173 眠れないと、眠らないと
夜市を去った俺たちはホテルに戻った。
これにて台湾研修1日目のスケジュールは全て終了だ。あとは部屋で疲れを癒すだけ。時差は1時間のため時差ボケも全くなく素直に眠れそうだ。
俺は部屋に入るやいなや、ベッドへ勢いよく倒れ込んだ。硬めのマットレスが俺の体を強く受け止めてくれた。
牧は声を上げて椅子に座った。
「あー、眠い」
「飛行機でずっと寝てたのに?」
「あんなの寝たうちに入らない。とっとと風呂入って寝るぞ」
といっても時刻はまだ21時前。寝るには少し早い。
牧はさっさとお風呂へ行ったので、俺はテレビをつけて暇つぶしをすることにした。
面白そうなバラエティが放送されているが、全然頭に入ってこない。それもそうだ。台湾語を理解できるわけがない。
その後もチャンネルを適当に変えてみたけどすぐに飽きてしまった。
俺はテレビのスイッチを切った。そして、スマホを手にした。回線を切ってあるのでネットには繋がらない。
ああ、もう! ホテルのWi-Fiに繋がなければ。
夜が来た。時刻は23時。俺も寝る準備をし、部屋を暗くした。
布団を被ると、牧の方からすぐに寝息が聞こえ始めた。
俺はというと、まだ少しも眠くない。少しだけスマホで遊ぶか。そうすれば眠くなってくるだろう。
深い夜が来た。時刻は0時。いい加減眠らなければ。
スマホを弄っていたことが逆効果になったのか、まだ全然眠くない。
暗闇で光を放つスマホの画面のように、目が冴えている。
「やばい。寝れない寝れない寝れない……」
俺は一人寂しくそう呟いた。
このままでは明日の研修に影響が出てしまう。
どうにかして眠りにつこうと目を必死に閉じたが、今日の思い出が頭の中を駆け巡る。
ああ、楽しかったな……。
って違う! 確かに思い出も良いけど、今は寝ないと。早く眠りにつくんだ俺よ。
「まだ起きてるのか」
俺が眠れずに焦っていると、牧が突然目を覚ました。
「なんだか眠れなくて……」
「まあ起きてればいいんじゃない?俺はトイレにいきたい」
牧は寝ぼけ眼を擦りながらスリッパを履いて起き上がると、ふらふらしながらトイレに向かった。
このまま朝まで牧を巻き込むか、なんて親父ギャグを言っている場合ではない。きっと牧は戻ってきたらすぐ寝てしまうだろう。
誰かが起きているという謎の安心感があるいまこそ、眠りにつくチャンスだ。俺は布団を改めて上を向いた。
目を瞑ってゆっくり深呼吸をする。そうだ、この調子で一定のリズムを保ちながら余計なことは考えずに……。
「宏くん、私寂しいの♡」
俺は思わず飛び起きた。なんで秋葉がここに!?
って夢か……。
秋葉なら「着いてきちゃった」ということもやりかねない。
部屋はまだ暗かった。牧は相変わらずすやすやと寝息を立てている。
牧がトイレに行ってからしばらく経っているようだが、せっかく眠れたと思ったのに。
テレパシーが飛んできたかと思うくらいの鮮明な秋葉の声に、俺はまた目が冴えてしまった。
なぜこんなにも寝つきが良くないんだ。もしかすると台湾へ来るまでに寝過ぎてしまったという可能性もある。
空港への電車の中、飛行機の中、思えばいたるところで寝ていた。しまった、これでは体のリズムが狂ってしまう。
こうなったらこのまま朝まで起きて、無理やりにでも軌道修正をすべきか。いや、でもそれでは明日の研修が悲惨なことになりそうだ。
時刻は3時。暗闇でスマホの光が冷たく俺の顔を照らす。
いっそのことホテルの中でも探検してやろうかと思ったが、不用意に出歩くことは禁止されている。万が一何かあったらまずいからそれはやめておこう。
俺はベッドから立ち上がると、冷蔵庫に入っている水を取り出して乾いた喉に流し込んだ。
そして、窓の近くに置いてあるソファに座りカーテンを少しだけ開けて外を眺めた。
決して高い位置にある部屋ではないが、道路や家を上から見下ろすには十分な高さだった。
深夜だというのに、車が行き交っている。
あの車に乗っている人たちはどんな生活をしているのだろうか。決して顔を合わせることはないけれど、わざわざ違う国からやってきた俺と、こんなにも近い距離ですれ違うことに何か意味でもあるのかと考えてしまう。
交流会で会った湯信もそうだ。俺が海外研修に参加することがなかったら一生会うこともなかったはず。
人との出会いは偶然か、必然か。なんて俺には似つかない哲学に浸っていたら眠くなってきた。
俺はベッドに向かい、再び眠りについた。今度は朝までぐっすり眠れそうだ。
続く