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青大附中から徒歩十分くらいのところに、「リーズン」と呼ばれる大型スーパーが建っている。スーパーと呼ぶよりも小型デパートといった方が通りがいい。近所には下宿生が多いとかで、通りはおしゃれな学生街化していた。梨南の隣り家も、大学生専門の下宿屋だった。徹夜マージャンのちゃりちゃりした音が響き、よく梨南の両親は苦情を言いに足を運んだものだった。
清坂先輩と待ち合わせたのは、「リーズン」二階のソフトクリーム店だった。一応、学校では寄り道禁止だ。校則違反で捕まるのを避けるため梨南は家に戻って着替えてきた。基本として青大附中は、周りが思うほど校則にうるさくない。清坂先輩はたかをくくっているのか、制服のままだった。
「杉本さん、可愛いなあ、そのジャンバースカート」
一回転するとふわっと広がるベージュのジャンバースカートだった。母の手縫いだ。白いブラウスの襟は肩まで広がっている。申しわけ程度にレースがほどこされている。母が「似合う髪にしていきなさい」と、ポニーテールを解いてくれた。腰まで届く髪。はるみよりもはるかに長いはずだった。
「ふうん、お母さんが縫ってくれるんだ。いいな。うちの母さん、そういう細かい仕事苦手だからなんもしてくれないよ」
きっちりした格好を心がけていた。梨南が自分の好みを押し通すたび、一緒にいる人が子どもっぽく見えてしまう。なんとなく、清坂先輩の方が自分よりも年下に思われそうだった。
「杉本さん、絶対、可愛いんだけどな」
清坂先輩の誉めことばを、梨南は素直に受け取った。
──私は間違ってない。
ソフトクリームはバニラを選んだ。コーンにくるくるつめてもらい、テーブル席に着いた。通路沿いはぶあつい透明ガラスで仕切られている。青潟市内の制服姿で高校生たちがふらついている。長い時間粘ってもいやな顔をされない店だった。梨南は子どもの頃から知っている。
清坂先輩には思いっきり感謝された。
「杉本さん、この辺の地理は詳しいよね」
「詳しいだけでいいことないです。毎日いやな奴と顔を合わせなくちゃいけないし」
はるみも、新井林も、同じ小学校だ。清坂先輩は知っているのだろうか。
「気持ちわかるなあ。あ、でもね、もしかしたらうちの学校の連中も通るかもしれないね。立村くんと貴史、今日はふたりでぶらつくようなこと言ってたし」
「立村先輩は品山の出身なんでしょう」
品山町といえば、自転車でここから四十分は掛かる。かなりの僻地だ。
立村先輩は毎朝七時に出発しているという話を、先日聞いた。
「遠いよね、体力よく持つよね。貴史が無理やり誘うんだもんね」
「よくおふたりは、つるんでいらっしゃいますよね」
清坂先輩は、羽飛先輩のことを名前で呼んでいた。梨南の前でもだった。幼なじみだからだろうか。
「あ、でもね。立村くんは、今日私が杉本さんと会うことを知っているはずなんだけどね。かえって避けるかもしれないな」
「なんでですか」
言う意味がわからず問い返した。
「言ってたんだ。立村くん」
コーンの端に白い液体が滴り、あわてて清坂先輩はなめた。
「『俺のいないほうが、杉本も安心して清坂氏に相談できるだろうし』って。気にしないのにね」
立村先輩の声を耳によみがえらせて見た。テノールがかった、重たくないひよひよした声だった。顔は思い出さないようにした。
──その通りです。立村先輩。
コーンのしっぽから、アイスの汁がしたたった。さすがに下をなめるわけにはいかなくて、紙のナフキンで包み直した。まずは食べ終わることに専念した。結果、梨南の方が早く平らげた。ちょこちょことなめつづけている清坂先輩の前に、梨南はノートを置いた。黒いガラステーブルの上に広げた。
「清坂先輩、これがシナリオです」
「もう書いたの? 話してから一日しか経ってないよ」
「はい、今日、授業することなかったので」
どうしようもなく暇だった。いつものことだけど授業の内容は、前もって梨南が予習しておいたところばかりで、つまらなかった。先生のお説教が途中挟み込まれた程度。聞いている奴なんていないのに。特に一年B組は一度騒ぎ出すと押さえがきかない。
これがもし、他のクラスだったら。
評議委員が立ち上がってなんとか治めようとするのだろう。
一年B組では絶対ありえないことだ。さらさらなし。
詳しいことは口にせず、梨南は清坂先輩がノートを一心不乱にめくるのを眺めていた。
──クイズ、青潟大学附属中学における制服のお値段はいくらか?
