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──あいつが私を殺したいほど憎んでいる理由。
梨南は体育館舞台の端で、小さなランプをつけたままシナリオを読んでいた。文字を追う必要はない。頭にすべて入っている。別の教室ではすでに、モデル役の一年生男女が着替えて廊下前にてスタンバイしているはずだ。付き添いで二年の女子評議もうろうろしているはずだ。椅子や張り紙、飾り付けは二、三年の先輩達が全部こしらえてくれた。ティッシュを五枚重ねて屏風だたみにしてこしらえる、白バラ赤バラも、全部先輩達の手から作られたものだった。じっと目をシナリオに落とした。
後ろに誰かがいるらしい。振り向かなかった。
──私が、はるみを奪ったからだ。
オペラ開演直前、弦を整えるごとに聞こえる不協和音。闇にこもっていると、ざわめきとともに思い出されるものばかりだった。きっと、新井林とはるみは、清坂先輩たちの選んだ格好をして、手を握り締めているのだろう。いや、梨南がいないならまだ、離しているかもしれない。
──はるみを、取り戻したから。
肩にかけたままの黒いレースストールは、風の通らない部屋だと少し暑苦しかった。結び目をもう一度、胸と胸の真ん中にくるよう引っ張りなおし、梨南は顔を上げた。
──そんなことで喜ぶのはばかなのよ。
「杉本、どうした」
避けられないくらいの接近距離。隣りに立村先輩が台本を片手に丸めて立っていた。
シャープで細かく、「フェードイン」「フェードアウト」とメモしてあるのは、立村先輩の手伝いパートが照明係だということ。自分の背丈に合わせた高さのスポットライトと並んで、軽く叩いた。清坂先輩も、本条委員長も、まだ袖にはいない。ふたりとも教室で一年生モデル連中を手伝っているに違いない。
梨南は軽く会釈すると、もう一度台本に目を通した。
司会進行役の女子評議ふたりが、台本どおりに話をして、舞台に上がったクラス代表の人たちに答えの台紙を渡す。あとは放送委員会の誰かが音響を担当してBGMを流したり制限時間のぴぴぴと響く音楽を入れたりする程度だ。梨南の仕事は、ほとんどすんでいた。
「私のすることはほとんどないですか」
「杉本ひとりでずっとやってきたんだから、今は観客になっていいと思うな。早いけど言うよ。よくやった」
全く瞳を揺らさず、やわらかい笑みでもって答えてくれた。
「立村先輩、去年はどんな感じだったんですか。ずっと先輩は舞台の袖で出る人たちに話しかけていたとか、しらけるギャグを飛ばして顰蹙買っていたとか、いろいろ聞きましたが」
清坂先輩から聞いたことを、梨南なりの解釈で尋ねた。
「誰だよ、そんなこと言ってたのは」
「清坂先輩です。最後は、幕の陰で貧血起こして倒れ、本条先輩に運ばれて、保健室で寝ていたとも聞きました」
「否定できないのが辛いよな。そうだよ、杉本の言う通りだよ」
全く怒らず立村先輩は、丸めた台本で自分の方を叩いた。肩こりひどいのだろう。疲れるだろう。自分のレベル以上の手伝いをするなんて。幕が下りているのでまだ、ランプが明るくてもかまわなかった。立村先輩の顔色は薄墨色の影が塗ったくられているようで、ぎらぎらしたものが全くなかった。
「去年はクラスの連中に頼み込んで、無理やりお願いしたところがあったから、自分の中でも申しわけないってとこがあったんだよな。もともと俺がこういう外にでてやること、好きじゃないからなおさら。当日になるまでずっと、本当に俺がこういうことやってていいのかどうかがわからなかったっていうのもあって、頭がオーバーヒートしたんだろうな。もう何やってたか、記憶に残ってないよ。目の前が真っ暗くなって、気が付いたら保健室で寝ているところを本条先輩にぶんなぐられた、ってことくらいだ。度胸はあるほうだと思ったけれど、杉本ほど、ではないよ。俺は」
