15
──どうして立村先輩ってば、言ってくれなかったんだろう。
「立村は杉本さんのことを、美里に告白される寸前まで好きだったんだよ」
はるみあたりに言われたのなら無視するだろうけれど、古川先輩相手にそれはできなかった。
価値を認めてくれることイコール「好き」なことだとしたら、納得する。
立村先輩は頭のいい人が好きなのだろう。
だから、梨南を気に入ってくれたのだろう。
梨南の頭に詰め込まれた鋭い英知を、ほしがっているだけ。
委員会で一緒に話をしていた立村先輩を思い浮かべる。顔を無視して、声と後姿だけをまぶたに蘇らせる。思い当たる節がありありと浮かぶ。
──きっと、私には相手にされないと思ってたのね。私はずっと清坂先輩のことを好きなんだと思って、無視していたけれど。でも、言ってくれれば。うるさい喫茶店なんかでなく、秘密の「おちうど」にきっちり付き合ってあげたのに。
巨峰のシャーベットは甘さがほとんどなかったことを思い出した。舌に残った氷のしゃりりと響く音。
──私は男が顔じゃないってこと、すでに十分、わかってるのに。
そうなのだ、男は顔じゃない。美形イコール性格良、とするならば、新井林や本条先輩、羽飛先輩は全能の神として存在してなくてはならない。
新井林ほど「ローエングリン」様たる外見を備えている奴はいない。
本条先輩も負けちゃいない。そのまま舞台俳優としてタップを踏んでもらいたいタイプの男性だった。
羽飛先輩に至っては、一年女子の騒ぎようからして明白だ。
──ほんの少しでも、立村先輩のまゆ毛が三ミリくらい太かったら。
──私に自信もって、ローエングリン様のように振舞えたのに。
男は顔じゃないけれど、顔ゆえに行動を狭めることもまた確か。
梨南はめぐり合わせにため息をついた。
眠れないうちに朝が来て、いつものようにノートに散らし書きした。
──やはり、裏では本条先輩が糸を引いてるはず。
結論は変わらなかった。
最初梨南の推理は、
「本条先輩が新井林の味方について、梨南の立場を悪化させるために糸を引いた」
という説を取っていた。
清坂先輩に立村先輩がぞっこんだと見抜いた本条先輩は、清坂先輩を口説いて立村先輩と付き合わせる。曲がりなりにも「彼女」ができれば、一年のやっかいものである杉本梨南をひいきするのをやめるだろう。新井林の方がずっと、評議委員会で高い評価を受けることになるだろう。
が、しかしである。
清坂先輩の方が一途な片思いだったという事実が明白になると、少し書き換えが必要になってくる。
梨南は二重線を引きながら書き直した。
──清坂先輩の片思いが成就したのはめでたい。考えさせられることはあるにせよ、一年半近く想い続けてきた相手に通じたのだから。立村先輩だって、顔立ちを除けばまともな人だ。多少、清坂先輩との話題には難があるかもしれないけれど、精一杯「ひいき」してくれるだろう。私ほどではないにしても、いくばくかは気遣ってくれるだろう。
──そう、本命が私だったことを隠した上で。
──本条先輩が新井林の味方についていることは変わりない。
──私の立場を悪くしたがってるのも変わらない。
違っているのは、清坂先輩が立村先輩のことを好きだったってことだった。おそらく本条先輩は清坂先輩の片思いを早い段階で見抜いていたのだろう。先週の委員会で、本条先輩も何気なく話していたはずだ。「今日は清坂にまかせた。あとで電話しろ」と立村先輩に声をかけていたことを思い出した。
なるほど、意外と簡単な話じゃないか。
梨南は付け加えた。
──本条先輩は清坂先輩に、告白するようけしかけた。立村先輩が私にもっと近づこうとするのを、やめさせるためだ。立村先輩はもともと清坂先輩と仲がよかったから、断るにも断れない。しかたなく清坂先輩と付き合うことを決めたんだろう。
──私のことをどう思っていたとしても。きっと。そうだ。
もうひとつ、分からないことがある。なぜ、本条先輩は新井林をあそこまでひいきするのだろう。
たかが一年生の男子評議だ。ほとんど委員会にも顔を出さない。そんな奴を影でいろいろ撫でまわしている。単に気が合うだけなのだろうか。どうもそれだけではなさそうだ。直感だ。
