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結局、立村先輩にはシナリオのことを横に置いてもらった。梨南のオペラ観劇歴を語るはめになってしまった。「マイスタージンガー」の言葉がドイツ語のまんま、字幕スーパーなしで理解してしまった立村先輩が、どんなパニック状態に陥ったのか想像つかない。決して梨南も語学が弱い方ではないのだが、さすがに三日でドイツ語をマスターするなんてことはできないだろう。
「おちうど」二階にある舞台は本当に檜なのか、立村先輩はお茶会で長時間正座を耐えられたのだろうか、とかいろいろ聞きたかった。やっぱり根っこのところで立村先輩は評議だった。巨峰のシャーベットをしゃりしゃりスプーンでかき回し、ページをめくり始めた。漆塗りのテーブルに、小さな市松模様が掘り込まれているガラス器にぶどう色のしずくが溜まっていた。
立村先輩の読むスピードは遅い。清坂先輩よりもゆっくりだ。
「完璧だな」
ひとりごとっぽく聞こえた。
「あたりまえです。できない人がばかなんです」
「杉本の案に、プラス、二年女子チームの恐るべきセンスが混じるってわけか。盛り上がること間違いなしだな。一年の評議連中にモデル役を押しつけるだってところがなんともいえない、うまいよ。お見事だ」
「一年の連中は全く手伝う気ありません。私だって手伝われても邪魔です。だったら、無理に手伝わせるよりもやることだけやってもらえたらそれでいいと思います」
話したところで、梨南はかばんの中に入れていた手紙のことを思い出した。
本当は、口で話したほうがいいかもしれないと、ちらっとは思ったのだ。でも、封印蝋まで使ってとじたのだ。奮発したもの、無駄にはしたくなかった。Lの文字を表に向け、梨南は両手で立村先輩に差し出した。
立村先輩はまじまじと蝋の部分を眺め、
「あの、これは」
梨南の顔と交互に視線をさまよわせた。
「ラブレターではありません。誤解しないでください。手紙に分かりやすく書いてきました」
勘違いはすぐに訂正されたらしく、立村先輩は手紙をくるくると両手で回していた。封の切り方に悩んでいたらしい。かばんからカッターを取り出し、手の平に手紙を載せて、器用に滑らせた。下手したら手のひら切って流血になるかも。ならなかった。シャープの先で切れたところを開き、すぐに読み始めた。
──清坂先輩にもらったとしたら、どんな顔するのかな。まずありえないけれども。
読み終えた立村先輩は、しばらく黙りこくっていた。字のきれいさに気付いてほしかった。
全く言及しない。やはり鈍感なのだろう。
「確かにな。杉本は鋭いところついてるよ。よくそこまで考えまわるなあ」
「企画を立てたのが私だと気付いたら、一年男子は絶対動きません。断言できます」
「異常だよ、それって。でもそうだな。二年女子が中心で動いているような感じで一年の評議たちには説明しておいた方がいいかもしれないな。シナリオ渡すなり、モデルになってもらうよう頼んだり、表だったことを清坂氏たちにやってもらえばいいか」
さすがばかではない。立村先輩。ずっと茶を持ったまま、
「二年三年の指示ということだったら、むかついたとしても骨のある奴でない限り、言い返さないだろうしな」
「そんな奴、一年には絶対いません」
梨南が逆の立場だったら女子の味方を引き連れてどんなことがあっても阻止しただろう。ばか男子どもにそういうことができる奴はいないだろう。
「最悪の場合は本条先輩の後光を借りるって手もあるし」
あまり使いたくないことを立村先輩はさらっと言った。
「本条先輩を利用するんですか。立村先輩」
「本条委員長にうっかり逆らったら、何されるかわからないってことくらい」
立村先輩はノートを閉じた。
「これで、百パーセント、完璧だ」
