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──本条先輩は顔が完璧だし、頭もいい。だから、立村先輩は騙されてるんだ。いい人が必ずしも頭よくないってことの典型だわ。
──あの時、クイズ大会で。
──たった一人、私の価値を認めてくれた人だから。
廊下ですれ違い、礼を交わす時、梨南はひそかにつぶやいた。
──立村先輩、きっちりと、恩返しはさせていただきます。
先生付き「締め」の評議委員会も無事終了し、あいかわらず一年連中はぽやぽやしていて、二年生は仲むつまじかった。むつまじいといえば清坂先輩がなにげなく本条委員長に呼び出されて、なにやら突っ込まれている様子だった。
「なあに言ってるんですか、本条先輩ってば。私たちにケーキおごってくれる約束は、どうなったんですか?」
「だから、それは立村に任せたって言っただろう。清坂ちゃん、奴を口説けるのはあんただけなんだ。そこんとこ頼むな」
「なに意味不明なこと言ってるんですか! もう、本条先輩って、そういうことしか考えてないんですね」
笑い口調なので、どんどん話が弾む。側で立村先輩は、梨南の渡したレポートに目を通している。が全部は読みきれないらしい。レポート用紙一冊使い切って書いたから、静かなところでないとしんどいだろう。この前連れて行ってもらった「おちうど」なる和風喫茶店、あそこだったらまともな顔した立村先輩に戻って、落ち着くことできるだろうに。
どうせ立村先輩は食べ放題の権利を持っているのだから。
──私が教えてあげようか。
半分口に出しかけたところで、いきなり清坂先輩が振り返り、二年連中に声を掛けた。何気なく、気が付いてあら、という風に。
「私、ちょっと用事があるから残ってくね。ケーキのこと、あらためて本条先輩に交渉させていただきます。それと、立村くん」
集中するのに時間のかかりそうな立村先輩に、ずいぶんなことだ。
梨南はかばんにノートをしまいながら、何気なく観察した。
「今日は本条先輩と卓球なんか、行かないでしょ」
「行かない。ここで杉本のレポート読んでから帰る」
あら、と清坂先輩は梨南に目を向けた。笑顔だったが、かすかに不安そうな陰りが見えた。風が窓から吹き込んできて清坂先輩の髪を揺らしていた。近づいてみると、ブラウスの襟元にはちいさな猫のブローチが留められていた。
「なんかまた雨が降りそうね、杉本さん」
「はい、給食前にはやんでよかったです」
「でも、また降りそうでない? 傘持ってきた?」
梨南は窓辺に戻ってあらためて窓を開いた。
「私は持ってきてますけれど、たぶん持つんじゃないでしょうか」
重みのない空がたまに崩れて、夕立を降らせる時がある。
自分の席に戻ってかばんをぶら下げた本条先輩が通り際に、立村先輩の頭を強くむしるようなしぐさをした。いきなりひっぱられてのけぞるものの立村先輩は何も言い返さなかった。
「暇だったら電話よこせ。今日は清坂にくれてやる」
返事を待たずに片手を挙げ、本条先輩は出て行った。なんとなくそれが合図だった。梨南も清坂先輩と立村先輩に頭を下げた。あんな教室だったら落ち着いて梨南のレポートを読めないだろうに。そう言ってやりたかったけれども、清坂先輩の前で恥をかかせられるのは、きっと嫌だろう。
──来週の評議委員会が終わった時にあらためて。
かばんの中にしまいこんだコサージを取り出し、梨南はすっかりしおれたあじさいの花びらを捨てた。
──髪を解くのは、コサージをつけるときまで待っておこう。明日から、お下げ編みにしてこよう。
ポニーテールよりも、実はお下げを太くぶらさげる方が梨南の雰囲気に合っている、そう母が言っていた。試してみて、そう自分でも思った。
一週間はあっという間に過ぎていった。
はるみが一年B組の女子たちから冷たい視線を投げかけられているのは変わらなかったし、新井林が何かとはるみの側を離れないのもいつも通りだった。男子たちが梨南に対して憎まれ口を叩くのも、溝口先生が胃の辺りを押さえながら教壇に立つのも、何もかもがいつも通りだった。
ただ不思議なのは、はるみの態度が梨南に対して全く変わらないことだった。梨南自身は、思いっきりはるみに嫌われたとしても仕方ないと思っているし、むしろそれが当然だと感じてもいた。天敵新井林健吾を選んで、仲の良かった梨南を捨てたのだ、そのくらいのことはされても当然だろう。