──本条先輩は新井林をひいきしているはず。でも立村先輩は私のことを気に入ってくれている。このあたりで二人、対立したのかもしれない。水面下で本条先輩は新井林の味方として動き、立村先輩、そして私の居場所を、少しずつなくそうとしていた。。
──さしあたって、私は、外見上立村先輩に振られたってことになる。思いたい奴には思わせておけばいいんだ。立村先輩が本当に気に入ってくれているのは、ふたりっきりで「ワルキューレ」の話をしたり、和菓子をひっそり食べたり、そういうことをしたがっている人間だけなんだもの。
──大丈夫、私は立村先輩の立場と本心を良く知っています。
──清坂先輩は可愛いし、いい人だけど。でも、本当に私のことを気に入ってくれたんだとしたら。
──私は、やっぱり本条先輩と新井林から、先輩をお守りします。
恩返しは、続く。梨南はノートを一番下の引き出しにしまいこんだ。
──私が立村先輩の気持ちを気付かないでいたことは、申しわけないと思います。私は男子を顔で決め付けるような、はるみのような人間ではないのですから。
月曜の朝一番は全校集会だ。イベントのない時は、ごく普通に朝、整列して体育館に向かい、評議委員一同、舞台の脇に並んで「休め」の姿勢をとっているだけだ。男女別々に分かれている中で、校長先生のお話が始まり、後は生活指導の先生から制服の乱れを指摘された。先日のクイズ大会ファッションショーが影響してか、最近はやたらとボタンをスカートやブレザーに縫い付けるのが流行っているのだそうだ。一年生全校集会の後遺症である。
梨南は戸口近くに立っている立村先輩を目で追った。隣りの二年C組男子とひそひそ話をしているが、本条先輩ににらまれて黙った。一方清坂先輩は女子グループと手話っぽく指を動かしている。うるさくない。やっぱりその辺、清坂先輩の方が頭いいと思えるところだった。
本条先輩はいつもの三年集団とだべっているのか、と思いきや。
なぜか一年男子グループに混じっていた。順番どおりに並ばなくてもいいことになっているから、おかしくはない。新井林の隣りにいる。危険信号だ。ずいぶん真剣なまなざしで、ふたことみこと、口を尖らせ話している。立村先輩には冷たい視線を飛ばすくせに、全く困ったものだ。
「本条先輩、静かにしてください」
梨南は注意してあげた。
「すまんすまん、杉本、許せ」
両手をするようにして、本条先輩は頭を下げた。当然だ。立村先輩なんてささやき声だっただろうに、
「新井林、あのなあ」
と、梨南に聞こえるような声でしゃべるのは、よくないと思う。
あっさり全校集会が終り、全員が教室に戻っていく。評議委員もてんでばらばらについて行った。梨南はあえて最後に戻ろうと決めていた。本条先輩と新井林とが、何か耳に聞こえる会話を残さないか、気になったからだった。相変わらず二人は、小声で話をしている。梨南がさっき注意したことをを気にしているのだろう。話が聞き取れない。露骨に近寄るのもまずいと思い、代わりに立村先輩の側に近づいた。二年B組男子評議委員とくっきり聞こえる声で、
「あのさ、夏休みの合宿は、できれば二人部屋の方がいいよな」
もう七月の評議委員会合宿のことで盛り上がっている。
「今年からうちの学校の宿泊施設、新しくなったんだろ。ホテルと同じ形だってさ。本条先輩に頼んで、絶対そちらにしてもらおうと思うんだ。お前、どう思う?」
「次期評議委員長さまに全部任せたぜ、立村」
「何言ってるんだよ。まだまだわからないってさ」
──次期評議委員長?
耳をそばだてた。せんぱい、と声をかけられないままに。
「まあ、今回の夏休み合宿で発表にはなるだろうけどなあ」
「わからない。本条先輩は一年生あたりを指名するかもしれないしさ」
軽やかに立村先輩はしゃべっている。冗談めかした口調だった。
あらためて本条先輩の方を眺めやる。相変わらず新井林を捕まえて、別の話をしているようすだ。新井林はポケットに手を突っ込んだまま、適当に答えているらしい。先輩に対する態度ではない。この調子だと立村先輩に対してはどういう格好するんだろうか。せっかく神様から与えられた素晴らしい外見を備えているっていうのに、無駄遣いもいいところだ。
何度か清坂先輩に振り返った。
古川先輩が話していたように、立村先輩の写真を抱きしめて泣いていたようには、どう考えても思えなかった。ちくりと視線を感じる。
──もしかしたらいつも、こうだったの?
