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清坂先輩はあとの準備を片付けてくれると言ってくれた。同じクラスの立村先輩にも伝言してくれるとも。でもすべて信用するほど梨南は甘くなかった。
伝えるべきことは、きちんと目を見て一対一で話すべし。
1Bのばかどもと違い、立村先輩は学校内で唯一の、「まともに会話ができる」男子だった。話をする時に目をそらすとか、数学の成績が壊滅的にひどいらしいとか、考えさせられるものはある。欠陥は山積みなのかもしれない。
梨南の能力を正当に判断するという、極めて困難なことを「男子のくせに」きちんと行ってくれたのは認めるべきだろう。梨南もそのくらいの良識は持っていた。
「二年女子を主体とした、青大附中制服コーディネート企画」と、一行だけシナリオノートに付け足し、梨南は真っ白なレターセットを取り出した。
「きちんとした家の娘は、青とかピンクとかで変な絵の書いていない、上質のレターセットを使用するものよ」と、母にも言い含められていた。当然のことながら梨南も賛成で、クラスの子の用いるファンシー柄を一切使用しなかった。小学校の時は友達にも「ばかになるからそんな甘ったるいの使わない方がいいよ」とアドバイスしていたのだけれど、反応が芳しくなかったのでそれ以上は無視していた。
六年時の担任からも、
「他のクラスメートたちが使っているような、かわいらしい文房具をたまには梨南さんにも使わせてあげてください。贅沢をさせてくださいというのではないんです。仲間同士のコミュニケーションとして必要な時もあるんですよ」と母に忠告してきたらしい。もっとも母は梨南と十二歳しか違わない女の担任を信用するわけがなく、あっさり切り捨てたという。当然だと思った。ふだんからやたらと匂いのついたケシゴムや、大きなくまの絵がついた下敷きなどを持ってきて、一部の女子たちときゃあきゃあ見せ合ったりしていた。「なんか、子どもが子どもを教えているみたい。梨南ちゃんの方がずっと、大人よねえ」
と母はことあるごとにあきれていたものだった。
──大人があんな下手な絵のついたノートを持ってはしゃいでいるなんて、ばかよばか。
──立村先輩──
丁寧に一行、書いてみた。立村先輩ももしかしたら、梨南の文字を目にして、あらためて自分の綴る字の汚さに気付くかもしれない。反省してくれればそれでいい。梨南のことをきちんと見てくれる、あの目、あのまなざし。持っているなら、必ず気付くはず。
──昨日、清坂先輩と相談して、「一年学年集会」のシナリオを完成させました。簡単でしたが、二年女子の先輩達の意見と、制服のコーディネイトをうまく生かして作りたいので一通り、目を通してください。お願いします。──
ためらい加減にペンも止まった。
──私は、一年男子にものすごく嫌われています。ですから、このシナリオの作者が私だとわかった場合、絶対に、一年男子評議たちからはボイコットされると思います。そこで、他の評議委員には私が書いたということを知られないようにしたほうがいいのではないでしょうか。よろしくお願いします。杉本梨南──
封筒に納めると、父が使っている封印蝋をもらいに部屋から出た。めったに使用しないものなので、「梨南ちゃんが特別な人に手紙を書いた時には、いつでも使っていいよ」と言われていた。たまたま父が部屋にいた。火で蝋をあぶってもらい、きれいに押してもらった。イニシャル「L」の花文字がきれいに浮き上がり、金色に留まった。
──立村先輩へ
パーティへの招待状ってこんな感じだろうか。
梨南が信じる美学が間違ってなければ、必ず立村先輩は納得するはず。
梨南の真剣さが。
次の日の放課後、梨南は立村先輩のもとへ行くつもりでいた。金曜だった。いつもだったら評議委員会の続きがあるはずだった。しかし、三年生の実力テストが絡んでいる関係で休みになってしまった。本条委員長がいないと、いくら真面目に語りたくたって、しょうがない。
「杉本さん、放課後はどうするの?」
「委員会の関係があるから」
「杉本さんって偉いよね。やっぱりすごいよ」
