14
──このままでは、終わらせない。
真夜中の雨音を聞きながら、梨南は目を閉じた。
日曜日の朝、雨降りにも関わらず元気な古川先輩から電話が来た。
電話番号を教えたのは覚えているけれども、こんな早く、
「ほら、杉本さん、ブラが欲しいとか言ってたじゃない。せっかくだからさ、今度は私とデートしようよ。男だったら杉本さんみたいな子と付き合えるってラッキーだと思うんだけどな」
一応、裁縫用の巻尺を忍ばせ、十時に青潟駅前にて待ち合わせることに決めた。自転車で行けない距離ではないけれど、母が、
「梨南ちゃん、あんな車たくさん走っているところ、自転車なんかだったらひっかけられて怪我するわよ。雨なんだからなおさらよ」
と反対したため、素直にバスを使うことになった。二十分くらいだろうか。白地に真っ赤な薔薇の花びらが散らされている、柄の部分には釣瓶をあしらった金色の傘。生成りのレインコートに身を包み、母の雨ブーツを借りた。かかとがちょこっと高くて、つま先に力を入れないと、足首をくじきそうだった。泥水がどぶの間を猛スピードで走り抜けている。ぬかるみの泥でスカートを汚さないように歩いた。
「杉本さん、いきなり呼び出してごめんね」
古川先輩は膝上のデニムショートパンツに、黄色いTシャツ、上には薄い水色のパーカー姿だった。ちらりと胸の真中に、八分音符のマークが黒く覗いていた。良く見るとほんのりと唇に赤いぬめりが見える。リップで光らせているのだろうか。学校での制服姿がこの人は似合わないのかもしれない。こういう、小学校の延長みたいな洋服でぴったりしたシャツとパンツ姿がしっくりくる女子はなかなかいない。梨南は素直に誉めることにした。
「古川先輩は制服よりずっとこちらのほうがお似合いですね」
「ちょっと、派手かなとは思ったんだけどね。せっかく駅前で買物するんだからこのくらいしなくちゃってね。杉本さんとはバランス取れないかなあ。いかにも、これからケーキ食べに行きますって感じだもんね。似合うからいいなあ」
洋服の誉めあいはこのくらいにして、まずは駅前の大型スーパーに立ち寄った。ちゃんと洋服や下着が置いている店だ。古川先輩はその辺きっちり目星をつけてくれていたみたいだ。ブラウス、スカート、ズボン、靴下、それぞれの山をすり抜けながら、梨南をブラジャー連なる林へ連れてきてくれた。
「杉本さん、自分のサイズ知ってる?」
「サイズってなんですか? 体重だったら分かります」
「もう、体重量ったって胸の重さなんて分からないってば。ほら、私が計ってあげるから」
梨南が巻尺を取り出す前に、古川先輩は試着室に引っ張っていき、ぶらさがっていたメジャーを取り出した。コートを脱ぐように促し、カーテンを閉めた後、ブラウスの上にメジャーを巻いた。梨南はされるまま、手をぶら下げていた。ずいぶん手馴れているのは練習してくれたからだろうか。うちにトルソーみたいなものとか、等身大の人形とかあるのだろうか。
「違うって。うちの母さんのサイズ、よく私が測らされるんだ。私もこんなちっこいバストだけど、中学に入る前に母さんに全部計ってもらってここで買ったんだ。一番ちっちゃい、スポーツブラって奴。でも杉本さんは、こんなにあるんだもの」
目の前にメジャーをぶらんと垂らされた。八十の数字より数センチ長い。
「ここ試着しても大丈夫だって行ってたから、私、適当に持ってきてみるよ」
「いいです、私が」
「いいっていいって。一回こういうのって私やってみたかったんだよね」
結局、梨南は「安くて、息が苦しくなくて、やわらかい」とお奨めの綿ブラジャーを一枚、買うことにした。古川先輩が何度も見繕って、鏡の前で、
