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立村先輩は言葉少なに、ずっとスポットライトを動かしていた。
梨南の言葉がどういう感情を呼び起こしたのかはわからない。「タンホイザー序曲」が流れる間、じっと梨南の手元を見つめて考え込んでいるようすだった。最後の「冬」パートで、「夕星の歌」が男性オペラ歌手の声で流れる頃には何かを決意したかのように唇をかみ締めていた。
──やっぱりそうなんだろうか。蛆虫事件のこと話したからかもしれない。
──そういう虫とか、気持ち悪いこと、立村先輩嫌いなのかもしれない。
──神経質そうだもの。
蛆虫事件はほんの氷山の一角に過ぎないと、付け加えたらもっと驚くだろうか。さすがに梨南も、小学校一年の頃から感じていたことを話すことはできなかった。
──好きだからいじめるなんて、ばかなこという人がいるけれど、私と新井林とはそんなもんじゃない。
結局、トップは本条先輩のクラス三年A組が奪い取り、場内大興奮の中終了した。
モデル役一年評議のほとんどは着替えのため別教室に集合している。二年、三年の男子評議委員たちが道具の片付けを担当してくれた。
「杉本はここにいろ。あとは俺たちがやるから」
他の一年生がさっさと体育館を出て行った後、立村先輩が梨南に告げた。
「でも、私は」
「今回の総指揮者は杉本だ。最後まで見届ける、責任、あるだろ」
舞台袖に立っていても梨南のすることは特別ない。シナリオをしまって、舞台の上から見下ろすだけだろうか。ごみを拾う程度だ。すでに体育館の椅子はそれぞれの教室に運びこまれていた。十分前に溢れた熱狂のかけらもなかった。
ただ、舞台幕の影にひとつだけ、黄色いボタンが落ちていた。
拾って手のひらに載せた。
白いしつけ糸でとじていたのだろう。ひっぱると軽く切れた。
立村先輩ともう一人の二年評議が、ふらつきながらスポットライトを舞台から下ろすのを眺めていた。
評議委員は、五時間目終了後のホームルームに出なくてもいい。というより出られない。片付け物がたくさんなのだから。同じことは放送委員会、規律委員会、その他の委員会にも言えることだった。
未公認の締めとして、一応評議委員は三年A組に集合することになっていた。
本条委員長の厳命である。
駒方先生の許可は当然のことながら取っていない。そこんところが、青大附属における委員会の「部活動」っぽいところだろう。
かばんだけ取りに戻った後、梨南は急いで三年A組の教室に向かった。本条先輩のクラスでしかも、本日の最高点を取ったみなさまのいらっしゃるクラス。
本条先輩曰く、
「うちの担任のうちで、祝賀会やるんだとさ!」
クラスの人たちはきれいに姿を消していた。たむろうのは評議委員会関係の連中だけだった。立村先輩が本条先輩に片腕で首を締められている。
「ったく、立村、何、肝心のとこでライトの輪から人はみ出させてるんだよ。お前が裏方やると大抵ミスやらかすんだからな。まったく」
本気で怒っているわけではなさそうだ。片っ方の手で本条先輩は、頬をさすってやっている。気持ち悪そうな顔をしている立村先輩。噛み付く真似をする。
「今度しくじったら、お前がなんと言おうとも裏方になんか回さないで、全校生徒の前で役者になってもらうからな。わかったか」
「すみません。本条先輩のように面の皮が厚くないもんですから」
評議委員会の別名が「かくれ演劇部」であることを、梨南は過去のビデオを見たりして、だいたい把握していた。
──本条先輩くらい顔立ちが整っていればいいけれど。
ばたばたやっている本条、立村両先輩に近づいた。
「立村先輩、手伝ってくださいましてありがとうございました。成功したと思います」
少し腕が緩んだところを逃さず、立村先輩は払いのけて笑顔を見せた。
