第二話『オーロラの夜』
「…………てください、起きてください」
リリイが私の体をゆすっている。机に突っ伏していた体を起こすと、顔に貼り付いた書面が音を立てて散らばっていった。メイドがそれらを集めて纏めていく。
「お疲れのようです、早く床に入られたほうがよろしいのでは?」
「すまんな、つい根詰めしてしまったようだ」
「ミュウロー様はいつもそうです。これと決めたら他の事がまるで目に入っていません。このところ、ずうっと机にばかり向かっておいでです。最後にお風呂に入られたのはいつですか?」
「……あ〰、すまん、覚えていない」
専属メイドは大きな鏡を机の前に置いた。そこには、ボサボサの髪にクマのできて淀んだ瞳の女騎士が映っている。ミュウローは思わず口元がひきつってしまった。
「女性団員が申しておりました。最近のミュウロー様から変な匂いがいたしますと」
ずいと迫ったメイドの顔からミュウローは目を反らす。
「そ、そこまで酷いとは思わなかったのだ」
「床につかれる前に私が体の隅々までしっかり洗って差し上げます。さぁ浴場へ参りましょう」
がしりと腕を掴まれ小さく『ひぃ』と悲鳴が出る。
「け、結構だ! 風呂ぐらい一人で入れる」
「いいえ、自分の匂いというのは自分では分からないものなのです。ですから私が確認いたします」
そうしてミュウローは抵抗むなしく浴場へと連行されていった。
久しぶりの入浴の後、薄い肌着姿のままテラスに出たミュウローは満天の星空を見上げた。まだ、あの災厄からすでに2年の歳月が流れたことに実感が湧かない。町は復興を果たし、新たな防衛体制も組まれた。しかしあの日の記憶が薄れることはない。
「ああ、こんなところに……風邪をひいてしまいますよ」
「…………いつも思い出すのだ。あの日、駆け上がった空のことを。許してリリイ、私にもっと力があれば……」
「御自分を責めないでください。あの怪物が目の前に迫った時、私の命を救ってくれたのは空を駆け抜けた竜騎士たちでした。そのおかげで妾の子であった私がミュウロー様の世話係をやらせていただけるのです」
リリイの背中には生涯消えることのない大きな傷が残されていた。どれほどの苦労を重ねてこの地位にまで辿り着いたのかと考えると、いつも明るく前向きに振る舞う彼女のひたむきな姿勢にはミュウローは頭を上げられなくなる。
果たして多くの犠牲を払って彼女が成したことは決して誇れるようなものではなかった。この現実と向き合わねばならないとは思いつつも、結局いつまでも引きずっていってしまう。見上げた空の中に歪みが生じる。
「……ん?」
それは見間違いなどではなかった。先ほどまで整然と整列していた夜空の星が急に統率を失ったかのように動き始めたのである。やがて青い光の靄が次第に夜空を侵食していった。およそこの数百年で誰もが見たことのない光景だったに違いない。
「なんだ? これは……」
幻想的という言葉で片づけてしまうには不気味な現象だった。言い知れぬ不安に駆られたミュウローは室内へ戻り、机の上に置かれた戦衣を羽織ると足早にその場から動き出した。慌ててリリイがそれに続く。
「ミュウローさま?」
「騎士団に非常呼集命令を、城壁軍にも連絡をとって警戒監視を徹底させなさい!」
「し、承知いたしました」
「……もしも何かが起きて、危ないと感じたらすぐに逃げるのよ、いいわね?」
「……はい、ミュウロー様もどうかご無理をなさらぬよう……」
「……ええ」
二人は互いの身を安じて、そしてすぐにそれぞれの成すべきことへ向かって走り始めた。警戒塔の警鐘が招集を意図する連続符丁を鳴らし出す。それは我々からすれば災害防災無線や警報の類いに近いものだったろう。したがって夜半に眠りに堕ちていた住民の殆どは言い知れぬ不安に叩き起こされる羽目となった。突然の非常呼集に慌てたのは住民や王国軍騎士団ばかりではない。普段から城壁防衛の任務についていた城壁軍の兵士たちの中にはアルコール臭が漂い足のおぼつかない者さえあった。
あの警鐘は何事かと説明を要求する人々に、誰もこの事態の全容を説明しようがなかった。その間にも空の光はより一層強くなり、まるで光の蛇がのたうつかのような光景となっていった。そうして光が次第に集まりだしたかと思ったその時、雷のような閃光が周囲を多い尽くした。