なのに、いまだに「梨南ちゃん」と、すがるようなまなざしを投げてくる。
「ちゃん」付けして呼ぶのはなぜなんだろう。
もちろん梨南は無視して、立村先輩宛ての手紙を書いて推敲したりしている。クラスのみんなとうまくやりたいから取り入っているのだろうか。いや、はるみの性格からして、自分からそんな器用なことができる玉ではない。いつも人にくっついて、人の言うなりに物事を鵜呑みにし、梨南の言う通りにしていた子だ。それがむかついたといえばむかついたし、楽だったといえば楽だ。
──しかたないか、私の真似ばかりしていたはるみは、今度新井林を選んだってことなんだから。
──だったら、私は離れるのが当然よ。
「杉本さん、お下げにしたんだ。髪が長いからいいよね。うらやましいよ」
いつも通りといえば花森さんのファッションチェックも欠かせなかった。
「たまにはこういうのもいいかと思って」
「うん、似合うよ。できればふわふわっとした花柄のドレスとかで合わせると可愛いと思うんだけどなあ」
梨南の考えていたコーディネート通りだ。やはりこの人は分かっている。梨南は頷きながら、花森さんの「校則をぶっこわした」ファッションをチェックした。
口紅、太いカールの入った髪形、まぶたの桃色、細かには変わっているのだろうけれど、特に目立った変化はなかった。左の小指に小さくイニシャルが入っているのは、花森さんの彼氏の名前だろう。聞いてみた。
「やだなあ、どうしてわかっちゃうのかなあ。杉本さんは鋭いんだから」
隠したりはしない。唇にその小指をくわえ、花森さんは優雅に笑った。
「ま、どうせあとで先生から呼び出しくらうけどね。いいんだ。ここにいる時間はどうせほんとの自分じゃないんだもんね。杉本さんも、そうでしょお」
「ほんとの自分じゃないって?」
鸚鵡返しした。
「こんなばかばかりの教室で、うんざりしているよりも、もっと別のところで羽根伸ばしてるって感じだし。杉本さん、今度よかったら私の彼がやっているライブ、来ない? もちろん高校生っぽく化けてもらうけれど」
花森さんは、聞き覚えのある音楽ホールの名前を口にした。
梨南がよく両親と行っている場所だった。
「結構地味なんだ。ジャズと和楽器と、ピアノがセットになってるバンドのようなもので、別に学校に見つかっても怒られないと思うけどね。でも、かっこいいんだ。彼はピアノパートなんだけどね」
花森さんだったらハードロック系じゃないかと想像していたのだが、気持ちよく予想が外れた。今度、お誘いがあった時にはぜひと、約束した。
一段落したところで梨南は、いつものように二年D組の教室へと向かった。
一週間待ったのだからきっちりと、立村先輩はお返事を用意してくれるだろう。あらためて静かなところできっちりと教えてほしかった。今日こそは、きちんと話さなくては。
──立村先輩が本条先輩の悪巧みに気付いてないってことを教えなくては。
金曜日は評議委員会の日だ。もっとも臨時委員会がしょっちゅうなので、正式な曜日を忘れがちだった。何かがあるといつも集まっているような気がする。
「杉本さん、ちょっとちょっと。まだ立村来てないよ」
古川先輩が席についていた。立村先輩の隣りだということはすでに知っていた。何人か二年の先輩は揃っていたけれども、みな朝自習プリントに熱中するか、もしくは紙飛行機折って飛ばしているかのどちらかだった。
手まねきされたので、さっそく机に駆け寄った。立村先輩の机の上には、数枚プリントが重ねられていた。
「あいつ昨日学校休んだのよ。全く、知恵熱出してるんだから。ばかよね」
「何かあったのですか」
「単なる風邪よ風邪。立村ってね、もともとひよわだから夏近くなると熱だしてぶっ倒れるのよ。今日来るかなあ」
「来ると思います。今日は評議委員会ありますから」
にやにやしながら古川先輩はじっと、梨南のブラウスを眺めた。
「そうだよね。でもね、杉本さんにも責任あるかもよ」
耳をよこせと、手招きする。仕方なく梨南は耳を貸した。
「先週、立村のネクタイ直してやったりしてたじゃない? 杉本さん」
「はい、見苦しいの嫌いですから」
大げさに頭を抱える真似をする。