花森さんが、掃除のために机を奥に下げた後、声をかけてきた。手を振りながらだった。髪先が赤茶けているように見える。枝毛が異常発生したのでなければ、美容院でいろいろ仕込んできてもらったのだろうか
いつだったか、四月終りのホームルームで、いきなり花森さんがつるし上げられたことがあった。髪型の校則について話をしていた時に、たまたまパーマをかけているのを見つけられたのがまずかった。
もっとも梨南はためらうことなく花森さんを弁護した。ばか男子たちがさんざん、花森さんについて悪口を投げかけている姿に怒り心頭となったからだった。改めさせるべきは、花森さんの髪型ではなく、平気で「ばかじゃねえの、にあわねえ頭でさ」と悪口をこきまくる男子の、頭だ。
「佐賀さん、さっさと帰ったね」
「そうみたい」
「なんか、ね。やり方がね」
花森さんはカンペンケースをからから鳴らしながら取り出した。蓋を開けると、右端にアイドル歌手のサインに似た文字が、サインペンで書かれていた。何を書いているのかよくわからない。梨南が「アイドル歌手のサイン」と認識するのは、「わかんない殴り書き」というものを意味している。でも本当は花森さんの彼氏らしい。見せびらかしたいんだろう。顔をカンペンに近づけて、見つめた。名前は読めなかった。
「別に、ね。彼氏が新井林なら、もっと堂々とすればいいんだよねえ。彼氏がいることを隠すことないよね。私みたいにさ。そうすれば、みんなだって佐賀さんにふつうに話をするにね」
「趣味、悪すぎる」
「杉本さんの気持ちはすごくわかるよ。『むかつく』とか面と向かって言うなんて、ふつうじゃないよ。うちのクラスの女子は、新井林を代表とする一同の顔を見るのも嫌だと、絶対に思ってるよ。杉本さんのことをかばおうってしてるよ。そんなばか男をさ、好きだっていうんだもの、無視されたって当然だよね」
「だでくうむしも好き好き」
少なくとも新井林健吾の顔立ちは、立村先輩より男らしくはっきりしている。もしも小学校の奴が梨南に何をしてきたか、知らなければ、はるみが新井林に一目ぼれしても納得する。梨南も認めたいところだ。
しかし、はるみと梨南は同じ小学校なのだ。
梨南に新井林が何をしてきたのか、重々承知のはずなのだ。
「ねえ、杉本さん、ここだけの話、どういうタイプが好きなわけ」
困った。まさか「ローエングリン様」とは言えない。賭けてもいい、花森さんが「ローエングリン」というオペラを知っているとは思えない。
「人間らしい会話ができる人」
ナイス!と、手を打つ花森さん。
「だよねえ、うちのクラスってさ、そういう奴がいなさすぎ。あああ、二年とか三年にはたくさんかっこいい先輩いるんだけどなあ。ほら、2Dの羽飛先輩とか」
机を元に戻すまでの数分間、花森さんの与太話に、梨南は付き合った。女子クラスメートとうまく話をあわせるのは、一年B組評議としての義務だ。すっかり喜んでくれた花森さんは帰り際、細い臙脂のリボンをプレゼントしてくれた。
「杉本さんに似合う」からだそうだ。
ノートをかばんから取り出し、すっかり帰り準備を整えて、梨南は2年D組に急いだ。二階に上がる踊り場の窓からは、門を出て行く連中の姿がくっきりと見える。毎日目の前で見慣れた髪型がちらついたので足を留めた。
両耳の上におだんごっぽく、三つ編みを巻き上げている。
本日は新バージョンとして、ちょこっとだけ団子の真ん中からひと束、たらりと流している。中華娘風。もちろん校則違反だ。帰りに解いたのだろう。隣りにいるのは、頭ひとつぶん背の高い男子のブレザー姿だった。もちろん誰かはわかる。顔を見ると殺してやりたくなる奴のひとりだった。新井林とはるみの肩は、触れ合わんばかり、腕はぶつかりあっているだろう。真っ正面を向いて歩いて行く。
二週間くらい前だったろうか、はるみの髪型が変わった頃に、クラスの女子たちが「なあに気取ってるんだろ」とささやいていたことがあった。耳にはしていた。昼休み、新井林がその女子数人をどこかへ呼び出し一言二言「話」をしたらしい。以来、はるみへのひがみねたみはぴたっとやんだ。
気にはなっていた。女子たちが新井林の顔を恐る恐る見ている様子を。
