21お互いに秘密がある
その日の夜、いつものようにお風呂の後お茶を淹れに行くと食堂にマティアス様がいた。
紺色の部屋着姿のマティアス様は、椅子に腰かけて食卓を見つめていた。
彼の視線の先にはマティアス様用のカップが置かれている。
何か考え事をしているようで、私が近づいても気が付いた様子はなかった。
珍しい。
いつもなら廊下の足音に気が付いて、お茶の用意をしてくれているのに。
気が付いていないならと、ちょっとしたいたずら心が芽生えた私はそっと足音を立てない様に、彼の背中に近づく。
そして両肩に手をのせて、
「マティアスさん」
と声をかけた。
すると、マティアス様の身体がびくっ、と震え驚いた様子で振り返る。
目を大きく見開いたあと、マティアス様は、あ、と声を出した。
「いつの間に」
「全く気が付いた様子がなかったので、つい。驚きましたよね」
「うん、かなり」
そして、マティアス様は笑う。
怒った様子はなくて、内心ほっとする。怒らせたらどうしよう、とちょっと思っていた。
肩から手を離そうとすると、マティアス様の右手が私の左手に重なる。
え?
どうしよう。これではお茶が淹れられない。
「考えていたんだよね」
それはわかります。
「何をですか?」
「仕事のこと」
「それ、嘘ですよねえ」
根拠はないけれど、違う気がする。
単に仕事のことで私が近づいても気が付かないほど悩むだろうか? と思っただけなのだけれど。
「ははは。違うと言えば違うけれど……あっていると言えばあっているんだけれどね」
「何がおっしゃりたいのかよくわかりませんが」
言うならはっきり言ってほしい。
「仕事のことを考えていたのは本当だよ。ただちょっとね」
そして、彼は首を傾ける。私と彼の手が重なっている肩のほうに。
これは聞かなければよかった話だ。ただ私がもやもやしただけで、マティアス様はこれ以上話す気はなさそうだ。
ブノア商会に何があるのだろうか?
まさか裏であくどいことをやっているとか?
でも悪いうわさは聞かないけれど……私が知らないだけだろうか?
教会でもそんな話、聞かないしなあ。
気になるけれど、でも私は関わらない方がいいことなんだろうな。
悶々とはするけれど。
「お仕事、お忙しいんですか?」
「んー、まあ、最初は慣れないことばかりだったけれど、今はそこまでじゃないかなあ。
書類の通訳とか、計算の確認とか楽しいよ」
「通訳までされるんですか?」
「商会はいくつかの国と交易があるからね。フラムテールとだって言葉は一緒に見えて違う意味の言葉があったりするから、気をつけないと全然違う意味の文章になったりすることもあって」
考えてみたら国の端と端では発音が違うとかあったっけ。
「……それで、この手はどうしたらよいでしょうか」
話をしている間も重なり続ける手は、正直気になる。
マティアス様は悪びれた様子もなく、
「もうちょっとこうしていたかったんだけれど」
とか言って、手をすっと下げた。
やっと手が離せる。
私が手を下ろすと、マティアス様は残念そうな声音で言った。
「せっかく君から触れて来たのに、ちょっと残念」
言われてみれば私からマティアス様に触れたのは初めてかもしれない。
……四ヶ月近く一緒に暮らしてきて、距離感がおかしくなっているかもしれない。
あぁ、これでは私、賭けに負ける。
それでもいいかなと一瞬思ったけれど、私は首を横に振ってその考えを打ち消した。
「君が信仰している名もなき女神って、有名な司教様がいるよね」
「はい。ユルリッシュ=デュクロ様ですね」
私の鼓動が自然と早くなっていく。
どうしたのかな、こんなことを聞いてくるなんて。
話題を変えたかっただけだろうか、それとも他に理由があるのだろうか?
「癒しの聖人だっけ。昔はどの神様の神官も癒しの魔法が使えたらしいけれど、今はもう失われてしまったとか」
「はい、その力が使える神官を巡って争いが起きたりして……秘術化された結果失われてしまったと聞いています」
癒しの魔法を巡って戦争が起こるとかバカみたいな話だけれど。
「彼の継承者っているの?」
お茶を用意している私の背中に、マティアス様が問いかけてくる。
「癒しの魔法の継承者はその性質上、そう簡単には公表しませんよ。デュクロ司祭が特異な例で、それ以前の継承者は表だっての活動はあまりされなかったようですし」
デュクロ司祭は私に魔法を教えてくれた師匠になる方なのだけれど、変な人だった。
癒しの魔法を惜し気もなく使うし。最期は笑って死にたいとよく言っていた。
「ご結婚はされていないと聞いたけれど、そう言うのって子供に継承させるものだと思っていた」
「そう言う方も過去にはいたようですが……デュクロ司祭はご結婚はされないと公言されていますね」
それはそうだろうな、と思う。
癒しの魔法の代償を考えたら、おいそれと結婚はしないだろう。
癒しの魔法は、自分の命を削って分け与えるものなんだもの。
あんなに力を使っていたら、確実に結婚相手よりも先に寿命が尽きる。
「……エステルさん?」
お湯の入ったポットを持ったまま完全に動きが止まってしまった私の肩に、手が置かれる。
はっとして振り返ると、不思議そうな顔をしたマティアス様が立っていた。
緑色の綺麗な瞳と目が合う。
「あ、あの……」
「大丈夫?」
「大丈夫です!」
と、誰がどう聞いても大丈夫じゃない声音で答え、私はお茶の用意を再開した。
「……何か、隠しているよね?」
隠していますがそれはお互い様ですよね?
なんてことは言えず、私は首を横に振った。
「そんなことないですよ」
けれど顔を見たらばれてしまいそうなので、私はお茶を注いだカップを両手で持ち、中を見つめた。
赤茶色のお茶に、動揺した私の顔が映っているように思えて落ち着かない。
「そう、ならいいけれど」
そして、手が肩からゆっくりと離れて行く。
あと八ヶ月あるじゃない。
そこまで隠し通さなくちゃ。癒しの魔法の情報はよほど調べない限りわからないはずだもの。
……たぶん。
でも王国の文献に残ってるとかありえるかしら? そうだったらどうしよう? でも私がその魔法が使えるなんてわかりようがない……よね?
「その魔法が使える人がたくさんいたらいいのにな、って昔は思っていたけれど。そうしたら高い治療費を払って医者に掛からなくても済むんじゃないかって」
「お医者様でないと治せない病気もありますし、癒しの魔法と言っても治せるものには限度がありますから」
マティアス様が言ったようなことを言う人は時折いる。けれどそんなの現実的じゃないんだよね。
医療技術だって年々発達しているし、癒しの魔法なんていらなくなる世の中になるんじゃないかなって思うけれど。
今のところ、司祭様からその魔法を教わったのは私だけなはずだ。
このままだと本当に失われた魔法になりそうだけれど。私がどうするかなんてことは、もちろんわからない。
「エステルさん」
「……はい」
名前を呼ばれてはっとし、顔を上げる。
本当にすぐそこに、マティアス様の顔がある。
顔ちかすぎませんか。別の意味でドキドキするのですが。
落ち着け私落ち着け……無理。
きっと今、私の顔は真っ赤になっているだろうな。
「おやすみ」
「え、あ……はい、おやすみ、なさい」
正直、額に口づけられるんじゃないかと思ったけれど、何もされずマティアス様は私に背を向けて食堂を出て行った。