一度だけウエートレスさんが水を汲んでくれた程度。邪魔されなかった。根が生えたように学生たちが座り込むことを、いつも知っているのだろう。ソフトクリーム屋の人は。たまにお茶まで運んでくれる。
隣りの席は男子高校生が三人、おとなしくしゃべっている。後ろでは、青大附高の制服を着た女子が五人、激しく笑いの渦をこしらえている。騒音と思うか思わないかで、居心地の基準が決まるものだろう。
「なるほどね、すごいすごい」
「先輩たちの時もこういう感じでしたか」
「案を立村くんが出したの。あとはシナリオの元ネタを他の男子がこしらえたんだ。立村くんって、全くテレビバラエティのことわからないからね。ほら、テレビふだんから見ないって言ってたし。シナリオを本条先輩や結城委員長にチェックしてもらったりしたんだって」
声を潜めた。
「やっぱり立村くんが立村くんらしいな、って思ったのは」
目がきょろきょろしている。肩をすくめる。頼んでもないのに教えようとする。
「コントをやる人を集める時、私のクラスからほとんど出てもらったの。ものすっごく恥ずかしい踊りとか歌もあったからみんないやがるかなって、私は思ってたんだ。それをね、立村くんはひとりひとり、男子を説得してったの。みんな立村くんに頼まれると、『いや』っていえないんだって。なんでだろうね。『立村に頼まれたなら、まあいいか』って感じで、みんな協力してくれたのよ。人の前でお尻ふりふりダンスを正気のままやるなんて、信じられないんだけど、立村くんに頼まれてしかたなくやってくれちゃったのよ」
どういう尻振りダンスか見当もつかない。梨南も家でテレビをめったにつけない。時代の流れは本でしか判断できない人間だ。梨南が計らずしも立村先輩に似ていると感じるところだった。
「立村先輩も、そのダンスに出たんですか」
「まさか。評議だもん。ずっと袖にいて、出演する人たちに声かけたり、人をいう字を書いて飲ませたり、いろいろしてたよ。めずらしく立村くんから、一生懸命話しかけたりしてたのよ」
意外だった。立村先輩といえば、評議委員会のみばりばりと話すけれども、他の人たちとはそれほどばか話をするタイプに見えなかった。梨南は見たことがなかった。
「どういう話題持ってたんでしょうか。信じられません」
「でしょ。立村くん、クラスであまりしゃべらないよ。行事がある時だけは、テンションを上げて必死に話そうとするのよ。不思議な人だよね」
気になったことを聞いてみた。
「舞台が終わった後もまだくだらないことを話していたんですか。立村先輩って」
「それがね」
さらに声を潜めて清坂先輩は唇に人差し指を立てた。
「いつのまにかいなくなってたんだ」
「逃げたんですね」
「私も最初はそう思ったの。後で聞いたら幕が閉まる寸前で貧血起こして倒れて、本条先輩に保健室へ運ばれたんだって。立村くん、次の日学校休んだわ」
立村先輩の仕切り上手を聞かされても、いまひとつイメージが繋がらなかった。頭の中に展開される場面は、本条先輩の腕の中で崩れ落ちる姿だった。
一通り目を通した後、清坂先輩は自分のメモ帳らしきものを取り出した。うぐいす色の無地で、上には小さなスパンコールのシールが貼ってある。
銀色マーカーで、ひらがなで「きよさかみさと」と記入されている。まるっこい文字だった。
「今、杉本さんの案を読ませてもらったらね、私もやりたいことのイメージがどんどん沸いてきちゃったの。いいかな、書いちゃって」
いきなりメモ帳に、青大附中の制服イラストを描き始めた。顔はなし。ブレザー、スカートのデザイン、ささっと線を引いた。細いけど形づくるところは濃く、力強く。インナーのブラウス、ネクタイは抜きだった。透明人間が制服を着て歩いているような感じのイラストがあっという間に出来上がった。