梨南に微笑んだ。
「杉本、やっぱりすごいな。俺はこれだけのこと、去年の今ごろできなかったよ」
細かい打ち合わせをした後、梨南は「おちうど」を出た。まだ外は明るかった。白樺の木を通りながら、立村先輩を見上げると、ふたたび目を見ない、ずいぶん礼儀知らずそうな奴に戻っているようだった。でも、梨南の顔を見る時は、無理して笑ってくれているのがわかる。
初めて立村先輩と二人きりで話したのも、確かこんな感じだった。
五月の風がほこりっぽくて、教室に来る前に梨南の髪は砂のムースで固められてしまっていたことを思い出した。あの時の立村先輩も、今日と同じようなことを言ってくれた。
一年評議委員は最初に、六月開催「一年生学年会」という行事に参加しなくてはならなかった。
青大附中における評議委員会とは、学級代表者の討議機関ではなく、「委員会」という名のもとにある倶楽部活動だった。教師側にもすでに了解されている。生活委員会、美化委員会、放送委員会、図書委員会、すべては「委員会」という名を「部」「倶楽部」に置き換えて考えるべき存在だった。ただし前期後期の入れ替え時期以外は退会が許されない。一応そこが「委員会」たるゆえんだった。希望者が必ずしも入会するわけではなく、場合によってはいろいろな問題が起こるらしいが、評議委員会に関しては特になにもなかった。ただ評議委員の顔ぶれにより、各年度のつながりは強いこともあれば弱いこともある。二年生たちの団結力は相当なもので、さらにいうなら本条委員長を代表とする三年生同士も気持悪いくらい仲がよかった。なぜ梨南たち一年生があそこまで嫌悪しあったのか、よくわからなかった。
一年生同士で、どういうイベントを行うか考え、案を用意し、二年生の先輩へ持っていってアドバイスを受けるという決まりがあった。持っていく一年生は、一人だけ。別教室で待つ二年生もひとりだけ。どうしてこういうわけのわからない決まりがあったのかわからないが、当時の梨南は真剣にそれを実行していた。
男子たちは面倒くさいとぶつぶつ言いながら、演劇の案、クイズ大会、物まね大会などとそれなりの案を出してくれた。女子もしばらくは黙っていた。しかし、どの案に絞るかを決める段階で、男子連中がちょこちょこと文句を言い始めた。どうも男子連中もあまりそりが合わなかったようだった。決まりそうになると、余計なことを言い出して他の連中を惑わせる。梨南もおとなしくしていようと思っていたものの、二時間くらいたっても全く決まる気配がないので、とうとう立ち上がった。
「それでは、演劇とクイズと物まねの決戦投票をしたらいいんじゃない」
すばやく梨南は演劇、クイズ、物まねのよいところ、わるいところを箇条書きした。
「なんだよ、みんなで真剣に考えてるんじゃないかよ」
「どれもいいところと悪いところがあるし、それは繰り返さなくてもわかるはずだから」
だらだらした時間よりも、強引だけど多数決を取る。それが一番だと梨南は思っていた。
「それでは、この三点のうち、どれがいいか、一点だけ挙手してください」
結果。演劇一人、クイズ九人、物まね〇人。
あっさりとクイズ大会に決まった。その間三分。早かった。
「なら、杉本が決めたことだから、おまえが二年生の先輩に持っていけよな」
と言い残し、さっさと教室を出て行った。また女子たちも状況が決したと見て、それぞれ用事を思い出して帰っていった。残されたのは梨南一人だった。待っている二年の先輩の下へ行かなくてはならなかった。
──クイズ大会の方がみんなで参加できるし、退屈しないですむし、仕込みの時間もかからないものね。 二年生の先輩というのが立村先輩だった。軟弱そうで、自分から積極的に会話に加わらないタイプに見えた。当然不細工の極地であることは、言うまでもない。