「ほら、こうするとぶらぶらって感じじゃなくなるよね。立村もこれだと、不必要に目をそらすことなくなるし、これだけきれいな線だとさ、ブローチとかつけてもいいかもよ」
と絶賛してくれたからだった。世の中には胸の贅肉に憧れる人がいると聞いたけれども、こうやって胸を包んでみると、確かに付け根が痛くなくなった。動きやすいとはこういうことなのかもしれない。古川先輩に促されて、その場でブラジャーを着けてから、梨南は同じ階のハンバーガー屋に立ち寄ることにした。食べづらいのではないかと心配していたけれど、難なくチキンバーガーとポテトを食べることができた。
古川先輩はちょっと身体が冷えたらしく、ジュースではなく暖かいお茶とホットドックを注文していた。すねをもろに出しているのだから、当然だろう。ふとももをさすりながら、べらべらしゃべっていた。内容はたわいもないことばかりだった。溝口先生の一年前は、オールバックではなく七三分けだったこと。二年D組は毎日がドラマだということ。羽飛先輩は一年の女子からラブレターをもらって毎日悩んでいるらしいということ。立村先輩は古川先輩にとって男を感じさせない、典型的弟だということ。清坂先輩は一年の頃から仲良しだったけれども、実は結構感情の起伏が激しいらしいということ。意外なのか、それともよくわかっていたことなのかわからないけれども、梨南は頷きながら聞いていた。
「でさあ、杉本さん知ってる? 羽飛に告白かました一年女子のこと」
「よくわかりませんけれども、一年生なのですか」
立村先輩たちのことしか頭になかった。でもめずらしいことではないだろう。羽飛先輩、あれだけ顔がととのっているのだから。紅茶をストローですすりながらさらに話を促した。
「そうそうなのよ。そうなのよ。私もその辺よくわからないんだけどね。ほら、羽飛と美里って究極の幼なじみで、あの二人付き合っているって誤解されていたんだよね。二年ではさすがに告白しようって子いなかったみたいなんだ。でも今年の一年、思い切りがいいよね。ほんとに」
歯型を残してホットドックにかぶりつく古川先輩。レコードをはや回ししたようなしゃべりようだった。普段は二十回転くらいゆったり話しても違和感ないのに。古川先輩の回転数、少し壊れているんじゃないだろうか。
「一年生の間でも羽飛先輩はかっこいいと言われてます。クラスの女子でも、二年の羽飛先輩はかっこいいって言ってる人いました」
いつぞや花森さんが話していたことを付け加えた。古川先輩は小刻みに頷くと、
「でも、私の掴んでいる情報によると、まだ羽飛はその子と付き合う決心してないみたいなんだ。そうだよねえ。あいつ、その子の存在をその瞬間まで知らなかったみたいらしいしね。羽飛はお笑いに見えるかもしれないけど、その点やっぱし、男だよね」
ふうっとため息を付き、熱いお茶をすすっている古川先輩。
「すぐに答えたんだってさ。『俺はまだ名前と顔が一致していない相手とすぐに付き合うなんてことは言えねえよ。お互いに話してそれから、決めるもんだと思う』と言って、まあ、断ったみたいなんだよね。ところが」
「相手が引かなかったんですか」
たぶんそうだろう。簡単に引くようだったら。告白なんてしないだろう。
「そうなのよ、どうしてわかるの杉本さん。それからというもの、その子が毎日羽飛に手紙を書いてきてるらしいの。自分がどういう人かを一生懸命アピールしてるのよね。いや、羽飛はそんなことばらさないよ。ただ偶然、手紙が見えちゃうだけなんだけどね」
──体よく断られたことにどうしてその人気付かないんだろう。
──プライドがないんだろうか。
紙ごみだらけのトレイを下げ、まだ空いている椅子に座り梨南は首をかしげた。
「それにくらべて、あのふたりときたらねえ。杉本さん知ってるでしょ」