「制服の値段そのものを当てさせるのもいいけどもったいないよ」
目を宙に泳がせた後、清坂先輩はつんつんとテーブルをつついた。
「杉本さん、規律委員会が毎年作っている『青大附中ファッションブック』って知ってる?」
初めて聞いた。首を振った。
「毎年、規律委員会が、おしゃれなイラスト付きで、クラスに一冊ずつ配っているコピー誌なんだ。今年はまだ作ってないみたいだけどね。少女漫画っぽい絵でね、制服の可愛い着こなし方テクニックを紹介しているんだ。規律を守れってうるさい、規律委員会ですら遊んでるんだもん。評議でも、ちょっとくずしたことしていいんじゃないかな」
「崩すって、どういう風にですか」
制服を着崩すということだろうか。
──校則違反をするってことだろうか。
口に出せなかった。清坂先輩の話は止まらなかった。さっき描いたイラストの上に、インナーのTシャツを付け加えた。白と黒の市松模様を入れた。一こまずつ塗りつぶしていた。
「うちの制服ってトーンがちょっと濃い目の灰色じゃない? グレイってね、大抵の色に合わせられるのよ。薄すぎないし、かすかにチェックも入っているから地味派手にもできちゃうし。学校以外のところで、もしおしゃれに着るのならば、インナーのTシャツ、ブラウス、アクセサリーを使って、可愛く着こなしてみるっていうの。で、ファッションショーのようにひとりひとり、体育館に入ってきてもらって、一人あたりトータルの値段を当ててもらうの。これって頭脳ゲームだから、そう簡単には決まらないよ」
──さすが、清坂先輩、目の受けどころ違う。
「モデル役を一年の女子と男子に割り振った方がいいですか」
「いいじゃない、あまった評議の人たちでやれば」
「いやです。私は出ません」
「杉本さん、絶対可愛く着こなせるのに。ま、いっか。B組は別の子に頼むとして……そうだ。そうよ。B組の男子評議。なんもやりたがらないんでしょ。なら、無理やりモデル役にして協力させちゃうのよ。一年評議の女子もやる気ない人ばかりなら、適当にモデル役に押しこんでしまえばいいのよ。評議委員としての義務は終了。あとは私たちと杉本さんが全部計画を立てれば、OKじゃない?」
「それいいです。清坂先輩、頭いいです。頭、働かない人には一番いいです」
一年のばかどもに手伝わせるよりは、清坂先輩のように頭のいい二年生に手伝ってもらった方が絶対いい。梨南以外の一年評議には、仕事としてモデル役を押しつけておけば他の先生も文句を言わないだろう。梨南はひとりで舞台裏、シナリオどおり進んでいるかどうかをチェックすればいい。
仕事をきっちりする一年生は、梨南だけでたくさんだ。
──完璧。
「先輩、私、やります。ありがとうございます」
「よかったあ、私、杉本さんにこんなこと言って、あきれられたらどうしようって思ってたんだ。先輩扱いされなかったらどうしよう!って」
ばんざーいと、両手を上げた。ウエストのブラウスが少し持ち上がった。うっすらと白っぽいレース模様が、ブラウスの中から透けていた。たぶんブラジャーといわれるものなのだろう。梨南には理解できないものだった。息苦しそうだった。胸のじゃまな贅肉はうっとおしい。梨南はそのままにしている。すっきりした胸で楽でいいのに、清坂先輩はなんで必要ないものをつけているのだろう。
「清坂先輩、私はあまりいい組み合わせ考えられないんです。二年の先輩たちに洋服の合わせ方をお願いしていいですか。決めていただけたら、私、その通りにします」
「まかせて! 二年女子はね、おしゃれのプロばかりなんだから!」
清坂先輩はノートを綴じた。裏表紙にはハート型の銀色ものが大きく貼りつけてあった。