度胸があると、思っているんだろうか。それこそいい根性だ。心でつぶやくと、梨南はじっと立村先輩の目に話し掛けた。
「一年生たちは知らないはずですよね。私が台本を書いたということ」
「知らないはずだ。その辺は徹底している」
「だから新井林は喜んで出たのですね」
ちっと、舌を鳴らすような音。虫歯を舌で撫でているように口をゆがませ、立村先輩は足下に視線を落とした。
「杉本、ひとつだけ聞きたいんだけどさ、いいかな」
「なんですか」
新井林のことだろうか、身構えた。
「小学校時代から新井林とは、ああいう感じで過ごしたんだろう。あの態度は二年の俺たちからみても異常だ。何がきっかけでああなったんだ? 杉本に思い当たるふし、あるのか?」
──答えるほういいのかもしれない。
──原因はすべて私なんだから。
隠すことはない。そう梨南は判断した。
「入学式の時から、そうでした」
いきなり照明が消えた。向こう側の舞台袖から、音響係の放送委員が叫んでいた。
「それでは始めます! クラス回答者入場にあわせて、サンバのテーマを流します」
リオのカーニバルのりの曲が会場一杯に流れた。汗だらだらになりそうだ。ぐうっと、引っ張られるのは幕が上がる音。立村先輩はスポットライトをゆっくりと舞台に向けた。各クラスの解答者、およびモデル一同が登場する時に、スポットライトで追うのが立村先輩の仕事だ。梨南は見ているだけでよかった。
「それでは、一年生評議委員会主催の、『クラス対抗・青大附中ファッションプライス・マッチングゲーム』青大附属ファッション・総額おいくらですか?クイズをはじめます。各クラスの回答者のみなさん、舞台前から整列してあがってきてください。そしてそれぞれの席についてください。まず問題の方法と説明をさせていただきます……」
棒読みで読み上げる評議一年女子。A組の子だった。隣りでB組の子が、客席を見つめながら頷いている。ふたり、反対側の袖から出てきて、マイクを握り締めている。もう少し口から話せばいいのに。叫んでいるようだった。
「──音楽に合わせてこれから、『春・夏・秋・冬』の各モデルが、男女ペアで登場します。体育館後ろの入り口から、個性的な制服の着こなしをして入ってきますので、みなさん、ご注目ください。壇上にモデルが上がった後に、それぞれ回答者のみなさんは男女別の金額を計算して、お手元の台紙に書き込んでください。最後まで終わったところで正しい金額を発表いたします。ええっと、なお、青大附属中学の制服価格は一応、統一しておきます。みなさん、メモってください」
大きく「本年度青大附中制服男女アイテム別価格」を書いた模造紙を、三年の先輩達が二手に分かれて壇上と体育館、両方で広げた。本条先輩も中にいる。わざわざ他の生徒の座っている場所までぐるっと回っている。ちゃんとブレザー、ブラウス、シャツ、学生ズボン、スカート、すべての額を分かりやすく書いてある。立村先輩の文字だけど、思ったより読みづらくなかった。やはり梨南の言葉に奮起して練習したのだろう。そう梨南は思った。
二、三年クラスの観客からは、
「ファイトー! 三A!」
「がんばれよー!」
「こけんなよ!」
と掛け声が上がった。二、三年は気合の入り方も違う。反応してか、舞台の上でいきなりボディビルの真似してガッツポーズをする女子がいたり、手をふる男子、投げキッスをする三年生男女、いろいろパフォーマンスしていた。一年生はさすがにおとなしく、ちんまりしていた。もちろん一年B組は静かなもの。早く終わらせたくてならないような顔だった。袖から見ていてもよくわかった。
サンバミュージックがだんだん静まっていった。全員入場が終り、制服の金額もわかったということで、あとは舞台に登場する奴らを待つだけだ。
「BGM音楽も杉本が台本に書いて指示したんだよな。選ぶ曲がいかにも杉本の好みだ」
「はい。私のうちはクラシックのレコード、たくさんありますから」
