36私が選ぶこと
自室に戻り、私はマティアス様から渡された、指輪の入った箱を取り出した。
その箱は渡されたとき以来、ずっとしまってあって一度も開けていない。
「一年の間に君が俺に興味をもったら俺の勝ち。
君が全然俺に興味をもてなかったら君の勝ち」
約束の一年まであと四ヶ月もない。
興味を持ったら……私の負けか。
興味を持たないなんて無理だった。
よく考えたら一緒に暮らして一切興味を持たずにいるってなかなか難しいよねえ。
あちらが私に興味を抱かなくなるんじゃあって期待したのもあったんだけれど。
全然そうはならないらしい。
箱を開けて、私は中の指輪を見る。
私の心はとても揺らいでいる。
デュクロ司祭みたいに、癒しの魔法を使っていろんな人を救いたいと夢を抱いていた。
けれど、今日のデュクロ司祭の様子を見て、私は心が揺れ動いてしまっている。
私の決意はこんなにも脆いものだったのだろうか?
癒しの魔法の代償は自分の命。
そんなにたくさん使わなければ、デュクロ司祭のようにはならずある程度まで生きることができる。
デュクロ司祭のようにたくさんの命を救いたいと思っていた。
けれどきっと無理だ。
今、この家で三人で暮らしているのが、私にとって当たり前のようになっていた。
ずっと続くわけじゃないことはわかっているし、それにユリアンだってお母さんが見つかればここを出て行く。
マティアス様はあと数か月したらこの家を出て、国に帰るはずである。
そうだ、私が指輪を受け取る受け取らないにかかわらず、彼は国に帰るのでは?
その時私はどうするんだろう?
そもそもマティアス様はどうするつもりなんだろう?
私はいてもたってもいられず、指輪をズボンのポケットに押し込むと急いで部屋を出た。
早足で廊下を歩き、階段を下りていく。
マティアス様の部屋の扉を叩く前に、勝手に扉は開かれた。
驚いた顔の彼は、私を見て首をかしげた。
「どうしたの、エステルさん」
「あの、聞きたいことがあって」
「うん、何?」
「マティアスさんは、一年ここで暮らすとおっしゃっていましたけど、そのあとはどうするつもりなんですか? 王国に……フラムテールに帰られるんですか?」
すると、マティアス様は視線をそらして苦笑いを浮かべた。
「それは……えーと……正直君の答え次第なところはあるけれど。君が良ければ、俺はしばらくこちらに住もうかとは思ってる。でも、ここに住むのは一年の約束だから部屋を探そうとは思ってるけれど」
部屋探し、と言う言葉を聞いて、私の心は大きく揺れ動く。
そもそもマティアス様がここに住むことになった理由の一つは部屋がなかった、と言う点だ。
約束の一年が経つ頃には引越しが多い時期になり部屋もあくから、マティアス様がここに住んでいる理由がなくなる。
「あの」
「何?」
「部屋を探さなくても、ここに住んでいて大丈夫ですよ」
考える前に勝手に口が動く。
マティアス様は目を瞬かせた後、
「えーと」
と言った。
そして嬉しいような、困惑するような、複雑な表情を浮かべる。
「それはどういう風にとらえたらいいのかな?」
「え、どういう風にって……」
呟いてから、私は自分が何を言ったのか自覚する。
ずっとここに住んでいていい、って私、何を言っているんだ。
そもそも私だって親には二年限定でここに住むって言ってあった。
まあ、帰る気はさらさらないんだけれど。
「そもそも二年の期限付きでここに住むと聞いたような記憶があるんだけれど、実家には帰る気ないの?」
「はい、初めからそのつもりでした」
なんだかんだと理由をつけて、とりあえず神官になるまではここに住むつもりでいる。
あと四年くらいかなあ……もっとかかるかもしれないけれど。
「俺もまあ、すぐ帰るつもりはないんだけれど。カスカードだけじゃなくって他の国にも行きたいし」
「私も、できれば紛争地域に行ってこの力を使いたいと思っていたんですが」
「……紛争地域?」
言ってから私ははっとする。
「前も言っていたよね、それ。力っていうのはもしかして……」
マティアス様の顔が心なしか険しくなる。
隠しても仕方ない。というか、言ってすっきりしたい。
「はい、私は……デュクロ司祭と同じように癒しの魔法が使えます」
