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学生時代等の思い出に関連する作品

クイズに燃えていた、愛しき日々  ーテレビのクイズ番組で優勝するまでのクイズに関する半生記ー

作者: 恵美乃海

クイズのテレビ番組で優勝するまでの、クイズに関する半生記です。

過去運営していたホームページからの転載です。

 04.7.5記    


 子供のころ、クイズ番組を見るのが好きだった。子供としては、結構答えられたほうだと思う。しかし、クイズのテレビ番組に出てくるような人は特別な物知りである、と思っていた。


自分の未来像として、クイズ番組に出演するということについて、憧れはあったが、実現したい具体的な夢として思い描いてはいなかった。


 相撲と野球。特に相撲については、僕は相当に詳しいようだ、という自覚は持っていた。 大人になるまで、自分より詳しいという人に会ったことはなかった。


 あと、歴史が好きだった。歴史関係の本も、少年時代に結構読んでいた。  


 父が大学に行くことができなかったこともあり、子供のころから、親に

「がんばっていい大学に 入りなさいよ」

としばしば言われていた。  


 そのせいで私は少年時代、人の見方として、その人の学歴で判断してしまう、という部分があった。

 難しい大学を出ている人ほど偉い、という価値基準だ。東大卒と知ると 、それだけで偉い、と思ってしまう、ということだ。  


 後年、母親に

「教育方法として、ああいう価値基準を子供に植え付けるという のは良くなかったんじゃないの」

と言ったことがある。

 それに対して母親は

「だって、お前を見ていると、手先はすごく 不器用だし、気は利かないし、大人になって生活力がある人間になれるとはとても思えなかった。 せめていい大学でも出ておかないと自信を持って生きていくことができないだろうと思ったのよ」

と言われた。


 なるほど、親というものは子供をよく見ているなあ、と思った。  

 さてその息子だが、図工、体育というような科目は大の苦手。

 小学生時代、通知表は「2」であることが多かった。

(中学生になって、ようやく「2」をとらないようになった。 それでも体育はずっと 「3」だったのだが、通知表をもらった最後、高校3年の2学期で初めて「4」 がとれた。通知表をもらって、あんなに嬉しかったことはなかった。そのとき17歳、初めて1人前の男の子になれた気がした)


 学科についても、得意なのは、社会と国語だけ。英語、理科は苦手。数学については、算数の内は 得意科目だったし、中学時代も、まだ得意科目だったのだが、高校になって苦手科目となった。


 得意科目が2科目しかないのだから、どう考えても大学は私立向きなのだが、 第一志望は神戸大学であり、実際に受験もした(むろん、おちた)。  


 大学は、自宅から通えるところ、と思っていた。下宿する気はなかった。  

 しかし、結果として入学したのは早稲田の商学部であった。


少年時代、早稲田、慶應に憧れていた、ということはない。両親に

「国立の大学に入ってくれよ」

と言われていたので、憧れの対象は「国立」だった。  


 だから、科目ごとの成績をみて、明らかに私立向き、という自覚はあっても、 最後まで、国立を目指したのだ。  


 最終的には関西の私立に入ることになるだろう、と思っていた私が、早稲田を受けたのは、 一番仲の良かった友人 (私の小説の唯一のファンである人。

尚、彼が 私の小説、特に「緊褌巻」のファンなのは、あそこに登場する主人公の友人のモデルが自分だからである。→ あの小説はその友人以外は特定のモデルはいない。

読んだ人に、 主人公と先生は、私自身が モデルでしょう、と言われたこともあるが、とんでもないです。ものの見方とか 、興味の対象で私自身を反映させている部分も若干ありますが、先生の読んだことになっている本を、私はみんな読んでいるわけではありません。それに、容姿が全然違うし、あの2人のような、優しい人間ではありません。

また、ヒロインも特定のモデルはいません。

 私の母も、息子のために、出版当時、自分の友人に本を紹介してくれたのですが、読んでいただいた方数人から

「あの小説の女の子のモデルは、息子さんの奥さんですか」

と訊かれ、即座 に「とんでもないです」 と答えた、と家内経由で聞きました。

たしかに家内もモデルではありません。ただ、桜田淳子の歌と、 古文の訳に関する、主人公との会話は、結婚前、付き合っていた当時に、家内と 私の間で実際にあった 会話を元にしています。)


が、早稲田と慶應を中心に受験する、ということであったので、「それなら、俺も受験疲れを癒すためと、小学校5年の時に一度行ったきりの東京にも行ってみたいので、ひとつだけ付き合う」

ということで受けてみたのだ。


 従って、東京の大学で受けてみたのは、早稲田の商学部だけである。  


 高校のテストの成績でいえば、私は早稲田に合格できるような成績ではなかったから、気楽に受けた。

ところが、合格してしまった。  


 合格したのは、私がこつこつとまじめに受験勉強をしていたおかげではなく、受験のための勉強の最中も、たびたび、脱線して、自分の興味のあることについて、色々読んでいたおかげである。  


 その年の、早稲田の商学部の配点は、英語が54点。国語が36点。この2科目は必須。それ以外、 社会系の問題と数学系の問題が、選択となっており、36点。であった。


 この選択科目のテストについては、選択できる科目が、全て、問題用紙に綴じこまれており、受験生は その場で問題を選ぶことができる。

 但し、9問ずつセットになっており、あるセットを選んだら、 そのセットは全て回答しなければならない。

 つまり、その場で自由に4つのセットを選ぶことができる ということだ。

 そして、例えば、社会系の科目でいえば、世界史も、日本史も、 地理も、9問×4セット の問題が用意されていたから、数学系、社会系で1科目のみしか、受験勉強しなかった生徒は、全て その科目のみに答えれば良い、ということだ。  


 私も一応は作戦を持って臨んだ。

 私が最も得意だったのは歴史で、自分の感覚 としては、世界史のほうが 日本史よりも少し良い、と思っていた。  

 従って、世界史と日本史は 4セット全て問題を読んでみて、

世界史について は、最も難しいセットを除いて3セット。

日本史は、最もできそうなセットを1セット。

 この組合せで4セット、答えようと思っていた。  

が、問題を見て、驚いた。とにかく世界史が難しい。判らないのだ。

 今まで、 高校時代であっても、それまで 受験してきた大学であっても、歴史で、こんな気持ちにさせられたのは初めてだ った。


 「いやあ、さすがに早稲田だなあ」

そう思った。


 日本史は世界史よりは若干、判ったので、日本史を3セット答えた。が、あとの1セットはやっぱり判らない。  


 ここで、私は他の科目も含めて、全ての問題を見てみることにした。地理・・ ・やっぱり難しい。 それでは第一志望が国立でもあるし、一応、勉強はしていた数学は・・・。とんでもない。全然判らない。

 元々苦手科目なのだし判るわけがない。  

さて、困った。


 途方にくれた私の手が、ある頁で止まった。その科目は「倫理 ・社会」。

 見ると、様々な思想、 主義について問うている。問題を読んでみた。内、8問は、100%正解が判る 。

残り1問は、100%と 言い切る自信はなかったが、でも8~9割は、これで間違いないだろう、という答えが判った。  

これに答えよう。当然、そう思った。


 しかし、おそろしく違和感がある。

得意科目の歴史さえ、あんなに 難しかったのに、何でこの問題だけ、こんなに易しいのだ。なにか、わながあるのか、と何度か見直してみたが、そういうものもないようだ。


「俺は「倫理・社会」について全く、受験勉強はしなかったのに、 それをこの場でやってしまっていいのか」

とも思ったが「いいのだ」と言い聞か せた。


 というようなわけで合格した。合格後、親しくなった友人2人(このホームペ ージの他のタイトルに時々 登場している、熊本の褌男と宮城のドロン)と、この受験問題について話したことがあった。

2人が言うには、あのときの問題は、社会と国語は無茶苦茶、難しく。英語は簡単だった。あれは、 英語で、ほぼ満点が取れていないと、合格はできない。とのことだった。

事実、 この友人2人も英語はほぼ満点とのことだった(ほぼ、は付かなかったかもしれない)

合格後、その問題の載った、問題集で自己採点してみたが、英語については私は32点くらいだったと思う。

その点数 にしても、私にとっては 上出来の点数なのだが、そこで、20点のハンデがあったのが、社会と国語の合計72点の中で 取り返していた、ということだから、あの倫理・社会で取れていた(多分9点) 点数の貢献度が大きかった のであろう。  


 私は全部で6大学11学部を受験した。

当時の平均よりも、かなり多く受験したわけだが、これについては 母親から

「お前は逆境に弱く、浪人して伸びるというタイプではないから、とにかく現役の内にどこかに入りなさい」

と言われていたからだ。  


総括すると4勝7敗。


 合格したのは、早稲田以外は、関学の社会学部と、同志社の経済学部に商学部。

落ちたのは、関大の法学部。関学の法、経済、商学部。立命館の法学部。同志社の法学部。神戸の経済学部だ。


 尚、一緒に早稲田を受けた友人は、神戸の経済、早稲田の商学部、慶應の商学部に合格し、慶應を選んで入学した。


 彼は、東横線の元住吉沿線に下宿したが、しゅっちゅう泊まりに行き、彼の大学の友人とも、彼の下宿先でよく会い、しばしば、いっしょに飲んだ。


 私にとっては、いわば、自分の実力以上の大学に合格したわけだが、不思議と高校のクラスメート等から

「お前が、よく早稲田に受かったな」

とは言われなかった。  


私は実際以上に周りから「成績がよい」と思われていた節がある。


 高校時代、テストが返却される際、高1のときも、高2のときも、高3のときも 、それぞれ別の先生なのだが、 なぜか、「社会」の担任の先生だけが、「このクラスの最高点は〇〇」と発表し 、そのほとんどは、私だったからだ。