二年女子のおごるお約束、ソフトクリームを梨南に渡して古川先輩は続けた。
「美里がずっと好きだったこと気付いてないんだよ。あいつはさ。ずうっと美里に思われていたこと知らないでさ。言われたら言われたで『付き合うってどういうことですか』って悩んで、結局自分の方からばらしちゃうんだもんなあ。あいつもほんっと、ガキよ。わが弟って感じ」
「あいつ」の定義が梨南にはわからなかった。
──そんなわけない。
古川先輩の話が最初から最後までくっつくまで、まだ時間がかかりそうだった。
「美里ってばね、二年になってからずっと、暇さえあれば言ってたのよ。『立村くんもしかして、杉本さんのこと好きなのかな』って。まさかよね。だって杉本さん、立村の顔が好きじゃないって言ってたもんね。きちんと私たちの前でそう言ってるから信じりゃいいのにさ。『立村くん、今日も杉本さんのこと、かばってたのよ』とかなんとか言って。毎日そのことばっかりで思い悩んでいたのよね。『杉本さんってすっごく可愛いから、私も男だったら好きになっちゃうと思うんだ。面白いこと言うし。一年の男子みたいに趣味が変わってる奴ならともかく、立村くんが杉本さんのことを気に入らないわけないよ』って。ほとんど、俗にいう、ノイローゼって奴?」
けらけら笑いながら、大急ぎでアイスクリームをなめた。
「立村先輩の顔は確かに可哀想だと思います」
機械的返答だけした。
「美里がしばらくそういう状態だったのに輪をかけて、大親友の羽飛に、あわや彼女ができるかもってとこだったわけよ。だったら悩むよね。私も早くって思うよね。だから私も言ってやったのよ」
「何をおっしゃったのですか」
椅子の背にかけたままの傘が、すべって床に落ちた。広いながら聞いた言葉に、梨南は動けなかった。
「いちかばちか、立村に告白しちゃいなよって。あのままだったら、杉本さんに奪われちゃうよってね。ごめん、杉本さん、勝手に使っちゃって。でもね、本当に美里の悩み方すごかったんだから。緑のサインペンで熱烈なラブレターを書いて、ブラの中に挟んでおくと恋がかなうっておまじないがあるんだけど、それもやってたし。そうそう、胸が小さいことが美里にとってすっごいコンプレックスみたいだったんだよね。さっそく三年の先輩たちに相談して、ヨガで胸の大きくなる運動を教えてもらったって言ってた。ほら、あと、『好きな人の名前を書いて、ハート型のシールで隠しておくと、はがれる頃に思いが通じる』ってのがつい最近まではやってたじゃない。真剣にイニシャル書いてたもん。『K・L』って」
K・L。
「Lは違うんじゃないでしょうか。立村先輩はRじゃ」
「美里的にはLなんだって。ほんっと、そこまでする奴なのかねえって思ったんだけど、まあ立村も悪い奴じゃないからね。それに」
人差し指をノンノンノン、と動かして。
「私にとっては、そっちの方が嬉しかったしね。羽飛がもし、本気で付き合うとしたらたぶん美里だろうし、美里が立村とくっついてくれるのだったら、私にもまだチャンスがあるしね。そうそう、私は自他ともに認める、羽飛命なんだ」
けろっとした顔で答える古川先輩の顔をじいっと見つめていた。
とけかけたソフトクリームを無意識で、必死になめた。
甘さが感じられなかった。
確か、梨南が清坂先輩のノートに気が付いた時。
清坂先輩は必死にシールのことを隠していた。
梨南が立村先輩とふたりで教室を出た次の日。
清坂先輩は梨南の家に電話をかけてきて、どこに行ったのかを尋ねてきた。
立村先輩が梨南に、評議委員会後説明してくれた時、
ずっと清坂先輩は話に割って入り込もうとしていた。いつのまにかふたりっきりの空気が流れていた。
コサージを清坂先輩がプレゼントしてくれた時、