「好きな人の名前を書いてシールを張って一ヶ月すると、恋が実る。もしくは告白される」と言うおまじないだろう。B組にも同じことをしている女子がいた。
「先輩、裏に誰の名前書いてるのですか」
「え?」
あわてて両手でノートのシールを隠し、目だけ笑うような感じで清坂先輩は向いた。
「一年でもやたらこのおまじないはやってます。私はやりません。好きな男子絶対いませんから」
「あ、やだなあ。ただなんとなく、こう貼ると可愛いでしょ」
「そうですか」
意味を知っていたら、ショックを受けるかもしれない人が約一名、思い浮かんだ。
「じゃあ気をつけたほうがいいです、清坂先輩」
ゆっくり、声を潜めた。幸い、隣りの席の男子達はひそひそながらも熱く盛り上がっているようす。盗み聞きの気配はなかった。
「立村先輩が、絶対、はがそうとするに決まってます」
「なんでなんで」
いたずらっぽく黒目が動いている。銀色のシールを指差し、梨南は説明した。
「一ヶ月で清坂先輩が別の人に告白されたら困るのは立村先輩です」
かすかに、戸惑ったように目をぱちぱちさせている。
「あの、もしかして、私のことを立村くんが好きなんじゃないかって、そう思ってるの?」
「嫌いだったら、話しないと思います」
「あのね、杉本さん。それを言うならね、杉本さんにだって、立村くんたくさん話しかけてるよ」
あっさり返事した。
「私が一年評議の中でまともなことしているからです」
同じ顔のまま、清坂先輩はゆっくり首を傾けた。かしげたというのではなかった。機械的に、動かした、という感じだった。
全校集会のシナリオについてつめていると一時間くらいあっいう間に過ぎてしまった。清坂先輩がオレンジジュースをおごってくれた。二年女子の先輩たちは、しょっちゅう梨南に飲み物をご馳走してくれる。男子ならともかく、女子の人からプレゼントをもらえるのは大歓迎だ。少しずつすすった。
「あれ、貴史?」
いきなり清坂先輩が立ち上がった。ガラス越しに両手を振った。ばんざいの格好だった。隣りの席の男子高校生が話をやめて清坂先輩の方を指差した。
「貴史、がこの辺を歩いてるってことはもしかして。ちょっと待っててね」
財布をテーブルの上に置いて、店を飛び出していった。
ガラスの向こう側に姿が見えた。すぐに青大附中の制服を来た男子を捕まえ、ツーショットのまま立っていた。通路の真中じゃまになりそう。手振り身振りがどんなものなのかわからなかった。ちょうど、パントマイムショーを見ているような感じだった。
羽飛先輩はポケットに片手を突っ込み、片手にかばんをぶら下げて反り返るような格好で立っていた。前髪だけがつんと上がっている。ネクタイをゆるめているところがちょっとだらしない。目鼻立ちは鮮やかで堂々としている。絶対に女装できないタイプだ。本条先輩とはまた違った意味で男らしい顔だ。一年女子の一部が、羽飛先輩を発見するなり「きゃー」と騒ぎ出すのも頷けないことはない。
立村先輩よりははるかに「かっこいい」範疇にはいるだろう。
──『ローエングリン』みたい。
以前両親に連れて行ってもらったオペラの舞台を思い出した。
ワーグナーの「ローエングリン」。白鳥の騎士。
歌った男性の日本人オペラ歌手が梨南にとって初恋の人だった。
名前は覚えていない。ちゃんと眉毛が太く生えていて、目も大きくて、がっしりしていた。小学校二年の時だっただろうか。「ローエングリン」の夕べ以来、梨南の理想は「白鳥の騎士」様と相成った。禁断の名前を名乗らざるを得ず、ラスト、すがる姫を捨てて去っていくところなんて、男の中の男ではないだろうか。もっとも、「ローエングリン」はおろか「ワーグナー」すら知らない連中ばかりだったので、ひそかな憧れはあっさり隠すことができた。