「あん時の立村の視線、すっかり杉本さんの谷間に向かってたって気付かなかったでしょお。きっと、リビドー発動状態だったと思うな。杉本さん、本当にブラした方絶対にいいよ。走ってると苦しくない?」
言われて見ると、確かに体育の時、胸の辺りが痛くて動きづらい時はある。
今度病院に行って結核の検査を受けた方がいいかもと、思ったりもしていた。
「結核? なあに言ってるの杉本さん。ほんっと、おかしいよね。言うこと笑える! でもね、冗談抜きでした方がいいよ。今度、一緒に近くの店で安いの探すの手伝ってあげるよ」
「そんなに、先輩たちから見て、見苦しいものですか。確かに私も胸だけ太っているのは良くないと思います」
「違う違う、みんなうらやましがってるの! 美里なんて本当に憧れてると思うなあ。ま、女子の見る目と違って男子は、毎日夢に見てうなされてるんじゃないかと思うけどね。この前の立村なんてまさに、その典型だもん。あれだけ鼻の先に杉本さんのつぼみが接近してたら、まあ、私が男だったとしても鼻血出してるね。よくこらえたよあいつも。目を丸くして凍り付いていたもの。杉本さんの揺れる胸に完全にノックダウン状態。別にね、十四才の健康な男子が反応しない方がおかしいと思うけど、でもね、可愛い杉本さんを立村の魔の手から守るために、あえて私は言わせてもらったってこと」
「立村先輩はあまり贅肉のない人の方がお好きなのではないでしょうか」
暗に清坂先輩のことを示したつもりだった。
「贅肉? って杉本さん、もう、どうしよう、私こういう贅肉だったら、もっとちょうだいって言いたいよお!」
なんでみなあえて、太りたがるのだろうか。
梨南は机を叩いて笑い転げる古川先輩を見下ろしながら、ちらっと朝自習プリントの内容を覗き込んだ。よかった。社会の歴史年号問題だった。立村先輩が朝から泣かないですむ。
「立村先輩に渡しておいていただけますか」
たくさん書いたけれど、結局二枚のレポート用紙にまとめた、「一年生全校集会」の追加感想を古川先輩に渡した。
「じゃあね、来週行こうか! ソフトクリームおごったげる」
二年の女子はみなソフトクリームが好きらしい。清坂先輩といい、古川先輩といい。
梨南はいつものように五時間目終了後、三年A組の教室に走った。
クラス全員の顔写真が葬式のように飾られているのは相変わらずだ。真っ正面の黒板上には、先週のクイズ大会後記念に撮ったらしいクラス写真が引き伸ばされて張られていた。
いつものように一年の座る席、廊下側にまとまった。本日は珍しく、一年男子連中もまともに並んで座っている。新井林も、他のクラス評議も制服のままで、女子たちに背を向ける格好でひそひそ話していた。声は聞こえる。聞く気がないから、耳をそばだてないだけのことだ。
──あれだけ先週、立村先輩とやりあったんだから。
──どんな顔して、挨拶するんだろう。
新井林の態度がそう簡単に変わるとは思えなかった。立村先輩に対しての罵り文句、おそらくあれは新井林の本音に違いない。「女の尻ばかり追いかけている」「ついてるかついてないかわからないような顔をしている」立村先輩に対して、「申しわけありませんでした」とは死んでも口にしないだろう。
いや、本条先輩の出方によっては変わるかもしれないが。
──だから、立村先輩はわかってないのよ。
──新井林と本条先輩が結託して、立村先輩を落としいれようとしているのを気付かないでいるの。
梨南は自分の頭脳が、ふつうよりも優れているということに感謝していた。
──立村先輩に、私、恩返しできるから。
駒方先生はまだ入ってこない。本条委員長がネクタイを緩めた格好で、
「しっかし、蒸し暑いよなあ」
他の三年男子に声を掛けながら教壇に上がった。やはり一年男子たちに、
「よし、お前ら、来たか」
ピースサインをして見せた。新井林を除く一年男子は、おどおどとした口調で、
「この前はすみませんでした」
とか、謝り文句らしきものをつぶやいていた。耳に入らない様子で本条委員長は、無視する新井林に近づき、なにやらささやいた。聞き取れなかった。梨南たちの方も、二年たちの方も見なかったところを見ると、人の悪口ではなさそうだ。
「いいか、わかったか」
「わかりました」
ぶすりと答え、シャープペンシルで耳をほじくる新井林。
