41帰れる? 帰れない?
昔、一度だけ首都ニュアージュにある教会で会ったことがある。
普段は人間のふりをして大陸内を旅しているという、黒い獣人のアレクシさん。
デュクロ司祭とは懇意だとか言っていた。
彼は私と、デュクロ司祭と、ブノワさんを順番に見て完全に固まってしまった。泣きじゃくる赤ん坊を抱えて。
まだ首も据わってなさそう。人間よりも獣人は成長に時間がかかるから……生まれて数か月、かな?
半年経っているかどうかだろう。
そうか。連れ去られたのは一年以上前だから……妊娠中だったから抵抗もせずニコラさんは連れ去られてしまったのね。
作りかけの編み物や、赤ちゃんの服はこういうことだったのね。
妊娠期間も二年近いから、計算は合う。
「ごめんなさい、アレクシ。もうその子にはうつらないから大丈夫よ」
と言いながら、ニコラさんは寝台から下りてゆっくりとアレクシさんに歩み寄った。
「あぁ、下がったんだ」
「彼女のおかげで。ありがとう、アレクシ。向こうに行っているわね」
ニコラさんは彼から赤ん坊を受け取ると、そのまま別室へと去ってしまった。
「おや、アレクシ君じゃないか、久しぶりだね」
沈黙を破ったのは、場にそぐわぬ明るい声をしたデュクロ司祭だった。
「お久しぶりですね、デュクロ司祭。なぜこんな場所に貴方がいらっしゃるんですか?」
「たまたま近くに来ていたから」
なんてことを、デュクロ司祭はにこやかな笑顔で言う。
いや、これ、どうなるんでしょうか。ちょっとやばくないかな?」
「ほう……お知り合いですか」
腹の底が冷えるような冷たい声でブノワさんが言う。
「えぇ。行方不明だと聞いていたけれど、こんなところにいたんだねえ」
「はい。俺もまだ未熟と言うことですね。まんまと人間に騙されました」
「一服盛られたのかい?」
「そんなところです」
私は、緊張感のない声で話すデュクロ司祭の腕をぎゅっと掴んだ。
いや、これ、まずいでしょう。
ブノワさんの目が怖い。
「珍しい動物を集めるのがお好きだそうだからねえ」
「珍しい動物扱いは不本意ですが」
このふたり、いつまで続けるつもりだろう?
これ、帰れないかもしれないじゃないですか。
「ちょっと、あの……デュクロ司祭。まずくないですか?」
震え声で私が言うと、デュクロ司祭はきょとん、とした顔をして私を見る。何度も瞬きを繰り返して、彼は首をかしげて言った。
「どうしたんだい、エステル君」
「いや、あの、大丈夫かなと思いまして……」
「何が?」
いや、何がじゃないと思うのですが。
「あの……このままだとまずいと思うんですが」
なにこれ、危機感を抱いているのは私だけなの?
おかしいでしょう。
デュクロ司祭はアレクシさんの方を向いて彼に言った。
「逃げないの?」
「この首輪をつけている限り、俺は人間と変わらないんですよ」
と言い、アレクシさんは首に触れた。
よく見ると、彼の首にも真っ黒な首輪がつけられている。やっぱり首輪で力を封じられているのね。ひどいことをする。
ニコラさんを連れて帰りたいけれど、赤ん坊がいたんじゃなあ……
首も据わらない赤ん坊を抱えて走るのは危ない気がするし……
いや、そもそも私、このまま帰れるでしょうか?