つい、思ってしまった。
あきらめて一年B組の教室に戻った。廊下に整列した時はいなかった花森さんが、ひとりでビーズ細工の指輪をこしらえていた。細い針金に真珠色のビーズを流しこむのに専念している。
当然、溝口先生がわめいた。
「花森、どうして集会に出なかったんだ」
「すみません。教室に来たら、誰もいなかったんです」
にこっと答えるところがさらに、火を注いだらしい。いつものことながら、オールバックの前髪を振り乱しながら花森さんの腕を掴み、廊下に連れ出した。しばらく授業開始は遅れるだろう。
全く、わかっていない。
せっかく花森さんが来ているのだから、それなりの話を聞いてあげればいいのに。花森さんは一年B組のばか男子たちよりも、はるかに面白いことをたくさん知っているはずだ。
──花森さんにならば、私は白旗を揚げてもいい。
たとえ、はるみの言う通り花森さんが、梨南を見下していたとしてもだ。
彼女は自分のことばで、自分の意志で、自分のしたいことをきっちりしている。彼氏のライブに行くことも、髪形を似合うようにまとめていることも、ばかはばか同士と割り切って付き合っていることも。優れた人の資質を見抜くのは梨南のお得意だった。はるみの言葉を思い出すと自分の鑑識眼を曇らせられそうで、思いっきり首をしめてやりたくなった。
花森さんはクラスの女子たちと全く違う。
はるみとは正反対のタイプだった。だから梨南も信用しているだけのことだった。
さてはるみの様子は。目の前の席にいる、お団子髪を見つめてみる。
「おはよう、梨南ちゃん」
相変わらず、振りまく笑顔は変わらない。
当然、無視することに決めていた。
親切のごり押しをしてもどうかと思ったのだろう。あっさりひいて、はるみは教科書を開いた。さりげなく花模様のレース風しおりをはさみこんでいた。セットでついてくる鋭い視線を確認したら、相変わらず髪をつんつん立てている新井林が、号令をかけようと深呼吸をしていた。肩を怒らせている。
いつもの「起立・礼・着席」だ。
いつものことながら、新井林はクラスの運営関係について一切、梨南が手を出すことを許さなかった。やったら殺す、気迫だけが満ちている。勝手にすればいいことだ。
それに、と付け加えてみた。周りの女子たちを眺めて梨南は目を閉じた。
──もうこのクラスに未練なんて、ないんだもの。
ゆっくり、ひとりひとり、周りの女子を見渡していく。男子の存在は眼中にない。白いブラウスに薄いスカーフやショールを羽織り、女子たちは色つきマジックで手紙を書くことに専念している。髪が崩れてしまっている子もいる。アイドル歌手のサインいり下敷きをぱふぱふさせて、仰いでいる子もいる。蝿が窓から入ってきたので、誰かが「やだあ」と追い払おうとしている。
梨南だったら、絶対にしたくない普段の行動だ。
クラスの女子たちがはるみの言う通り、梨南をものわらいにしたいと思っていたならば。もう二度と梨南はクラス女子たちのためになんて働かないだろう。はるみの言葉なんかに左右されたくない。気付かないほど自分は馬鹿ではないと思いたい。
──私が、男子とうまくいかないから、同情しているってことなの。
頭から苗を毟り取った。梨南は勉強に専念することに決めた。
土曜日にさんざん言うこと言ったくせになぜだろう。ひっぱたいてやればよかったと思う。さんざん梨南のことを「かわいそう」と侮辱しておきながら、それでいて平気な顔して「おはよう」だなんて、よくも言えるものだ。
要は、梨南のことを「あかちゃんあかちゃんべろべろばー」と唱えて見つめるよう心しているからだろう。
「梨南ちゃんはとってもかわいそうな人だから、同情して上げましょう。杉本さんみたいな人は赤ちゃんなんだから、腹を立ててもしょうがないわ」とでも言いたいのだろう
もし新井林的に徹底した憎しみを浴びせられたとしたら、まだ梨南は対処できたかもしれない。野郎たちとの戦いは七年間、年季が入っているのだ。手を出されたら大人を徹底して利用し、少しずつ首をしめていけばいい。腕力がかなわないなら脳を使う。梨南の鉄則だ。殺してやると、つぶやきながら考えていけばいくらでも、方法は見つかる。