羽飛先輩がそうだと、立村先輩の場合は。
──『ローゼンカバリー』ってとこだろうか。
シュトラウスのオペラ「ばらの騎士」が思い浮かんだ。小学校三年の時が初めてだ。
十七歳の少年、「ばらの騎士」。年上の女性に恋焦がれ、結局結ばれるというハッピーエンドの物語だった。こちらはテレビ中継で両親と一緒に聴いた。終わった後両親に激しく「どうして、あの公爵夫人が傷つかなくちゃいけないの?」とくってかかったことを覚えている。
許せなかった。ばらの騎士という名の少年があっさりと、別の女に乗り換える行為を。
よくわからないながらも、ばらの騎士役の声は見事だった。名前はすぐに覚えた。何度もテレビ中継でその歌手の声を聴く機会はあった。でも、物語の影響は消せなかった。『ローゼンカバリー』はすでに梨南の中で誉めことばではなかった。
──『ローゼンカバリー』役の人はよかったのよ。ストーリーが悪いのよ。
ガラス越しのふたりがいきなり後ろ向きに手招きした。
──『ローゼンカバリー』様がやってきた。
立村先輩はやはり白いジャケットを腰から下まで長くたらして、カバーのかかった本を抱えていた。買ったばかりなのだろう。わら半紙に小さくムササビの絵が刷り込まれていた。待たせていたのか、何度か頭を下げていた。羽飛先輩に本を渡していた。すぐに清坂先輩が横取りし、ぱらぱらとめくっている。文庫本だったようで、首をかしげた後、立村先輩になにか尋ねていた。開いたまま指差しつつ、立村先輩は説明している。漫画の大きさではなさそうだった。
梨南の座っている方へ顔を向けた。
じっと見つめていたから露骨に目が合った。
立村先輩から目線を合わせることなんて、めったにない。
しっかと梨南は受け止めた。ジュースから口を離して、目を見つめたまま、お辞儀をした。そのまま立ち上がり、深く頭を下げた。最敬礼だ。
──きっと、びっくりして目をそらすに決まってる。
顔を上げた。はっとした。
立村先輩の表情は、教室で見た時と同じ、あどけなさの残ったやわらかい笑みをたたえたままだった。こんな顔、男子では立村先輩以外で見たことがない。背中に堅いものが這いつくばった。梨南は目に力をこめて、立ち尽くした。
──立村先輩、私だってことに気付かないのだろうか。
──こういう時、男子が取る行動は、露骨に顔をしかめるかなにかするはずなのに。
身振り手振りよろしく清坂先輩は、何度か梨南のいる席へ手を差し伸べた。羽飛先輩も細かく頷き、いかにも「な、行こうぜ行こうぜ」と言いたげに、腕をひっぱっていた。肝心の立村先輩は首を振っている。表情はおだやかなままだ。たまにすうっと梨南の方を見た。
しばらく押し問答が続いたようだが、結局通路の真中で歩行者の邪魔をするのはまずいと思ったらしい。ふたりは清坂先輩に手を振り左側の通路に向かった
立村先輩だけがもう一度梨南へ、目を向けた。
視線に笑みが含まれている。
──男子があんな目をしたのって、見たことない。
──きっと清坂先輩と間違えているんだ。
──そうよ。立村先輩は教室でいつも、ああいう表情しているけれど、私を清坂先輩だと思って、ふつうに接しなくちゃって思ってるんだ。きっと。
──目だけは、いい人なのに。
「いやあね、来ればいいのにね。立村くんたらね。貴史とふたりで本屋に行ってたらしいんだけど、咽が渇いたからどっかで座ろうって話してたんだって。でも、杉本さんに悪いからって帰っちゃった。ね、そんなこと、気にしないのにね」
戻ってきた清坂先輩に、梨南はこくりとお辞儀をした。
「私、立村先輩に嫌われてますから」
「どこがよどこが!」
梨南の言葉を強く遮り、清坂先輩はまんまるな目で見つめ返した。そんなに驚かなくてもいいのに。
