及ばなかった。初めての担任ということもあり、はりきりすぎていたことも、彼の、教師としての洞察の目を鈍らせる結果となった。
久美は一見すると控えめな性格で、クラスでも話題の中心となるようなことはなかったが、与えられたクラス委員としてはとても優秀で、誰にでも同じ態度で接し、行事などは率先して係りを割り振りする、生まれ持ったリーダーの資質を存分に発揮し、それでも男女問わず久美を悪くいうようなことは、生徒達のあいだから表立って聞かれることはなかった。
入学当時は赤いフレームの眼鏡をかけていたが、いつの間にかコンタクトに替えていた。
髪型も、黒髪の長く重たそうだったのを、肩にかかる程度にさっぱり切り落とすと、ただいるだけで他人の気を惹く魅力的な女の子に変貌を遂げていた。久美に好意をよせる男子は学年を問わず、多数のうわさが教師の間にも伝わってくるほどだった。
学生生活の華といえば、かつて自分がそうだったように、恋愛が一番先にくるのだろうから、彼は自分の学生時代を懐かしむ心地で生徒達の一喜一憂するのを見守っていた。
十年も前の高校生時分にも、学校中の注目を浴びる異性はいた。いつの時代も同じことを繰り返し、現在自分はそれを傍で眺め、時には未成年らしい危うさで、先を見通せない無茶をやる。それをなんとか諭し、できる限り真っ当な学生生活を送れるよう指導しているつもりでも、生徒達は簡単に彼の情熱を裏切る真似をしてみせる。
それでもまだ、聖職者というものを信じて疑わなかった彼は、それを内に秘め、自分の生徒達への接し方を貫き通せる精神力を持ち続けることができていた。
久美には、尚子という、彼女よりも身長は低く、容姿も劣ってはいたが、生まれ持った明るい性格から、久美とは違う好感を持たれる友達がいた。二人はいつも行動をともにし、外見では劣る尚子が久美の引き立て役のような存在になっていた。
初めのうち彼は、久美がそんな悪知恵を働かせるような子ではないと、彼女のことをかいかぶっていたから、ただなにか気の合うところがあったので仲良くなったとしか考えていなかった。
尚子がしょっちゅう久美のそばにいるからか、久美に告白する男子をみたことがなかった。彼の知らないところで、生徒達は学生なりのやり方で交際を申し込んでいるのだろうし、そこまで立ち入ってやることもない。あまり過保護すぎても反発を生むことになるだけだった自分の学生時代を思い返し、深入りはしないよう心がけていた。
二学期が始まってもまだ幼さを抱えたままの生徒がほとんどのなか、中学生臭さが抜けてきた生徒も幾人かはみられるようになった。そのなかでも久美は最も早熟な生徒となった。
彼の赴任してきた土地ではもうすぐ殉教祭が行われる。遠い昔に戦乱で命をおとした信者達を慰める、ミサやキャンドル行列があるため、街はその準備にそろそろ活気づいてくる頃だった。
彼も珍しさから二度行列を見物し、夜に大勢の人々がキャンドルを手に、ライトアップされた街中を厳かに歩く様子は、宗教に特別の興味をもたなかった誠志に、カトリックへの好奇心をもたせるきっかけになった。
その土地にはキリスト教に関連するいくつかの逸話があり、誠志は切支丹館に展示されている文献や資料を見学することが休日の日課になっていた。
丘の上にある切支丹館は人も少なく、生徒達との忙しい戦いの憩いの場にはうってつけで、生徒達もわざわざ休日にこのへんぴな場所を訪れることもなく、もっと若者向けの遊び場のあるところへ集まっていた。
ここにいれば、教師としてのしがらみから解放される。彼は館を離れた位置から眺め、三角屋根のアルファベットの『A』を模した建物の、四十年以上も経つのにそれほど傷んではいないことを赤茶色のレンガ造りに、ひび割れが少ない外壁から見て取った。まだこのままでも十分使えそうだ、と誠志は、もうすぐこの建物が取り壊されることが決まった時のことを思い出した。
市の財政難がつづき、国の補助金を得るため、市が提案した『まちづくり事業』の目玉として、観光スポットにもなっていたその切支丹館を新しく建て直す、国の地域再生計画の認定を受けた際の、住民の反発は大変なものだった。