 私もエエカッコしい、だったから、テストの時は時間が半分過ぎれば、答案を提出して退室自由だったのだが、 いつもその半分の時間が過ぎた時点で、答案を提出して退室していた。

判る問題はさっさと答えを書き、判らない 問題は、もうそれ以上考えても無駄だから、残り時間は、このあとの科目の勉強 を少しでもしたほうが良い というのが、自分自身に対して行う説明だったが、要はエエカッコがしたいだけである。

 提出の際は、いつも こう思っていた

「いやあ、俺ってカッコええなあ。半分の時間で提出して、それでまた、最高点だもんな。俺が女の子だったら、絶対、惚れちゃうね」  

 女の子は、こういうことをする男の子には決して惚れないものだ、ということ は、年を取ってみて、判ることなのだ。


 上記の私が受験した学部だが、経済系及び法学部。つまりいずれも実学系の学部である。 自分が最も好きなことを大学で勉強するのであれば、それは文学部。ということ は判っていた。  

それなのに上記のような学部を受けたのはいくつかの理由がある。  

 ひとつは、両親から

「つぶしがきく学部に入れ。文学部に入っても就職は難しいよ」

と言われ それに反抗するほど、自分自身「これがやりたい」というものをもっていなかったこと。  


 高校時代漠然と、作家になりたい、ということは思っていたが、作家になる のであれば、 別に文学部でなければ、だめ。ということはない。  

 もうひとつは、自分がいつまでも若いつもりで、大学に入るということが目的になっており、 大学に入って何がやりたいのか、という着実な思考をしなかったこと。  

 大学に入った時点で、時間が止まってしまうような気持ちになっていたし、空想癖がはなはだしく、夢想家であり、具体的な人生設計などは持っていなかったのだ。  


 さらに、もうひとつ。

そういう自分を気に入ってはおらず、変えたいという気持ちが強かったこと。

 しゅっちゅう、哲学的なこと、宗教的なこと、を空想し、今、ここにある世界ではなく、別の世界のことばかり空想していた。  


 その私が、文学部に入って、宗教や哲学を学び、また小説の創作を始めるということにでもなれば、 私は本当に、本と空想に埋もれた人生を送ることになり、具体的な手触りのあるものにふれずじまいで人生を空費してしまうという危惧があり、そういう自分を変えたい。現実の中で生きていく自分に なりたい、と思ったことも、文学部を選ばなかった理由だ。  


 少年時代の私の主たる関心が観念でしかなかったから、それをやめるには文学部以外の学部に行くしかない、と短絡的に思ってしまったわけである。  


 後年、文学部に入って、観念的ではない、具体的な学問とふれあうという選択肢もあった、と気付いた。

 が、高校時代の私はとにかく思考の幅がせまかった。


 今になってみれば、私が少年時代に

「やらねばならない」

と考えていたこと。

観念的な宗教、哲学に対する思考にしろ、小説という形で別の世界を創造することにしろ、それは自分が勝手に自分に義務付けていたことで  私はそのことが好きだったわけでは決してない。そこから逃げたい、逃げたい と思っていたからこそ、 大学も実学的学部を選んだということが判る。

が、徹頭徹尾、考えたわけではなく、途中で逃げたので、 年齢を重ねても、少年時代の思考をひきづってしまうことになった。  


今、自分が何に向いていたのだろう、と考えてみると、具体的な学問に取り組む学究生活、というのが 一番合っていたように思う。が、これも「隣の花は赤い」の類であろうか、とも思う。  

その道を選んでいれば、今、私が現実にそうである、サラリーマン、というものを羨ましく思っているような気がする。  


 自分の文章の欠点だが、また話が違う方向にいってしまった。  

 早稲田に入学し、自分の周りの学生たちを見て、

「ここにいるのは、みんな、 高校時代、俺より成績の良かった奴ばかりなんだろうな」

と思っていた。  


 大学でも私の成績は、相当に悪かった。

経済学の最初の授業で、需要曲線と供給曲線というのを教えられて 「なんで、こんなことが学問なんだ。くだらん」

と思ってしまった。だったら、 商学部になど決して 入ってはいけないはずなのだが。

が、反面、そういうことが学問になるのだ、ということは、それまで 観念的な考え方に凝り固まっていた私にとっては、実に新鮮だった。  

商学部で教えられることをまじめに勉強すれば、自分が変えられる、とも思った。その後、お勉強関係の サークルに入ったのだが、そこで先輩にあらためて経済学の初歩を教えられ「面白い」とも思った。  

そこで素直になれればよいのだが、

「このことに、俺の脳細胞の一番大事な部分を使うわけにはいかない」

とも思った。

が、

「商学部に入ったのだから、もうサラリーマンにならなきゃだめだ。そのための勉強だけをして、それ以外のことをしては いけない」

とも思った。

で、大学時代の自分はこの2つの間をいったりきたり、 考えているだけで、何かを夢中になって勉強することはない、という中途半端な生活を送ってしまった。


 ただ、日々の生活については、親元を離れた自由を謳歌し、大学2年以降、そのお勉強のサークルに、 その分野では劣等生ではありつつ、熱心に参加し、多くの友人もできたから、楽しかった。  

 そのお勉強のサークルの春合宿、何日か泊り込んで、お勉強をした(言いたくないが、書いてしまおう。商業英語研究会(ビジネス&イングリッシュ アソシエーション)という。商業も英語も商業英語も苦手なのに なんで、と我ながら、思うが、それを言ってしまうと商学部に入ったこと自体、 なんで?となり堂々巡りだ)。


 その合宿の中で、夜の自由時間、10人以上のメンバーで2日続けて、テレビ の「クイズ・グランプリ」を見て、みんなで競った。

 その2日間とも、正解数は私が圧倒的に一番だった。

「 クイズ・グランプリ」

は 問題が文章として、テレビ画面に全部出る。  

まわりのメンバーは、私の正解数以上に、速度に驚いてくれた。


「何で、そんなに早く正解を言えるんだ。 俺はまだ問題を読んでいる途中だぞ」

本はよく読んでいたから、誰よりも早く 、問題を読めたのだろう、と思う。


「俺は大学の勉強に関しては劣等生だけど、クイズ的知識という点では、早稲田でも上位のクラスなんだ」

ということが、このとき、判った。


 私は、少年時代に培われた、偏差値的な目で見て人を判断する。という価値観により、自分より偏差値が上の大学に合格する人というのは、

「私の知らないことを知っており、私が知っ ているようなことは、みんな知っている人」

なのだと思っていた。

しかし、年齢を重ねるにつれて

「知らないことを知っている」

というのはそのとおりだが、

「私が知っているようなことは、みんな知っている」

訳ではない、ということが 判ってしまった。

そして、 自分より偏差値が低い大学の出身者で、クイズ的知識において、私など全然、敵わない人がいくらでもいる、 ということも判った。

その2つが判って、私はようやく、偏差値的な価値観で人を判断することの無意味さ、くだらなさ が判った。


 私にとっては、より入学が難しい大学に合格するだけの学力を有する人より、 クイズ的知識にすぐれた人を 尊敬する気持ちのほうが大きいからだ。  

 私がこのような価値観をもつにいたったのは、少年時代から本が好きで、とにかく

「多くのことを知っている人」

に対して、尊敬する気持ちが強かったからである。


 その中でも、私が興味のあったジャンル

「歴史」「文学」「芸術」「宗教」「哲学」「スポーツ」「地理」についての知識が豊富な人に対して最も尊敬の念が篤く、憧れていた。

その他のジャンルについて

「多くのことを知っている人」

に対しては、むろん、尊敬はするが 「憧れる」という気持ちは希薄であった。 


 こういう気持ち、あるいは各々が持っている知識の量を競う気持ちというのは 、 いわば、教養主義につながる心情かと思うが、それは、例えば、戦前の旧制高等学校の学生の間にはみられたようだし、昭和40年代にベストセラーになった庄司薫氏の「赤頭巾ちゃん気をつけて」 及びそれに続く連作を読むと、友人間で知識の量を競う、ということが当時は行われていたようだ。  

その頃までは教養主義の残滓は存在したのであろう。  


が、現在、知識の量を競うのは一部のクイズマニアくらいだろう。  

 今、世間において、知識の豊富な人が一般的な「リスペクト」の対象になっているとは思われない。  

このことにつき、私は批判的な気持ちにはなれない。  

「何を、どれだけ知っているか」よりも  

「何を、どれだけのことを行ったか」  

が、リスペクトの対象となる。

 そういう世の中のほうが、より健全であろう、と考えるからだ。


 大学時代、テレビで色々なクイズ番組があったが、自分に最も向いているのは 「クイズ・グランプリ」だな。 とは思ったが、その当時はテレビに出てくるような人は特別な物知りで、私が予選を受けても、受かるわけがない と思い込んでいた。