*****
例えようのない不快感は顔をしたたる汗やドーランのせいだけではなかった。目の前で同僚の頭が吹き飛ぶのを目の当たりにし、降りかかったそれを拭う隙さえ与えられないうちに、口の中に広がる鉄の味に背筋に悪寒を走らせた。戦略偵察に駆り出された小隊はもはや分隊としてすら機能しないほど兵力をすり減らしていた。しつこく追撃してきたBMPは撃破したものの、生き残ったのは僅か2名……事実上全滅である。夜半に入り敵の追撃は止んだかに思われたが、まだまだ余談を許さぬ状況だった。
「タケ、残弾はどれくらいだ?」
「5.56弾倉4本、45が2本、手榴弾2発、バックパックにM72が1本とクレイモア2発。松っちゃんは?」
「俺も似たようなもんだよ、40ミリは死んだ奴から集めてまだ20発以上残ってる」
松田はクレイモアの空き袋を揺すって見せた。2人の装備はそれぞれMP5サブマシンガンとM16A1アサルトライフルだった。加えて松田はM79グレネードランチャーを、武田はイサカのショットガンをそれぞれ装備し、45口径の拳銃まで所持していた。通常の隊員ではないその装備は明らかに特殊部隊のそれである。
「LZまで残り3キロ、……回収地点に敵が回っていないことを祈ろう。この前みたいに待ち伏せは勘弁だ」
「ハハ、あの時は坂本ちゃんが跳弾をケツに喰らって悲鳴をあげてたな……一度弾に当たったら二度目はないって息巻いてたっけ。……あいつの最後の言葉分かるか?」
「戦闘中だったから覚えてない。何だった? 何て言ったんだ?」
「いや、知らないならいい。俺の中であいつはお調子者だけど強くて信念があって最高の兵士だった。家族にはそう伝えるよ。松っちゃん、俺が死んだら同じように言ってくれよ」
「世界中がお前のケツにキスしたくなるような文句を考えてやるさ。ま、とにかく今は帰還することが第一だ」
起伏の多い山岳地帯の移動はなまじ舗装道路に慣れた我々からすれば地獄のような行程である。重い銃火器の他にバックパックには着替えや水筒や虫除けや食糧のみならず地雷や爆薬まで詰まっている。それでいて重力など意に介さないかのようにスタスタと歩いていくのだから体力が底無しかと思えるほどだった。
『止まれ』
そうハンドサインで松田が示したのは、LZ手前500メートルにまで迫った時だった。慌てずゆっくりと姿勢を下げた二人は月齢の高い比較的明るい森の中に、いくつもの影が通りすぎていくのを確認した。
『少なくとも4名、自動小銃と手榴弾で武装』
『待ち伏せか?』
『いやまて……下の道路、車両が来るぞ。たぶんBTRだ』
『BTR? こっちの勢力圏だぞ松っちゃん……』
『奴らも本気だってことだろ。4人を片付けてから下のBTRを殺ろう』
『虎の子の一本が駄目だったら?』
能力的にはM72はBTRを撃破するのに問題はない。しかしいくら理論上でそうだと言っても、状況要素は必ずしも理論を裏付けてくれる訳ではない。
もしも不発だったら?
もしもロケットの弾頭が弾かれたら?
もしも外してしまったら?
とめどない不安の堰を押し止めようと武田が唾を呑んだ。大丈夫だやれる筈だと言い聞かせBTRを仰視する。と、その視線に勘づいたかのようにBTRの機銃が不意にこちらを指向した。
「見つかった!?」
松田は武田のサスペンダーを引っ張った。直後、14.5ミリ弾が周りの木々をへし折った。かつて対戦車ライフルにも使われた14.5ミリ弾は、太い樹木さえスチロール製のハリボテよろしくガンガンと抜けてくる。とてもではないが歩兵の携行する小銃や機関銃で対応できる火力ではない。加えてあの忌々しいカラシニコフの銃声も混じる。精鋭のレンジャー隊員にさえできることは何もない。
「林の中を突っ切れ、あのチクショウも林の中には入ってこれない!」
偶然か奇跡的に弾が当たらないことを願い走る。永遠のような長くて短い時間。足下にはぜる弾丸。体が重く、思うように動かなくなっていく。何度も転び、その度に相棒に腕を引かれる。
……やがて黎明の空が不気味に青く光る。いや、そんな時間は経っていなかった。見上げると空に鮮やかなオーロラが翻っていた。
ニホンでオーロラが見れたかどうか、考える余裕もなかった。できればこんな時ではない別の時間に見たい光景だった。そうして目映い光に飲み込まれた時、あるいは砲撃でも喰らったのかと思いつつ、意識はそこで途切れた。