たぶんしめられたか何かしたのだろう。
あとで、個人的調査を入れてみるつもりだった。状況によっては、一度梨南側から、ホームルームの議題にあげて、新井林本人をつるし上げることも考えている。
──ばかはばか同士よ。
一呼吸置いて、シナリオノートを、かばんと一緒に抱きしめた。
二年D組はすでに帰りの会も終り、みな解散状態だった。仲がきわめていいクラスというだけあって、時間をつぶしている連中の多いこと。一年B組では絶対にありえない光景だった。
後ろの席に陣取ってファッション雑誌を広げている女子の先輩。
プロレス雑誌を広げて技を掛け合っている男子集団。
立村先輩は先輩とふたり、窓辺で静かに語り合っていた。かしいだ光がちょうど窓辺のガラスを直撃し、立村先輩を白人の少年っぽく見せていた。目をこすりながらも何かを語っているふたり。シャツの襟元が崩れていないのが立村先輩、ネクタイをゆるくしているのが羽飛先輩だ。
──もう終わっているなら入ってよし。
堂々と梨南は乗り込んだ。
一瞬静まりかえったけれども、すぐに元の空気に戻った。女子集団の脇を通った時、「わあっ」という声が耳に残った。
梨南が話したいのは、立村先輩だけだ。
「先輩、お話したいことがあります」
一対一で話すこと。
「杉本? どうした? ああ、そっか。昨日清坂氏と話していたんだよな」
羽飛先輩も梨南の方を頭から足までずっと眺め、頷いた。
「美里と語っていた一年生か。そうだ忘れてたぜ」
「立村先輩、そのことなんですけれど、どこまで聞きましたか」
「一通りかな」
「まだまだたくさんお話したいことあります。先輩。言いましたよね、私がシナリオを書くってこと。全部仕上げるってこと。昨日、完璧に仕上がりました。今すぐ見てください」
一気に畳み掛けた。もし「またあとででいいよ」と言われたら、無理やりでも腕をひっつかんで廊下に出そうと思っていた。仮にも、梨南に指示を出した人なのだ、責任を取ってもらわないと困る。
窓辺にもたれていた立村先輩はきちんと姿勢を正した。梨南に向き直った。
「そうだよな、俺言ったよな」
「早いけどとっくに出来ました。それに手紙もあります」
声に迫力がつくように響かせた。にらみつけた。
「手紙?」
「わあ、立村、ラブレターじゃねえの?」
肩肘で小突く羽飛先輩がいた。勘違いもいいところだ。慌てて否定すると、また誤解されるだろう。どうも羽飛先輩は信用できない。顔だけの男子は新井林を筆頭として危険だ。
「なわけないだろう。あまり杉本に失礼なことを言うなよな。ほら、顔に露骨にいやって書いてある」
「言ってやーろ言ってやろ。美里にちくってやろうかな」
「ばかばかしい。清坂氏は知ってるよ。それに教えてどうするっていうんだ」
こめかみをつつくしぐさをして、立村先輩は、机の上に投げっぱなしだったかばんをぶら下げた。そのまま羽飛先輩に、
「じゃあ、悪いけど、今日は先に行く」と答えた。
「わあいわあい、立村やっぱりデートだぞ」
「俺はかまわないけれどな。ただ、俺がいなくなった後に、杉本に対して失礼な噂が流れていたら、明日の太陽拝めないと思えよ」
「へえへえ、わかりました」
軽く流そうとしている羽飛先輩を、立村先輩は笑わずにくぎさした。
「羽飛、よくわかっているよな」
でも梨南に振り返った時の瞳は昨日と全く変わらなかった。柔らかい表情と穏やかなまなざし。ガラスごしでも、接近距離五〇センチでも、変動なかった。
梨南を従えるようにして、立村先輩は最初三階に上がった。図書館に入るつもりだったらしい。
ドアを開いて中を覗いた後、
「一年の連中がうろついているけど、どうする」
「ばかがうつりますから、別の場所がいいです」
「もっともだ」
階段を下りながら、踊り場で立ち止まった。
「杉本、今日は時間どのくらいまで大丈夫か」
「はい、私はうちが近いので大丈夫です」
「なら、ちょっとだけ歩いて、外で話をしようか」
「野外はいやです」
「もちろん、家の中だよ」
喫茶店に連れこむつもりだろうか。清坂先輩にジュースをおごってもらったのは嬉しかったけれど、立村先輩に変なものを食べさせられるのは避けたかった。
「変なところはいやです」