スポットライトをぐっと、舞台に向けたまま立村先輩は尋ねてきた。
しゃべると手がぶれるのに。無理しないでいいのに。
「じゃあ、モデル登場の曲もか?」
「はい、ワーグナーにしました」
聞きなれた旋律、「ワルキューレ騎行」のトランペットが、体育館内いっぱいに響き渡った。
ボリュームを最大にして流してほしい。梨南が注文をつけたところだった。
一気に照明が消える。停電状態。唯一、立村先輩のスポットライトだけが光っている。差している場所は、体育館の後方入り口だ。
イメージとしてはファッションショーの雰囲気にしたかった。
あとは立村先輩がちゃんと、スポットライトを動かしてくれるかだった。腕力はそれなりにあるらしい。しっかりぶれないように、片手でライトの柄を押さえていた。
「春・夏・秋・冬」それぞれのモデルカップルは、ワーグナーのオペラからなるわかりやすい曲を、BGMとして登場する。
春は、立村先輩にも話した通り「ニーベルングの指輪」から「ワルキューレ騎行」。
夏は、思い切って「ローエングリン」の「結婚行進曲」。
秋は、「タンホイザー」の「序曲」。
冬は、同じく「タンホイザー」から「夕星の歌」
梨南の趣味がまるごと詰め込まれた選曲だった。ある程度梨南と話をしている人が、台本を確認したら一発で見抜けるだろうに。気付かないでへらへらしている新井林たちに、ひそかにあきれていた。
──気付かないなんて、救いようのないほど、ばかなのよ。
つぶやいたのが聞こえたのか、立村先輩が梨南の方に目を向けた。
「杉本のオペラ関係の知識、この前聞かされて、本当にすごいと思ったな」
さすが、「マイスタージンガー」観劇中に言葉でパニックになった人だから。ちゃんと覚えてくれたらしい。新井林よりはわかってくれている。
「ワーグナーのオペラは、頭の悪い男があまり出てこないから好きです。イタリアとかフランスとかのは、恋愛ばかりにうつつぬかすばか男ばかりなので、腹が立ちます」
「杉本が一番好きな演目は『ローエングリン』なんだよな。家に帰ってから百科事典で調べてみたよ。なんというか、日本昔話って感じなんだよな。鶴の恩返しのような」
いいこと言う。梨南は頷いた。
「そうなんです。ローエングリン様に救われたばか女のエルザが、絶対に素性を聞かないでくださいって約束したのに、結局聞いてしまって、ローエングリン様は去ってしまったって話です」
「なんか、杉本の説明で聞くと、すごいことになるよな。でもわかる。救いがないよ。そのくせ、なぜか『結婚行進曲』がこの中に入ってるんだよな。意外だよ」
「救いはないかもしれないけれど、ローエングリン様はおばかな女にひっかからないで、さっさと帰ることができたんだから、それはそれでいいんです」
エルザのばかさかげんには、いつも舞台を見るたびに頭にきていた。
勝手に惚れて、できるわけもない約束して、回りの噂に振り回されて、結局大好きなローエングリン様を失ってしまったというていたらく。梨南はこのエルザという女性が大嫌いだった。
「でもさ、さんざん噂を聞かされて、神経がおかしくなりそうな思いをしたら、名前のひとつくらい、聞きたくもなるよな」
「ローエングリンが馬鹿女をさっさと捨てて、帰るから、私は「ローエングリン」が好きなんです。ざまあみろって、感じです」
梨南は繰り返した。
──ばか女よ、ばか女。
「ワルキューレ騎行」の強烈な響きがまだ残っている。立村先輩が慌ててスポットライトを固め直した。闇にまぎれて、「おおう、おおう」と獣じみた声が聞こえる。顔が見えないと野生の動物にみな変化したかのよう。
人間でいるのは自分だけのようだった。
「しっかし、最後まで清坂氏たちが隠していただけあるな。お見事だ」
A組モデルカップルが、肩を寄せ合ってスポットライトの真ん中に立った。二年の先輩が戸を開ける役だ。。