しかし、はるみは梨南が噛み付いたら最後、「私は悪くない。梨南ちゃんのことを思って」と泣き落としにかかるだろう。自分のしていることはみんな、「梨南ちゃんのため」、一生懸命「梨南ちゃんをかばってあげてるのに」、「梨南ちゃんが気付かないから、教えてあげたのに」と、誰もが納得しそうな言い訳を用意している。いや、そこまで考えていない可能性もある。
──本当に私をかわいそうがっているつもりなのかもしれない。
無邪気な悪意、たちがわるい。振り捨ててしまいたい、一粒の種。梨南の頭に植え付けられたはるみの種だ。ずっと一昼夜、梨南を攻め立てていたものがある。それが許せなかった。
小学校時代の担任が、梨南の両親とぶつかって、結局負けて、いじけていたらしいことは知っている。
梨南の性格が「ふつうの子よりも心配」とか言って、家庭訪問の時に話したらしいことも覚えている。
「杉本さん、どうして他の人たちと、同じようにしないの」とつるし上げられた日の朝、母が直接校長先生の元に出向き抗議したことも覚えている。たぶんその逆恨みだ。他の女子たちに梨南を「赤ちゃん」扱いするような言葉を放ったというのは、梨南だけではない、両親への復讐である可能性が強い。
はるみが土曜に話したことは、きっとすべてではないだろう。きっと、あの先生から梨南をつぶすべく方法を授けられたのだろう。あのぼんやりしたはるみが自分で思いつくわけがない。梨南がおぼろげにわかっていたことを、突き刺すなんてこと、するわけない。
大人の嫉妬、それを向けなくてもいい相手が梨南だったから、周りの女子たちは梨南の味方になってくれるというわけか。はるみの言い分だとそうなる。そんなわけない、言い張りたかった。
でも、種はたった三日で芽が出て、ふた葉が広がり、育ってしまっている。古川先輩から聞いたことも、栄養の雨として降り注ぎ、ずんずんと伸びている。
──一年B組の女子も、私を馬鹿にしてるから、受け入れてくれてるといいたいわけなの、要ははるみ、あんたが私のことを「怒ってない」と言い張るのも、私を馬鹿にしてるからなの。あんたは自分の言っていることを、そのまんま認めてほしいだけじゃない。
花森さんは次の休み時間にさっそく梨南の側へやってきた。両サイドの髪を縦ロール風に巻いている。。崩れていない。手をかけているだけある。まずは誉めた。
「やはり丁寧ね、花森さんの髪型」
「わかる? 苦労したんだからさあ。ところで、ちょっと相談なんだけどいいかなあ」
目の前のはるみを意識したのか、花森さんは梨南の腕をつついて廊下に連れ出した。あまり聞かれたくないことらしい。相談ごとだったら、花森さんに限り乗ってもいい。
「どうしたの。何かまずいことあったの」
「まずくないんだけど」
声をひそめなくても平気ということで、花森さんは廊下の窓から外を眺め真上を指差した。
「杉本さんがよく話をしている、二年の先輩いるでしょ」
「清坂先輩? それとも古川先輩?」
「男子の先輩で、線の細いお人形みたいな感じの人」
思いつく顔はひとりしかいない。
「立村先輩のこと?」
声が少しだけ、上ずった。
「そうそう、あ、でもあの人立村って苗字だよねえ。じゃあ違うのかな。昨日、彼のライブがあって聴きに行ったんだわ。その時に、あの先輩っぽい人が楽屋裏でなんか、一生懸命机に向かって何かしてるのよ。次回ライブ関係の宛名書きしてたんだって。イベント製作を担当してくれている女の人の息子さんだって聞いたんだよね」
──あの、汚い字で。信じられない。
「それ昨日のこと?」
「そうそう。あれ、見た事ある人だなあって。でも、本番中はずっと楽屋で片付けとかそういう手伝いばかりしていたみたいだから、話はしなかったよ。ただ、杉本さんと歩いているところ良くみたなあって、思っただけ」
梨南が立村先輩としょっちゅう、評議委員会の関係で一緒に話をしているところを見かけたのだろう。
「花森さんの行ったライブって、和楽器とピアノと、キーボードを取り混ぜたような音楽だと聴いたけど」