「いや、たぶん杉本は平気なとこだと思うんだ」
「なら、いいです。立村先輩の良識を信用します」
靴箱で履き替えた後、梨南はそっとノートをかばんにしまいこんだ。
一緒に歩いているとよけいな噂が飛び交う恐れ有り、ということで、自転車置き場で落ち合うことにした。梨南を気遣ってくれていることはわかる。立村先輩のように、変な雰囲気の人と歩いたら、周りでいやな噂を立てられるのは覚悟せねばならないと、自覚しているからだろう。清坂先輩にいつも迷惑かけていることを知っているからだろう。
──やはり立村先輩は、常識をわきまえてる。
──自分の価値がどのくらいのものかを理解してるのよ。
──自分がどれだけ人に迷惑かけているかを気付いているのよ。
立村先輩は、いい人だ。
いい人というのは、「人に迷惑をかけないよう気を遣う人」「身の程を知っている人」さらに言うなら、「価値のある人を価値あると、判断する人」のことだった。
立村先輩は梨南の価値をちゃんと理解してくれている。
両親と同じくらいにだ。
大学生がたむろするようなところではなさそうだった。
梨南の家とは反対方向のだった。大学の建っている場所から三分くらい歩くと、細長いしらかばの林に入る。陽射しがすっきり隠れてしまう。夏は涼しいだろう。梨南の両親は絶対に一人で通ることを許さないだろう。痴漢に会うかもしれないとか言いそうだ。
数日前の夕立でぬかるんでいる叢。ハイソックスに泥が跳ね返っていた。あとで履き替えよう。替えの靴下はいつも持ち歩いていた。きちんとした家の娘の常識だ。
立村先輩は黙ったまま、梨南の方を見つめて、すぐに前を向いた。
──本当は、一緒にいるのが清坂先輩だったらいいのに、って思ってるのね。きっと。
二ヶ月の間、立村先輩と清坂先輩を観察していてよくわかった。レベルの違いすぎる相手だけに、立村先輩も思い切れないのだろう。清坂先輩はしかたなく立村先輩のことを相手してくれているけれども。清坂先輩は羽飛先輩のものなんだってことを、立村先輩は覚悟しているに違いない。
──そりゃそうだ。あの顔だもの。
林を抜けて付き合ったのは、舗装されていない道路越しに立っている、大きな和洋折衷の建物だった。見た目は洋風だけど、入り口は妙に和風っぽかった。引き戸、すりガラスに菖蒲の花が施されている。木目の目立つ看板がぶら下がっていて「おちうど」とある。筆にたっぷり墨を含ませて書いた、自己主張強い文字を、彫刻刀でぼりぼり彫りつづけた結果、という感じだった。
もう一度引き戸の前で立村先輩は立ち止まった。手をかけ、振り向き、梨南に、
「お先にどうぞ」
と声をかけた。
よく、梨南の父や親戚のおじさんたちがしてくれることと同じだった。父は「レディファーストっていうんだよ」と教えてくれた。立村先輩がそういうことを、自然にする人だとは思わなかった。
──かなり「まとも」な教育を受けた人なのではないだろうか。見た目で思いっきり損をしているだけなのかも。
──もう少し眉毛が太くて、もっと目鼻がくっきりしていて、もっと色が黒かったら。
──清坂先輩も立村先輩のことを好きになってくれるかもしれないのに。
梨南は軽く一礼して中に入った。
なじみある雰囲気。いかにも「教養」の文字をおなかに詰め込んだ感じの人々が、両手で茶碗を抱えてすすっていた。奥で話が盛り上がっているのは、着物姿の女性五人だ。
「今度の舞台なんですけどね……」
「『鐘の岬』を取れたのよ。あぶなかったわ」
「そうよね、早いもの勝ちなのよね。演目っていうのはね。私も本当は『賎の苧環』を狙っていたんだけどね」
両親に連れて行ってもらうオペラの会場にも、こんな感じの人たちがうろついているものだった。違うのはみな、スーツか光物のドレスが多いことくらいだろう。
「場違いと思ったか?」
「いいえ、全く」
ほんのり、抹茶の匂いが漂った。
「あら、かあさくん」
レジの奥の暖簾から「いらっしゃいませ」の言葉をあわてて消して出てきたのは、白髪を黄色く染めた女性だった。年のころ、五十前後。梨南の両親よりは若い。淡い卵色の着物姿だった。同じ点の模様が羅列している、たぶん「紬」と呼ばれるタイプの布だ。