住民達は市が不正に補助金を得ようとしていると訴え、住民への報告もなく提出された申請書類に虚偽があるとして、補助金交付決定の取り消しを要望し、反対派が活動を始めてはいたが、それも虚しく、とうとう今月末取り壊されることが決定されることとなった。それから、毎日のように市民団体が役所の前でデモを起こしていた。キャンドル行列とは違ったその荒々しい抵抗の行進は、彼にもよそごとにはならず、そうかといって、教職を放棄しデモに参加するなどという、職務に反することはできなかった。教師というのではなく、彼は自らを聖職者だと厳しく律していた。
どんな不当な出来事が起ころうとも、職務の末席を汚すような活動に加わるのは、教育者がしてはならない、可能な限り生徒達の模範としてあらねばならない。そう聖職者の自己にある理性と誓約を交わしていた彼は、生徒達にも慣れた態度を許さないでいた。必ず沢口先生と呼ぶように厳しく言い聞かせていたのは、一度生徒のひとりに彼の、誠志という変わった名前を呼び捨てにされたことがきっかけだった。彼は自分の名前が嫌いだった。学生時代のあだ名が名前だった。その言葉の言い方だけで蔑みに聴こえてしまう損な名をつけられたことを恨みもしていた。
館を離れキリシタン墓地へ歩いて行く。十字をきったキリシタン墓群が、手入れされ整えられた草地に建っている。ここに隠れキリシタン達の魂が、十字の墓下から滲み出てくるようで、恐れ、畏まり、険しい表情で墓群を眺めていると、坂下からこちらへ向かってくる女の姿が目に入ってきた。
「先生、こんにちは」
地味目のオレンジ色の、ボーダーのワンピースにカーディガンを羽織った久美が、両親を従い誠志の方へ近づきながら丁寧に頭を下げてみせた。彼は両親に向け挨拶をした。
「稲生さん、こんにちは。お久しぶりですね」
「ええ、またいらしてくださいね。お安くしますから」
彼よりも背の高い父親が、久美の背後から猫背をもっと縮ませ会釈した。
「どうですか、枕の加減は?」
首のすわりが良くなり、枕を替えるだけで睡眠に大きな影響があるとは思いもしなかったことを述べ、彼は家具屋を営んでいる久美の両親に勧められ、自分だけのために新調してもらった専用の枕の出来栄えをおおげさに褒めてみせた。
入学式のすぐ後に行った家庭訪問で久美の家を訪れた際、二階建ての一階部分に並べられた家具のほこりを拭いてまわる彼女を見つけた。その時の久美は、長髪を後ろに束ね、長身を利用し、高いタンスの頭部を背伸びしながら窮屈そうに乾拭きしていた。久美の、赤いフレームの眼鏡のレンズは埃をまとい、彼女が誠志に気づくと掃除の手を止め、それを恥ずかしがってか、そそくさと家のなかに隠れてしまった。すぐに母親が、洗い物でもしていたのか、捲くっていた長袖を戻しながら現れ、笑顔で誠志を迎え入れてくれた。
室内には父親もいて、居間にはマリア観音が祀られてあり、それが珍しいものだとは知らなかった誠志に優しく説いてやるよう、
「これがあるのはわたしのうちぐらいなんですよ、先生」と自慢げにその由来を語ってくれた。
その次の日すぐにマリア観音について調べようと同僚の、彼よりも先にその土地で教鞭をとっていた松田に教えられ、その週の日曜日、初めて切支丹館へつづく坂道を登っていった。
路面が十分には整備されてなく、アスファルトには地割れを起こしている箇所もあった。丘の下に住む住民達は地滑りの危険を訴え、立て替えに反対していた。斜面の急な上り坂の横では土砂崩れが起こっていたし、速度も思ったほど出せず、複雑に蛇行しながらようやく辿り着いた頂上の、駐車場から町並みと海を見下ろし眺め、誠志は、その古めかしく、懐かしさだけを切り取ったような時代遅れの景色に魅了され、切支丹館に安らぎを求め訪れるようになっていた。
千人塚の前で久美の両親と立ち話をし、誠志がキリシタンに興味を寄せていることが分かると二人して、それならばいっそキリスト教に入信した方が早いでしょう。もっと近い位置でいろいろとお調べになったほうが、細かい情報も集まりやすいでしょう、と勧められた。
「わたしは歴史家ではありませんし、あくまで小さな好奇心ですので」