 が、あるとき、色々な「特定テーマ」での問題を出す特集が組まれる、という ことが番組で紹介されていた。

「相撲」も「野球」もそのテーマの中にある。  振り返ってみれば、

「文学歴史」「スポーツ」「芸能音楽」「社会」「科学」 「ノンセクション」

と分かれて いた問題の中の「ノンセクション」がその特定テーマになる、というだけのことであったが、全ての問題が 特定テーマになるのだ、と思い込んだ私は「出たい」と強く思った。


自分が最も 得意なのは「相撲」であろうと思ったので、どうしても「相撲」の予選を受けたかった。

大学の友人にも頼んで、私は100枚の応募はがきを 書いて応募した。

ただ、別のジャンルも書いておこうかと思い(あわよくば、3つとも受けられるかと思い)、90枚を相撲、9枚を野球、あとの1枚を幕末にして、

「100枚書いた」ということをアピールするために、その100枚を 束にして輪ゴムでくくって投函した。


 期待通り「予選参加」の通知が来た。しかし、そのテーマは「幕末」で、それだけだった。

なんで、100分の1なのに 「幕末」なんだ、と思った。

あとから思えば「幕末」は最後に書いたので、束の 一番後ろになっており、それを見た側が、100枚全て「幕末」と判断したのでは、と推測する。その推測が当たっていたとしたら、ずいぶんと迂闊なことをしてしまったものだ。  


 番組で出される問題のウェイトでいえば、「幕末」の問題数は全体の6分の1 であるべきだが、半分が「幕末」 に関する問題だった。結果は予選落ち。


 あのとき、「相撲」で予選を受けていたら、どうなっていただろう、とは思うが「やっぱりテレビに出てくるような 人は特別な物知りなのだ」とあらためて思い、私は以後の年月をクイズに関して は、比較的熱心な一視聴者として過ごした。


 その後、ウルトラクイズの放映が始まり、平成になって TBS系列、フジ系列で「クイズ王」が始まり、 世の中にクイズブームがやってきた。

そのとき、既に30歳代になっていた私だったが、平成4年、1月、 フジテレビの「クイズ王」を見て、「もう一度挑戦してみたい」と思った。


そこに出ていたクイズの強豪たちは輝いていた。問題のレベルの高さも気に入った。

テレビを見ていて、結構、正解が判る。私には正解が判ったのに、 番組の中で誰も答えられない、という問題もあった。


「俺にもやれるのではないか」

と思った。  


 そう思ったとき、本屋に並んでいた、ウルトラクイズの優勝者であるN戸さん の、クイズに関する3冊の本を見つけ、それを読み、その気持ちはさらに強まった。


そして、平成4年2月、当時私は福岡に住んでおり。福岡で実施されたフジテレビ「クイズ王」の予選を受けた。


「クイズ・グランプリ」以来、2度目の挑戦である。


「クイズ王」の予選は全国(8会場くらいだったと思う。もっと多かったかもしれない)で実施される。


 予選の受験者総数は万を超える。

全国の各会場で、同時刻に同じ問題が実施される。


 問題の数は、100問。予選実施後、直ちに採点され、その日の内に全国トータルで、成績上位者100人が発表され、テレビで 放映される全国大会出場となる。


 福岡会場に集まったのは、600人ちょっとだったかと記憶する。

 そして、全国一斉100問実施にあたって、会場の 収容人数に限りがあるので、事前の小テストを、100人程度ずつ小会場で分けて実施し、各会場の成績上位者各20名 合計120名(多分)だけが、全国一斉の100問を受けられるとのこと(人数については記憶違いがあるかもしれません)。


 私が分けられた会場の中には、相当多くの人数によるグループの輪ができており、声高に色々話している。漏れ聞こえてくる話から類推するに、九州大学のクイズ研究会のメンバーのようだ。


「こいつはとんでもない組に入ってしまったな」

と暗い気持ちになった。


 さてテスト実施。自分としてはそこそこには出来たかな 、とも思ったが、満足のいく出来でもなかった。思い返して

「しまった、違った。答えは○○だった」

と思うような問題もあった。


 しかし、5人に1人にも 残れないようであれば、話にならない。

 だが、この組は、クイズに関しておそらくは精鋭であろうメンバーが集結している。どうだろうか。


 採点が終わって、担当者が入室してきた。


「合格者を発表します。得点が高かった順に呼びます。」


「では、先ず、K林さん」


九大クイズ研の連中が歓声をあげる。

みれば、メンバ ーの中でも、話の中心にいた人だ。

顔が顎鬚でおおわれており、精悍な風貌だが、可愛らしい眼をしている。


「次は、○○さん」

シーンとなった。

呼ばれたのは、私の名前だった。


小さく手をあげた。


それ以降、呼び上げられたのは、ほとんどが、九大クイズ研のメンバーだった。

その都度、大きな歓声が起きた。  


私は、ひとり静かに喜びをかみしめた。


「このメンバーの中で2番になれたのか」。

嬉しかった。


さて、100問の本予選が終わって、結果発表。


「この会場で、合格したのはひとりだけです」

「ひとりだと、人口比でいえば、10人くらいは合格するはずなのに。九州はレベルが低いのか」


そう思うまもなく 呼び上げられた。


「U田さん」。


スキンヘッドで、私と同年齢くらいと思われる方が立ち上がった 。

 この私でも、 テレビで見た覚えがある。自他共に認める、九州における最強者。

一見していかめしいと感じる風貌。満場の中、ひとり屹立し、それがさも当然という風に、にこりともせず、あたりを睥睨する。

その身体からオーラが立ち昇る。


 この時、全国大会出場のための合格ラインは、35点。私は自己採点の結果、32点だった。


 番組放映の際、問題のレベルがどれくらいであるかを示す、という意図で、東大生20人に同じ問題を やってもらっている場面が流れたが、平均点は21点だった。


 その予選会場で、九大クイズ研のメンバーが「メンバー募集」とのチラシを配っていた。

見ると、九大生に限らず、他大学生、社会人、高校生、中学生なども含めた「福岡クイズ愛好会」を発足させる とのことだった。


月に1回、例会(半日、時に1日中、クイズをやる、という会 合)が開かれるという。


 私は入会した。

 やはり九大クイズ研のメンバーが中心だったが、さきのチラシどおり、大学生以外のメンバーも何人かいた。

何より、あのU田さんが入会されていた。

 風貌からいって、多分私より年上だろうと思っていたが、 1or2歳、年下だった。  

 話してみれば、クイズに関しては厳しい人で、後輩に色々と指導などもされていたが、それ以外のことに関しては、実に優しい方だった。


 例会では、早押しボタンなども用意され、担当となった会員が問題を作成し、 相当量のクイズが行われる。

そして、各企画の合間、合間に10問程度の小クイズが実施され、モチベーショ ンを高めるためか、その都度 成績トップが発表される。 

 多分2回目か3回目の例会だったと思うが、たまたま、私が2回続けて最高点を取ったことがあった。

そのとき、私の前の席に座っていたK林さんがふりかえった。


「さすがですね。九大のクイズ研は実質的には、私が作ったんです。今まで、他の会員とのあいだには、かなり 実力差があったと思います。私、同じ相手に2回続けて負けたのはこれが初めてです」

(尚、 サークルが発足した最初期はU田さんはたまに出席という頻度だったと思う。その年の後半あたり から毎回参加されるようになったと記憶する) 


 自分のクイズの力がこのサークルにおいても、相当上位にあるようだ、ということはその時点では判っていたが、 K林さんに、あらためてそう認めてもらえた、ということは嬉しかった。  


 総合的にいえば、このサークルで、その時点では、最も強かったのはU田さんを除けば、K林さん。

 そして、その次の グループのトップあたりには位置していたと思う。  


 4月になった。私が、これ以外に所属していた「相撲友の会」からの連絡で、

「NHKで、近く、相撲をテーマにしたクイズが実施され、その出場者の推薦依頼が当会にありました。出てみたいと思われる方は、○○の番組担当者宛に連絡を取って下さい」


 番組名は「難問即答」。 


1回目が「高校野球」、2回目は「忠臣蔵」。


 その どちらも、私はテレビでみていた。 「高校野球」の時は、「知っていれば、応募したのにな」

とも思った。


 今回が3回目。時は平成4年4月。

その1月に 貴花田が初優勝を果たし、若貴ブーム、真っ盛りの時期である。  


 連絡を取った。訊くと電話口で問題を出すという。福岡から東京までだ。簡単に旅費を出すわけにはいかないだろう。


1,2問出された。軽く答えた。


その次は

「出羽海部屋所属で、過去優勝した力士とその優勝回数を答えて下さい」

「常陸山1回。大錦5回。栃木山9回。常ノ花10回。武蔵山1回。安芸の海1回。千代の山6回。佐田の山6回。 三重の海3回。あと横綱以外でも何人かいるでしょうね。難しいですね」

