16ふたりだけの夜に
マティアス様がここに来て二か月近く。
この家でふたりきりになるのは初めてだった。
っていうかなんでユリアン、泊りになんて出かけたのだろうか?
いや、まあトーマス君たちとは仲いいし、もともと泊まりに行くことはあったから不思議ではないんだけれど。
動揺しすぎた私は、とりあえず落ち着こうと着替えをせずそのまま食堂に行ってお茶を淹れることにした。
あと、何かお菓子はあるだろうか?
買い物は普段ユリアンがしてくれているので、私はあまり気にしていなかった。
食堂を見回して記憶をたどる。そうだ、昨日買ったチョコレートがあるはず。
そう思い、私はお湯を沸かしながら棚を漁った。
茶葉をしまっている棚の下の段からチョコレートが入った黒い箱をだし、私はそれを食卓に置いた。
お茶がわくまでの間、私はさっきの出来事を考えていた。
唇が触れた額にそっと触る。
今も唇の感触が残っているような気がして変な気分だった。
私、マティアス様に好意を持たれるようなことしたかな。
変人奇人が好きだとは言っていたけれど、そんなに変じゃないと思うし……
好きになるのに理由なんていらない、なんていう言葉が頭をよぎる。
私だって誰かを好きになったことくらいきっとあるんだけれど、告白とかしたことないし、こんなところまでおいかけようなんてたぶんしないだろうなあ。
いくらこの町がフラムテールとの国境にあるとはいえ、マティアス様が住む王都からは遠く離れている。
しかもマティアス様、学校を休学して働いているわけですよ。
何か事情があるみたいだけれど、マティアス様も相当変わっていらっしゃる。
だってそんなところで働かなくてもいい身分なはずだもの。
まぁ私だって働かなくても生きていける身分ですけど。
そんなことを考えている間にお湯が沸き、私は用意していた茶葉の入ったポットにお湯を注いだ。
湯気と、お茶の香りがほんのりと漂う。
その時、廊下を歩く足音が聞こえてきた。
足音はお風呂場のほうに向かっていく。
あぁ、マティアス様お風呂か。
この辺りは温泉が湧いており、どの家も蛇口をひねれば熱いお湯が出てくる。
熱すぎるので水で割らないといけないのだけれど。
家の中はとても静かなので、お湯を張る音や水音がなんとなく聞こえてくる。
私はお茶をカップに注ぐと椅子に腰かけてチョコレートの箱を開けた。
赤い包み紙で包まれた丸いチョコレートが、十個以上入っている。
私はその一つを手にして、包み紙を開けると中のチョコレートを口の中にいれた。
すぐにチョコレートは舌の上で溶けていく。
おいしい。
お茶を飲み、ぼうっとしているとまた足音が聞こえてくる。
あぁ、お風呂出たんだなあ、マティアス様。
足音は食堂の前で止まり、扉が静かに開いた。
濡れた金色の髪が、淡い灯明のもとできらきらと輝いてみる。
この人の金髪、綺麗だなあ。私も金髪だけれど、ここまできれいな色じゃない。
ちょっとうらやましい。
マティアス様は黒いズボンに灰色の長袖を着ていた。
たぶん寝間着だろう。
ゆったりとした服で、鎖骨がちらりと見える。
彼は私を見てにこっと笑い、言った。
「ここにいたんだね。先にお風呂入っちゃったけれど」
「大丈夫です。私も、これを飲み終わったら入りますから。
すっかりお茶、冷めちゃったけれど。
マティアス様は私の前を通りすぎると、台所に置いてある透明な水差しを手に持った。
そして棚から自分用のカップを出すと、それに水を注ぐ。
当たり前のように、彼は目の前に腰かけた。
「誰かの力になりたいって言っていたけれど、それが君が神官を目指す理由?」
じっと私を見据える薄い緑色の瞳。
この目も綺麗だな。私の目の色は濃い青で、深い海のようだと言われることがある。海、見たことないけれど。
「こうしてふたりきりになるのは久しぶりだね」
「いや、ほぼ初めてと言っていいかと思いますが。お会いするのはいつも王家の別荘でしたし、中庭で少しだけお話をしていただけではないですか」
「そうだね。大して長い時間ではなかったし。ふたりきりと言ってもきっと誰かが見ていただろうしね」
私はともかく、マティアス様を本気でひとりきりになんてしないんじゃないかと思う。
フラムテールは大国のひとつだし、第二王子とはいえ王位継承権を持つというのによくこの状況を許しているな、と思う。
「お仕事はいかがなんですか?」
「楽しいよ? 特に女性たちが皆優しくしてくれるし」
そして、マティアス様はカップに口をつけた。
ブノア商会に知り合いはいないけれど、そのうちマティアス様の噂が聞こえてきそうだな。
「これ、もらってもいい?」
と言ってチョコレートを指で示すので私は、どうぞ、と言ってチョコレートの箱を差し出した。
「ありがとう」
マティアス様はチョコレートの包みをひとつ手に取った。
「王子がこんなところで仕事しようなんてよく皆さん許しましたね」
「んー、まあ、この町には君がいたし。そのことは大いに利用させてもらったけれど」
言いながら、マティアス様はチョコレートの包み紙を開けてそれを口に入れた。
「目的があってのことですよね。まさか私が理由ではないですよね」
「君が理由だよ。それじゃだめ?」
マティアス様は顔を傾けて言った。
だめ? って、可愛い女の子がやったら似合いそうだけれど、二十歳過ぎた男がやっても可愛さはないと思う。ちょっとだけどきっとしたのは秘密だけれど。
私は首を横に振り、
「だめではないですけれど……一緒に暮らそうってなかなか思い切ったことされますよね」
「まあ、家が決まらなかったのは事実だしね。俺としてはどこでもよかったのだけれど、周りがやはりうるさくて」
「ここ、殺人事件があった家ですけれど大丈夫だったのですか?」
「ははは。それを侍従たちに言ったら固まっていたっけ。俺も別に気にしないしね。戦争なんて昔は至るところで起きてたくさんの人が死んだわけだけれど、そんなこと気にしていたら生活できないよね」
私もそう思うからこの家買ったんですけどね。
もしかしたら私とマティアス様、考え方が似ているのかもしれない。
「君は、二年たったら家に戻るの? そうは思えないけれど」
「それは……その時に考えます。マティアス様こそ、一年たって私の気持ちが変わらなかったらどうされるのですか?」
すると、マティアス様は目を瞬かせた後私を見つめて微笑んだ。
「そんなことは考えていないよ」
「……それってどういう……」
私の気持ちが変わらないなんてない、ってこと? え、どこからきているのその自信。
あと十か月の間に、私の気持ちが彼にむくことが……いや、今のままだと正直自信はないんだけれど……でも私は夢をかなえたいし、それに……私の力のことを知ったらきっと、マティアス様は私を止めると思う。
だから私は彼に気持ちが傾くわけにはいかないんだ。
私が使える癒しの魔法。
魔法の利用には必ず代償が必要だ。
普通は精神力を消耗するから寝れば回復するのだけれど、癒しの魔法の代償はそんなものじゃないから。
マティアス様はもうひとつチョコレートを手に取った。
「だけど、俺は君の夢を邪魔したいわけじゃないからね。今はそれよりも彼の……ユリアンのお母さんを捜すことだけを考えるよ」
「そう、ですね」
私は頷いて、カップを手にして中のお茶を飲み干した。
そして私は立ち上がり、マティアス様に向かって言った。
「私、行きますね。おやすみなさい」
カップを片づけ、私は食堂を後にした。