「ちょっとテクノがかっているんだ。今度行こうよ。杉本さんとあの先輩が知り合いだったら話も早いしね」
梨南はそっと、花森さんの横顔を見つめた。
なんとなく、妙な胸騒ぎがした。
「本当に立村先輩が、その手伝いしている人だって分かる?」
「あの顔は一発でわかるよね。一応私分の次回招待状なんだけど」
スカートのポケットから取り出した、和紙の封筒上に走る、楚々とした細い文字。わざわざ筆ペンを使っているらしかった。見覚えがあった。
「この文字は、絶対、先輩だと思う」
花森さんは、指でそっと、「花森 なつめ様」と綴られた文字をなぞった。
「次の予定は、九月の頭だって。あの先輩に早いうち頼んで、チケットとってもらったほういいよ。私が頼んでもいいけど。でも」
ぴくりとくるものがある。ちっと舌を鳴らして、もう一度花森さんは空を見上げた。昨日の雨がすべて吸い込まれた空だった。
ごたぶんにもれず、花森さんも梨南と立村先輩との仲を誤解しているらしい。
一年生たちの考えるパターン「梨南ちゃんは立村先輩に恋しているが、清坂先輩に奪われて落ち込んでいる」そのまんま、頭に刷り込まれているに違いない。
「受ける分にはいくらでも結構だが、こちらからそんなことする気なし」
とは、誰も思っていないみたいだ。
たいしたことではない。立村先輩の隠密行動をとある情報筋から知った旨つたえ、「和楽器と洋楽器とのジョイントコンサート」チケットを分けてもらえるよう頼むことに、梨南は決めた。
花森さんには笑顔でお礼を言った。
立村先輩に断られるわけがない。確か立村先輩のお母さんが、日本伝統文化関係のイベントにまつわる手伝いをしているとは、「おちうど」で耳にしたことだった。
呼び出しをくらったのだろうか。職員室の廊下前で立村先輩は窓辺にもたれかかっていた。二年の教室に向かう前に通りがかってよかった。
手には文庫本。ぼんやりと天井を見上げていた。
「立村先輩」
そっと、声をかけた。
「先輩、目を覚ましてください」
じっと目に力をこめた。真っ正面に立った。じっと見つめてほしかった。
「杉本か」
戸惑う風に、それでもしっかと立村先輩は梨南に向かって背筋を伸ばした。
「今、ひとつ聞きたいことがあるのですが」
「どうした?」
いつもと同じ、目を軽く細めて光を遮断しようとするまなざしだった。
窓辺は半開きのまま、外から青葉がちろちろと見え隠れした。肩に黒く、木々の影が映り、消える。他の男子たちと違う。あぶらっこい匂いがしなかった。
「さっき、友達から聞きました。昨日、立村先輩、秘密のライブに出かけていらしたらしいですね」
「どうして知ってる?」
「クラスの子が先輩を見かけたと話してました。楽屋裏で封筒の宛名書きしてたってこと、聞きました」
「そうかそうか」
二回頷くと、立村先輩は表情を全く変えず、片手を眉のあたりにおいて、こめかみをつつくようなしぐさをしながら、
「ほら、この前話しただろ。うちの親が日本伝統文化関係の仕事してるって」
「手伝わされるお駄賃として、『おちうど』ではただで食べられるってことですよね」
「良く覚えてるな。そうだよ。昨日行ったライブっていうのは、親が企画している仕事のひとつでさ、たまたま俺が暇だったからって無理やり連れて行かれたんだ。いつも日舞の発表会で手伝わされていることを、そこでやらされたってだけだよ」
「何をやらされたのですか」
さらりと答えてくれた。
「次回の招待状作り。うちの親は宛名や名前を全然書いていなかったらしいんだ。字が汚いから後回しってさ。しかたないから俺が全部、封筒にしまって、筆ペンで宛名を書いて、封をしていたんだ。曲がステージで流れている最中ずっとそればっかり。なんだか評議委員会の延長みたいなこと、させられてるって思った」
──『おちうど』で話している時と同じ話し方かもしれないな。
今の話だと、立村先輩は決して学校側にばれてまずいことをしたわけではないらしい。ライブに一人で出かけたりするのはいけないらしいけれども、ほとんど親の手伝いではないか。同情ものである。