「じゃあ、彼の後継者?」
「そんな大それたものではないです」
言いながら私は首を横に振る。
そう、後継者なんて大それたものにはなれない。
誰もデュクロ司祭のように自分の命を犠牲にして人に尽くすなんてできはしないだろうから。
「そうか。もしかして何か悩んでいたのってその力の事?」
「はい……あの、これ、マティアスさんに言ったら止められるんじゃないかと思って……その……」
私の声はどんどんか細くなっていく。
私は彼の顔を見ることができず、下を俯いた。
「あー、そういうことか。そうだねえ、自分の命を削って人を癒すと知った今は確かに……止めたいに気持ちにはなるなあ」
それはそうでうしょね。
「でも、言ってるじゃない。俺は、君が決めたことに反対はしないって」
「それは、そうですけど……」
「確かにその魔法を使うのに命を削ると知ったら止めたい気持ちにはなるけれど、エステルさんにしかできないことなんでしょう? デュクロ司祭が言うように医療は発達しているけれどそれでも魔法でしか癒せない病気やけががあることは知っているし。君が信念を持ってその魔法を使うなら、俺に止めることなんてできないよ」
信念を持って魔法を使うなら、か。
今その信念が揺らいでいる。
当たり前になった同居生活。
この生活が終わることを私は望んでいない。
私はズボンのポケットに手を入れて箱を握りしめる。
答えはもうでているじゃない。
私はポケットから指輪の入った箱を取り出して、ドキドキしながら彼に言った。
「あの……これ……」
声が震えてしまい、一気に言えない。
私が持つ箱を見たマティアス様は驚いたように目を丸くする。
「それは……」
「これ、頂いてもいいですか?」
「え?」
「まだ四ヶ月近く残ってますけど、私、決めたんです。だからこれ、受け取っても……」
言い終わる前に、マティアス様は私の身体をばっと抱き締めた。
石鹸の匂いが僅かに香り、耳元に彼の息がかかる。
「ちょ……マティ……」
「その箱を持ってきたからてっきり断られるのかと思った。いいの? 本当にいいの?」
あ、だから驚いたような顔をしたのか。
そこまで考えが至っていなかった。
「すみません、驚かせて。そういうつもりじゃなくて、勢いで持ってきちゃいました」
その気にならなければ返す話だったから、持ってこられたらお断りの話だと思いますね。
「エステル」
耳元で名前を囁かれて、私の心臓は破裂しそうだった。
顔も熱い。きっと顔、真っ赤だろうな。
っていうか、今呼び捨てにしましたよね? 絶対しましたよね?
「な、なんでしょう?」
どきどきしながら答えると、マティアス様の顔が目の前に来た。
緑色の瞳は切なげに細められ、私を捉えている。
顔が近付いたかと思うと、そっと唇が重なった。
触れるだけの口づけに、身体中の体温が上がっていくような感覚を覚える。
彼と口づけするのなんて初めてじゃないのに、恥ずかしすぎる。
唇はすぐに離れ、マティアス様は私の瞳をじっと見つめて言った。
「ずっと、君のそばにいたい」
「わ、私はその……マティアスさんがいる生活が終わるのは嫌なので、えーと……」
何を言えばいいのかわからず、私は思ったことをそのまま口走る。
私は指輪の入った箱を握りしめたまま、彼の背中に腕を回した。
「私も、貴方と一緒にいたいです」
と言うのが精一杯だった。
こんなことを言うのは人生の中で初めてで、恥ずかしすぎる。
父親の賭けで彼が婚約者となった事実はしゃくに思うけれど、まあそれがなければ私たちは出会ってなかったかもしれないしな。
変な父親だけれど、感謝しないとかな。
「エステル」
「はい?」
「箱貸して」
彼は離れながら言い、私から指輪の入った箱を受け取る。
そして箱を開けて中から指輪を取り出した。
箱をポケットにしまい、マティアスさんは私の手を取る。
「できれば誕生日の贈り物にしたかったけれど、受け取ってくれるならすぐしてほしいから」
そして、左手の薬指に指輪がはめられる。
淡い青の宝石が付いたその指輪は幸い私の指にぴったりはまった。
よかった。太ってなくて。
内心私はほっとする。
そして、彼はそのまま私の手の甲に口づけた。