「かあさくん」と呼ばれたとき、すぐに頭を下げた立村先輩の横顔が翳ったのを、梨南は見逃さなかった。
漆塗りの赤茶色テーブルに通された。人は見た目に寄らないものだと思った。きちんと立村先輩は梨南を奥の上座にすすめてくれた。自分はちゃんと通路側に、ちょうど斜めになるように腰掛けた。硬くもないクッションのきいた椅子。納まりよかった。母の実家にも似たタイプがあったっけ。子どもの頃から何かがあると連れて行かれ、お茶をすすったものだった。
「杉本、和菓子食べられるか?」
「はい」
言葉少なに立村先輩は、扇に記されたメニューを指差した。値段は書いていない。墨で金色の背に「煎茶・抹茶(季節の和菓子)」と記されていた。
「お金ありますか。先輩」
「ないからここに連れてきたんだよ」
口元をかすかにほころばせ、立村先輩は目を細めた。
「店の二階には、ちょっとした板張りの舞台と、茶室があるんだ。うちの学校の、茶道室のような感じに近いかな」
「舞台?」
びんとこなくて梨南は問い返した。
「日本舞踊の先生とか、茶道の先生とか、うちの親には知り合いがたくさんいるんだ。そのつながりで、俺はしょっちゅう、人足その一としてこきつかわれるはめになるんだ。ほら、日本舞踊にしろ茶道にしろ、日本伝統芸能って男手がないからしかたなく、俺がひっぱりだされるってわけなんだ」
「二階って、そんな小さな舞台で、発表会やるんですか。お客さん入りきらないんじゃないですか」
梨南の頭の中には、オペラを聴きに行く時の様子が浮かんでいた。青潟で行われるオペラ公演はいつも満員で、立ち見さえ出る有様だった。父がいい席を取ってくれるので、梨南は当然のように舞台真ん中のちょうどいい場所で楽しんでいた。しかし、建物の大きさから考えると、とてもだが五分の一くらいの面積しかないのではないだろうか。
「俺もその辺は分からないけれど、でも派手な舞台っていうんじゃないよ。そうだな、青大附中の体育館をもっと磨き上げて、半分に割ったような感じかな。さっき通ってきた暖簾奥には、エレベーターもあるんだ」
「エレベーターなんて。そんな、人間、足があるんだから階段昇ればいいのに」
喫茶店にしては大きい造りかもしれないけれど、エレベーターが必要なほどとは思えなかった。立村先輩はそっと見渡して、梨南を手で近づくよう招いた。耳元にささやきたいらしい。顔を見ないように、梨南は向かい側の和服集団に目を向けた。声だけに集中した。
「ほら、日本舞踊やっている人って、足腰が大変な人多いんだよ。それにさ、大道具とか背景用の板とか、とにかく持ってくものが大変なんだ」
「先輩はそれもってどうするんですか」
「もちろん運ぶに決まってるさ。踊る人たちがきれいな着物きて、ずらっと並んでいる陰で俺はずっと、机を運んだり板を出したり、壊れそうになったものを直したり。最後はみんなが帰った後で後片付けするんだ。なんで俺だけこんなことしなくちゃいけないんだって、思うよ」
話が読めてきた。梨南はこっくり頷いた。
「先輩はお金もらってやってるわけじゃないんですか」
「杉本、そうなんだ。ボランティアなんだ。だから」
人差し指を一瞬だけ立て、すぐ引っ込め、つぶやいた。
「『おちうど』では、俺はここでただ食いしてもいいって約束になってるんだ。いわば、肉体労働した後の駄賃ってことかな」
すっと、目の前に煎茶と、濃い緑の草もちが出てきた。絣を纏った女性が、立村先輩の方をにこにこしながら見つめていた。梨南に先に、
「さ、どうぞ。美味しいですよ」
と声をかけた。
「かあさくんは?」
「お茶だけでいいです」
目を下に向けたまま、立村先輩は答えた。どうも「かあさくん」というのが、先輩にとって呪いの言葉らしい。そのまま「ごゆっくり」と微笑んで、去っていった。ほおっとため息をついて立村先輩は、両手を組んで、初めて梨南の顔を見つめた。
「先にシナリオ、見せてもらっていいかな」
ふらふらしないで、しっかりと。
──この人は、場所がまともなところだったら、まとも人間になれる人なのね。
梨南は改めて感心した。
──昨日ずっとソフトクリーム屋に入るか否か迷っていたのはきっとそういうことだったのよ。清坂先輩の前でまさか、ゆらゆらした目して、墓穴掘りたくなかったのね。