「いや、俺の方こそごめん。杉本が完璧にでかしたことを、俺の照明でみそつけてしまったみたいで申しわけない」
「いいんです、期待してませんでしたから」
後ろに数人、他の一年女子評議の子が座っている。心配そうな声が飛ぶ。
「梨南ちゃん、あやまった方がいいよ。言い過ぎだよ」
別に悪いことを言ってるわけではない。
立村先輩に求めているものは、スポットライトをきれいに動かすことではなかった。
頭が切れて顔のいい男子だったら、もっと別の二年先輩にもいたのだから。
不細工で、頭の回転が少々とろくてもいい。まともに梨南と対してくれる人と一緒でいたかっただけだ。
困惑したように立村先輩はうつむいた。
「本当に、ごめんな」
一切怒りを見せなかった。
純粋にあやまってくれたようだった。ちょっとだけ悪い、と思った。事実なんだから仕方ない。
後ろでぽんと肩を叩いたのは本条先輩だった。
「それはそうと、清坂率いる二年女子のファッションコーディネート大作戦は、すごかったなあ」
「本当です。俺もあそこまで清坂氏がすごいとは思わなかった」
「だろだろ。あの四人にはなんとしても褒美を取らせねば」
ひじを張って腕組みし、首をひねる本条先輩。やはり学校の日常でこういうことするよりも、もっと大きな舞台で、フリルのブラウスを着た格好でやってほしい。絵になるのだから。本条先輩って舞台俳優向けだと、つくづく梨南は感じた。
「なんか嬉しいこと言ってますね、本条先輩」
清坂先輩が、本条先輩の後ろに立っていた。そろそろ近づいてきた段階で梨南も気付いていた。唇に人差し指を立てていたので、黙っていた。
「おお、拍手だ拍手。褒美を取らすぞ」
「『かすみ堂』のケーキセットを四人分!」
「おい、ケーキセットっておいおい」
「本条先輩ももっと誉めてほしいなあ」
ちなみに「かすみ堂」のケーキセットとは、一人三百円分で、「ショートケーキ・紅茶・アイスクリーム」がセットとしてついてくる、最近人気の喫茶店メニューだった。
テストの終わった日にはよく女子同士で立ち寄るという。味はいまいちだけど、量が多いということで二年の先輩達は喜んで通っているらしい。
「四人分かよ。おいおいおいおい」
「男たるもの、二言はなしですよね」
「口は災いのもとって本当だな。わかった。ということで立村、お前もその時は半分出せよ。お前が手伝わせたんだからな。責任取れ」
ため息をつきながら立村先輩は軽くのけぞるように、
「冗談じゃないですよ。本条先輩、本当だったら俺や杉本にも配分があるべきでしょう。それなのになんですか、俺が半分払えって言うんですか」
二、三年が揃い始めると梨南の出番はなくなった。話は尽きることなさそうだった。このままだと永遠におちゃらけた話題が続くだろう。一年生男子連中が運動着姿で揃うまでは。
先生のいない評議委員会なので、野郎連中は女子から離れた場所に席を取った。新井林は梨南たちへ尻を向けたまま、本条先輩のみに会釈していた。机の上に腰掛けるのもなんだと思ったのだろう。椅子に座った。梨南の方を見るのもいやだという風だ。
「いやあ、今回のMVPは新井林だぜ、ったく。最高だ!」
本条先輩が二年集団から抜け出して、わざわざ新井林の肩をぽんぽんと叩いた。にやりとして小指を立てた。表情は後ろ向きなので読み取れない。
「よくやってくれたよな。俺の難しい注文を、あそこまで見事にやってのけてくれるっていうのは、やはり一年のエースだぜ。バスケ部に置いとくのがもったいないぜ」
髪だけはまだムースがついたままで、オールバックの形を保たせていた。何度か髪の毛をぐしゃぐしゃにかき回して、手の甲の匂いをかいだ。
「これで、一年評議としての義務は果たしたってわけっすか。本条委員長」
「十分すぎる。な、立村もこのくらいの度胸見せろよ。ったく新井林くらいの根性があればなあ、お前ももっとまともな女っけある生活が」