「先輩、今度はいつやるんですか。私も音楽好きだから聞いてみたいです。もちろんお金は払います。友達も知りたがってます」
「今度は九月だって話聞いていたなあ。そうか、杉本はクラシックが好きだもんな。いいよ。一枚招待券くすねとく……」
ふと、立村先輩の目の動きが止まった。
誰か来たのかと、梨南は後ろを振り返った。聞かれてまずい連中は歩いていなかった。他の学年の呼び出しくらった連中か、放送委員の連中か。梨南の知り合い、および天敵は誰もいなかった。しゃらりと木の葉がすれていた。
「どうなさったのですか」
あらためて向かい合った時、立村先輩の瞳は人形の瞳風、鈍い光を放っていた。陽の当たる加減か、それとも梨南の目が光の変化に戸惑っていただけなのか。一瞬目をそらしただけなのに、立村先輩には違うなにものかがそばにいるようだった。おばけだろうか。怪談だろうか。
「杉本、あのさ」
ゆっくりと、言葉を舌で転がすようにして、あらためて立村先輩は梨南をじっと見つめた。真剣に話をしたい時、立村先輩が見せる姿だった。
──先輩が、新井林とけんかした時とおんなじだ。
違うのは、柔らかさだけ。
背筋が軽く震えた。梨南は胸の谷間にそっと手をやった。ブラジャーでしっかりと押さえられているから、硬く、しっかと納まった。
「この話、今度、他の奴がいるところで話すよ。二人だけだとやはり、まずいだろう」
「何がまずいのですか」
「いや、なんというかさ」
曖昧な口調ではなかった、確固とした、はっきりした口角で。
「こういった和楽器関係のライブなんかに俺が関わっているってことを、他の奴知らないんだ。別に隠すことではないし、親にも宣伝頼まれてるからいつかは話すつもりだったんだけどさ。でも、やはり、順番があるよな」
「順番?」
「うん、杉本には最初から声をかけるつもりでいたけど。でも、やっぱりうちのクラスの連中、一部は誘わないとまずいだろう」
「清坂先輩には、お話になられたのですか」
──話してない、絶対に、こういうのりが好きな人じゃない。
わけがわからぬ、心臓の音と一緒につぶやいていた。
「まだなんだ。向こうの予定を、先に確認しないといけない」
覚悟を決めているのか、立村先輩はつぶやいた。目をそらしはしなかった。誰かに聞かせたかった様子だった。誰も、いやしないのに。
離れた廊下で週番担当の生活委員たちが集まってきている。担当の先生たちから注意を受けて、礼儀正しく聞いている。一年B組の男女が梨南たちの方を見て、なにやら顔をしかめている。腕には緑色の腕章だ。
「わかりました。私、先輩が招待状を下さるのを待ちます」
「ごめんな」
立村先輩は九月初旬の和楽器ジョイントライブに招いてしてくれるだろう。嘘をつく人ではない。もしかしたらまた「おちうど」で和菓子と抹茶のセットをごちそうしてくれるかもしれない。でも、きっとその時は清坂先輩と一緒だろう。二人っきりではまずいのだから。
付き合っている以上はそうだろう。梨南だって、立村先輩が清坂先輩を好きだと思い込んでいた時は当然のことだと思っていた。なのに、背を向けたとたん湧き上がる感覚はなんなのだろう。
おなかにずしんと、落ちてくるもの。
頬のあたりからだんだん麻痺してくるのはなぜなんだろう。
──清坂先輩を「ひいきする」ってこういうことなんだ。
──私よりも。
──私がずっと立村先輩にされてきたことが、「ひいきする」ってことなんだ。そういうことだったら、私、平気でできたのに。はるみと新井林みたいなことじゃない、そういうことだったら。絶対に。
立村先輩がもし梨南のことを価値ある存在だと思ってくれていたら「清坂先輩とはできない」話題のお付き合いをさせてもらっただろう。好かれているのならばしてあげて当然だろう。
立村先輩にどういう感情が交差しているのかはわからない。梨南から一歩引いた「付き合い」にしようと決めているくらい、感じ取ることはできる。「ひいき」してもらえる付き合いを、もう梨南はしてもらえないのかもしれない。もう「おちうど」でふたりっきりでオペラの話をするのも、本条先輩への信頼を打ち明けてくれるのも、新井林からかばってくれるのも、もう一番先にはしてもらえないのだろう。