ノートをかばんから取り出しながら、梨南は手を止めて尋ねた。
「清坂先輩とは来ないんですか?」
「え? 清坂氏と?」
戸惑ったように立村先輩は、鸚鵡返しした。意外だったのか、図星をさされて焦ったのかわからない。ちらりと梨南の茶碗に目を留めて、またもとに戻った。
「和風の雰囲気ってさ、人を選ぶだろ」
すうっすうっと、漆塗りのテーブルを撫でた。あとでかぶれても知らない。
「あまりみんなでわいわいできるところでないし、和菓子ばかりだし、しゃべっているうちにエキサイトすると、迷惑になるだろ」
「清坂先輩もですか?」
意地悪をしてやろうと決めて、もう一度。
「清坂氏だとさ、感じとしてはやっぱり、ソフトクリームだを食べる雰囲気なんだ。俺、ここだけの話だけど、杉本たちがいた喫茶店のような雰囲気、苦手なんだ。集団でわあっと音が耳元で響くだろ。めまいして倒れそうになるんだ」
「清坂先輩の前で恥をさらすのは嫌ですよね。当然です」
聞いているのかいないのか、立村先輩は一人語った。
「今日は杉本ひとりだけだから、まあいいかなと思った次第なんだ」
草もちの匂いは、甘ったるすぎたけれどもお茶ですぐに消えた。今度は番茶とシャーベットを持ってきてくれた。本当にただでいいのだろうか。立村先輩にもお菓子もセットにしている。ただ食いのくせにこれだけ丁寧に接待してもらっているなんて。日本伝統芸能における男手がいかに貴重かを梨南は理解した。
オペラとかクラシックコンサートとかだったら、もっと楽だっただろう。立村先輩のように肉体労働でこき使われることなんてないだろう。お菓子を食べて漆塗りテーブルについている客を眺めていると、オペラ会場内の喫茶店と似た雰囲気だということはよくわかった。
「なんか、ここにいる人たちにきれいな服を着せたら、オペラハウスのような感じになりますね」
「オペラ?」
「うちの両親と、一緒にいつもオペラを聴きに行くんです。この前は『マイスタージンガー』に行きました」
「『マイスタージンガー』って、ワーグナーの、ドイツのだよな」
知っているらしい。口先だけかと思って目をじっと見詰めた。嘘じゃないらしい。茶をすすりながら立村先輩は、真っ正面でかたまっていた。
「ご存知ですか。立村先輩」
「うちの親にビデオで無理やり見ろって命令されたんだ、つい最近」
単なる押し付けか。けっと笑うところを、なんとなくがまんした。
ため息をつきながら立村先輩は続けた。
「俺、ドイツ語知らなければよかったって思うんだ」
意味不明なことを言い出すのはなぜだろう。
「オペラはふつう、外国の言葉で歌います。日本語のオペラなんて少ないです」
「うん、ドイツ語でいいんだよ。ただ」
「たまたまドイツ語のドリルを先生に渡されてはまって解いていた時期だったんだ。ほんのちょっとしかやってなかったんだけどさ。歌の歌詞がみんな、意味ある言葉に聞こえてしまって、意味がいやってほどわかって頭の中がおかしくなりそうになったんだ」
「立村先輩、どういうことですか」
言っている意味がわからない。くやしいけれど問い返した。立村先輩の目は変わらない。ただ自分のことが情けないと思っているのだろう。ため息交じりだった。
「わかんないよ。俺だってどうしてこうなってしまうのか。知らない言葉だったらいくらでも音楽だけで寝てられるのに、意味のわかる言葉が耳にずんずん飛び込んでくると、もうだめなんだ。いろいろ考えてしまってどうしようもなく、疲れるんだ。それだったら、日本語だけど古語だから意味不明な、日本舞踊の長唄とか清元の方が楽だよ。俺、思いっきり頭悪い奴だと思うけど、でもたまにどうしようもなくなる時が、あるんだよな」
初めて梨南は絶句した。
立村先輩の語学能力が優れているらしいと、前から清坂先輩から聞いてはいた。でもまさか、わずかの期間ドイツ語を勉強して、あっという間にあの難しい歌詞を聞き取ることができるとは梨南、全くもって想像を絶する事実だった。
はったりかましているのではと、もう一度立村先輩の瞳を探った。学校にいる時とは違い、しっかり見つめ返してくれた。