教壇に立って見下ろしていた立村先輩は、突然背を向けた。梨南側の方に向いた。
「本条先輩。全員揃ったところで締めをさっさとはじめませんか」
ぶっきらぼうに、ちょっと露骨に。
新井林が初めて梨南たちの方を振り向いた。厳密に言うと、立村先輩代表とする二年のたまっているところだった。新井林の目が再び上目遣いの格好で立村先輩の方を見る。鼻の穴を見せるようにあごを上げる。目をそらしたまま立村先輩は、適当に椅子を引っ張り出して座った。当然、清坂先輩の隣りだった。
──まさか。
本条先輩の、やたらと新井林を褒め称える口調に、梨南はぴんときた。
一筋縄ではいかない新井林が、なぜあんなにあっさり、「モデル」になってくれたのだろうか。
梨南としては誰か内通している奴がいるのではと思っていた。一年か二年女子か。
本条先輩だとしたら話は通る。
立村先輩から詳しい話は聞いていたのだろうし、シナリオを書いたのが梨南であることも当然ご存知のはずだ。成功させるためには手段を選ぶタイプではない。
新井林に「実は」と話を持ちかけて、梨南に対抗させようとするのも一つの手だ。
「ばかはばか同士」と、いかにも立村先輩と一緒にせせら笑った口調を思い起こす。
本条先輩は立村先輩が、梨南ひいきしていることまで、新井林にささやいたのかもしれない。
その辺は梨南の想像力に頼るしかなくない。
本条先輩のネクタイを締め上げて拷問したかった。立村先輩に関して、どういう悪口を新井林に吹き込んだのだろうか。新井林がやる気まんまんになるようなことだから、はんぱなものではないだろう。
梨南を仮想敵に仕立て上げ
「このままだと杉本にさんざんこけにされるぞ。だったら、お前らの力を見せ付けてやれよ」
とそそのかしたとすると。
──本条委員長は、私にとって敵なのか、それとも味方なのだろうか。
──立村先輩は気付いているのだろうか。
もう一度、立村先輩の方を肩越しに見た。
ぴたっと視線が合ってしまった。戸惑っているのは立村先輩の方。梨南は落ち着いたまま、首をかしげてもう一度力をこめた。
──私のこと見てたみたいだ。
──気付いているんだろうか。本条先輩の本心を。
立村先輩は梨南に向かって次に、大きく口を動かした。声は出さない。でも言葉を話しているように。
隣りで清坂先輩がけげんそうな顔をしてささやきかえしていた。そちらの言葉ははっきり聞こえた。。
「口で言えばいいのに、立村くん」
読み取れない。梨南は唇だけで言葉を理解することはできなかった。無視した。
「じゃあ、さっさと締めに入るか! おかげさまで三年A組は最高得点取らせていただいたしな。まあ、それを抜きにしても、今回の一年主催全校集会は今までにない盛り上がりで幕を閉じたと。去年のように幕閉まる直前にぶったおれて俺に背負われて保健室に運び込まれた奴はいなかったしな」
ちろっと立村先輩の方を見た本条先輩。教机に両手を付き、口角を半分上げて笑う。二、三年が示し合わせたように含み笑いする。
「さらに二年生女子軍団のパワフルなファッションセンス、あれにも参ったぜ。清坂ちゃん、あんたはすごい」
一言に拍手喝采だ。二年、三年を中心に口笛吹く奴もいた。一年は黙っていた。小さく指を動かすだけだった。隣りで一年女子評議がぶつぶつ話している。
「私たちだって司会、がんばったのにね。誉めてくれたっていいのにね」
──あんたたちはただ台本を読み上げただけだっていうのに。
梨南は心でひそかに舌を出した。
──裏方に徹した以上、そういうことを求めるなんてばかよばか。
「本条委員長、いいですか」
「どうした、去年倒れた人」
今度は一年男子の方から笑い声だった。ちゃんと「ははは」と、言葉の切れ目がわかる笑い方だった。狡い。
立村先輩は一切無視して立ち上がった。
「一番ミスしまくった人間としては、あまり大きいこといえませんが」
