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梨南の集めた情報から導き出した結論。
「二年D組評議委員カップル誕生」に関する説は以下の通りである。
──一年の頃から立村先輩は、清坂先輩のことを「高嶺の花」として見上げていた。清坂先輩はもともと男子に人気のある人だ。最初は立村先輩を「同じ評議委員」という意識でしか見ていなかっただろう。
──しかし、幼なじみの羽飛先輩が、立村先輩と仲良くなり、必然的に清坂先輩も一緒につるむはめになる。清坂先輩は以前から羽飛先輩のことを好きでいたのだが、男は鈍感だから全く気付いていない。一生懸命シャンプーとリンスを替えてみても、「人気アイドル鈴蘭優」以上の扱いをしてもらえない。幼稚園くらいの頃からの幼なじみだ。長い想いは切なかっただろう。
──日常的におしゃべりする立村先輩の想いに、次第に感じるものを覚える清坂先輩。もちろん立村先輩の「ついてるかついてないかわからない」顔立ちに抵抗がなかったとは思えない。でも、梨南の持っている感性をあれだけ評価してくれる立村先輩のこと、全くの馬鹿だとは考えていないらしい。きっと、相談かなにか、していたのだろう。
──そして、なにかの拍子で、立村先輩と清坂先輩はふたりっきりになる。おそらく清坂先輩は、立村先輩に「貴史は私のことを女子だと思っていないのかも」と相談したのだろう。最初はふんふんと、あの穏やかなまなざしで聞いていた立村先輩だが、とうとうこらえきれなくなり愛の告白をしてしまったらしい。なぜか、清坂先輩はOKしてしまう。
机に向かって文庫本を一心不乱にめくっているようす。立村先輩が、
「今日は、清坂さんと二人の、用事があるんだ」
と言い放った時、清坂先輩は何も言わなかった。ちゃかしもせず、否定もしなかった。没頭、していたというんだろうか。
──きっと、立村先輩と付き合うというのを、最後の最後まで迷っていたんだわ。
──あれだけ羽飛先輩のことを思い続けていたのだもの。
──立村先輩で身代わりにするなんて、覚悟、必要だもの。
ただ、嫌ってはいないようだし、コサージをくれた日の昼休みも、
「立村くんは何も悪いことしてないのよ」
と言い切っていた。
清坂先輩は結局、立村先輩の熱意に押された形になったのだろう。
梨南が立ち去った後、二人っきりで最後の商談が行われ、立村先輩は想いをぶつけ、清坂先輩は羽飛先輩とのてんびんにかけたということか。
──清坂先輩は、わかってない。
──立村先輩がどれだけ本当に清坂先輩のことを。
──本当にわかってないんだ。
あらゆる仮定を組み立ててみたけれども、「清坂先輩が立村先輩のことを好きだ」という結論には辿りつけなかった。どう考えても、羽飛先輩に立村先輩は勝てない。
どうして清坂先輩は、立村先輩と付き合おうとしたんだろう。
ひとつ考えられるのは本条先輩の影だ。
立村先輩はひたすら純粋に、本条先輩のことを慕っている。気持ち悪いくらいだ。「本条・立村ホモ説」は健在なり、を証明するかのごとくだ。
でも、本条先輩が新井林とつるんで、なにやら糸を引いているのもまた確かだ。梨南は確信している。さっきだって新井林に耳打ちしていたし、素直にあいつも頷いていたではないか。
新井林がなつくということは、きっと女性好みも似ているのかもしれない。
はるみみたいなタイプが好きなのかもしれない。
当然、梨南的性格は大嫌いに違いない。
立村先輩がひいきしてくれるから、本条先輩もがまんしてくれているのだろうが。
なにかがひらめいた。
──立村先輩が私のことを好きなのではと、本条先輩が誤解したのかしら。
先週の、立村先輩発言
「杉本梨南のワンマンショーでしょう」