「いえ、もう充分です」


 ということで、私は「難問即答(相撲編)」に出場できることになった。


 クイズを本格的に初めて(ほぼ、毎日やっているであろう、大学生から比べれば 、本格的に、とは言えないが)わずか 2ヶ月で、テレビ番組に出られることになった。  


 番組、はっきりした人数は思い出せないのだが、200人くらい集まっていたと思う。見ると、大学生のとき、相撲同好会で一緒に相撲を取ったナッキー羽黒蛇氏がいる(拙作の相撲小説「金の玉」シリーズの登場人物のモデルになっている方です)。


 会うのはずいぶん、久しぶりだった。  

様々なタイプの問題で、50人、20人、10人、5人、2人と絞られていく 。

 私は、10人から5人に絞られる時点で、敗退した。


 最後の2人に残ったのは、私は見ていなかったのだが、この前、深夜枠当時の 「カルトQ(大相撲)」で優勝したという権藤さんと、平井さん。

ともに私より若い方だった。 


 決勝の問題は、20人の力士の顔写真がボードに貼られ、一方、何年何場所  優勝○○と20人の優勝力士の表が貼られている。


 全て14勝1敗での優勝。その1敗の相手が誰だったか、該当す る力士の顔写真を貼っていくというものだった。観覧席でこの問題を私もやってみた。 19問正解だった(貼るべ き力士が20枚なら19問正解というのは ありえない。ダミーの力士が数人いた)。

優勝した権藤さんより多かった。  


 その場に立てば、すごく緊張するということは、既にわかっていたので、実際にもそれだけ答えられたかどうかは 疑問ではある。


 が、あんなところまで残れた、という満足感とともに、

「あそこさえ勝ち抜けていたら、もしかしたら優勝できていたかもしれない」

という悔しさが交錯した。 


 番組終了後、打ち上げで制作者、司会のなぎら健壱さんとともに、飲みにいった。司会のもうひとりは目加田頼子アナだったが、この打ち上げには残念ながら所用のため欠席だった。

 出場者の中では本来、優勝者と準優勝者だけが招待されていたようだが、番組が進む中で、平井さんと親しくなっていたので、 平井さんから「○○さんも一緒に行きませんか」と誘っていただき、便乗した。


 その飲み会の中で、 次の「難問即答」は7月。バルセロナオリンピックの開催時期に合わせて実施されるということがわかった。


テーマは当然「オリンピック」。  


この情報はもちろん、福岡クイズ愛好会の例会ですぐに伝えた。私自身、オリンピックは、東京オリンピックから 関心を持ってみていたし、それなりにやれるはずだ。


「優勝を目指す」と心に決め、オリンピックについて、 関連文献を購入し、図書館で借り、勉強を始めた。


 番組が近くなった時点では、 過去の日本人のメダルをとった 種目とその獲得者は全て記憶した(もちろん、付け焼刃なので、番組終了後、みんな忘れました)。  


 そうして準備をして臨み、恒例の電話口での問題にも正解で、またまた参加OKとなった。この電話口では、 前回の飲み会で顔見知りにもなっていたせいか、その方に、出題する問題につい て、相談も受けた。

「例えば、記録を答えてもらう、というような問題は、問題として妥当ですかね 」

「そうですね。例えば、ソウル・オリンピックの時の、幻となったベン・ジョンソンのタイムは? とか モントリオールオリンピックの水泳男子100m自由形で優勝した、ジム・モンゴメリーの記録を答えさせる というような問題なら面白いんじゃないでしょうか。初めて50秒の壁を破ったわけですが、49秒99でぎりぎりでしたから」


 福岡クイズ研究会からは、私以外にU田さん、スポーツが得意な九大生のS一 さん(私と名字が同じ。この方は 私のことは下の名前で呼ばれていた)の3人が参加。

 さらに私が当時住んでいた 社宅扱いのマンションで、子供の関係で 奥さんが家内と親しくさせていただいていた、その旦那さんも参加。  


 さて番組の収録開始。司会は森末慎二さんと宮崎美子さん。 また、200人から300人は参加者がいたと思う。参加者が一同に会したところで、番組制作者に話しかけられた。


「中村さん、○○を作った建築家は誰か判りますか?」

「○○ ○○ですね」

(注:ここのやりとりを○○としか書けないということが、私のオリンピックに 関する知識が付け焼刃で、 番組が終わったあとみんな忘れてしまった、という証拠でもある)


「そうです。さすがに知っていますね。このあと司会の森末さんに今と同じ質問を中村さんにしてもらいますから、同じように答えていただけますか」

「はあ?」

「このクイズには、オリンピックについて、特別に詳しい人に集まってもらっている、という印象をもってもらうために、そのやりとりを番組の最初に流そうと思っているのです」


意図は判った。それに私が選ばれたというのは、前回の飲み会で顔なじみになっていたからだろうが、 名誉なことだ。


が、この収録の約2週間後に流れたテレビでは、このやりとりは流されず、代わりに、NHKのスポーツ担当のベテランアナウンサーが、2,3の問題に答えている、というシーンが番組の冒頭に流さ れていた。

私では絵にならなかったということだろう。


さきほどのやりとりのあと、U田さんとS一さんが、

「中村さん、今のはまずかったですね」

と言う。

「今ので、中村さんが、相当な強豪だという印象を参加者に与えてしまいましたね。最初の3択問題、 答えが判らなかったら、中村さんと同じ番号を出しておこう、と考える人が結構出てくるでしょう。 中村さんは、後ろのほうに立った方がいいですよ」

はあ、クイズの熟練者というのはそこまで考えてしまうのか。なるほどなあ、と 思ったが、

その3択、結局は比較的前のほうに立たされてしまった。


 その3択で、30人(だったと思う)に絞られたが、何とか残った。一度、間違えたが、その問題での正解者数は、定員以下だったので、敗者復活戦の末だった。  


 福岡から一緒に参加した3人は残念ながらここで落ちてしまった。


 その次は全15問が出されて、上位10人が次のラウンドにいける、というクイズだったが、これもぎりぎりで残った。


番組が放映されたあと、学生時代、バレーボール部だった姉に

「淳一は、バレーボールの問題ばっかり間違えた」

と言われた。 


さて、次はボード問題で、10人から5人に絞られる。前回の「大相撲」では 、ここで負けてしまった。


これもぎりぎりで勝ち残れた。最後、

「ナディア・コマネチがモントリオールオリンピックで10点満点を取った回数は?」

「7回」

というのが勝ち残りを決定づけた問題だった。


何かで、7回と読んだような淡い記憶があったのだが、絶対の自信があったわけではなかったので、書いたあと、回答に向かって、祈りをささげた。  


この10人残った時点で、同じマンションから出場したご主人が、ご自宅に電話して奥さんに

「中村さんが、最後の10人まで残っている」

と連絡されたそうだ。  


これを聞かされた家内は特に驚かなかったそうだ。自分がメダリストを全て記憶しているかどうか 確認のため、事前に、家内に問題を出してもらったりしていたから、その時点で は、全て記憶している、 ということを知っていた家内は


「優勝するだろう」 と思っていたそうだ。


また、観覧席で、その後の戦いを見守ってくれていたS一さんは、

「私が優勝するのでは」

と思ってくれていたそうだ。  


それまで、すべてぎりぎりの通過だったので、

「今日の淳一さんには運がある 」

と思われたそうだ。  


 S一さんはスポーツ全般に詳しく、このクイズにも相当の準備をしてのぞまれ 、多分、オリンピックの総合的な知識では私を上回っていただろうと思う。

 たしかに、知識だけでなく、勝ち残るためには運が必要だ。  


 あと5人。次は早押しである。5問正解勝ち抜け。誤答は、2つめで、それまでの正解獲得数がゼロに なってしまい、3回で失格、だったと思う。


 さて始まってしばらく、他の回答者のボタンを押す速さについていけない。

 とにかく、押すタイミングが早いのだ。あとでわかったのだが、この中には、ルックス(RUQS:)(立命館大学クイズソサエティーの略称。クイズ界における最強豪の学生プレイヤー(クイズをやる人間は自らをプレイヤーと称 していた)が集う 集団である。


 このクイズブームの時代、立命館の志望動機の相当多くの割合で「 ルックスに入りたい」 というのがあったそうである)

 に所属されていた S乙女さんが、おられたし、他にも、クイズのサークルに 所属していた方が おられたのかもわからない。


 前回の「大相撲」ではそういうことはなかったのだが、 「オリンピック」となれば、専門的なクイズ愛好者の範疇に入ってくるテーマ、となるのであろう。


 早稲田の一般学生の中では早かった私の回答スピード(もっとも、あれは読む速度であり、早押しとは 意味合いが違が・・・)も、クイズをサークルでずっとやり続けている人の中 では遅かった。