まだスポットライトのミスを気にしているらしい。やはり神経が細かすぎる。
「しかし、誰も気付かないのかな、と思ったので言わせてください」
本条先輩が一呼吸して、こくっと頷いた。
「まどろっこしいことしねえで、はっきり言っちまえ」
「いや、なんというか」
口調はとぼけていた。今まで立村先輩と話した時には見えなかった、珍しい話し方だった。切れ味がない。わざと切れ目を入れていない。
──仮面だ。演じている。
梨南はまっすぐ向き直り、じっと瞳を見上げた。やはりそうだ、目は笑ってない。
「今回の全校集会は、一言で言ってしまうと」
急に声音が大人びて聞こえた。かすかに唇だけほころばせている。
「杉本梨南が企画・構成・演出のワンマンショーでしょう」
「おい、お前が口止めしてたくせにばらしてどうする!」
本条先輩の様子も動揺を隠せないようすだ。梨南の方に視線が集中してくるのがわかる。隣りで女子たちも、
「ねえ、今のほんと? だって梨南ちゃんは二年の先輩達が作ったものを清書しただけでしょ」
「おいおいおいおい」
「あの女がか? まさかだろ」
一年男子たちは知らなかったら、わずかながらそれなりの感動をしゃぶっていられたはずだった。
水をぶっかけられた心情だろう。背を向けたまま新井林は身動きしなかった。頭だけを何度もかきむしった。
元の落ち着いた口調に戻って、立村先輩は続けた。今度はちゃんと、切れ目がついている。
「BGMがワーグナーの『ワルキューレ騎行』というところから、ふつうはもしかしたら、と思うだろ? 杉本とつきあいのある一年同士だったら」
「『ワルキューレ』って何?」
動揺しているのは一年男子たちだけだった。梨南も秘密がどの辺までもれているのか見当つかなかった。三年の女子たちが、素直な声で、
「杉本さん、すごいね。よくがんばったね」
と誉めてくれた。こっくり、一礼した。
黙りこんだまま、新井林は足下を見つめていた。バスケシューズが、椅子のしたでもぞもぞ動いていた。
「立村も爆弾発言するのはいいかげんよせ。お前だろ、最初に口止めを提案したのは」
「そうです。時間がくればみな見当つくだろうと思っていましたし、それなら最高の功労者を誉めるのが義務じゃないでしょうか。本条委員長」
低い声で二人の会話に割って入るのは新井林だった。
「ってことは、杉本のシナリオに俺たち一年が踊らされたってわけっすか」
腰を半ば上げて、机の上に座りなおし、じろりと立村先輩をにらみつけた。
「シナリオは完璧だったからな」
「あんたが、黙らせたんですか」
「あんた」ときた。立村先輩の表情は微々とも崩れなかった。
「その通りだ。話す必要もなかったからな。モデルだけをやってもらうためには、シナリオが誰書いたかとかなんて、どうでもいいことだろう。それに」
攻めの口調だった。
「最高の出来のシナリオをくだらないことで崩されたくなかった。俺の判断だ。文句あるのか。新井林」
新井林の両手は握りこぶし、仁王立ちだった。
汚いものを見てむかつきたくない、それゆえ梨南の方は見ない。立村先輩の目だけをじっとにらみつけ、殴りかからんばかりの気迫を見せつけていた。ぴんと糸を弾いたら、大暴れしそうだ。
──立村先輩のことを、絶対あいつは年上だと思ってないわ。
気持ちが少し漣立った。
受ける立場の立村先輩は静かなたたづまいだった。
──立村先輩って、意外と度胸あるかもしれない。
男子のかもしだす空気が梨南への不快感あらわだった。立村先輩の発言する声で二年側にバリアが張り巡らされている。
「やるよな、立村も」
「言われてみりゃあ、確かに気付かないのも、間抜けだよなあ」
二年は立村先輩の味方だ。
一年と全く異なる、二色のオーラが漂っている。
新井林の方も負けていない。オーラからはみ出た位置で、梨南は座っていた。
「よし、ここまでだ。立村、新井林、座れ」