に、かなり慌てていたのは本条先輩だ。もちろんあの後、卓球場に連れ出して友情にはひびが入らないですんだらしいが。
だが梨南のことを目かけてくれているのだということが証明されてしまった。本命は清坂先輩であることを梨南は知っていたから、何にも想わなかったけれど。でも、本条先輩はおおいにあせっただろう。
なんとかしても、「立村先輩と杉本梨南」とのカップルができるのを阻止しなくてはならない。
立村先輩のことを気に入っているならなおさらだ。大嫌いな女と仲のいい奴がくっつくのを見るのは、誰だっていやだろう。
──私だって、そうだもの。
一瞬、はるみと新井林が教室で顔を合わせているところが浮かんだ。すぐに消した。
そこでなんとしても阻止するために、清坂先輩に協力を依頼したと考えると簡単だ。
清坂先輩は自分に嘘をつくのが大嫌いな人だ。もちろん抵抗しただろう。羽飛先輩のことが好きだとか言ったかもしれない。でも、本条先輩の命令により、立村先輩と付き合うことを決意する。
──決めたのは、きっと、昼休み後よね。
──コサージをもらった時はふつうだったもの。清坂先輩。
──委員会前に、何かあったのよ。きっと。
立村先輩はきっと、本条先輩に「清坂のことが好きなんだろう。言ってしまえよ」とけしかけられたのだろう。女子みたいな仲良し同士だとするならば、本条先輩に立村先輩はきっと、相談していただろう。あれだけ新井林との裏を見せ付けられていながら、卓球場に誘われただけであっさりと信用してしまうところが、立村先輩のいいところでもあり、おばかなところでもある。
──そうよ、立村先輩はきっと、本条先輩に背中を押されたのよ。
──だめでもともとで玉砕しようとしたんだわ。特攻隊の気持ちね。
──まさか、私を陥れようとする本条先輩と新井林に利用されているなんて、知らないで。
──敵ながら、あっぱれ。そこまでするなら私も覚悟があるわ。
梨南はコサージを、自分の机に飾った。家に着いてから母に見せびらかし、「本当によく似合うわ」と誉めてもらった。白い花。立村先輩が選んでくれたという。何も疑わない、気付かない。ちょっとお馬鹿かもしれないけれども、梨南のことを誰よりもみとめてくれた、たった一人のひとだ。
──立村先輩。私は、戦います。
──本条先輩と新井林の魂胆を、立村先輩にもよくわかるように、明るみに出します。
──たったひとり、私を認めてくれた人にできることはこれだけだから。
次の日は土曜日だった。ちゃんと立村先輩が「待っているから」と言ってくれたのだから、向かうのは当然のこと。梨南は何気なく二年D組の教室を覗き込んだ。評議委員会時のざわめきなんて記憶にないような顔をしてみせた。
いつも通りといえばいつも通り。立村先輩は机の上に朝自習プリントを見つめつつ、鉛筆を転がしている。たぶん数学なんだろう。隣りで古川先輩が話し掛けているが、きっと、エッチネタなのだろう。うざったそうに頭を振っていた。清坂先輩はというと、別の席で他の女子たちと身振り手振りよろしくおしゃべりしている。羽飛先輩が机に座って、プロレスの技について熱く語っているようす。
──立村先輩、待ってるからって言ってくれたもの。約束は守るのが当然よ。
梨南が足を踏み入れたとたん、誰かが息を呑んだように静まり返った。こんなことは今までなかった。でも気にしない。
「杉本、来てくれたんだ」
立村先輩はすぐに梨南を見つけて、笑顔で迎えてくれた。
「ほらほら、変なところ見るんじゃないよ」
隣りでちゃちゃを入れる古川先輩。軽く頭を下げて、すぐに立村先輩の机にむかった。
「昨日はごめんな。杉本。約束どおり、レポートのこと少し話すよ」
「お願いします」