──とにかく、立村先輩に報告しなくては。
見ないふりをして、あらためて梨南は耳に盗み聞きスイッチを入れた。
立村先輩はまだ来ていなかった。
古川先輩の話していた通り、風邪を引いて休んだのかもしれない。昼休み、確認のために行けばよかったと思った。清坂先輩だけが二年の列にひとり、座っていた。なんだか様子がいつもと違っている。前後に座っている二年女子同士と二言三言話をする程度で、なにやら文庫本を開いていた。カバーがかかっているので題名は見えない。
「聞いたよ聞いたよ、美里」
「だから黙っててよ! もう」
周りが笑顔で話しかけるのに、今日の清坂先輩は口をきゅっと結んだまま、早口に言い返すだけだ。でも誰も言い返さない。わかってる、わかってる、とばかりに何度も微笑み返す。一年女子にはありえない光景だった。
いきなり本条先輩が、二年男子を教壇へ手招きした。流し目を使っている。ひょこひょこと三人が立ち上がり、本条先輩を囲む。二年女子には気付かれないような声で、やはり秘密を話そうとしている様子だ。残念ながら梨南の盗み聞き専用耳も、そこまでは聞き取れない。仕方ないので目尻でちろちろ伺うだけだった。
二年男子、みな一同、驚きの表情で口角を上げて、感嘆符付きのため息を漏らしている。いきなり指を互い、指し合っている。本条先輩の顔を見上げて、「ほおお」とつぶやいている。
「……と、いうことらしいんだが、どうだ? 二年野郎組のご意見は」
野郎組のご意見は、
A組「いやあ、あいつめでたいんじゃないっすか」
B組「あいつも、一年の時から不幸だったしなあ」
C組「本条先輩も知ってるってことは、もう解禁ってことっすね」
おめでたいことらしい。
先週あれだけ荒れた二年野郎組と本条委員長との関係も、あっさり修復されているらしい。立村先輩があっさりと本条先輩と信頼関係を見せ付けてしまったから、二年の先輩たちも言い返しようがなかったのだろう。
──立村先輩はこんなに、同期に恵まれているのに。
──どうして気付かないんだろう。自分の側にいる相手が敵だって。
あらためて、梨南の決意は固まった。
「おいおい、なあにがめでたいんだ、お前ら」
声が大きすぎたようで、廊下に響いたらしい。駒方先生がようやく、入ってきた。一応、評議委員会の顧問ということだが、梨南からすると、単なるお飾りとしか思えなかった。
「すんません、いろいろ世の中、春が来てるみたいなんで」
ひょうきんな声で本条委員長が片手を上げて言い返す。
「全く、本条お前だろう、年がら年中春なのは」
全く、先日の騒ぎを知らないから先生たちは平和なことを言っていられるものだ。
二年D組の片割れがまだ来ていないのをもう一度確認して、本条先輩は気持ちを切り替えたらしい。
「じゃあ、始めるぞ! 過ぎてしまったことはどうでもいい、未来を見ようぜ未来をってわけで、今回の御題は夏休み評議委員会合宿だ!」
本来だったら、一年男子が揃ったところで、本条委員長がなじりつつ締め上げるのが筋だろう。それを無視して、さっさと夏合宿の話に持っていくところが怪しい。立村先輩はそこのところも気付いていないのだろうか。梨南はメモしながら、全身をスパイ装備に切り替えた。
「ええと、来てない奴は誰だ。ははあ、二年D組か。あとでしばき上げるか」
一年のわが身には全く関係のない話題だった。梨南は機械的にメモを取りながら、ちらちらと清坂先輩の方を眺めた。いつもだったら元気に発言しまくる清坂先輩がうつむいたままノートを見つめている。たまに写している様子だが、よく見ると文庫本を下に隠している。めくっているけれども進んでいるようには見えない。指がそれこそ「機械的」だった。落ち着かないのだろうか。指が。
時折、別のノートをひっぱりだして、同じ指で撫でつけたりしている。表紙が黒い。きらっと光るものが見え隠れした。あれはたぶん清坂先輩がハート型のシールを張って愛用していた奴だ。好きな人のイニシャルを書いて貼り付けておくと、思いがかなうというあれだ。
誰も様子がおかしいことに気付いていないのだろうか。いないんだろう。たぶん。
二、三年男子たちがいろいろと、部屋割りやら日程やらの意見を挙げていく。
前もって用意していたネタなんだろう。すんなり進んでいる。