そんなばか男と一対一で離さなくてはならないこと。寒気がした。
結局、二年D組の教室で文庫本を読んでいた立村先輩の元に行き、どうして自分がこなくては鳴らなかったのか、どうしてクイズ大会を案にしたのか、説明するはめになった。
「どうして、杉本になったんだ。他の男子とか、自分がやるとか言わなかったのか」
「はい。決まったら、すぐ帰りました」
「とんでもない連中だな。大変だったね。でも、杉本で正解だったと思うよ。お疲れさま」
机に向き合って、緊張したままずっと説明した。時には黒板も使った。立村先輩もところどころ質問しながら、穏やかな表情で梨南の言葉を聞いてくれた。なぜか、しゃべりつづけるのが立村先輩相手だと苦痛でなくなった。会話らしい会話はほとんどなかったはずなのに、うなづきながら立村先輩は何度も繰り返した。
「すごいな、一年だろ、杉本は。そこまでしっかりしている奴、俺の代にはいなかったよ。なんていうかさ、この一年生学年会、去年はコマーシャルの物まね一発芸大会をやったんだけど、確かに盛り上がりはしたんだ。ただ、手伝ってくれたのはほとんど三年の先輩たちだった。杉本のように完璧な計画、立てられなかった」
そして、最後に一言、聞こえるか聞こえないかの声で耳元にささやいてくれた。
「やはり、来るべき人がくるって、ほんとだよな。俺も杉本くらい頭がよければって思うよ」
生まれて初めてだった。
梨南を「能力」で認めてくれた男子という存在は。
女子はみな、小さい時から「梨南ちゃん頭いいね」「梨南ちゃん才能あるね」と誉めてくれた。「可愛いね」とか「性格いいね」とは誰も言ってくれなかった。それが誉め言葉とは思わなかった。
ありのまま、梨南を女子たちと同じ目で見てくれた。
ありのままのお前が好きだなんて、白々しいことは口にしないけれど、梨南が一番誉めてほしかった言葉を、立村先輩は知っている。
土日が入ったこともあり、シナリオをすべて方眼紙に書き出してコピーするところまで自宅で終わらせた。あとはコピー室で評議委員人数分用意すればいいことだ。
日曜の夜には、清坂先輩から
「コーディネイト、完成したよ!」
と明るい声で電話がかかってきた。梨南の知らない間に、二年女子評議四人でもって丹念に選んでくれたらしい。土曜日の午後は洋服店をあちらこちら尋ねて値段を確認するのに忙しかったらしい。
「女子五人分は完璧なんですか」
「問題は男子よね。それでね、立村くんとも話していたんだけど各クラスの洋服テーマを『四季』に分けて、A組からD組まで、現してもらったらどうかなあ。たとえば冬はセーターとブーツと冬服にしてみたりして」
今は五月の末だ。着る奴は暑くて死ぬぞと梨南はつぶやいた。
言わないのは相手が清坂先輩だから。
「B組は順番でいくと夏の組み合わせですか?」
どうせ梨南はモデルにならない。関係ないから気軽に尋ねた。
「そう、男子のブレザー下なんだけど面白い案が出てるのよ。ただ着るのが新井林くんなのよね。説得するのは骨かなあって思うんだけどね」
説得するのは立村先輩、本条先輩だ。関係ない。
「待っててね。杉本さんの期待を絶対に裏切らない内容にするからね」
清坂先輩はふと、言葉を止めた。
「あのね」
クリームを入れた風にまろやかな声だった。ちょっと苦味のあるコーヒーっぽい清坂先輩の口調だが、なぜか甘かった。梨南は白砂糖を好まない。飲むなら絶対ブラックだ。
「なんでしょうか」
「この前、立村くんとどこで話してたの。ううん、変な意味じゃなくって、杉本さんが立村くんにシナリオを見せるために来たでしょ。私いなかったから、もし何か困ったことあったら手伝おうかって思って探してたんだけど、いなかったから、心配してたんだ」