古川先輩の視線を一切無視する格好で、立村先輩はファイルから梨南の書いたレポートを取り出した。清坂先輩と二人っきりというシュチュエーションに舞い上がりつつも、ちゃんと約束は守ってくれる。そこがやっぱり、立村先輩のいいところだと思う。ふと、背後霊のような気配あり。朝っぱらから幽霊なんて出るわけなし、怪談の季節でもなし。振り返ると清坂先輩がちょこんと顔を出していた。
「おはよう! 杉本さん、昨日、追い出しちゃったみたいでごめんね。じ、つ、は」
ポケットから赤い包み紙にくるまさった棒のようなものを取り出した。
白い飴のようなもの。千歳飴を二十センチくらいにちょんぎって、くるんだようなお菓子だ。青大附中では飲食物持込禁止のはずだけど、隠している分にはさほど文句を言われない。評議委員の清坂先輩が堂々と持ち歩いていることからして、校則の力はさほどのものでもないということが、よくわかった。
「よかったらあげちゃう。先生たちに見つかったらまずいから、しっかり隠してね」
「ありがとうございます」
こんなにもらっちゃっていいんだろうか。なんだか清坂先輩はやたらと人にプレゼントをするのが好きらしい。
「清坂氏、も、一緒に聞くか」
と、声を掛ける立村先輩に、
「うん、でも立村くんもしかして、朝自習のプリント手付かずのままなんじゃないの? 今日は数学の空間図形でしょ。苦労してるんじゃないか、って思ったんだ」
円錐の面積と体積を求める問題だ。そんなにむずかしくはないように思う。
まあ、九九のできない立村先輩のことだから、白紙であるのは予想がつく。
「よくわかるよな」
「当たり前でしょ! じゃあ、立村くんが杉本さんに説明している間、代わりに解いてあげるね。こずえ、ちょっと机借りるね」
梨南の隣りにしゃがみこみ、はらりと一枚プリントを摘み上げ、清坂先輩はなにやらすらすら書き始めた。古川先輩と目配せしながら、楽しそうに問題を解いていた。
立村先輩は片手で拝むようなしぐさをした後、すぐに梨南の方へ顔を向けた。さらに背後霊その二。
「あーあ、俺も明るい未来がほしいよな。美里ばっかりずるいよな」
清坂先輩の頭をはたいて去っていく羽飛先輩の姿あり。なんとなく匂いが濃い。柑橘系の匂いだ。よく見ると、前髪をオールバックにしている。目鼻立ちがはっきりしているから、おでこが自己主張しすぎないでいい。やっぱり目鼻立ちがいいと得だ。
「何よ、あんただって明るい未来、いつだってチャンスあるってのに。ばっかじゃないの」
わけのわからないことを、きっと言い返した清坂先輩。すぐに立村先輩の顔を見上げながら、
「早く、杉本さんに説明してあげなくっちゃ、教室に戻れなくなっちゃうよ」
せかす様子が、気になった。立村先輩は頷いて、二言三言、簡単に誉めてくれたけれども、やはり落ち着かないのだろう。梨南の方から一礼して去ることにした。立村先輩の目は優しかったけれども、すぐに清坂先輩へと戻り、古川先輩にからかわれていた。
──やはり、私がなんとかしてあげなくては。
──清坂先輩の事情を考えると、きっと何も言えないだろうし。
──立村先輩が騙されていることを知ったら、きっと立ち直れないかも。
──私は立村先輩よりも働く頭を持っているんだ。だから、立村先輩がこれ以上、本条先輩に騙されないように恩返ししなくてはいけないんだ。
自分の教室に戻り、適当に女子たちと話をし、相変わらずはるみとは無言で通した。四時間目が終わるまでの間、梨南は授業を聞き流しながら、自分なりの仮説を立て続けた。ノートがどんどん埋まっていく。たまに当てられると答えるだけ。
新井林とはるみが一緒に立ち上がり、すぐに教室を出て行った。
誰もはるみに「さようなら」を言わない。
花森さんはお休みだった。