立村先輩が最初に「ひいき」するのは、清坂先輩だって決めたのだから。
清坂先輩が立村先輩のことを好きだと知るまでは、絶対に思わなかった気持ちが溢れる。家に戻ってふだん着に着替え、引出しにしまったノートを広げた。今朝綴った散らし書きだ。
──やはり、裏では本条先輩が糸を引いてるはず。
じっくり読み返した。二度、三度、四度。五度目で梨南は確信した。
梨南を追い詰めようとする、人の影だった。
初めて本当の敵を認識した。梨南の勘は外れるわけがないと信じていた。
新井林が梨南を憎む理由はストレートだ。小学校時代、新井林のお気に入りであるはるみを奪い取ったことだと見当はつく。小学校一年の頃「親切にしてあげた」ことが向こうにはむかつくことばかりだったようで、逆恨みされただけだと、梨南は解釈している。新井林は親切に気付かない大ばか者だと言い切れる。両親、先生、先輩、同級生、あらゆるやり口で奴をつぶすことに罪悪感はない。ちらっとあの容貌にぼおっとしてしまったことは悔しいけれど認めるが、結局「顔しかとりえのない奴」とせせら笑う自信はある。新井林だけだったら、梨南は徹底的に叩きのめす覚悟がある。
しかし、本条先輩を本気にさせてしまったとは。
立村先輩はぼんやりしているからいまだに、本条先輩を信じきっているけれどもだ。新井林を手なづけ、梨南の後ろ盾になってくれた立村先輩から引き離すために清坂先輩をくっつけた。もちろん清坂先輩が立村先輩のことを想っていたのは確かだろう。でも、きっかけをこしらえたのは本条先輩だ。前回の評議委員会でも、他の二年男子評議たちを集めて、なにやら「二人を祝福してやれよ」ということを耳打ちしていた。詳しくは聞こえなかったけれども、金曜日の評議委員会は一種のカップルお披露目になっていた。
梨南の目の前で、見せ付けたかったのだろう。本条先輩はきっと、それをじっくりとにらんでいたに違いない。好きだったから、振られたから、と人はいう。違う。
今まで立村先輩が「ひいき」してくれたことに気付かなかった。自分の頭が許せないだけだった。
悔しいくらい、自分が罠を仕掛けられた自分がいることに気付く。激しくあがく梨南がいる。戦い方がわからなくて暴れている。
恐るべし、本条委員長。
男子として梨南にむかついたのか、それとも「本条・立村ホモ説」が本当なのか、それとも別に理由があるのかわからない。本条先輩は新井林のように単純ではない男子だ。立村先輩があのふたりの頭脳にぶつかったら、勝てるわけがない。ただ黙ったまま、本条先輩を信じたまま、裏切られるに決まっている。今朝の集会で、立村先輩が次期評議委員長ではないかという話をしていたけれども、あの本条先輩のことだ。へたしたら新井林を引き抜くかもしれない。梨南をずたずたに切りつけた才知で、立村先輩を突き落とすかもしれない。
──私の能力を男子でたった一人、認めてくれた、あの人に。
──たったひとつの特権を取り上げたあいつらが。
評議委員会は中間試験の関係で一週抜けた。
二年、三年の先輩たちとはほとんど顔を合わせなかった。
その間に梨南はいくつかの仮説、推論を書き散らし続けた。クラスの女子たちを観察し、新井林が率いる男子たちの行動に目を光らせ、はるみの相変わらずな笑顔に辟易した。立村先輩のお母さんらしい人についての話を花森さんから聞いたりするのが心の和みだった。
答えが出たのは試験後だった。全教科ほぼ満点の答案を返してもらいながら梨南は、答え合わせの間、本条先輩に手紙を書いた。
──本条先輩へ──
今度の水曜日、一年B組評議委員同士で一対一の話し合いを持ちたいと思ってます。私からの申し出だったら、絶対に血を見ることになると思います。本条先輩の立ち会いをお願いしたいと思っています。
白い封筒に入れて、本条先輩の靴箱に入れた。
もちろん立村先輩には話さなかった。
──勝ち目のない戦いかもしれない。けど、私は負けない。