男女別、二手に分かれて座っている。真中がちょうど登場通路として使えるようになっている。ひそひそと歩いてくるのだが、光に反射してか服がよく見えない。ブレザーを肩から袖を通さずにはおり、男子はパステルグリーンのTシャツ、女子は卵色のふりふりしたブラウス。もちろん制服のスカート、ズボンは変わらない。
ただ上を替えただけか、と思ったが、甘かった。
よく見ると男子はベルトを緩めに、シャツの上から締めている。結んでいる、という方が近いだろうか。
女子はスカートいっぱいに、かわいらしい黄色のボタンをたくさんくっつけている。ぶつかり合って、ちゃらちゃら音がするのは、こすれあうからだろう。胸には白いブローチをつけている。
「ブローチは二年の先輩の持ち物でしょうか。それを含めて計算するならば、高いかもしれません」
梨南は答えながら、ざっとスカートに縫い付けられたボタンを数えた。
「たぶん、あれだと、百円くらいの安いボタンをどこかから集めて縫い付けたんだと思います。清坂先輩、すごいです」
モデル役の二人は、梨南の知っている限り、まだ「お付き合い」まではいたってないらしい。B組ほどではないにしても、男女の仲がいいクラスだとは聞いていない。
通路中央、だいたい二年生の先頭位置に来るところで、突然モデルの男子がかしわ手を打った。
同時に、モデル女子はスカートの両端をつまんだ。一回転した。
よく幼稚園、小学生低学年の女子が、スカートを広げてみせる、あんな感じだった。
「すげえ、やるなあ」
壇上でしゃべっている声が聞こえてくる。当然ひゅうひゅう、ざわめいている。「ワルキューレ」が繰り返し同じサビを聞かせるように、曲は激しく流れていた。
「ポーズとか、歩き方とかも、二年の女子が決めたんだろうな」
立村先輩はゆっくりとスポットライトを動かしながら、観察した感想をひとことひとこと、梨南に伝えてきた。
何か口にしてないと落ち着かないのだろう。梨南の前で失敗したら恥ずかしいと持っているのだろう。
「一応、私の意見も、清坂先輩に聞いてもらいました。すごいって誉めてくれました」
落ち着いている梨南は、あえてつんとしたまま答えることにした。
モデル二人が舞台に上がり、しゃなりしゃなりと回答者の前を歩いていく。文句のつけようがない。さっそく男女回答者が相談しつつ持ち込んだ電卓を叩いていた。
制服代プラス、ボタン代、プラス、シャツ代、プラス……。
正確な数字なんて出るわけないので、直感が頼りだ。
解答から一番近い数字をたたき出した人が、このゲームの勝利者となる。
「先輩はいくらくらいだと思いますか?」
「ボタンの値段によるな。たぶん野郎連中の格好はそんなにかかってないと思うんだけどさ」
司会者の女子二人は素早く数字をチェックしているようすだ。向こう側の袖から走り出て、片手に電卓を持ち、答えを発表している。もちろん会場のみなさまにもわかるように、三年男子評議が答えの書いてある模造紙を持ち、走ったのはいうまでもない。
「答えは……円です! 一番近いのは、三年B組の……さんです!」
つっかえながらも司会者ふたりは、数字を間違えずにマイクを握っている。調子はよさそうだ。梨南がカバーに走る必要もなさそうだ。楽でいられる。
三年B組の集団は後ろから三番目に位置している。いきなりウエーブじみた真似を始めた。ひとりひとりがひょこひょこ、もぐらたたきののりで立ち上がり、万歳をする。男女関係なくやっている。喜びの表現らしい。拍手喝采は、壇上の正解者だけでなく、観客の連中にも向けられていた。
「先輩のクラスは当たっているようですか?」
「外れてる。羽飛と古川さんだったら、結構いい線いけると思ったんだけど、甘かったな」
今朝、エッチネタをかましてきた女子の先輩と、ひそかに「ローエングリン」と呼んでいる男子の先輩、同じ舞台にいるなんて。