ノート一杯に仮説の嵐が吹き荒れてようやく、梨南は結論を出すことができた。掃除をしようと窓を開けると、生徒玄関から清坂先輩、立村先輩、羽飛先輩の三人が自転車置き場へ向かう姿が垣間見えた。一年の教室は窓から一呼吸おいて飛び降りれば大丈夫な高さだった。梨南は窓枠を磨きながら三人の姿を見送った。
いつもだったら立村先輩は梨南をどこか廊下に連れ出すかして、ふたりっきりでレポートの感想を教えてくれただろう。まあ、古川先輩くらいはしつこくエッチな突っ込みをするため居座ったかもしれないが、清坂先輩がああも割り込んでこようとするなんてこと、ふつうなかった。ポケットの赤い飴棒が気に掛かる。
本条先輩に指令をもらっているのだろうか。
梨南と立村先輩とを二人っきりにしないでおくようにとか。
清坂先輩は羽飛先輩のことが好きに決まっている。でも、振り向いてくれない現実もよくわかっているのだろう。そんなジレンマの中で立村先輩に告白され、本条先輩にも頼み込まれて仕方なく付き合い始めた。そう考える方が梨南にとっては自然だった。
もちろん立村先輩は有頂天だっただろう。いきなり梨南に「二人っきりの用事があるんだ」と言い切ってしまうくらいなんだから。本条先輩がまさか、「杉本梨南とふたりっきりになることを阻止せよ」なんて命令するなんてこと、考えるわけがない。ただでさえ立村先輩の、本条先輩を慕う姿は変な噂が出るくらいなのだ。みんながみんな、素直に祝福してくれていると思い込んでいる。
──あれだけ私のことを、評価してくれる人なのに。
──立村先輩、自分が踊らされているだけだって、どうして気付かないんですか。
──清坂先輩もきっとおつらいんだろうな。本当のことが言えないんだろうな。
自分のせいで、本条委員長が動き出してしまったのは確かなのだ。なんとしても、梨南をかわいがってくれた二年D組評議委員コンビを、傷つけないようにして、引き離さないといけない。
ちゃんと、あるべき姿に戻してあげなくちゃいけない。
立村先輩と清坂先輩が、ふつうの友達として、傷つけあわないように元に戻れるように。
そして羽飛先輩と清坂先輩とが、きちんと気持ちを通じ合わせることができるように。
決して本条先輩のことを嫌っているわけではない。顔が外国の俳優さんみたいで整っていてよい、というのもあるけれど、きちんと梨南と話をしてくれる数少ない男子の一人だ。頭は切れる、あの新井林を手手なずけたところからしても、さすが評議委員長の威厳ありといった感じだ。それ以上のことは感じない。評価してくれるのは立村先輩だけで十分だ。
──立村先輩がこれ以上騙されるようだったら、ちゃんと私も本条先輩に直訴状を送らなくちゃ。
──いいもの、本条先輩に誤解されるのは平気だわ。
頭の中には「ワルキューレ騎行」のサビが流れていた。「いくさおとめブリュンヒルデ」が馬にまたがって戦地を駆け巡る姿。自分の姿が浮かんできたようだった。
「梨南ちゃん」
窓をからぶきんで拭いた後、梨南は窓から下を覗き込んだ。たくさんの露草が咲き乱れている。ちょうど六月に咲く水っぽい花だ。人の姿を探すと、お団子を二つ耳の上に丸めた、鈴蘭優ばりの髪型をした女子が立っていた。
佐賀はるみだった。
さっき、新井林とふたり、静かに教室を出て行ったあのはるみだ。掃除当番ではないから先に帰ったはずだったのに。目が合うと、答えざるをえない。
「何か用なの」
「お願い、一回だけでいいから、話を聞いて」
はるみのまなざしがきらきらと光っていた。泣いてはいない。窓ガラスに反射する光が瞳に宿っている。
「いまさら私と何を話したいの」
「梨南ちゃん、私わかっているんだからお願い」
ここまでだったらぴしゃりと窓ガラスを締めて、あっさり終りにしただろう。梨南の流儀だった。
「梨南ちゃん、健吾のこと好きだったって、みんな、知ってるんだから」
首を窓に突っ込んで、思いっきりギロチンにかけてやりたかった。