清坂先輩は梨南に自信たっぷりに言い放っていた。
──当たり前よ。立村くんがそういうこと、できるわけないもん。
アイスの味は、清坂先輩と食べた時と同じだった。
「清坂先輩が、立村先輩のことを好きだったんですか」
当たり前、なぜ気付かないの、と言いたげに古川先輩は頷いた。
「私は一年の時から知ってたけどね。杉本さんが気付かなくて当然だと思うよ。ガセネタだけど、立村が他の女子を追い掛け回していたって噂が流れたことがあったんだけど、その時は美里、悔しがってしばらく泣きじゃくってたよ。羽飛がその様子みて、かなり心配してたけど。まあ、立村みたいなガキが美里の片思いに気付くわけもないし、なにせあいつほんっとに、ガキだから。好きも嫌いもなかったんだろうね。たぶん、美里が告白しなかったら、あいつの方から杉本さんに走っていた可能性もあるけれど、それは私がうまく阻止したからね、感謝しなさいよ」
「私に走るってどういうことですか」
さらにわからなくなる。両手を組み合わせた。力がめいっぱい入っていた。汗をかいていた。胸の奥が痛い。がっちりとガードされているせいか、言葉が胸に落ちていくようだった。
「私が見た限り、立村は杉本さんのことをかなり、お気に召してたみたいだよ。胸の大きさで頭がボーっとしてしまった可能性もあるけれど、それ以上に、女子として、なんかいいなって思ってたと、私には見えたんだわ。立村はそういうところ、隠さないからね。『一年の杉本は頭がいいよ』とか『杉本に失礼な噂が流れていたら、羽飛、明日の太陽拝めないからな』とかさんざん言ってたもんね。ほら、一年の男子と立村が、杉本さんのことを巡って大喧嘩になったって話聞いたけどさ。美里の前で堂々と、『杉本のワンマンショーでしょう』とか言ってかばったんだって? あれはかなり美里、堪えたらしいよ。ショックで眠れなかったって言ってたしね。『私にはあんなふうにしてくれたことないよ。私よりも杉本さんの方が絶対好きなのかも』とにかく、杉本さん杉本さんの連呼。まあ私からしても、立村が杉本さんのことを気に入ってたのはわかっていたけどね」
──私のこと、好きだったってこと?
──違う、立村先輩は私のことを評価してくれただけだから。
──それに、清坂先輩がなぜそんなにやきもち妬かなくちゃいけないの。
「でも、美里は偉いと思った。だって、ライバルだと思ってても決して美里、杉本さんのこといじめたりしなかったもん。なんか、応援したくなるんだってさ。一生懸命で男子たちと体張って言い合いするところとか。私もおんなじだし、美里の気持ちはわかるんだ。ただ、やはり立村を取られたくはなかったからすっごく、告白するまでは悩んだみたいだよ。もしかしたら立村が杉本さんの方を選ぶかもしれないじゃないかって、毎日私と放課後の会議、してたもん」
梨南は自分のことを、想像力貧困だとは思っていない。立村先輩が清坂先輩の方を見つめて、物思いにふけっているところも、清坂先輩が羽飛先輩の側で頬を赤らめてはしゃいでいたところも、梨南の目には鮮やかに映っていたはずだった。
どう考えても、古川先輩の話から出てくる結論と結びつかなかった。
──でも、古川先輩が私に嘘を言う必要ないだろうし。
すっかり女子として気に入ってくれたらしい、古川先輩のあっけらかんとした態度。裏があるとは思えなかった。
「あれ、杉本さん、どうしたの。なんか、目がうつろだよ。朝早かったから疲れちゃった?」
「そんなことないです」
思い切って、質問をまとめてぶつけてみよう。
角を丸めたような、歌詞の流れない流行歌BGMが流れている。だるい音楽で店内が覆われている。刃で細かく切り刻みたかった。本当の言葉で空間を埋め尽くしたかった。