「わざわざありがとうございます。最初、図書館で打ち合わせするつもりだったんですけれども、いやな男子がたくさんいたので、立村先輩が、らしくもなく気を遣ってくださったんです。別のところに行きました」
場所は『おちうど』と口に出しかけた。さすがに梨南も気を利かせた。立村先輩だって思いを寄せている清坂先輩に、別の相手とふたりっきりになったことを知られたくはないだろう。顔さえよければ梨南とまともに会話のできるだけの能力を持っている人だ。努力は認めてあげたい。
かなわない恋はあきらめろという正しい助言もしてあげたい気がする。
「別のところって?」
濃いクリームをたっぷり注いだような、たぽっとした声。沈んでいた。
「近くの喫茶店に連れていかれました。たぶん、清坂先輩とふたりになる前に練習したかったんだと思います。努力は認めます、私、練習台になりました」
「れ、練習台って、何よそれ!」
いつものことながら清坂先輩は笑い転げた。カップのコーヒーをぶちまけてしまったように。
「清坂先輩と、目と目を見て話ができるように、だと思います。めずらしくその時立村先輩は目をそらさないで、真っ正面で話してきました。いいリハビリだと思います。すごく努力していたのは認めるので、清坂先輩も少し立村先輩のことを大目に見てあげてください」
「杉本さん、もう、最高、私もうがまんできないかも。ごめんね、切るね、笑い死にそう! じゃあね」
たぶん受話器を握り締めたままあえいでいたのだろう。どこが受けたのかが梨南にはよくわからなかった。自分で感じていたことをそのまま女子に伝えるとみな、喜んでくれる。今まで男子がかわいそうだと思ったことはないし、手伝いたいとも感じたことはなかった。
でも今回だけは、まともに「マイスタージンガー」の話をしてくれた立村先輩を応援してあげたかった。梨南の能力を認めてくれた人にはきちんと心を込めてお礼をするのが当然だ。
目には目を、歯には歯を。原則だけど、善意にだってこれは応用できるのだ。両親がいつも教えてくれたことだった。
──良いことすると気持ちもすっきりするもの。正しいことを口にするとその分きちんと自分に帰ってくるもの。だから当然、人には正しいことをきちんと教えてあげなさい。それが梨南ちゃん、あなたの義務なのよ──
月曜日。
いつもなら足の重たい通学路も、用事がある朝は早く着く。二年生の教室へたったと昇っていった。シナリオのコピーを渡さなくてはならない。七時五〇分。梨南が到着した時、教室には羽飛先輩と馬鹿話している清坂先輩しかいなかった。なんでふたり一緒なんだろう。やはりいろいろ考えるものがあるのだろう。こくっと頭を下げ、あえて羽飛先輩を無視して清坂先輩に近づいた。いきなり電話を切ってしまったのが申しわけなかったのだろう。目を大きく見開いて、おいでおいでをしてくれた。
「立村くんね、暑いのが苦手なんだって。この前長距離走らされたからあれでまた、熱出したみたいよ」
くすりと秘密めかしてつぶやく清坂先輩。どことなく髪のつやが異質だった。無理やり光らせている。小学校時代、学期末に磨いたどろっとしたワックスを思い出した。。黒髪なのにローラーの白線らしきものがが目立つ髪。気になった。
「清坂先輩、シャンプー替えたんですか」
何気なく尋ねてみた。
「すごいね杉本さん、よく気付いたね」
「ふつうの光り方じゃないですから」
おかっぱ髪という言葉が似合わない。アイドル歌手の真面目な雰囲気の子がこんな感じで固めている。
「実はね、トリートメント、替えたんだ。ほら、鈴蘭優のコマーシャルでやってる、『髪に五月の風をはらませて』とかいうの。使ってみたら本当に合ったみたいなんだ。はやってるから試すとみんなばかにするけどね、たまには貴史のお勧めも悪くないってことかな、ね、貴史」
あえて尋ねるのはなぜだろう。羽飛先輩、またの名ローエングリン様はネクタイを取っ払い、紺のランニングを襟元から覗かせ、