「逃げないで、お願い。私、話さなくちゃいけないことが、たくさん、たくさんあるの」
はるみは窓枠を背伸びして押さえたまま、叫んだ後走り去った。
「小学校の外庭に並んでいる、石油のドラム缶の陰で、待ってるから。絶対、待ってるから」
──梨南ちゃん、健吾のこと好きだったって、みんな、知ってるんだから──
激しく首を振って追い出した。天敵新井林健吾をなぜ、梨南が好きにならなくてはならないのか。
顔が好みだったのは確かに認める。
完璧なローエングリンだったことも認める。
でも、決して、一度だって、想いをかけたことなんてない。
断じて、そんなことはない。
はるみにそんなことを言われる筋合いは一切ないはずだ。
かわいたままの雑巾をしまいこみ、梨南は腕時計を確認した。今からだったら、小学校へは十分もしないでたどり着けるはずだ。
──はるみと新井林、何をたくらんでるの。
──私を裏切ったくせに。
かばんの柄を強く握り締め、梨南は廊下を走り抜けた。ブラウスのボタンが軽くはじけそうで押さえながら走った。お下げ髪がじゃまくさくて、走りながら解いた。軽くウエーブがかった髪が四方八方に広がるのを感じる。急に胸の付け根が痛くなり立ち止まった。薄い下着ではもう押さえられなかった。自覚した。
卒業してから三カ月しか経っていないのに、小学校の校舎はすべてがやせている風に見えた。
灰色の木造校舎、石を積み重ねて作った椅子、粘土状の土を重ねてこしらえた山のようなもの。古いタイヤを埋め込んで跳び箱代わりにしているグラウンドの脇道。アカシアの木が団子っぽい葉をきらめかせていた。梨南がよく友達と遊んだのは、ジャングルジムの陰にひっそりと置きっぱなしとなっているドラム缶の陰だった。一本は縦に、もう一本は乗っかって足を伸ばせるように横に。真っ赤にさび切っていた。入学した当時からこの状態だった。きれいなスカートをはいている時は座らなかったけれども、よく馬にのった気分でまたがったりもした。
小学生はみな、帰ったらしい。人気はなかった。
梨南がたどり着いた時にはちらりと、編み上げの黒い髪が背中を向けているだけだった。ひとりで、待っていたらしい。ゆっくり近づいた。声を掛けた。
「はるみ」
ゆっくりと、振り返る様子。目が合ったらにらみつけようと、力をこめた。
「梨南ちゃん、来てくれたのね」
いつもだったら露草を腕一杯に摘んで、家に帰っただろう。はるみと一緒に、花の名前を説明したりしておしゃべりしただろう。かわいらしい折り紙と、梨南の家のレターペーパーを交換しては喜んだりしたものだった。
「ここは誰もいないから」
はるみの笑顔が、勘に触った。
小学校の頃だったら、素直に頷いてあげられたのに。
制服のブラウスが完全に赤さびで汚れていた。あの泣き虫でどうしようもなく甘えん坊だったはるみならば、すぐに「ほら、汚れてる」と指を指してあげたのに。もう、それをすることすら、梨南はできなくなっていた。
「はるみ、早く終わらせたいの。いったい、私に何をさせたいの」
笑顔は攻撃の一種だと、すぐに気付いた。梨南は先に切り込んだ。
「もう、私とは縁を切ったでしょう」
「梨南ちゃんが私の話を聞いてくれなかっただけ。お願い、最初から私の話を聞いて
一呼吸おいて、はるみはゆっくりと、
「梨南ちゃん。私はちっとも、怒ってなんかないのよ」
──なんかわからないけれども、危険だわ。
微笑には決して騙されないようにしなくては。
梨南はドラム缶を挟んで、はるみと対峙した。なぜ三カ月も無視されて、笑顔で「梨南ちゃん」と呼びかけられるのだろう。嫌われるのは覚悟の上だ。
「知ってる? 吉久先生が小学校やめちゃったってこと。赤ちゃんできたんだって」