 福岡クイズ 愛好会でも、私は、押すポイントは遅かった。  


 従って、たとえ、問題の回答が判っても、押し負けることが続く。回答権がとれない。


次の問題 「1932年のロサンゼルスオリンピック男子100m走で、暁の超特急/」 ここで押した。初めて回答権がとれた。  


単純に名前を答えればよいのか、さらに問題は続くのかは判らないが、そこまで待っていたら、回答権は とれない。  単純に名前を答えた。

「吉岡隆徳」

しかし、更に続く問題だった。

「・・・・と呼ばれた吉岡隆徳のスタートはなんと言われたでしょう?」

正解は「ロケットスタート」  

(隆徳は「たかのり」とは読まないということはこのとき知った)。  


これで × ひとつ。  


またしばらく回答権を得られない問題が続く。

「日本の男子マラソンで君原は三大会連続出場していますが、君原以外で/」

押して、答えた。

「宇佐美」  

誤答のブザーがなる。またか。どんな問題だったのだろう。


「3大会連続出場した選手は誰でしょう? という問題で、正解は金栗でした。 中村さん残念でした」

なんだって。  


私は手を挙げた。

「あのう、宇佐美も3大会連続出場しているはずですよ」


 ディレクターが飛び出してきた。

「カメラ止めて」

まわりにいた人にすぐ、指示をする。

「調べて」  


 マラソンは子供のときから大好きだった。 オリンピックについては東京オリンピック以降であれば、日本の出場選手は全て憶えている。  

私は心の中で確認する。  

東京は、円谷、君原、寺沢。

メキシコは、佐々木精一郎、君原、宇佐美。

ミュンヘンは、君原、宇佐美、采谷。

モントリオールは、宇佐美、宗茂、水上。

間違いない。

しかし、私ひとりのことで、番組を止めてしまった。既に敗退し た 200~300人が、観客席で見守っている。この人たちにも無駄な時間を過ごさせてしまっていたら・・・  

私は、四方にお詫びの意味でお辞儀した。  


確認にはかなりの時間がかかったが、

「間違いないです。宇佐美も3大会連続出場しています」

さてどうするか。


「それでは中村さん、問題に、戦後、3大会連続出場ということで「戦後」ということばをいれて同じ問題をもう一度読み上げます。他の方は答えず、中村さんだけ押して、もう一度、正解を言ってください」

「問題のどこで、押したらいいですか」

正解が言える、言えないだけでなく、どこで押せるか、ということもクイズ回答者 にとっては名誉に関わることなのだ。


 この世界で伝説的に語られているエピソードで、クイズ王に何度もなった西村さんが、

「アマゾンで/」

で、ボタンを押して

「ポロロッカ」と答えた」

というのがある。  


 西村さんは「アマゾン」ということばで、頭の中に、いくつかの回答候補が頭にうかび、

「で」

ということばで、これは、現象を訊いている問題、と推理し、正解することができた、 ということである。  


 その有名なエピソードも頭に浮かび、どこでもいいのなら、問題を読み始めたらすぐ押して やろうか、とも思ったが、それは「虚偽行為」ということになってしまうので、 さっき 押したタイミングに合わせて押して、答えた。

 答えた瞬間、それまでの他の回答者の回答のとき以上のすごい歓声をもらった 。  


 その後、2つめの正解を言えたが、このあとひとりめの勝ち抜き者が出た。

 決勝に行けるのは 前回と同じく2人。残る椅子はひとつ。

「ローマオリンピックのボクシング、ライトヘビー級で/」

押した

「カシアス・クレイ」

正解。 


「では、東京オリンピックのボクシングヘビー級で/」

他の人に押された。正解は「ジョー・フレイジャー」


「それでは、メキシコ/」 ここで押した。

「ジョージ・フォアマン」 正解。


 司会の宮崎美子さんに

「中村さん、すごい」

と、言っていただいた。


 たしかに、タイミングだけいえば、西村さんの伝説の回答並みだ。そう思って、 私自身、得意な気分になった。  


 が、かつて、ヘビー級ボクシング界で、一時代を築いた三人の伝説のボクサー が、各々、オリンピックの金メダリストだった、というのは有名な話だから、あの流れなら、あそこで、 押して正解が言える、 というのは特にすごいことではないのだ。


 いや、仮に西村さんがこれを見ておられたとしたら 「それでは/」で押さないとだめ。そこで押せるはず、と言われそうだ。  


 いずれにしても、これで4問正解。勝ち抜けにリーチ。残り3人の中に3問正解済みの人がいるが、 最も有利な立場に立った。 


次の問題

「モントリオールオリンピック、男子水泳100m自由形・・・」 なに、電話で言われた問題。そのまま記録か。まさか、記録か人名か。 躊躇した。

3問正解者に先に押された。 

押された時点で、モンゴメリーという 名前も読み上げられた。記録でよかったのか。

「49秒99」

正解。これで4対4。  


次の問題 「メキシコオリンピックのマラソン/」 ここで、また、もうひとりの4問正解者に押された。

「マモ・ウォルデ」 正解。


素直に優勝者の名前を言えば良かったのか。  

負けた。  


 決勝の問題は、日本選手団の各大会の旗手を全て答える。というものだった。

へえ、と思った。  


 決勝の問題はメダリストを答えさせる、それしかないだろうと思って準備していたのだが、 違った。  


 旗手については、オリンピック関連の図書、事典等を読んで勉強していった中で、 その一覧表も見た。これも憶えておいたほうがいいかもな、と思ったのだが、 そのまま忘れていたので、憶えていない。   

 もし、勝ち抜けていて、この問題に当たっていたら、頭をかきむしるほど後悔したこと だろう。


 決勝も終わり、表彰式が行われた。最後の5人に残った中で、決勝に行けなかった3人には、 各々、銅メダルが授与された。


 引き揚げるとき、番組制作者の方に、

「いやあ、今回も惜しかったですね」と 言っていただいた。


さて、これでテレビに2回、出ることができ、それぞれ上位進出を果せたわけだが、その2回は、 いずれも特定のテーマに関するクイズだ。  

 

 このとき、私の頭の中にあったことは、ひとつは

「一度は優勝してみたい」

ということ。もうひとつは、


「特定のテーマだけでなく、総合力を試されるクイズ番組にも出場したい」

ということだった。


 福岡クイズ愛好会のメンバーで、私とほぼ同じ年齢で、過去、アタック25に 出場、優勝もされている方に


「アタック25の予選を受けてみられたら、どうですか。中村さんだったら 、予選、通りますよ」

と言われたことがあった。  


このとき私は

「たしかに、アタック25だったら、いつでも予選は通るだろうし、出場して、 対戦相手で強豪と 当たることがなければ、優勝だってできるだろう。海外旅行ができるかどうかの 最後の映像クイズは 知っていることが出るかどうか、2つに1つで、行ける、とは言えないが、優勝ならできるだろう」

などと思っていた。

(大阪に転勤後、4回受けた。1回目は筆記、面接ともOKで、合格通知をもらったが 有効期間の1年以内によんでもらえなかった。2回目は筆記は合格したが、面接で落ちた。ここで落ちるのは、 絵にならない人、という意味になる。3、4回目はいずれも筆記で落ちた。以後は受けていない)  


 が、そのときの私はアタック25に出たい、という気持ちはなかった。   

 私が出たかったのは、その年の正月にテレビで見て、

「クイズに挑戦してみよう」

という気持ちにさせられた フジテレビのクイズ王、そして、その後知った、TBS系の「ギミアブレイク  クイズ王」だった。  


 クイズプレイヤーの間では、これに「ウルトラクイズ」を加えて、当時、3大クイズ番組、と称されていた。

 この3つの中でも、「ウルトラクイズ」が、最も長く続く番組であり、最も権威がある、とされているようだった。  


 しかし、私は「ウルトラクイズ」には興味はなかった。

東京ドームでの○×問題、成田空港でのジャンケンなど、あまりに運の要素が強すぎると思うからだ。    


 私が出たかったのは、フジ あるいは TBS の クイズ王。全国で予選を実施し、その成績上位者が 全国大会に出場できるというのは、ともに同じ。  


 フジは 100人。  TBSは、50人というのが、全国大会に出場できる人数である。

 私は、平成3年以前には、この両番組について、特にTBSについては、見た記憶がなかった。  


 クイズのサークルに参加している内に、上記の番組に関して、過去の予選、本選で出題された問題集も出ていることを知り、やってみた。  


 その結果、私には、TBSのほうが向いていることがわかった。


 問題集の問題をやってみて、番組が開始された当初の2~3回であれば、予選 通過ラインの点数を取れていたことも判った。


 TBSには、私の苦手とする、時事問題の割合が、フジより少なかった。  

 そして「難問」が別に用意されている、というのが私には合っていた。  

 フジの予選は、100問の問題が用意され、1問1点。


 一方、TBSは、通常問題が、50問用意され、これは 1問1点。  

 それ以外に「難問」というのが、10問用意され、これが、1問5点。  で、計 100点。  


 問題集をいくつかやっていくなかで、私は、自分が、通常問題であっても、難問であっても正解率が変わらない、ということを知った。  


 クイズの例会で答える私を見て、メンバーにこういうことを言われたことがある。


「スポーツ問題に答える中村さんを見ていると、「この人、なんでこんなことまで知っているんだ」と よく思います。そして科学問題の回答者となっている中村さんを見ていると、「 この人、なんでこんなことも知らないんだ」とよく思います」  


が、その問題集であっても、回を重ねると、私は合格ラインの点数は取れていなかった。その後、初めて、 TBSの予選も受けたが、不合格であった。

これについては、当初は、その後ほどには、予選参加者が多くなく、その後、どんどん、通過ラインが上がっていったのでは、と推測する。


 その実際に受けた予選問題、通常問題がどの程度の出来だったのかは記憶にないが、難問は10問中、5問が正解だったのを憶えている。  

 その中で、今も覚えている問題の回答3つは、

「(サン・テグジュペリの)夜 間飛行」

「梨園」

「56億7千万年後」

だったと記憶するが(クイズをされている方なら、この回答で、問題も類推できると思う)、この問題、その後、どんどん問題が普及、周知化していく中において 、現在であったら、 もう難問とは言えないであろう。