「優ちゃんの勧めるもんが間違ってるわけないだろ、美里」
ちゃん付けで呼ぶのがすごい。
梨南はゆっくりと羽飛先輩の額を見つめ、鼻、口とずらしていった。顔に文句の付け所はない。アイドルファンであることを顔のいい男子は、ふつう隠したがるものだろう。一年B組でそんなこと口にしたら、さっそく物笑いにされるだろう。二年D組の日常は、梨南の知っている場所ではない。
「なあにが優ちゃんよ。あんたって、変なとこでロリコンなんだから……」
言い終わる前に羽飛先輩は風を切って清坂先輩の頬に手を上げようとした、
微妙なところで止めて、にやりと口角を上げた。
「俺は美里みたいに同級生好みなんかじゃねえんだからな」
手加減したのは男子の腕力があることを気付いているからだろう。しかし清坂先輩は全く自分の意志、赴くままに行動していた。羽飛先輩の頭をひっつかんでぼんと投げ出した。よろける羽飛先輩は、かろうじてバランスを取り、とんとんとんと片足飛びした。、
「こいつ本気出しやがったあ! やっぱしなあ、うっしろめたいこと、あるんだもんなあ」
不思議なことに怒らない。やりかえそうとしない。顔はまだへらへら笑っている。きれいな顔立ちそのまま崩さないように。
「なにえらそうなこと言ってるのよ、ばあか」
「美里、無理すんなよ。「服装の乱れが心の乱れ」ってな、胸の真ん中、ほら開いてるぜ」
両手で胸のボタン部分を手探りし、うつむく清坂先輩。梨南の見たところしっかり留まっている。はったりだ。一秒ずらして清坂先輩もはったりかけられたと気付いたらしい。
「貴史! ちょっと待ちなさいよ! あんたって何考えてるわけ? 変態、すけべ!」
「ほおら、意識してるくせになあ、顔に出てるぜもろにな」
これ以上いても清坂先輩と羽飛先輩の漫才を見せ付けられるだけだ。二年D組の教室にも、ひとりふたりと「おはよう」の声が響き始めた。まっすぐのぞいた窓には、中庭にそびえている胡桃の木が揺れていた。人がだいぶ揃ってきた。とりあえずは立村先輩に渡すようお願いして、梨南は教室を出た。
──清坂先輩も大変なのね。トリートメント替えて一生懸命、羽飛先輩に振り向いてもらえるよう努力しているのに、あんなにからかわれてたらたまったもんじゃない。羽飛先輩だって清坂先輩のことを名前で呼ぶくらいだから、思いっきり好きなはずだわ。
──ただ、鈴蘭優のファンだとは思わなかった。
──たぶん、はるみのような感じが好みなのね。なら清坂先輩の思いは届かないな。
もうひとりの、かなわない恋の相手を思い出した。まだ教室にはいない相手だった。
──立村先輩はアイドルで好きな人いるのかな。
──清坂先輩に似たアイドルっているのかな。芸能人でもいいわ。今度うちにある古い映画のパンフレット、開いて調べてみよう。届かない思いに悩む立村先輩に、プレゼントしてあげるのがいいかもしれない。喜ばせてあげたいな。
のどかな二年D組が光ならば、影の空気ただよう一年B組。
いつものことながら梨南が教室に入ると男子たちのじっとりしたまなざしが飛んでくる。気に入らないなら無視すればいいのだ。存在を消してしまえばいいのだ。それができないのが、男子のおばかなところである。
女子にはちゃんとおはようを言い、前の席が空いていることを確かめた。向こう側にいる男子席が空っぽであることも。たぶん、ぎりぎりに一緒にくるかするのだろう。現在一年B組においてカップルと言われるのは、男子評議ともうひとり、鈴蘭優に似た髪形をした女子だけ。
決して触れてはいけない禁断の言葉。
なぜか男子たちも、はるみに対しては悪口を言ったりしない。
新井林の力だろうか。にらみだろうか。
──腕力で頭を下げさせる最低な人間だものね。
──本当にばかよみな。