吉久先生とは、梨南たちよりも十二歳年上なだけの、幼い感じの担任だった。六年担任。母が馬鹿にしていた相手だった。やたらとファンシーグッズを集めるのが好きで、女子たちと交換しあっては喜んでいた。たまに男子に泣かされたりもしたけれども、梨南以外の女子からは評判がよかった。みんな小学校を卒業した後も、ちょこちょこ会いに出かけているという。きっとはるみもそうなんだろう。
まてよ、吉久先生って、まだ結婚してないって話じゃ。
疑問符が浮かんだ梨南に気付いたのだろう。すぐにフォローを入れてくれた。
「先週、手続きしたよって、話してくれたの」
俗にいう、「できちゃった結婚」ってことだろうか。
──やっぱり、馬鹿なのよ。あの先生も。
梨南は冷たく言い放った。
「大人のくせに避妊しないなんてやっぱり馬鹿なのよ」
ぎょっとした顔ではるみは口を覆った。答えないのはぶりっ子したいからだろう。
「それと、私と何の関係があるの。言いたいなら早く言って」
「あのね、梨南ちゃん」
ゆっくりと、言葉をスタンプにして押していく。はるみの口調は、学校にいる時よりも軽やかだった。きっと新井林とふたりっきりの時も、こんなしゃべり方をしているのではないだろうか。軽薄に思えて梨南は何度も「はるみ、あんたの話し方は下品よ」と注意してあげたのだが、結局変わらなかった。
「私が、梨南ちゃんを怒らせてしまったって、相談に行ったの。そうしたら」
ろくな答えが返ってこないだろう。むかつきつつもこらえながら聞いた。
「『杉本さんは一年の頃から、健吾くんのことが好きだったのよ。はるみちゃん、気をつけたほうがいいわよ』って言われたの。『自分の思い通りにならないと、どんな手を使っても自分の考えを押し通すから、気をつけてね』って」
梨南の中につめたい氷が、かき氷製造機でこしらえるようにざくざくたまっていく。いつか見た、北の街の雪像。半そでの腕に、鳥肌が立ちそうだった。腕の産毛が揺れそうだった。
──吉久先生、やはりそうか。
もう二度と、はるみとよりを戻す気はなかった。どんなにあどけない笑顔を振り撒かれようとも、梨南はもう許せなかった。気付いているのかいないのか、はるみは続けた。
「私のことを、梨南ちゃんはきっとやきもち妬いてるんだ、ってそう言われたの。それは違うって、私、言い返したの。だって、梨南ちゃんには別に好きな人がいるから」
何をでっち上げたのだろう。立村先輩とのことだろうか。
「私ね、梨南ちゃんが二年評議の先輩のことを好きだというのを、他の人たちから聞いたの。二年の先輩も、一年の子も、みんな、知っているんだもの。梨南ちゃんのすることはみな、どうみても好きな人へのことばかりだもの。それで思い出したの。梨南ちゃん、小学校一年の頃、健吾にこんなことしてたなあって」
こんなことってどんなことだろう。梨南には全くわからなかった。
「こんなことって、どんなこと?」
かろうじて尋ねた。はるみの目に、してやったりの表情が浮かんだ。
「梨南ちゃん、二年D組の教室にしょっちゅう行ってるって聞いたわ。いつも、あの先輩のネクタイを直してあげたりしてるって」
「だらしない馬鹿男子としゃべりたくないから、きちんとしてくださいと言っただけよ」
うんざりだ。分かってもらえないのだ。いつものように。
「何かがあると、すぐに手を叩きたがるところとか。握りたがるところとか。この前は、梨南ちゃんが先輩の手を胸に当ててたって、言ってた人がいたのよ」
誰がそんなことを流したのだろう。梨南にとってはごく当たり前の挨拶だ。言いかえそうとした時、はるみが遮った。
「健吾にも、いきなり腕をひっぱったり、頭を叩いたり、さわったりしてたでしょ。梨南ちゃん。あの時のことを思い出して、やっぱりって、思ったの」
お団子髪を軽く直した。梨南は確信した。
──はるみの、復讐だ。これはきっと。
──私は負けない。なんとしても。