 TBSのクイズ王における、決勝のカプセルクイズを戦う2人。  

 フジのクイズ王において、決勝の最後の4人による、早押しクイズ。  


 その2つの座。4つの座。は、クイズの世界における頂であり、この世界における神々の座だ。

 そこに座る自分の姿を夢想することはあったが、それは全く、現実的な夢ではない。  

 だが、一度でいいから、全国大会出場を果たしてみたかった。  

 後年、私の友人、ナッキー羽黒蛇氏からのメルマガの記載内容で、彼は「アイドル」「野球(大リーグ)」 「相撲」が趣味における三本柱で、彼は、この3つの内、どれも自分が日本一である、と言えるものはない。 しかし、この3つのジャンルだけに絞った、この3つのジャンルの総合力においては、自分が日本一ではないかと思う。と書かれていたことがある。


その後、私のこともとりあげてくれて、

「 先日、私が日本一と書いたが、 もしかしたら、この3つのジャンルの総合力で日本一は中村さんかもしれない、 日本一は、私あるいは中村さん、 と訂正します」

と書いていただいた。


 そう書いていただいたのはとても嬉しいが、過分なことばである。この3ジャンルの総合力で、私がナッキー羽黒蛇氏に敵うとは思えない。 


 が、私も、以前、同じようなことを考えたことがある。  もし、もしも、私が日本一になれる可能性があるとしたら、どういう形式のクイズであろうか。

 早押しはだめだ。筆記形式。

そして、そのジャンルは

「宗教」「哲学」「歴史」「文学」「芸術」「地理」「スポーツ」「アイドル」 「マンガ」の9ジャンル。

さらには、「スポーツ」は、「相撲」「野球」「その他のスポーツ」に3分割して、各々、独立のジャンル となるのが、より望ましい。  


 全部で11ジャンル。各ジャンルの問題数は各100問ないしは、200問。出場者は100人。  

 そして、点数は、その問題に何人が正解を書くことができたかによって異なる 。  


 その問題に100人全員が正解であったら、100÷100 で 1点。  

 正解が10人であれば、 100÷10 で 10点が与えられる。  

 1人しか正解がいなければ、 100÷1 で 100点が与えられる。 (端数は四捨五入)  

これが、私が最も、やってみたい形式のクイズだ。 (と、思っていた時期がある、ということです。今はもういいです。やりたくあ りません)  


 この年、平成4年の12月であったと思う。福岡クイズ愛好会で、初めての合宿が実施された。 土、日の2日間。泊りがけで、ずっとクイズを行う。  


 その日は、私の家内、娘2人は、家内の実家であったか、私の実家であったかに、週間単位で 行っていたので。私は福岡に1人。遠慮なく参加できる。 


 昼から、海岸などで、様々なクイズをして楽しんだが、夕食後、この合宿のメインとなるクイズ大会が挙行された。

 様々な形式のクイズを行って、順次、勝ち抜いていき、チャンピオン1人を決めるというものだ。 


 最初の簡単なクイズが行われ、成績上位者から、次のラウンドは、色々と用意されたクイズの中から 自分のやってみたいクイズを選べるとのこと。みるとその中に「カプセルクイズ 」があった。  


 私が憧れてやまない、TBSのクイズ王と同形式とのこと。当然、参加できる 定員は2人。


 私は、最初のクイズで、たしか、3か4番目だったので、私より上位成績者がそれを選べば、できない。


が、私よりも上位者は、そのクイズを選ばなかった。


私は「カプセルクイズを」

と希望した。

さて、誰と対戦することになるのだろうか。


次であったか、1人おいてであったか、U田さんが選ぶ番となった。

「カプセル クイズ」

とコールされた。 

「U田さんか」。

さらに上のラウンドに進もうと思えば、一番来てほしくない人だ。勝てるとはとても思えない。


「U田さんが来ちゃうんですか」

そう叫んだ私に

「この中なら、カプセルを選びますよ。当然」

とU田さんは答える。


勝てない。しかし・・・。


 私が初めてクイズ王の予選を受けたとき、ただひとり 合格して、あたりを睥睨 していたU田さんの姿が思い浮かぶ。

「あのU田さんと 1 対 1 の勝負ができるのか。」

それはまたひどく嬉しいことでもあった。武者震いした。


U田さんは、テレビ番組に何度も出場している強豪。

でも俺だって、この1年で、2回テレビに出たじゃないか。そう思った。もっとも、そのクイズは、いずれも特定テーマに限られて いたわけだから、この場合、 実績に数えることはできないのだが・・・  


 問題作成者で、司会も勤めるK光さんが

「中村さん、ちゃんと相撲の問題も用意していますから。」

と言ってくれる。


 さて、「カプセルクイズ」の開始となった。


 数10名のサークルのメンバーが見守る中、U田さんと私が、大会を行っている大広間の舞台に用意された 2つの席に座った。  


 私は夕食の時点で宿の浴衣に着替え、その上に家から持ってきた普段も愛用している半纏を羽織るという格好である。


 形式はTBSのクイズ王、決勝と全く同じ。

 ただし、テレビでは、先に20問 正解したほうが勝者だが、

ここでは、先に10問正解したほうが勝者となる。  


 回答はひとりずつ、かわりばんこに、読み上げる。ひとりが回答を言っているときは、他のひとりは 耳を覆っているイヤホンから、音楽が流れて、聴くことはできない。回答者の前 にはメモ帳が用意される。実に本格的だ。  


 クイズ開始。ふたりともが正解、ふたりともが答えられない、という問題が続くが、だんだんと 、U田さんは、答えられたが、 私は答えることができないという問題が、出てくる。それが都合、3問あり、U 田さん 9 対 私 6 となった。


 私だけが答えられなかった問題の中に、広島の原爆を投下し た飛行機の名前は(正解「エノラ・ゲイ」) というのがあり、これについては、「俺も知っていたはずなのに・・・」と思い 、今、この大切なときに出てこなかったのが 残念だった。


 期待の相撲の問題は「まわし団扇」が正解となる問題で、これは私だけでなく、U田さんも正解で、 差はつけられなかった。  


9 対 6 リーチだ。

やっぱり勝てなかったか。U田さん相手に、この点差なら満足するべきかも。ただ、私だけが答えられたという問題がないのが、残念だった。


 次は「・・・・・を最初に翻訳した女流作家は誰でしょう?」


判らない。しかし、その数ヶ月前に、野上弥生子が翻訳した何かの本を読んだ記憶がある。問題の翻訳者は誰か知らないが、女流だし、時代も合うし、何も答えないよりはいいだろう。

「野上弥生子」

正解だった。

U田さんは、不正解。初めて、私だけが答えられた。


次の問題

「谷崎潤一郎の小説「細雪」の四姉妹の名前を全て言って下さい」「きた」

と思った。


「K光さん、なんて嬉しい問題を出してくれるんだ」

、と思った。

自分のつぼにはまる問題を出されて、それに答える。これこそ、クイズにおける 最高の醍醐味だ。


この問題、たとえ、U田さんといえども、答えられないだろう。


 回答の先攻は私。間違わないよう、メモ帳に四姉妹の名前を書き、それをゆっくりと正確に読み上げた。

「鶴子、幸子、雪子、妙子」


次はU田さん、やっぱり正解を答えている風ではない。  


9 対 8


「中村さん、どうですか今の気持ちは」

K光さんが訪ねる。司会、実に慣れている。堂々たるモノだ。


「なんか、望みがでてきたぞ、という感じですね」

と答えた。


次の問題

「ヒット曲「まつわ」を歌ったのは「あみん」という女性ふたりのグループです が、この「あみん」という のは、あるアーティストのアルバムの中の楽曲に出てくる店の名前から取られて います。そのアーティスト とは誰ですか」  


私は、がっかりして顔をふせた。

K光さん、こんなところでなんて問題を出すんだ。それは、その歌が 流行っていたとき、マスコミで、何度も取り上げられていたじゃないか。

私の同年輩であるU田さんが 知らないはずがないでしょう。


自分の番、がっかりとしながらも

「さだまさし」とコールする。

終わった。でも 10 対 9 なら 大満足だ。  


ふたりの回答が終わって、K光さんが言う。


「ううん、お二人の答えが違いましたね」

私は思わず、ガッツポーズをした。U田さん、知らなかったのか。


 9 対 9。 これで同点。


このあと、二人とも答えられた問題。ふたりとも答えられなかった問題と続いた。


10 対 10 延長戦。  


次の問題

「マッカーサーのあと、2代目のGHQの司令官となった人は誰でしょう」

この問題、最近まで、私の知識にはなかった。が、直前に、西村さんと並ぶクイズ界における2大強豪である、 水津康夫さんが書かれた問題集を私は読んでおり、そこに同じ問題があった。