「私の知っている限り、立村先輩は私のことを評価してくださっているとは思います。ちゃんと、ふたりできちんとクイズ大会のことを話し合わねばならないって思っていたからお願いしたら、ちゃんとふたりっきりになれる場所に連れてってくれました。私の目をみて、きっちりと話を聞いてくれました。それはわかります。でも、そんなことで清坂先輩が動揺するとは思えません。第一、立村先輩が好きなのは、清坂先輩だってわかっていましたから。古川先輩、疑うわけではないのですが」
ここでいったん切った。ちょっとむすっとした口の古川先輩の目を見つめた。
「本当に、清坂先輩は立村先輩のことが好きだったんですか」
はじけて笑い転げたところみると、古川先輩も怒ってはいないようすだ。
「あーあ、杉本さんって、ほんっとに素直で可愛い。私、レズじゃないけど大好きだよ。もう、美里が立村奪回作戦の時に、杉本さんを突き飛ばさなかったのってわかる。そうだよ、こんなにいい子だったら、女子として守ってあげたくなっちゃうもんなあ」
いいこいいこ、と付け加えた。誉められたのは気持ちいいけれど、やはり雨の湿気に共通する、べたつきが残っている。傘が饐えた匂いを漂わせるような、気味悪さ。
「私を評価してくださるのは分かるのですが、古川先輩。どうして清坂先輩が私をライバル視するのでしょうか。そんなこと、されたことないです」
「あのね、杉本さん」
次はふうっと口をつぼめて息を吐き出している。とがらせた唇のまま、煙草をすうような指先をつけた。
「今の話でよっくわかった。たぶんだけど、立村の奴、杉本さんのことが好きだったんだよ。でなかったら、いきなりふたりっきりで喫茶店なんかに連れて行かないよね。あーあ、そう考えると、美里がきいきい騒いでいたわけもわかるよ。まあ、杉本さんは立村の顔が不細工だって常々話していたようだし、かえってよかったのかもしれないけどね」
「男子は顔で決めるものではないと思います。私は」
とんでもない、自分の口から妙な言葉が飛び出しそうだった。唇が緩んだ様子の古川先輩は、そっと首をかしげた。似合わない、大人っぽいポーズだった。
「私はって、杉本さん」
「男子の中で唯一、まともな会話のできる人だと思っています。私、立村先輩のこと、そう思ってます。顔さえ良ければ完璧なんです」
「ねえ、ちょっと、待って。今杉本さんが話していることって、もしかして」
肩を怒らせ、ぐいとテーブルに身を乗り出した。
「あいつのことが、好きだったってこと?」
「そういうものではないです。男子は馬鹿しかいないと思っていた中で、唯一私とまともな話をしてくださった人です。だから、徹底して私は立村先輩と目と目を見て話をしたかったんです。それをどうして清坂先輩は誤解されるんでしょうか」
脱力のポーズで古川先輩はぺたんと、両手をテーブルにつけた。首を傾げ、指を絡ませ、しばらくごにょごにょ言っていた。なにかをつぶやいているが意味不明瞭だ。わからない。
「杉本さん、今、ブラしててどんな感じ?」
話をそらされ戸惑うけれど、先輩にきちんと答えるのは梨南の義務だ。
「はい、走っても付け根が痛くなくなりました。すごく楽です」
「だよね、私もそう思う。今まで杉本さんって、ブラをしてみたいと思ったことなかったんだよね」
「はい、ずっと贅肉を減らさなくてはと思っていましたけれど、これだけでこんなに楽になるなんて思いませんでした。古川先輩の言うこと聞いてよかったと思ってます」
「そう、ありがと。でもね」
顔を上げた時、古川先輩の顔には少してかっていた。リップの赤がだいぶ取れていた。
「今、私が言うことをね、たぶん杉本さん信じないと思うんだ。私がもし、羽飛に関して似たようなこと言われたら絶対無視すると思うしね」