割って入ったのは、本条先輩だった。白と赤で区切られた空間に、いきなり青を入れてトリコロールに仕上げたような感じだった。素直に立村先輩は席に付いた。隣りの清坂先輩が目を見開いて何か話し掛けている。
新井林は仁王立ちを崩さなかった。ぐっと唇をかみ締めると、本条先輩に近づき真っ正面から立ちふさがった。
「本条委員長、俺は今の今までそういう話を聞かされてなかったってわけですか。こういうだまし討ちは許せねえ!」
完全に、他の奴の視線を忘れている。新井林がかっとなった時のくせだった。
「俺はあの女を殺したいって前から言っている通りだし、そりゃあ、からんでいると聞いたら、俺は本条委員長の案を蹴ったと思う。でも」
握りこぶしのままで教机を叩いた。指が折れるんじゃないだろうか。机壊れたら弁償金いくらくらいだろう。
「だったら、もうひとつの案、俺たち一年男子評議だけで仕切りまくるって手もあったんじゃないですか。あの女にやられるくらいなら」
立村先輩があきれたように、聞こえよがしにつぶやく。
「だからお前らが杉本に押し付けたんだろう。忘れてるのか」
「俺は本条委員長だけにしゃべってる」
背中を向けたまま新井林は答える。
「事情が分かれば俺だってばかじゃない。全校集会ってものが、勝負だってことに気がつけば、バスケ部をちょっとくらい抜けようとも思いましたよ。現に俺だって、本条委員長とふたりで、やっとわかりやすい話をしてもらったから、ああいう恥ずかしい真似ができたんであって。最初、二年の誰かの話では気持ちなんて盛り上がるわけもないだろうし」
立村先輩への強烈な皮肉だ。ある程度は事実で、ある程度は事実でない。
──やっぱり、本条先輩が新井林を、説得したんだ。
──私のことを思いっきり悪くいうか何かして。
本条先輩は頭を抱える真似をした。本気で困っている風ではない。要は見抜かれるのを覚悟してたってことだろう。立村先輩の表情は静かなままだった。ゆっくりと、発した。
「本条先輩、新井林との話とはどういうことですか」
つぶやくでもない、答えは絶対ほしいという響きだ。
──知らなかったんだ。やっぱり。
答えない本条先輩に代わり、新井林は背を向けたまま答えた。
「悪いか、俺は二年なんかの」
続く言葉をさすがに控えたらしい。いったん切った。
「本条先輩の命令だからこそ、俺は受けました。シナリオの出所がどこかってことをごまかすような汚いことする二年の言うことなんか、俺は聞いちゃいねえ!」
立村先輩にあてつけているのは言うまでもない。二年男子たちが軽く腰を浮かしかけた。顧問の先生がいないからこそ、言えること、できること。立てること。立村先輩に近づくのもいる。
──お前いいのか? 立村、新井林を黙らせろよ。
──一年ごときにあんなこと言われて、悔しくないのかよ。
立村先輩は首を振る。言いたい奴には言わせておけ、とでも言いたいんだろう。
「本条先輩、俺としては、一年男子評議が全員二年のだれかに騙されていたことについて、男子一同で今後どうするか、話し合いをしたいと思ってる。一同一Bに集合しろ」
全員、かかれ! 戦の合図。
新井林は振り返るやいなや、右腕をさっと上げて、まっすぐ教室の扉を指した。指はそろえていた。ポーズだけだったら、絵で見たことのあるナポレオンのポーズに似ている。そんな気がした。
二年男子──立村先輩を除く──三人が立ち上がると一年男子をひっつかもうとする、女子が悲鳴をあげる
瞬時、本条先輩が怒鳴った。
新井林と同じ方向に指を差し、二年に片手で制するしぐさをした。
「二年動くな。一年を行かせろ」
荒れた。
「本条、これを黙ってみてろってのはひどいぞ、お前」
「二年をこれだけばかにされて、黙れってどういうことですか」
「立村ががまんしているのを、俺たちが見過ごせって言うんですか、本条先輩」