花森さんからもらったリボンを腕の時計に軽く巻きつけた。このくらいならば校則違反にはならない。やはり似合うと自分でも思う。お礼を改めて言おうと思ったが、今日は欠席らしかった。
一時間目の授業準備は頼まなくてもさっさと新井林が片付けてくれる。意地なのだろうか。梨南には一切クラスの仕事に触れさせないようにしようとする姿はこっけいだった。清坂先輩が立村先輩と楽しそうにおしゃべりしながら教科書を運んでいるのと違う。一度、きちんと分担のけじめをつけるべきだと梨南は思っていた。最初から新井林が男子評議として、クラスの仕事を片付けたいのならばそれはそれでいい。ただ、評議委員会関係には一切口を出さないでもらえるのならば、さらによい。
ふだんならばそれがベストだ。しかし、前の日に清坂先輩と話をした通り、全校集会に関しては絶対に新井林の協力が必要である。幸い梨南と組になってしゃなりしゃなりと歩いてもらうわけではない。奴の不快感持たない女子とくんでもらえばそれでいいだろう。指名しろと言っておけばいい。
起立、礼、着席、と号令がかかる。全部新井林のどすが効いた声だった。いつのまにか、決まっていた。
「欠席は……また花森か。全く困ったもんだなあ」
陰で「男と寝てるんだぜきっと」とへらへらしながらつぶやく声がする。失礼だ。自分が何を言っているかわかっていないのだろう。溝口先生もこういうことこそ注意すべきなのに、全くチェックをしようとしない。もしかしたら彼氏の所に泊まっているのかもしれないけれど、花森さんは自分の意志でもってきっちりと行動しているだけのことだ。自分の意志もなく、新井林の顔をみながらへらへらしている男子たちにくらべたらはるかに人間だ。
梨南は心の中で言葉を始末すると、すぐに挙手した。
「溝口先生、よろしいでしょうか」
まゆ毛を吊り上げそうになりながら、溝口先生は垂れた一本髪を摘み上げた。
「どうした杉本。評議委員の発言か?」
「はい、手短に終わります」
パターンは決まっている。「またあの女かよ」「死ね」「ひっこめ」
耳慣れた言葉に免疫はついている。
しかし、もう一つの言葉に梨南は慣れていなかった。
「二年のばかにくっついてるばか女がか」
発信源は同じく、同じバッチをつけた男子より。
やらなくてはならないことを片付けたい。だから、噛みつかなかった。
「今回の六月全校集会の詳しい予定が決定しました」
切り出したが誰も聞いている奴なんていない。男子の方がまだ罵声を投げかけるだけ、反応を持っているのだろう。女子は隣りの子に手紙を回し合っている.スパンコールを交換しあっている。
「一年生の評議委員が主催する『クラス対抗・青大附中ファッションプライス・マッチングゲーム』について説明します。ほとんどの内容は二年女子の先輩が仕切ってくれました。一年の評議が使い物になりませんでしたから、しかたないことです」
言葉を切って、第一の敵、溝口先生を見つめた。がむっと、口元をかたっぽあげて、続けるように指示された。言われなくたって梨南は続ける。
「青大附中の制服を、一年の評議委員が独特の着こなしで、春・夏・秋・冬のイメージで着てもらいます。この組み合わせも、二年女子先輩にお願いしたものです。もししないということでしたら、二年、三年の評議委員の先輩から怒られること確実です」
後半は新井林のみに伝える言葉である。横目で奴の顔をうかがうと、反応はわずかながら、ある。
「もっと安心させることを言います。私は、この企画に徹底して裏方に回ります」
さて、どうだろうか。
反応はちょっとだけ、増えた。
ついでに新井林のお相手もチェックした。自分の席が空いているから目立つ。髪形はやはり丸くまとめたお団子「鈴蘭優」まねっこだ。しかし瞳は机を向いたままだ。梨南を見るのが怖いのだろう。立村先輩にしたように、ぐうっと覗き込んでやりたかった。