計画どおりに進んでいる。A組モデルふたりは役目を終えて反対側の袖から下りていった。そそそっと隅を通っていく姿に、ひやかしの声が飛ぶ。A組の男子評議が、相手役をクラス女子から指名したのだから、嫌いな女子ではないのだろう。明日からどういう運命が待ち受けているか、楽しみだ。
「明日からは、A組、戦争ですね」
「俺もそう思う。よかったよ。杉本と同じ学年でなくてさ」
顔を合わせて笑い合った。
いったん「ワルキューレ」が静まり、二秒くらい間の後、有名すぎるくらい有名な曲が流れるはずだ。梨南は息を殺した。
「次の曲は、杉本のクラスだろ」
「はい」
オペラ「ローエングリン」は知らなくても、この曲を知らない人はいないだろう。
ワーグナーの「結婚行進曲」。
結婚式場のCMで必ず流れる曲だ。メンデルスゾーンの「結婚行進曲」に比べると落ち着いている。ローエングリンと関係なくても、梨南はワーグナーの曲のほうが好きだった。
ローエングリンとエルザが結婚するにあたり流れる名曲だ。
「まずい、ライトを戻すんだよな」
手元の台本を指で抑えながら、立村先輩はふたたび体育館にスポットライトを向けた。
──「ローエングリン」のあの曲だ。
──ローエングリン様。
突然、目を伏せたくなった。すべてはっきり見えたのは、目が暗闇に慣れたからだろうか。
立村先輩のあきれたような声が聞こえる。
「あいつらいったい。学校だってのに」
白、赤、青、トリコロールカラーの無地スカーフを四隅結び合わせTシャツ風にかぶっている。
「夏」モデルの男子は素肌に纏っていた。
一枚の大きさは小さめの風呂敷くらいだろう。体をすぽりと覆うわけではない。空いている隙間から肌が覗いているはずだ。でも光でうまく隠れているのだろうか、首のところをきちりとまとめているのか、裸っぽい感じはしなかった。
──清坂先輩が考えたのってあれなんだ。
──清坂先輩だから、新井林を説得できたんだ。きっと。
夏服バージョンだから、ブレザーは着ていない。ズボンはそのまま。髪だけは額をオールバックにまとめ、つんとムースーでかためているらしい。
なかなか動き出さないので立村先輩がスポットライトをなかなか移動できないでいる。梨南は肩から覗き込んだ。
「あいつら、何もこんなところで」
立村先輩の手が、ふたりを光の輪から飛び出させないように、ゆっくりと動いていた。つぶやきでほんの少し、輪が揺れていた。
新井林とはるみ。
ふたりは朝と同じく、手を握り合っていた。
はるみもブラウスの上から同じくトリコロールカラーのスカーフを三枚結び合わせてスモッグ風にかぶっていた。さすがに女子だ。素肌同士なんてことはしなかったのだろう。さらに足首には小さく、赤と青のリボンが巻きつけられている。さっきまでおだんごにしていたはずの髪は、長く伸ばしたまま。梨南と同じく腰まで伸びているのに、軽やかに見える。うらやましい髪だった。
「スカーフ代だけか。これなら正解者でそうだな」
新井林は一歩前に出た。つなぎ合っている手が伸びた。はるみは動こうとしない。ばんばレースのそりを引いているような格好に見えた。こけそうになり、失笑が漏れる。三年がわだろうか。にらみつけて黙らせようとするしぐさ。はるみはとうとう歩き出した。
「あいつら、全校生徒のまん前だぞ、何考えてるんだいったい」
「ばか同士仕方ないんです」
目が離せない。しかたなさそうに立村先輩はライトを動かした。
やがて手が止まった。
「今度は何をしでかす気なんだ、杉本のクラスは」
伸ばすようにつぶやいていた立村先輩が、思わず生声で叫んでいる。周りのざわめきと一緒で、目立たない。梨南だけがそばで立村先輩の声音を受けていた。
「新井林の奴、ひざまずいてやがる。中世騎士ごっこやってどうするんだ!」
答えが出てこなかった。立村先輩の言葉どおり、新井林は壇上まではるみを引っ張っていき、一度手を解いた。そして、いきなりひざまづくと同時に両手を広げ、大きく深呼吸をひとつ。
──けんごー、何やってるんだあ。
──すっけべやろー!