「今のこと聞いたら、立村くん泣くよ絶対」
「だって、私と目を合わせたくないって言う感じでしたし」
ふう、ともう一度ため息をつき、清坂先輩は首をゆっくり振った。
「なわけないでしょ。だって、覚えてる? 一年生が全校集会の時に放課後集まって、何をするか決めた時のこと。どういう話し合いがあったかはわかんないけど、結局杉本さんに男子女子みな押し付けて帰っちゃったでしょ。その後、立村くんが二年D組の教室で待っているってことになってたでしょ。次の日立村くんってば杉本さんのことを絶賛しまくっていたんだから。『今年の一年にいる杉本って人、死ぬほど頭いいよ』ってね」
その通りだ。一年生がまず案を煮詰めて、代表者が二年生の先輩たちのところに持っていくという、儀式だった。五月中旬の放課後、評議委員が八人残って、話し合いをしたのだけど、男女が全くかみ合わず、梨南の鶴の一声で無理やりクイズ大会に治めた。男子が納まるわけもなく、女子がやりたがるわけもなく、
「じゃあ、杉本が言い出したんだから、お前がすべて片付けろよ」
と押し付けられた時のことだった。
押し付けられた以上は仕方ないので、二年の先輩達が待っている教室へ向かった。なぜか、二年D組、立村先輩、清坂先輩のクラスだった。
待っていたのは立村先輩だけだった。席について、文庫本を読みふけっていた。髪の毛が夕暮れの光で黄色く透けていた。フランス映画に出てきそうな上流階級の小学生に似ていると思ったことを覚えている。あのまま、顔を見せなければ、梨南もあんなひどい顔、とは思わなかっただろう。
声をかけるまでの一瞬だけ、梨南は立村先輩を先入観なしで見た。
たぶん、気付かなかったのだろう。あの時だけは。
「立村先輩は、私が持っていった案がまともだったから、誉めてくれただけです」
「それだけだと思う? 私は違うと思うな」
清坂先輩は妙にねばっこかった。つっかかりそうだけどやさしかった。
「『杉本ひとりに押し付けるなんて、今年の一年は最低だな』って、ちゃんと本当のことを認めてくれたんです。後で、『ありがとう、やっぱり杉本みたいな人がもっと認められなくちゃ、嘘だよな』って誉めてくれました。立村先輩は頭悪いし、顔も不細工だけれども、でも、すごく私の考え方や能力を認めてくれました。だから、きちんと他の男子と区別して、私、接してます」
「顔、って、杉本さん、すごいこと言ってるよ。ああ、笑える!」
清坂先輩は顔をつっぷして笑い転げている。隣りの男子高校生たちが不思議そうに梨南を見て、またひそひそ声で話している。梨南は間違ったことを一言も告げていないつもりだが、なんで清坂先輩がそこまで受けるのかわからなかった。
女子と話す時は、みな「梨南ちゃんって面白い!」と言ってくれるので、楽だった。
「そうなんだあ、じゃあ、杉本さんは立村くんみたいなタイプ好みじゃないのね」
「顔だけはちょっと避けたいです」
「だったら、どういうタイプが好きなの?」
比較対照が難しい。まさかローエングリン様とは言えない。第一、清坂先輩がオペラについて詳しいかどうかも定かではない。いや、たぶん知らないだろう。
「いません。人間として男子にそういう感情をもてませんから。男子はみな死ねばいいと思ってます」
「立村くんも?」
「いいえ、立村先輩は顔を見なければ、安心して話ができます」
返事はない。笑いが止まらないらしい。
梨南はずっと、ジュースをすすりながら、ノートを受け取りもう一度めくった。
──人間って、モンタージュ写真のように、目だけ見て生きることなんてできないのかな。立村先輩の、さっきの視線だけだったら、安心して、話ができるのに。清坂先輩だって、立村先輩のこと、好きになってくれるかもしれないのに。