「大丈夫です。古川先輩は私の行動範囲を広げてくださった大恩人です」
ブラジャーの恩義は忘れてはならないと梨南も思っている。本当にこんなに楽になるとは思わなかったのだから。
「立村はたぶん、美里に告白される直前まで、杉本さんのことが好きだったと思うんだ。あいつもたぶん面と向かって言われたら否定すると思うけどね。もしかしたら、『好き』だってことすら、気が付いてなかったのかもしれないなあ。美里からも聞いたけど、立村は美里と付き合ったってことをぎりぎりまで隠していたってことだし、本条先輩にも『付き合うってどういうことですか』とか勘違いしたこと質問していたっていうし。第一、あいつが好きでもない女子を連れて喫茶店に連れて行くなんて、なかなか出来ないと思うんだ。美里ですら、めったにふたりっきりでソフトクリームをなめるなんてこと、絶対にしないって言ってたし。いつも羽飛と一緒の行動だもん」
──そんなこと、ありっこないのに。
梨南は唇を軽くなめながら、話の続きを聞いた。
「まえまえから杉本さんのことを、すっごく頭のいい後輩だと思っていたのは知ってたし、そのくらいだったら美里はそんな、やきもち妬かなかったと思うんだよね。でも、この前杉本さんが2Dの教室に来て、立村と二人で教室を出て行った日、美里が私のうちに電話かけてきて、『杉本さんは可愛いし、頭もいい。私じゃかなわないよ。どうすればいいと思う?』って。だったら、直接杉本さんに聞いてみたらどうなのって答えたよ。その後、美里から電話が来たでしょ」
「はい。そんな悲痛な雰囲気ではないです。私のことを心配して、探してたんだって」
「美里もその点、さすがにつっこめなかったんだね。立村は結構他の連中にもおおっぴらに、『杉本は頭いいよ。どうして一年の男子はあそこまで嫌うんだろうな。もっと認められていい人だと思うんだ』って、話してたよ。ああそうそう。美里と付き合っていることを白状する日の朝も、そんなこと言ってた」
──私のことを評価してくれてるのは、わかってる。
──でも、そんなこと、絶対ありえない。
たどり着きたくない答えに届いてしまいそうで怖い。いつもは先を見通すことが快感なのに、今、古川先輩の言葉で導かれるのが恐ろしい。
「さらに例の、評議委員会の騒ぎでしょう。あれで美里は立ち直れなくなったみたい。たとえ杉本さんが立村を振ったとしても、あれだけおおっぴらに溺愛してるんだったら、もうかないっこないって」
古川先輩の言葉は、はるみのようにわざとらしく押し付ける言い方ではなかった。むしろ花森さんとしゃべっている時に似ている。
「まあ、私も直接見ているわけじゃないからね。美里がどうやってつきあいをかけたのか。立村も坊ちゃんだからそういうところでいろいろ考えていたのかもしれないし。でも、今のところ美里のことを『ひいきする』からって言ってたみたいだしね。打ち明けられてあらためて、立村は美里を好きになろうって決めたと、思うんだ。これ全部私の想像だけどね。でも、まんざら外れてないんじゃないかなとも思うんだ」
目の前に散らかっている、ソフトクリームのコーンを包んでいた紙。
来月のキャンペーンを予告しているハンバーガー屋のチラシ。
フライドポテトの油が染み付いているトレイ。
色あせていた。見ていたものと同じく、答えが入り乱れていた。
意味があるなんておもっていなかった。梨南はゆっくりと息を整えて、古川先輩に答えようと、決めた。背もたれにひっかけたままの傘が、ごつごつしていて居心地悪かった。
「私、勘違いしてたんでしょうか」
答えられない風に、古川先輩はじっと梨南を見つめた。
「みんな、勘違いしてたんだと思うんだ。美里も、立村も、たぶん私も」