「水津さん、ありがとう」

と言ったあと答えた。

「リッジウェイ」


U田さん、不正解。


11 対 10。 逆転勝ち。  


席に引き揚げる私に何人かの人が

「いやあ、すごかったです。名勝負を見せてもらいました」と言ってくれた。

 私は、ただうなづくだけだったが、 心の中は、ひどく興奮していた。  

「勝った。勝った。あのU田さんに勝った」


公的には、私の短かったクイズライフのハイライトがくるのは、このあとだ。

 しかし、私は、自分自身では、このときの勝利を最も名誉なことと思っているし 、自分に対する満足感において、 このときに勝るものはなかった。  


  その頃、深夜枠から、日曜午後10時半に進出してきていたフジテレビの「カ ルトQ」の出場者募集で、 「大相撲」が、募集するテーマの中にあった。

 世間では、相撲ブームは続いてい た。  


 何人かの人に「中村さん、応募するんでしょ」と言われた。 


 カルトQ の予選は、東京でしか実施されない。予選を受けるのは自己負担で 東京まで行かなければいけない。受けにいった。 


 予選通過者は、成績上位者5人。

受かった。番組で流された予選の点数を見ると3位だった。  


 出場者のあとの4人の中には、難問即答の優勝者、権藤さんも、準優勝者の平井さんもおられた。


 そのふたりも含めて、みんな私より若い。  


 番組の収録及び放映は平成5年2月。 


 番組収録前の控え室で5人が顔を合わせた。

番組担当者から

「どうか、早押しには走らないで下さいね。これは、ある限られたジャンルで、こんなに知っている人がいる、 というのを見せるのが主旨ですから。だから、答えたあとで、その人が、あるい は別の人でも、その問題に関連して、なにかもっとご存知でしたら、どんどん、薀蓄を傾けて下さい」

と言われた。  


 このことばに私も、うんうん、とにこやかに頷いたが、心の中では別のことを考えていた。


「番組の意図に反して申し訳ありませんが、早押しに走ります。このクイズは、 誤答してもなんの罰則も ないし、問題の途中で、ボタンを押しても、そこで止めずに、問題を最後まで読んでもらえる。これで 早押しに走らないわけにはいきません」  


 この5人、おそらく、相撲の知識において大差はないだろう。

 あとの4人は、 これまで話した内容で いえば、

「とにかく相撲が好き」という方たちで、クイズのサークルに所属しているというわけではない。  


 私に有利な点があるとすれば、クイズのサークルでは押すポイントが遅い、と 言われていても、 一般の人が相手であれば、早いタイミングで押せるだろう、ということだ。私は とにかく、優勝したいんだ。 


 優勝した。カルトロフィーを獲得した。  


 早押しということであれば、映像の問題。対戦の映像が流れ、「何年何場所何日目」であるかを答える問題がいくつかと「その対戦の決まり手」を当てる問題がいくつか出されたが、皆さん、映像が流れるやいなやすぐに押していた。


 決まり手の問題など、実際に決まる場面を見なくても答えていた。この種の問題では、歴史的に有名な取り組みが出題されるというのは予想できるからそういうことができたわけだが、

「決まる場面を見なくても答えられるレベルのひとたち」

ということで、早押しすることが結果的には番組の意図に沿うことになったと思う。


 ただし、この決まり手の問題については、私の相撲における主たる関心事ではなく、私は答えていない。 


 番組を収録する中で、始まってから20ないし30問くらい、誰も答えられないスルーの問題がなかった。

 放映の際は、「そういう問題もある」ということで、そのまま流されることもあるが、編集でカットされることが多い。 


 初めてスルーの問題が出たとき、

「ここまでスルーの問題がなかったというのは過去ほとんど記憶にない」

という声がかかった。


ちなみにその問題は

「小錦のウェストは何インチ」というものであった。


 収録後、番組担当者に

「いやあ、素晴らしい勝負でした。今日の回答者の皆さんには、これから色々なところから取材がきますよ」

と言っていただいた。


「そうなんだ」

と思って、楽しみに待っていたが、どこからも取材はこなかった。 

 その次の例会で、クイズが終わったあと、メンバーで、とあるお店に行った。 私の祝勝会も兼ねていただいた。


 会長のS戸さんが、「福岡クイズ愛好会が誕生して1年。メンバーの中で、初めて、全国ネットのメジャー番組の優勝者が誕生しました」との紹介後、女性メンバーから花束を贈呈された。  


 そのとき、34歳。既に中年になった私の人生にこんな晴れがましいことが待っているとは想像していなかった。


 また、「カルトロフィーを持ってきて下さいね。見たいから」とも言われていたので、持って行ったら、授与シーンを再現して下さるという。


 メンバーが見守る中、会長のS戸さんに

「それでは、カルトQ大相撲チャンピオン、中村さん」


とのことばとともに授与いただいた。突然のことで照れてしまい、また、そんなつもりで持ってきたわけではない、という気持ちもあって、ペコペコとお辞儀をして、そそくさと自分の席に戻った。あとから、

「もっと、堂々とした態度で受取れば良かったな」

と思った。


トロフィーを高々と掲げて、メンバーの拍手と歓声を堂々と受ければよかった。

自分の人生で、そんな晴れがましいシーンはもうないであろう。それに、

「優勝したい」

と強く思い、自分の力ではまだ優勝するには不足だ。と思い、さらに相撲の本、事典を何度も読んだ。その結果だったのだから。 


尚、私のクイズにおける獲得賞金額はゼロである。NHKのふたつのクイズでは、記念品をいただいただけであるし、カルトQでは、出演謝礼ということで、全員一律で3万円いただいたが、これを獲得賞金と称することはできないであろう。このカルトQ、本番の旅費は出していただいたが、予選は自己負担。東京福岡間の往復の飛行機代は、4万数千円であった。 


福岡クイズ研究会には、その後も5ヶ月いた。まだ4歳だった長女を、3回ばかり、例会に連れて行ったことも ある。


 さらに、私がクイズをやることになった、その大きなきっかけとなった本の著者、N戸さんが、会長のS戸さんの 知り合いという関係で、ある時、例会に招待された。 


 N戸さんは、別の本のアンケートだったと思うが、得意なジャンルはベタ問題 。苦手なジャンルは難問、と答えられて いた。

 

N戸さんは、少年時代にテレビのウルトラクイズを見て、自分も、いずれ 、あのクイズの優勝者となりたい、 という志を立てられた方である。  


その後、クイズのサークルに入られ、繰り返し出されるクイズの問題と回答は 全てストックされているということだ。

そして、それは驚異的な量である。むろん、押すポイントは早い。おそろしく早い。 


但し、通常、クイズに使われないような特殊な知識については、範疇外である 。ということだ。  


そのN戸さんと。回答者が5人の中であったが、その例会で対戦した。  

始まる前、S一さんが

「N戸さんと淳一さんの対決かあ。これは楽しみだ」

などという声をかけてくれた。


このときの出題者はU田さん。問題はボーリングクイズ。

細かいルールは省略するが、要は答えが10ヶあり その全てを答える、というものだ。  


たしか、上位3人が次のラウンドに進める、というものだったが、 私が、大差で1位で抜けた。


 なにせ、問題が  

「熊本市以外に、熊本県にある10ヶの市名を書け」  

「ダイエーホークスの今年の開幕戦の、DHを含むスターティングメンバーを書け」  

「現在、将棋のA級にいる10人の棋士を書け」  

「高校野球の、最近10年間の夏の甲子園の優勝校を書け」

など、私にとって


「何でそんな問題を出していただけるのです」

というような涎がでそうな 問題ばかりだったのだ。


特に最後の問題など、もっと言ってちょうだい、という ような問題だ。(上記のその他の問題は、9つは判ったが、1つずつ答えられなかった。とお断 りしておきます。熊本の市は、仕事の担当地区でもあり、全て覚えていたはずですが、このときは、「牛深」が出てきませんでした。::名大関栃光の出身地なのに) 


私は、昭和33年以降の全場所の大相撲の優勝力士。昭和36年以降の高校野 球の春と夏の 優勝高校。昭和25年の2リーグ分裂後の全ての、セ・パの優勝チームと日本一 になった チームを記憶している(た、というべきか。平成以降はかなりあやしい、時間を もらえれば 正解が出せるとは思うが、絶対の自信はない。また年齢を重ねるたびに記憶力の 低下も感じざるを えない。今だと、もしかしてもうダメかも。だから、試してみないで下さいね。 )。それも古い時代から 順番に、というわけではなく、何年(の何場所?)と訊かれれば、ただちに回答 できた。 あと、昭和38年以降のNHK大河の番組名も年度毎に、全て記憶しているはず である(試さないでね)。 


 しかし、N戸さんも勝ち上がり、このあとのラウンドだったか、別のクイズで あったか、 記憶にはないが、通常の早押し問題でも、何人かのなかに入って対戦したが、上記で勝った、 その勝ち方におつりを何度もつけて返されるくらいの大惨敗だった。  