立村先輩だけが無言で本条先輩を見つめている。隣りの清坂先輩、他の女子評議たちも指をもみながらお互いの相棒たちを見つめている。
一年男子、四人全員教室を出ていくまで、本条先輩の制止は続いていた。二年、三年男子の目は猛獣そのものだ。
特に二年生は、あと一言でも本条先輩が妙なことを口走ったら、何するかわからない。
──私だったら、ここで解散するけどな。
同じことを考えていたのは、本条先輩も一緒だったらしい。
「大荒れの総括委員会だが、今日のところはこれで締める。立村、お前はここに残れ」
ふだんは仲のいい二人なのに、今は完全に上下関係の枠で区切られている。立村先輩は答えず、そのまま座っていた。視線が立村先輩に向けられていくのを、梨南は辿りながら重たく思った。
ためらうことなく「お疲れさまー」と出て行く一年女子、立村先輩を囲んでうろうろしている二年男女評議、三年評議が本条先輩に一声「お前も災難だな」掛けて去っていく。
「梨南ちゃん、先に帰るね、お疲れさま」
なんで一言も「男子のこと、大変だったね」と言ってくれないのだろう。あえて触れないようにしているらしい。割り切ることにした。
梨南を置いていけるのは、女子たちにとってほっとすることなのだろうから。
教室を出て、他の女子たちと反対方向に階段を下りた。
一年A組の教室にもぐりこんだ。
青大附中の教室は、扉で区切られているので廊下のざわめきなどはわりとシャットアウトされる。ロッカー側の壁は思ったよりも薄いので、隣りの教室での声はくっきり響いてくる。後ろの席に座っているとよくわかる。
もっともよく聞こえるのはロッカーの中に入って耳を澄ませること。
背中いっぱいに、声を聞き取ることができるから。
どうして梨南がそれを知っているかというと、以前自分のロッカーを掃除していた時に、隣のクラスの試験問題についての情報を仕入れたからだった。
一年A組の連中は誰もいなかった。自分のクラスではないので勝手が違う。席の並びは机を男女並べる形式で、二列ずつの川の字型だった。男女が机を付け合う形だった。他人のロッカーにもぐりこむのはさすがに気が引けた。ロッカーと掃除用具入れの隙間に、人ひとり入るスペースが空いていた。身体を滑り込ませて、片手でコルク型をこしらえた。
すでにB組において新井林の演説は始まっているらしい。窓をぴっちり閉められて、風の音もカラスの鳴き声も聞こえない。
聞こえるのは、新井林の声だけだ。
だんだん、そっくりになるあの声だ。
小学校二年の時に聴いた、「ローエングリン」様の歌声に。
──なぜ、新井林なんかに、似ていくんだろう。
盗み聞きすることは悪いなんて思わなかった。どうして罪悪感なんて感じるのか。梨南は耳をぴたりとくっつけた。耳たぶが冷たかった。
「──あの女を殺したいんだ」
──あの女。
誰を指しているのかはもう分かっている。初めて他の男子の声が混じった。ちょっといがいがした感じの、どこにでもありがちな声。
「あのさあ、健吾。どうしてあそこまで杉本を憎むんだ? あの女は確かにむかつくし、顔を見るとへどが出そうになるのも、わかる。でもさ、ああいう奴はしょせんくその一種なんだから、叩いたら自分の方が汚くなるだけだぜ。臭いものは無視するのが一番だ」
「そうだよ、青大附属はそれこそ『紳士であれ、淑女であれ』だろ。いじめだとかリンチだとかになると、ちょっと違うと思う」
「まあ、健吾が佐賀にベタぼれなのを差し引いてもだ。お前の嫌い方、異常だぜ。本当に何かあるのか?」
他クラスの評議たちが、懸命になだめている。思ったよりもまともな発想をしていることに梨南はちょっと、びっくりした。
「頼むから、聞いてくれ。俺の話をみんな聞いてくれ」
涙ぐんででいるように聞こえた。コルクを太くして耳をくっつけた。
──あの新井林が泣いている?
──私を憎むあまりに?
──それともはるみのことを思って?