風が前の扉からもわりと流れて暖かく迫った。
立村先輩が白いジャケットを羽織ったままゆっくりと顔を差し入れ、足を踏み入れた。
本条先輩は何も言わず、ちらりと目を走らせた後に持っているチョークを投げつけた。チョークは硬くて意外と痛い。みけんを切るかとどきどきした。でもあっさりよけたのでちびたチョークは閉まりかけの扉にぶつかり、破裂した。白い粉だらけだ。
「本条、お前が掃除しろよ」
駒方先生がのどかに、居眠りしそうな声で告げた。実は鋭いところのある人ではないだろうか。
「ったく、立村、遅いぞ」
「申しわけありません」
一礼すると、すぐに清坂先輩の隣りにかばんを置き、何か尋ねていた。清坂先輩の指がすばやく文庫本を隠していた。ノートを取っているふりをした。さっきから見ている梨南には、それが真似だとすぐにわかった。
「どのくらい、進んでいる?」
「今、始まったばかりだよ」
かすかに聞こえる声。
清坂先輩は立村先輩にちらりと目を走らせると、そのままぶっきらぼうに答えていた。
悪いけれど清坂先輩のご機嫌は、立村先輩ごときでは直らないのだろう。
──そうとう怒らせることしたのかもしれない、立村先輩。
──やっぱり、私、放課後、立村先輩にお話しなくてはいけないな。
結局ぼーっとしている間に、青大附属の合宿施設を借りることだけ決まった。一応意見は揃ったということで、来週の委員会で話を煮詰めるという。。
「一応、参加者は自由だが、まあ、俺のことを愛してくれてる奴は集まれ、ってとこだ。いいかわかったかてめえら! 忘れるなよ」
おちゃらけた締めの言葉でお開きとなる。
清坂先輩の言う「本条・立村ホモ説」が正しいとしたならば。
これは立村先輩へのラブコールだ。
すぐに打ち消しておいた。当たり前だ。
──新井林をひいきしている人なんだから。信じちゃだめです。立村先輩。
突然新井林が、C組の男子に背中をつつかれ振り返った。梨南の方を一切見ないのはいつものことだが、背だけを向けている。
「……まさかだろ?」
「……らしい」
「……俺には関係ねえよ」
一年男子同士で情報を交換している。女子側には聞こえないようにひそひそとつぶやいている。
気付いたのは梨南だけではない。視線の針でちくりと刺したのが二年男子三人だ。互いに目配せするなり、一人が後ろの掃除箱に立ち、にやついた。他の二人が立村先輩の腕を引っ張り、
「あ、の、さ、立村。ちょっと来いよ」
「どうした?」
両腕を取って、掃除箱前に連れて行った。声ははっきりと聞こえる。わざと聞かせているのではないだろうか。冗談めかしているけれども、なんとなく宣伝くさい匂いがする。清坂先輩が振り向かずにぎゅっと唇をかみ締めている。やたらと明るい二年男子たちと比べてアンバランスだった。第一、清坂先輩が「文庫本」を読もうとしていること自体がおかしい。読書魔なのは、立村先輩くらいだ。二年女子たちも肩をすくめながら清坂先輩を取り囲み、きゃいきゃいと騒いでいる。
「美里、とうとう、解禁よね。あとで報告ね」
──立村先輩、本当に大丈夫かな。
二年男子たちが立村先輩を軽く小突き合っている。悪意はなさそうだ。明るいリンチののりだった。立村先輩も肩を押されてあっちふらふら、こっちふらふらとよろけている。
「だから、そんな大それたことじゃないってさ」
無表情で、少し困ったようにうつむきながら、笑顔の攻撃に耐えている。
──少し様子みて、二人になるまで待ってようっと。
そのまま耳を澄ませていたかった。でも後ろから声を掛ける子がいる。いらだたしく答えるしかない。
「梨南ちゃん、知ってる? 立村先輩と清坂先輩が付き合ってるんだって!」
言われた意味が分からなかった。息をつかずにささやくから聞き取り間違えたのかと思った。
「付き合ってるってどういうこと?」
「立村先輩が、清坂先輩に付き合いかけて、OKもらったんだって!」
まじまじと言っているC組女子の顔を見つめ直した。口元がゆがんでいる。あごの辺りに汚い皺が出来ている。せせら笑いに見えたのは気のせいだろうか。でもクラスの女子たちに見かけたことのある顔でもあった。
「ねえ、梨南ちゃん、どうして清坂先輩、受けたんだろうね」
「本当じゃないかもしれないのに無責任なこと言ったらだめだと思う」
梨南は受けた。