 とにかく、早い、早い。具体的な数字を言えば、N戸さんが、20~30問答えて、 私は、ゼロ。それくらいの差があったと記憶する。


 クイズにおける最強豪とはそういうレベルの人なのだ。  


 平成5年7月。大阪に転勤となり、私は、福岡クイズ愛好会を退会した。

 就職以来、初めての地元勤務であり、両親は喜んだ。私も嬉しかったが、 福クイを離れなければならない、というそのことだけが残念だった。  


 私が参加した最後の例会で、U田さんに

「中村さんに、負けたままというのが 悔しいなあ」

と言っていただいた。  


 私がテレビのクイズ番組に出たのは、平成4年4月(放映は5月)、7月、平成5年2月 の3回。  福岡クイズ愛好会に所属していたのは、平成4年2月から平成5年7月まで。 テレビに出たのは、全て、私が34歳のときで、その時期は、福クイに所属して いた時期にすっぽりと収まる。  


 それまで、私とは無縁であり、そっぽを向いていたクイズの神様は、私が福岡クイズ愛好会 に入ったことにより、私のほうを向いてくれた。そして、そのサークルを離れたとき、

クイズの神様は、私から、はるか遠くへ去っていってしまった。   

 福クイを離れることになった時点では、私は、それまで「自分のほうが勝って いるか(?) あるいは、同レベル」と思っていた、K淵さん、K光さん、I川さんをはじめ、 何人かの人には、 クイズの総合力で追い越されてしまったな、と感じていた。


 実際、平成5年の、 私が通過でき なかったクイズ王の予選に、K林さん、K淵さん、K光さん、I川さんなどは合格し、クイズの 世界へのメジャーデビューを果たした。

 その後の活躍については、今、福クイの ホームページを 楽しく読ませていただいている。 


 しかし、私が福クイを離れた時期と前後して、次々と3大クイズ番組の終了が 発表された。原因はふたつあるかと思う。  

 ひとつは問題作成の困難さではないだろうか。その問題が難問なのか、通常レベルなのかは、 そのジャンルについての権威でなければ、判断はできない。

 クイズ王は、あらゆるジャンルで、極めて多くの問題を用意しなければいけな いから、多くの オーソリティーが関わる必要がある。  それが、もう難しくなったのではないか。


 もうひとつは視聴率の低下かと思う。クイズ番組を見る目的のひとつに、

「自分は物知りである」  

と自負している人が、テレビの問題に答えていく。その快感にあるかと思う。  

その人がお父さんで、家族が一緒に見ていれば

「お父さん、すごい」

とも思っ てもらえるだろう。  


しかし、クイズ王はそのレベルを超えている。自分には全く答えられない難問 に次々と答える人 が存在する。面白くないかもしれない。  


 例えば、スポーツであれば、人は自分には想像もつかない、およぶべくもない 、体力、技術を見せられ ても、素直に楽しみ、感動し、賞賛することができるようだが、それが「知識」 となると、そうは いかないようだ。  


 たとえば「クイズ・ミリオネア」という番組がある。出題者と回答者のやりと りに多くの時間が さかれ、出題される問題量はおそろしく少ない。これで1時間番組を作っちゃう のか、効率的やなあ、 と思ってしまう。  

 もし、仮に、私がこの番組に出て、1000万円を獲得できたとしたら、それ は家計が助かるし、 家族は大喜びするだろう。私も嬉しい。

 しかし、私はそのことを名誉なこととは 思えないし、自分自身に 対する満足という点からみれば、U田さんとの対戦における勝利の時に感じたそ れと比べるべくもないだろう。


 こういったからといって、私が「クイズ・ミリオネア」であれば、いつでも出 れるし、1000万円取れる といっているわけではない。  

 たとえ、簡単なレベルの問題であっても、それが苦手なジャンルであれば、私 にはわからないし、 高額賞金の対象となる問題は、概ね難問クラスだから、やっぱり、知らない問題 にあたる可能性が大きい。 

 あの番組は、かつてのクイズ王のようなクイズの王道をいくものではなく、単なる運試しの番組と思う。

 もっとも、みんなで楽しめる、ということこそが、クイズの王道、という考えに たてば、それこそ、 王道をいく番組ということになる。  


 去年、福岡に出張があり、10年ぶりに福クイのメンバーとお会いした。3人 の方とは、その後、もう一回 お会いいただいたのだが、その前に、福クイ主催で大掛かりなクイズ大会が開催 されており、  私は、その大会の問題作成担当者であったI川さんに頼んで、2回目にお会いいただいたとき「 スポーツ」と「文学・歴史」 自分の得意であった2ジャンルだけ、その時出された問題を出していただいた。

 10年のブランクで、自分の実力が、今どれくらいか知りたかったし、読書は 続けているので、その2ジャンル であれば、まだ相当な実力が維持できているのでは、と内心思っていた。


 結果は、惨憺たるものだった。ほとんど判らないのだ。この年になれば、昔は 知っていたはずなのに、固有名詞が 出てこない、ということがしばしばあるが、そういうわけでもない。昔なら判っ ていた、という感覚もない。

 I川さんは、今やクイズ界の強豪のひとり。テレビ番組にしばしば出場されている。その方が作成する問題という ことは、現代のクイズのトレンド(時事問題という意味ではなく)をいく問題で あるはずだ。それが判らないという ことは、私の今の知識の在り方は、「クイズ」とは重ならないものになってしま っている、ということであろう(福岡クイズ愛好会をはなれ、その時点で10年。以降は自分の趣味の読書をしていただけであり、この2ジャンルであってもクイズの実力が増加している方向には向かっていなかったのだろう。一方その10年間、I川さんは、クイズ仲間とさらなる研鑽をつまれてきたのだ。その実力差は隔絶したものになっているだろう。またもうひとつ思うのは、この10年間で、クイズの強豪たちのもつ知識のストックは、さらに広範に、さらに高度となり、かつての難問はすでに通常問題化し、今、大掛かりなクイズ大会で、強豪たちを回答者に想定して用意された問題は、もう私の手の届くレベルではなくなってしまったのであろう。 


 私が、30歳代の一時期、情熱を傾けた類の、私にとっての「クイズ」をやる ことは、もうないだろう。


 福岡クイズ愛好会に所属していた時期。メンバーの大半は学生さんだった。合 宿にも参加させてもらった。

 例会をいつもの会場でやったあと、私の社宅扱いのマンションに移動していただ いて、20人くらいのメンバーで、 例会の続きをやったこともある。

 あのサークルに対しては、楽しい思い出だけが ある。その時、私は30歳代の半ば。

 自分にとって、最後の青春時代だった、と思う。  


 私の青春は終わり、あのとき、私が、敵わないまでも、その頂に立つことを夢見た、あの神々の宴も、今は思い出の世界 にしか存在しない。  


 クイズは、私自身がそれに参加し、またそのクイズが少年時代、青年時代の自 分が情熱をかたむけた ジャンルで、勝ちたい、優勝したいと思えば、それは私にとって精神的な苦痛をともなう。勝ったときの、 優勝したときの喜びは他に変えがたいものがあるが、そこに至るまでのその種の 努力、集中、緊張感を また経験したいとは思わない。 


 私は、自分自身を中心としたクイズについてはこれでほぼ書き尽くしたかと思う。また何か書くことが あるかもしれないが、それは私にとってはクイズの周辺に関する事柄であろう。  


 クイズはおのれが観察者に徹すれば、研究対象として実に面白い世界であると思う。

 将来もし、時間と機会に恵まれることがあれば、このクイズという世界の全体像 と、その世界に情熱を かたむけた諸群像を描いてみたい。そんなことも考えている。

 しかし、生来の面倒くさがりなので、きっとなにも書かないだろう。  


 また定年になって、財政的に余裕があれば、また福岡クイズ愛好会に入会して 、月に1度の例会に 参加し、今度は苦手であった「科学」「生活」のジャンルについて一から勉強してみたい、などとも考える。が、これまた、そのような余裕がそのとき自分にあるとも思えず、見果 てぬ夢に終わりそうだ。


追記:この文章。要は私の自慢話だなあ、と思う。私は自慢話をすることが好きではない。  

 ここまで書いて、今更何を言うか、と言われそうだ。そう、酒でも入って しまうと、私はここに書いたようなことを、しゃべってしまうことが多い。

 つまり、ここに書いたことが、私が、言いたくて、言いたくて仕方ないことなのであろう。    


 自慢話をしたあと、私は「ああ、またやってしまった」と後悔する。    

 ゆえに、この文章を書いた。これで、もう自慢話しなくてすむのでは、と 期待している。    

 どうしても自慢したくなれば、「私のホームページの・・・を読んで下さいな」    

 と言えば、それで済む。人生の残り時間、自分が後悔してしまうようなこ とに時間をさくのは、やめましょう。


 追記2:04.7.25記 


 文中、最近のクイズに対して、軽く見ている意の感想を記述していますが、本稿執筆後、あらためて 福岡クイズ愛好会のホームページの番組出演レポート等を読み、あの記述は失礼であったな、と 思いました。例え問題量が少なくとも、知っている問題に当たる可能性を高めるために膨大な準備 背景があるということ。は銘記しておくべきことでした。 また、アタック25についても、上記のレポートで記述されている、番組で出題されている問題は、 私が得意であったジャンルであっても、私のレベルより、はるか高いところにいってしまっていると 追記いたします。 ゆえに、文中、記述している「私が最もやってみたかった形式のクイズ」が、もし仮に実施されたとしても それは、私とは無縁のレベルの戦いとなってしまうでしょう。 というわけで、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」


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