さっと立ち上がり作り笑顔を満開にして、古川先輩は梨南の傘を手に取った。
「さあさ、雨上がったかな。もし降ってるようだったらもう少しここで遊んでようか。やんでたら美術館まで歩いていこうよ。ね、羽飛は絵が好きでしょっちゅう美術館に通ってるんだってさ。杉本さんとデートっていうのも、またいいかな!」
──清坂先輩よりもはるかに、大人だ。
──ただのエッチネタ好きな先輩じゃないんだ。
今日は古川先輩と「デート」でいい。レインコートを腕にひっかけたまま、梨南は古川先輩と一緒に席を立った。店内放送では、「雨の日タイムサービス」の案内が女性の声で流れていた。
夕方までたっぷりとおしゃべりをした後、梨南は家に戻った。すでに外はきれいに晴れていた。はっきりしない虹らしきものも見られたし、美術館で絵葉書を一枚買ったりもした。バスに乗り遅れそうで走った時も、前に比べて胸に振動が響かなかった。ちくちくすれたりしなかった。
古川先輩の言葉が全て真実だとするならば、梨南は最初からとんでもない間違いを犯していたことになる。思いをかけていたのが立村先輩ではなく清坂先輩の方だったとすると、ずっと梨南は清坂先輩の神経を逆なでするようなことを話していたということになる。また、立村先輩がずっと梨南のことを気に入っていたとすると、梨南は思いっきり立村先輩に肘鉄を食らわせていたことになる。また、羽飛先輩が清坂先輩の恋の悩みを聞いてやっていたということになると、また話がややこやしくなる。
最初から整理して考えなくてはならない。
前の日に、はるみも言っていたではないか。
「健吾もたぶんふたりがくっつくんじゃないかと言ってた」と。
はるみの言い分は他人様の言葉をひっぱりだしてきたにとどまる。当てにはならないとわかっているけれども、周りが「立村先輩のことを杉本梨南は追い掛け回している」と思い込んでいる可能性は高い。あの新井林が、クイズ大会の前後に見せた「ばかはばか同士」とあてつけがましく言ったところをみると、男子連中にもその誤解が生まれていたとも考えられる。
──私はただ、立村先輩が男子の中でたった一人、まともな人だと思ったから。
──清坂先輩のことを好きだと思っていたから。
──私を評価してくれただけだって思ってたから。
また、清坂先輩が本気で立村先輩のことを好きだったとするならば。
本条先輩に頼まれたかなにかしてうその告白をかましただけではないかと思っていたけれど、古川先輩の言い方からするとそうでもなさそうだ。あの清坂先輩が泣きながら電話を掛けてきたなんて信じられないが、きっとそうなんだろう。女子の言い分は素直に信じることにする。
想いを打ち明けられた立村先輩は、清坂先輩に「ひいき」するからと約束したという。そういうことだろう。梨南を「おちうど」という喫茶店に連れて行ってくれたように、これからは清坂先輩をソフトクリーム屋にデートで誘わなくてはならないわけだ。騒々しい場所で茶を飲むことに慣れなくてはならないわけだ。梨南だったらそんなことはさせないだろう。静かにまともに話せる場所を探すだろう。オペラの話で盛り上がるだろう。清坂先輩とは洋服と評議委員会とクラスの話くらいではないだろうか。
──そんな相手で満足できるんだろうか。清坂先輩。
──だって立村先輩は、本当は。
梨南は清坂先輩と立村先輩との違いを拾い上げることに熱中していた。今までは、「立村先輩が身分違いの恋をしている」と思い込んできたこと。不細工で、頭も悪くて、数学の計算もろくにできない人だけど、梨南のことを唯一認めてくれた人だった。全校集会締めの日も、『ローエングリン』が『エルザ姫』を守るように、新井林と対してくれた人だった。