「さあ、わかんない。だって二年の先輩たちがみんなそう言ってたよ。ほら、向こうでも立村先輩にいろいろやってるみたい」
やっぱり一年評議女子は無責任だ、あらためて思った。
どこでどういう展開で、そういう読みになるんだろう。
確かに立村先輩は清坂先輩のことが好きだと思うけれど、だからといって清坂先輩が立村先輩のように不細工で少々頭の回転がとろい人を好むとは考えられない。いや、友達としてはいいと思っているかもしれないが、梨南は知っている。清坂先輩がひそかに、幼なじみの羽飛先輩のことを想っているのを。
一年たちはみな、気付いているはずなのに、なぜかみな、誤解している。
檸檬色を混ぜ合わせた窓の光がまぶしかった。梨南は書きものをする振りをして、帰っていく一年女子たちを見送った。一年男子たちも、しばらく「だろ?」「俺たちには関係ねえよ」程度の会話を交わしていたが、用がないと見極めたのだろう。いつのまにかいなくなっていた。本条先輩を頭とする三年生たちも、一年たちを追うようにして教室を出て行った。中には立村先輩の頭を撫でていく男子もいた。このざわめきのきっかけが、立村先輩と清坂先輩にあることは確かのようだった。
本当だったら、本条先輩の後をつけて、新井林との対談をやらかすのかどうかを確認したかった。でも今は、立村先輩に「真実」を伝えることの方が大切だった。きちんと「おちうど」に連れて行ってもらって、現在立村先輩がどのような状況にいて、大変なことになっているかを知らせてあげないとだめだと思った。
最後まで残ったのは、梨南、清坂先輩、立村先輩の三人だけだった。
清坂先輩は身動き一つせず、指を動かして、文庫本をめくっていた。声を掛けるのもためらわれた。
軽く服の乱れを直し、ジャケットの襟を撫でた後、立村先輩はようやく梨南の顔を正面から見つめた。ようやく、気付いたという風だった。柔らかい視線と、さりげなく呼び寄せるような響きの声。
「杉本。朝もらったレポート、良かったよ」
受け取ってもらえたらしい。ほっと一息ついた。でも顔は崩さぬよう堅くして次の言葉を待った。
「本当は、本条先輩に渡そうと思っていたんだけどさ。明日見せるよ。やはり、杉本は頭が切れるよな。うらやましい」
──もう少し立村先輩も頭を使ってください。お願いします。
心の声を瞳に響かせて梨南は答えた。
「ありがとうございます。私、どうしても書きたかったんです」
「わかっているよ。杉本が一生懸命やっているってことは、俺もよくわかっている」
──違います。先輩しか、わかってくれてないんです。
お下げ編みが肩に重たかった。声にも髪の分おもりを加えているようだった。うまく出ない。胸の重みと一緒に、言いたいことが押さえられているようだった。
「あのさ、杉本。明日の朝、詳しいことを説明するから今日は早く帰った方がいいよ」
──帰るわけにはいかないんです。先輩、何言ってるんですか。
全身がスパイ装備状態、どんな感情もどんな言葉もどんな感じ方もびんびんに届くはずなのに。
自分でコントロールができない。違う言葉が飛び出していた。
「私、家近いから、遅くなっても平気です」
「そうか、でも今日だけは、どうしてもだめなんだ」
立村先輩は、じっと梨南の目を見つめた。一瞬だけ、やわらかさが消えた。ひと呼吸おいて、
「今日は清坂さんと一緒の、用事があるんだ」
なぜか、清坂先輩の方は見なかった。立村先輩に隠されている。梨南が見るに、ずっと文庫本をめくり続けているのだが、ページが進んでいないようす。読んでいるとは思えなかった。
──どうして清坂先輩帰らないんだろう。
──用事があるのは私の方なのに。
──清坂先輩に、何の用事があるの。
立村先輩の言葉は有無を言わさぬ調子だった。先週、梨南のことを新井林たちからかばってくれた時と同じ口調だった。黙るしかない、あの新井林ですらも、一年同士で愚痴りまくるしかない。あの響きだ。
──行かなくちゃ、いけないんだ。
──今は、ここにいちゃ、いけないんだ。
──清坂先輩に向かって言ってることなんだから。
梨南は一礼して、立ち去るしかなかった。
三年B組の教室にもぐりこんで盗み聞きしようとはしなかった。
立村先輩と清坂先輩との空気に、梨南の場所はなくなっていたということだった。
──私はここにいては、いけない。