33幽霊なんていない
夜空には星が煌めき、凍てつく風が時おり吹く。
夜も深いだけあって、辺りは静まり返っていた。
そもそもここは小高い丘の上だから、人通りなんてないんだけれど。
マティアス様の頭上には、ほわん、とした魔法の灯りがふわふわと浮かんでいる。
「やあ」
と言って、マティアス様は白い息を吐く。
こんな時間になんでこんなところにいるんだろうか?
私がデュクロ司祭と一緒に教会を出たときに、家に帰ったはずだ。
斜め掛けにした鞄の紐をぎゅっと握りしめ、私はマティアス様を見つめた。
彼は私に歩み寄ると首に巻いていた焦げ茶色のストールをとり、私の首に巻いた。
「マティアス……さん?」
朝家を出るときはここまで寒くなかったので、ストールをしてこなかったけれど。
いや、そうじゃなくて。
なぜマティアス様はこんな時間にこんなところにいるのだろうか?
彼は着ている防寒着のポケットに手を突っ込み、白い息を吐き微笑んだ。
「家の数と滞在時間の平均から考えて、そろそろ帰る時間だと思って迎えに来たんだ」
「あ……すみません、ありがとうございます」
こんな夜中にひとり歩きなんてしたことないので正直不安だったし、ブノワ商会の屋敷で見た白い影が頭にちらついてちょっと怖かったから、迎えに来ていただいたことには感謝しかない。
「すみません、ストールまで……でもマティアスさん寒くないですか?」
「これでも中に着こんでいるから。
エステルさん、遅くまでお疲れ様」
そして、マティアス様の手が私の方に伸びてくる。
差し出された手とマティアス様の顔を交互に見て、私は一瞬悩んだ。
彼は微笑み、
「帰ろう」
と言った。
この差し出された手を握っていいだろうか?
私は鞄の紐からゆっくりと手を離して、差し出された手をそっと握った。
人通りのない道を、私たちはゆっくりと歩く。
たいていの家は灯りがおち、闇がつつんでいる。
淡い光を放つ街灯と、星明りだけが辺りを照らす。
「マティアスさん」
「何?」
「幽霊っていると思いますか?」
ブノワ商会の屋敷で見かけた白い影を思い出し、私は尋ねた。
「……幽霊がいたら、そこらじゅう幽霊だらけだよね?」
「そうなんですけどねえ……」
そのはずなんですけれど。
……あの白い影はなんだったのかなあ。
「あの、ブノワ商会に幽霊って居ますか?」
「なんで商会限定なの?」
「さっき、みたんです。
ブノワ商会の屋敷の一画に、白い影がいるのを」
言いながら、私は彼のてをぎゅうっと握りしめた。
思い出したらちょっと怖くなってきた。
幽霊なんていない。
うん、幽霊なんているわけないよね?
「白い影?」
「はい。一瞬でしたけれど……一緒にいたデュクロ司祭は見ていないようで。
思い出すとちょっと怖くて……」
そう呟いて、私は思わず身体を震わせた。
「殺人事件があった家に住んでいるのに、幽霊が怖いってエステルさんは面白いね」
そして、マティアス様は笑った。
「いいえ、あの、幽霊が怖いと言うよりなんだかわからないものが怖いです」
「あぁ、確かにわからないことって怖かったり不安になったりするよね。それはわかるよ」
「人の家ですし、あれがなんだったのか確認しようがないから余計にもやもやすると言うか」
「最近噂になっているらしいよ。ブノワの屋敷に幽霊が出るって。そんなわけはないってブノワ商会のガストンさんは否定しているけれど。それはそうだよねえ。幽霊なんていないもの」
握った手が、強く握り返される。
「ではあれはなんだったのでしょうか?」
「そうだねえ。俺が思うに、それは、ユリアンのお母さんじゃないかなあ」
さらっとマティアス様はとんでもないことを言いませんでした?
私は横を歩くマティアス様を見る。
彼の頭上には魔法の灯火が浮かんでいる。
その表情は至ってまじめだった。
「ユリアンの……お母さんてどういう意味ですか?」
「彼女は屋敷に幽閉されているみたいなんだ」
「なんでニコラさんがブノワの屋敷に?」
「人身売買」
またさらっととんでもないことを言いましたよ、マティアス様。
ブノワ商会が人身売買に関わっているっていうこと?
え、そんな噂聞いたことないけれどどういうこと?
困惑する私に、マティアス様は話を続けた。
「一年以上前の話だけれど、フラムテールで人身売買の情報を掴んで踏み込んだときに聞いたんだ。黒い獣人と白い獣人がブノワ商会の屋敷に幽閉されていると」
「どうしてそんな重要な話を今の今まで」
「話したら助けに行くとか言い出すかなと思って黙っていた」
確かにそうですけれど。
「証言だけで証拠がないし、俺の国からしたらカスカードは外国だからね。警察があてにならないようだから俺はブノワ商会にもぐりこむことにした」
「いやあの、話が大きすぎてわけがわかりませんが」
つまり、ブノワ商会が人身売買に関わっていて、ユリアンのお母さんを幽閉しているってこと?
なんで? どうして?
「珍しい生き物を集めるのが趣味らしいから。商会の金でいろいろと集めているみたいだよ。
怪しい会計記録をやっと最近見つけたんだ」
何だかとても大きな話になっていませんか?
脳が情報を処理することを拒んでいる気がする。
「ちゃんとフラムテール王国は人身売買の取り締まりをしているんだ。
その結果ブノワ商会の関与がわかって、俺が潜入捜査をすることになった」
「マティアスさん、王子ですよね? 王子がなぜそんなことを」
王位継承権第二位ですよ?
なんでそんな人が潜入捜査なんて危険なことを。
マティアス様は私を引き寄せると、にこっと笑い、
「この国に住む口実ができるから」
と言った。
「俺は君に興味があったし、君のことをたくさん知りたかったからね」
「いや、でも危なくないですか?
ばれたら……」
最悪殺されるのでは……
「どうだろうねえ。王子とわかって手を出してくることはないんじゃない? そんなことしたらそれこそ大問題だし」
「いや、フラムテールの王子がここにいること自体がおかしいから……」
するとマティアス様は空を見上げてしばらく黙り込んだ後、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「心配してくれるの?」
「当たり前じゃないですか」
「そっかー。それもそうだね」
「ユリアンだって心配しますよ。危ないことはしないでくださいね」
怪我したり、死んだりしたら嫌すぎる。
彼は全く危機感のない笑みを浮かべて私のほうを見る。
「まあ、俺は自分の身くらい自分で守れるし。身元がばれたらその時考えるよ」
「……いや、大丈夫ならいいですけど……」
そんな話をしている間に家に着く。
今日はユリアンがいない。
そう思うと心臓が破裂しそうなほど大きな音を立てて、鼓動を繰り返す。
鍵を開けて家に入り、繋がれていた手が離れて行く。
それを、私は寂しい、と思ってしまった。