まだ宗教に懐疑的であることを隠し、誠志はそう言って、話題を別のところにすりかえることを考えたが、特別両親の気を惹くような出来事も浮かばず、情けない笑い顔をつくるのがやっとだった。
先ほどまで墓群を囲むシュロの葉の、山風に吹かれているのを静かに見上げているばかりだった久美が、急に口を開いた。
「もう天主堂には行かれたんですか?」
三人が久美の方を振り返った。
「歴史を感じたいんだったら、ここよりも天主堂がいいですよ」
両親も久美の言葉に従い嬉しそうに頷き、天主堂のロマネスク様式は確かに異国の空間に浸らせてくれるから、先生のような日の浅い人はまず、形から入られた方が分かりやすいかもしれません、と父親が、久美の言葉尻をすばやくつかまえつづけた。
「そうよ。先生がここにどれくらい滞在されるのかは分からないけど、切支丹館や千人塚が気に入ったのなら、間違いなく天主堂にも関心を持つはずだわ」
久美が、むじゃきで、幼く、やわらかな顔つきで、誠志を見つめた。
久美が大人の態度を捨て、彼に対し本来の子供として接してきたのはこれが初めてだった。久美が、いつも一生懸命に周りの生徒達よりも大人であろうと努めていたことは誠志も気がついていた。両親が傍にいるから今日は安心して子供に戻れるのだろう。
「お父さん。先生とお話したいことがあるから、ちょっとだけいい?」
両親は、殉教公園辺りを散歩してくるからと言い残し、誠志にも挨拶を済ませ二人して手をつなぎ歩いて行った。
「仲がいいでしょう? うちの両親」
誠志は両親の後ろ姿を眺め、深く頷いてみせた。成績も下がっていないし、中間テストの結果も良かった久美の相談といえば、恋愛のことぐらいしか思い浮かばなかった。でも、彼女がそんなことを自分に話すほど気を許してはいないようで、何を相談されるのか、教師として内心楽しみでもあった。
「――わたし、十字架って嫌いなんです。クロスって、固く一つにつながっているようでも、重なり合っている部分ってほんの一部、中心にあるたった一箇所だけ」
誠志は、久美の言わんとしていることが理解できず、ただ次の言葉を彼女が話しだすのを黙り待った。
時々強く吹く風に乱された髪を片手で整え直し、久美は誠志の横に立ち、二人は同じ塚の中心を見つめているだけだった。千人塚の石碑の前には真新しい花が供えられていた。ボランティアの住民が、定期的に掃除をしているところを、彼も何度か目の当たりにしていた。
「稲生のお父さん達、待ってるんじゃないのか、行かないでいいのか?」
「大丈夫、二人きりの時間を持ちたいはずですから」
誠志が沈黙に耐えかね、久美を突き放してしまおうという狙いは、簡単に受け流され、それ以上彼はなにも話すことがなくなってしまった。
「先生はもうわたしのことを愛してるって、思っていたのに」
彼を背にし、歩き出した久美が塚の、段数の少ない石段を降りきったところで向き直り、なにか呟いていたが、誠志の耳には届かなかった。それでもいいのだというふうな、投げやりな態度で、挨拶もなく公園の方角へ目をやり、両親の向かった後を追うわけではなく、ひとりで散策でもするような、移り気な歩き方で、時間も気にせず、ゆっくり道なりに沿って曲がっていった。
久美の行き先を目で追い、そこから坂下に覗ける寺を一瞥し、誠志はついに水面下でくすぶっていた難題が、久美の一言によって明るみに曝されたことを意識せずにはいられなかった。
久美が自分に好意を抱いているのでは、という疑いは以前からあった。でも、人間は自分の都合の良いような解釈をする精神の働きがあるから、半信半疑でいるほうが案外物事の本筋から外れてしまうことが少ないと考えていた彼は、そのことに深く触れようとはしないでおいた。そんな自分の態度にしびれをきらし久美があんなことを言ったのなら、自分の推測は間違いではなかったことになる。入学当初から、久美から感じていた根拠のない不安感はこれだったのかと、彼も石段を下り、数台停めたらすぐにうまってしまう駐車スペースに置いてある、自分の軽自動車に乗り込み、今日は明徳寺の石段に刻まれた十字を踏みつけながら、じっくりと拝観するつもりだったのを取り止め、寺を素通りして帰ろうと、考えが変わった。