丸い空間から、声がくっきり、響く。
新井林の叫びが、言葉として耳に、散った。
「俺が小学三年の頃だ。あの頃、俺にはふたり、めちゃくちゃ仲のいい奴がいたんだ。やはり俺と同じく、あの女をつぶしてやろうと燃えてた」
──いたいた、ふたりとも転校してしまったけれども。
「ある日、たまたまそいつら二人が、死んだ猫の死体を三匹分見つけたんだ。猫いらず食べて死んでたらしいんだけどさ、それをあの女の家に投げ入れてやろうって、思ったらしい」
「実際、やったのか」
「やった。俺はかかわってなかったけれど、聞いた時は大成功だって拍手しちまったぜ。あの女の家は気取っていて、金持ちぶっていて、うちの親なんかもすげえ嫌ってた。近所でも村八分状態だったしな」
記憶に三匹の白い猫が身体を寄せ合ってかたくなっている姿が浮かんだ。
しろ、こしろ、ちびしろ、と呼んでいたのら猫親子だった。よく梨南の家にご飯を食べにきていた。近所からは
「のら猫にえさをやらないでください。増えるから迷惑です」
と文句を言われていたけれども、両親は無視していた。
「でも健吾、それはちょっと、嫌がらせだぞ」
「ああ、俺も今思えば、あれはやりすぎだったかもしれないと思う。そのことについてはあやまれって言われたら頭下げるさ。でもな」
口から血を流して、ひっくり返っていた。きっとおなかが空いて食べようとしたら、それが毒饅頭だったのだろうと、母は話していた。
「うちに先に来れば、おいしいもの、食べさせてあげたのに」
と母はチャーハンをいためていた。
庭に三匹を、箱に入れて埋葬した時、一緒にチャーハンも入れてあげた。
「今度こそおなかいっぱい食べるんだよ」
と話しかけて、母は泣いていた。
梨南は泣かなかった。
一緒に手を合わせて、たんぽぽをたくさん摘んで、飾ってあげた後、すぐに近所で遊んでいた幼稚園児たちを捕まえて、
「さっき、うちに誰か私と同じくらいの男子が来なかった?」
と尋ねた。梨南の庭にそういうことができる奴は、必ずちびちゃんたちが見ているはずと、読んだからだった。外れていなかった。ちびちゃんたちは偉い。ちゃんと、胸の名札まで教えてくれた。お礼に梨南はたんぽぽの首飾りをちびちゃんたちに作ってプレゼントしてあげた。
同じクラスの男子ふたりだということを洗い出すのに、三十分もかからなかった。
「確かに猫死体を投げ入れたことは悪いとは思う。でもな、そこまですることあるのかよ」
「したことは?」
新井林は一気にまくし立てている。
「親に告げ口されるのは仕方ねえ。親に怒鳴り込まれるなら頭下げるさ。先公に絞られるのもあきらめる。でもな、なんで、あいつらの親に手を出そうとするんだ?」
「はあ?」
聞いているやつらは全く見当つかないらしい。
梨南だけだ。分かるのは。
「あの女」とのみ、使う。
「怒られるのは、俺たちだけでたくさんだろ。父ちゃん母ちゃんにまで、文句言われる筋合いねえよ。あの女の親は、どういう手を使ったか知らねえが、会社の社長に手を回して、俺の友達連中の親が働けないように仕向けやがった。嘘じゃねえ。実際、あいつの親が、転校前の挨拶でうちの親に言ってた。あの女関係に関わるとどういうことをされるかわからないから気をつけろってさ」
「仕事しづらくされたって、どういうことだよ。つまりなにか? 首にされたってことか」
「俺だってガキだったから詳しいことしらねえよ。とにかくあれから俺の友達はいづらくなってしまい、いやな噂もたっぷりばらまかれてしまい、引越しせざるを得なくなってしまったんだ。猫三匹のことで、あの女は二組の家を追い出しやがったんだ。そうさ、金かなんか使ってな」
──あたりまえのことしただけよ。
梨南はため息をついた。なんもわかっちゃいない。
梨南がしたのは、猫の墓に手を合わせた後、父に抱きついて泣きじゃくり、
「お願い、あの猫のために復讐してやって!」と叫んだくらいのことだ。
父はめろめろに梨南に甘い。付け込んだと言われればそれまでだ。
さらに猫好きの母が落ち込んでしまっているのを、父が見過ごしたとは思えない。