「そこで、この場で決めたいことがあります」
正面の壁には、先週貼り付けた直筆の説明書が貼りっ放しのままだった。男子が誰もはがそうとしないのは奇跡に近い。いろいろ事情があるのだろう。
「私の代わりに立つ、女子のモデルが一人必要です。この中で誰か立候補する人はいませんか」
いるとは思えない。この辺は読み通りだった。ざわつく教室の中で、明らかに新井林の目がひとつに向いた。黒髪のお団子頭に向いた。見つめるまなざしの色は、教壇から見下げる梨南にも読み取れた。たぶん二年D組の立村先輩か清坂先輩だったら納得できるようなもの。
男子・女子の組み合わせとして考えるならば、梨南は許せる。
そうだ、立村先輩と清坂先輩のバランスの悪さに比べれば。
はるかに。
「先生、いいっすか」
いきなり手を上げた奴がいた。ずっと意識をそちらに向けていたから先生よりも先に気がついた。
「よし、新井林」
「今の話だと、俺が一年B組の評議だから、当然モデルをやらされるってことだから、俺が相性の合う奴を指名したいんですが、いいっすか」
梨南は動かなった。声は耳を通りぬけていく。頭の中のデータが狂いそうな予感だった。
「ほう、どうした」
「俺は相手が佐賀だったら、受けます」
きいきいとねずみの泣き叫ぶような声が響く。ただ女子が騒いでいるだけだと、周りの人は言うのだろう。聞こえるのは女子だけだった。男子の空気は一切、動かないまま。誰もがびしっとかたまったままだった。羊羹の表面を見ている、そんな感じだった。
はるみを見下ろした。頭は動かない。びくりともしない。
「ほお、佐賀か。どうしてだ」
「女子の中で唯一まともだからです」
新井林はゆっくりと、全員に聞こえるよう発音した。
「このクラスの女子は、全員、狂ってるからです」
男子が、息を合わせて、「っせーのーで」とささやき、「うん、うん」と頷いた。
示し合わせているのはどういうことなのだろう。
どこかで計画が漏れたとしか考えられない。
教壇の上の梨南を追い詰めようとする、男子一丸の意志だ。
気付かないほど梨南はばかではない。
「新井林、あやまれ。何はともあれ、お前はクラスの女子を侮辱してるぞ」
「じゃあ、なんですか。佐賀に対するB組女子のシカトのしかたはなんだっていうんだ。気付かないのかよ!」
阿鼻叫喚阿鼻叫喚。
その後の教室は溝口先生も押さえようがなかった。とりあえず梨南の決めたいことは決まったので、さっさと教壇を降り自分の席に座った。はるみはうなだれたままだった。発作的にお団子三つ編みをひっぱって解いてやりたい気持ちにさせられた。何を考えているのかわからない。しかし、梨南の直感は決して間違っていないとも、確信させられた。今まで「梨南ちゃん梨南ちゃん」とぶりっこ声で呼びかけてきたのも、意味もなくかばおうとしたのも、立村先輩との思いを匂わせるような手紙も。
そしてさっき、新井林がつぶやいた言葉。
──二年のばかにくっついてるばか女がか。
これはわなだ。梨南を陥れようとする二人組だ。
もし新井林が立ち上がって、「俺はモデルなんかやるもんか!」とわめきだしたら、本条委員長の名前を出して頭を下げさせるつもりだった。たぶん誰も女子は立候補しないだろうと決めてかかっていたからだった。もし花森さんがいたら、梨南から頭を下げて、モデルをお願いしようと思っていた。クラスで一番の華を持つ彼女なら、きっとセンス良く着こなしてくれるだろうと確信していたからだった。
まさか、佐賀はるみを指名するとは思わなかった。
新井林があっさりと飲むとも、思わなかった
──私は戦う。
喧喧諤諤わめき散らす声と、溝口先生の怒鳴り声が錯綜する中、梨南ははるみの頭が新井林の方を向くのを見た。首だけ、ゆっくり、鳥のように動かして。