「そうか……知り合いだったのか……」
などとブノワさんが呟いているのが正直怖いんですが。
「デュクロ司祭様、美しいでしょう、白い獣人と黒い獣人。美しくも気高いこの二匹の存在を知った時、強く欲しいと思いました」
と言い、ブノワさんはこちらに近づいてくる。その表情は恍惚としていて、目には妖しい光が宿っていた。
今ブノワさん、獣人のことを「二匹」と言いませんでしたか? それって動物扱いですよね。私の中に怒りがふつふつと湧いてくる。
そんな彼を見つめるアレクシさんの目がすっと細くなった。
「あんたがいるなら俺は下がる」
アレクシさんは淡々と言い、ニコラさんが消えていった扉の方へと向かっていった。
「司祭様なら決して口外されないと思いお呼びいたしましたが……お知り合いなら事情が変わりますね」
「怖いことをおっしゃる。まあ、僕は抵抗なんてしないけれど」
「それですと私も抵抗なんてできないじゃないですか」
私が抗議すると、デュクロ司祭はしばらく考えたあと、爽やかな笑顔をうかべた。
「言われてみればそうだねぇ」
たまに、いやしょっちゅう私はデュクロ司祭が何を考えているのか分からなくなる。
「美しいでしょう? 黒い獣人と、白い獣人。私はあの二匹を見たとき、心を奪われました」
私とデュクロ司祭のやり取りなど無視して、ブノワさんは語り始めた。
その表情は恍惚としていて、視点も定まっていなかった。
怖い。
さっきまでは普通だったのに。
「先程の部屋にあった双頭の蛇。あれも手に入れるのに苦労しました。
彼らも、手に入れるのに時間がかかりましたが……連れてきてみれば白い獣人は妊娠していて、生まれた子供は同じく白い獣人だった。素晴らしいと思いませんか? 素晴らしいでしょう」
こちらの反応なんてお構いなしに、ブノワさんは喋り続ける。
その様子に私は狂気を感じた。
この人、確実に私の理解を超えている。
「司祭様が仰るとおり、私は動物を集めております。彼らは私が集めた収集物のひとつですよ」
獣人を物扱いしているのは正直許せない。
けれど抗議できるような状況でもなかった。
「司祭様も、私のコレクションに加わりませんか? もう余命いくばくでしょう? ご心配なさらなくても、死体を美しく保存する方法が、異国の技術にございますから。生きているかの如く綺麗な状態で保管して差し上げますよ」
それはもう素敵な笑顔でブノワさんは言い、私は思わず短く悲鳴を上げた。
何なのこの人。なんでこんな恐ろしいことをあんな笑顔で話せるの?
「あれ、エステル君、怖いのかい?」
不思議そうなデュクロ司祭の言葉に私は何度もうなずく。
怖い以外の言葉なんて出てこないですよ、今。
アレクシさんはブノワさんを睨み付け、
「下衆が」
と、忌々しそうに呟く。
下衆の意味はよくわからないけれど、最低最悪だとは思う。
「なかなか面白いことを仰いますね」
デュクロ司祭は笑って言う。なんでこの方はこんなに余裕そうなの?
「警察にも手を回されていらっしゃるんですよねぇ」
「私は、私の邪魔をする者を決して許しはしないだけですよ。警察はどうも私の商売の邪魔をしたがりますからねぇ」
あ、やっぱり警察と癒着しているのね。
賄賂とかを渡しているのだろうか?
お父様に知らせないと。リュシーの父親である町長は知っているのだろうか? いや、知っていたら大きなことになってるよね。まさか共犯ではない……よね?
そもそもこの街でブノワ商会の黒い噂なんて聞いたことないし……
「ねぇ、エステル君」
「は、はい」
デュクロ司祭は正面を向いたまま呟くように言った。
「君のお母様が今こっちに来ているでしょう?」
確かに来ている。
え、今なぜそれを?
困惑していると、デュクロ司祭はさらに言う。
「ここまで来るのにとても時間がかかっちゃった。でも疑いだけで強制的に捜査のためといって乗り込むのは難しいよねぇ。確実な証拠を押さえないとね。相手が大きければ尚更」
「デュクロ司祭……?」
「エステル君、彼らを返してあげないとね」
そして、デュクロ司祭は私に笑いかけた。