もっというなら、両親はオペラやクラシック演奏などの趣味仲間で、有名な地元の社長さんとか、動物病院のお医者さんとか、雑誌記者さんとか、ネットワークが広かった。
梨南もその辺の根回しがどういうことになったのかはわからない。ただ父が、
「梨南ちゃんの猫の敵討ち、してやったよ」
と笑顔で報告してくれたのは覚えていた。同時に以前から続いていた近所の嫌がらせもぱたっとやんだ。
毛虫を庭に投げ入れられることもなくなったし、回覧版を飛ばしてまわされることもなかった。
陰でこそこそ言われているのは感じていたけれども、目の前で言われないのならばないも同じ
新井林の親友たちが転校させられたのだって自業自得ってものだ。
あれだけののしられる筋合いはない。
──そんなことも中学一年になってわからないなんて、本当にあいつはばかなのよ。
「うーん、健吾の言う通り、とすると」
「当たり前だ、俺が嘘を言うと思うか!」
「そりゃあ、許せねえな。俺ならその場でぶっ殺してやるな」
ぶっそうなことを言う奴ひとり。あいづちを打っている。ばかである。
「俺はあの女の顔がむかつくとか、しゃべり方が気に入らないとか、そういうだけで嫌っているんじゃねえんだ。あの女がこの世に存在する、ことそのものが許せねえんだ。公立に行ってたら絶対に、俺はどんなことがあってもリンチしてただろうな。真面目に少年法ってもんも調べたぜ。十四才未満だったら罪にならないって聞いた時は、早くやらねばって本気で思ってたぜ。俺だけじゃないって分かった時も、そりゃあ、嬉しかった。他の女では全くそんなこと思わないし、がまんできるんだけどさ、あの女だけば別なんだ。生物として、存在が許せねえんだ!」
突然、派手に、小学生並みのうめき声が伝わってきた。
──あの、新井林が。
「けど、青大附属ってとこは狂ってる。女子もほとんど狂ってる。結局あの女は、女同士で手を組んで、手玉にとって、ざまあみろって仕組もうとするんだ。しかも、評議委員会もあの女に汚染されてる」
ゆっくり、言葉を切った。
「立村先輩のことか?」
「先輩なんて呼ぶんじゃねえ! 男か女かわかんない、ついてるかついてないかわかんないような顔している、あんな奴のどこが! 悪いが俺はあんな奴をちっとも年上だなんて思っちゃあいない。一年にいたら、当然締め上げてるさ。正々堂々とタイマン勝負でぶっつぶしてやる。よりによってあの女の味方ときたぜ」
さすがに先輩についての悪口に共感するのは気がひけるらしい。
「でもさ、あの人は青大附属きっての、語学の天才なんだろ? 大学での英語授業を受けてもいい、附中では唯一の人だって」
「けっ、ろくに九九もいえないくせして合格したってことは、何か裏があるに決まってるぜ。知ってる限りじゃ、一年の頃から女の尻ばかり追いかけてるって話だ。女だったら誰でもいいのかって感じだな。結局今度はあの女にひっかかったと。まあいいさ、ばかはばか同士。くっついてくれればいい。勝手にしろってな」
誰も相槌を打とうとしない。たぶん、新井林ほどに男子たちは立村先輩のことを嫌っていないのだろう。もしかしたら英語の教科書とか、問題の解き方とかでお世話になっているのかもしれない。なにせ立村先輩はオペラを生で聞き取ってしまう耳の持ち主だ。
「あいつのことはどうでもいい。とにかく俺は、あの女の手で踊らされたってことが、何よりも許せないって言う、それだけだ!」
──毒饅頭を食べて、苦しい苦しいって思ってのよ。あの猫たちは。
──奴らの親には命があるだけでももうけもの。
──私は、当然のことをしただけ。
今でも家の神棚には、盃を三つ並べて、毎朝水を入れ替えている。
「猫にお水あげなくちゃ」
とは母の口癖だった。梨南の家は無宗教だけど、毎朝拍手を打って、神様を拝んでいる。
梨南はそっと教室を出た。
六年間、殺してやりたかった相手だ。
塩酸入りの給食を食わせてやりたいと何度も思った。
もし、新井林の叫び声を、オペラの舞台で耳にしたとしたら。
──どうして、あの声とあの姿は、立村先輩に与えられなかったのだろう。
新井林健吾は、あまりにも「ローエングリン」様だった。