──一年のくせになあ。
茶々が入る。気にしていないようす。はるみの表情が隠れて見えない。
新井林は目一杯の笑顔を、壇上の回答者、そこからゆっくり天井に向けた。
梨南には一生拝むことのできない代物だろう。
上から見下ろしたのではわからない。
本当に手の甲へ口づけしているのかもわからない。
梨南が見たのは、新井林がはるみの片手を取り、左右を確認した後、ゆっくり顔を近づけたところだった。空いている片手はぴんと横に流したまま。中世の騎士が姫に忠誠を誓う姿のように。
エルザを救ったローエングリン、生き写しのように。
小学校二年の時に両親と観にいった、「ローエングリン」役のオペラ歌手に、日々近づいている。梨南の記憶に残っている、あの歌手が中学生だったらきっと新井林と瓜二つだっただろう。
──「ワルキューレ騎行」にするべきだったかもしれない。
すっくと立ち上がり、新井林ははるみの手をしっかと握り直した。ゆっくりと壇上への階段を昇り、回答者の前をひとまわりした。はるみが必死に抵抗しているのに、全く無視。新井林にとっては壇上でポーズを取ることよりも、はるみの手を握りつづけていることの方がはるかに大切なことらしい。梨南と立村先輩側に近づいた時、目が合った。
スポットライトを当てようとした立村先輩へすぐに視線を逸らし、唇と鼻の穴をかすかに広げ、あごを上げた.挑発するポーズだった。梨南ではなく、立村先輩にだった。
立村先輩の表情は変わらなかった。穏やかなままだった。ただ、全く動けなかったようだった。機械的にスポットライトを揺らすだけ。ふたりが壇上を下りた後も、立村先輩はスポットライトを元に戻さないでいた。
「あのふたり、新井林と佐賀さんは、付き合ってます。六年の卒業式予行練習の時に、みんなの前で公表されてます」
「公表って?」
気が付いたのか、スポットライトを大急ぎで体育館入り口へ向け直した後、立村先輩は梨南にたずね返した。
「さっき先輩、私と新井林がどうして仲悪いのか、聞いていらっしゃいましたよね」
「無理に言わなくてもいい」
「言いたいから話すんです。一度しか言いませんからちゃんと聞いてください」
急いで梨南はささやいた。
「六年の予行練習の時です。たまたま佐賀さんの靴と私の靴が同じエナメルのおでかけ靴だったんです。私が死ねばいいと思っている男子連中が、蛆虫を靴に入れておこうと計画したらしいです」
息を呑む声。答えはなかった。待ってなんてない。梨南は急いで続けた。
「ばかな男子たちは、蛆虫の群れをはるみの靴に注ぎ込んだんです。気付いた時にはすでに、佐賀さんはパニック状態になっていきなり泣き出して、教室を飛び出していってしまいました」
立村先輩の目は、静まっていた。梨南の口元を静かに見つめていた。手はライトの柄にかかったままだった。
「私は佐賀さんを追いかけて、靴下を脱いではだしでエナメルの靴、履いて替えればいいっていいました。脱がせてあげようとしました。蛆虫くらい、私は平気でした。でも」
「タンホイザー序曲」が流れ始めた。早口に、立村先輩にしか聞き取れないようにつぶやいた。
「そしたら、いきなり新井林が飛んできました。私を足で蹴り倒して佐賀さんを背負っていきました。私は家に電話を掛けて保健室に寄って、教室に戻ったので、新井林がどういうことを話したのかはわかりません。ただ」
「ただ?」
初めて問い返してくれた。
「『俺はどんなことがあっても佐賀はるみを守る。あの女からはるみを守る』って、ばかみたいに叫んでいたそうです」
立村先輩はそれ以上何も言わなかった。すでにC組モデルカップルが登場しているのに気付かなかったようだった。ライトが、ずれていた。