プロローグ『災禍』
町が燃えていた。大小多数の港を備え、内陸には巨大な城壁を有する一大交易都市がその防護策も虚しく陥落の様相を呈しているのだった。身を守ってくれる筈だった盾が脆くも打ち砕かれた時、同時にもたらされた物は絶望でしかなかった。
人々が泣き叫び、“それ”を恐れ生を求めて疾走する。それよりも速く大きな影が彼らの上に覆い被さると、今度はそれらを舐めるように炎が広がっていく。まるで巨大な放射機を使っているかのように投げ掛けられた炎に、何人もの人間が焼かれ、苦しみのたうちまわりながら死んでいく。ある者は影に踏み潰され、またある者はそれに咀嚼され、眼下で焼け死ぬ者より一足先に楽になっていった。
それの頭上にいくつかの羽音が響き始めた。エメラルドのような緑色の翼竜である。銀色の鎧を身にまとい、その背中には甲冑を着込んだ人が乗っている。王国の飛行騎兵の紋章が竜と人の両方の鎧に刻まれていおり、それがここの防人の証でもあった。
「……許さない」
ワイバーンの手綱を握る若い女性騎士はそんな惨状を作り出した張本人を睨んだ。
「ミュウロー隊長! ヤツは何物なんですか、“戦竜”にしては大きすぎます!」
「何者であれ奴が外敵であることに変わりはない」
そう、正体が何であれ今は関係ない。禍々しいほどに黒く歪な形をし、翼さえないそれを竜と呼んで良いのかさえ分からない。ミュウローのワイバーンが翼を翻して急降下に入った。遅れて部下たちもそれに続く。ぐんぐんと迫る地竜に距離感がおかしくなりそうな気分を味わう。標的が大きすぎるのだ。まるでイルカとクジラである。ミュウローが左手をかざす。と、そこに魔方陣が現れ次の瞬間には光の弓矢が出来上がっていく。素早く弦を引き絞った彼女は、敵の脳天目掛けて光の矢を放った。矢は寸分の狂いもなく地竜の頭を射ぬいた……筈だった。だが直後に聞こえたそれは断末魔の叫びではなく、自分の体を傷つけた者に対する怒りの雄叫びだった。巨大な竜相手には人間の放つ矢など、所詮針程度の物でしかなかった。
ミュウローに続いて部下の放った矢が四方八方から降り注ぐ。普通の戦竜ならばこれで撃退できるにも関わらず、敵は堪えた様子がなかった。
『もっと威力のある物を……!』
視線の先に写ったのはもはや用を成していない防壁だった。城壁には大砲や弩銃が設置されており、さすがにそれらを用いれば撃退できるだろう。
では何故侵入を許したのか。簡単なことで海から上がってきたのだ。世界のどこを見回してもそんなことができる生き物は存在しない筈だったのだ。おかげで大地や空ばかりを見ていた城壁軍の誰も海底からの奇襲に気づけなかった。
「城壁に向かえ!」
すでに非制体制に入った城壁軍の兵士たちが集まっていたのは出撃直前に確認済みである。牽制の弓矢を何発か見舞いつつ、ワイバーンの低空飛行で町の中をすり抜けていく。ヤツは翼こそ無いが、脅威的な脚力を持っていた。
建物を打ち崩し、突進するそれに一人と一匹のワイバーンが絡め取られる。悲鳴は最後までは聞こえなかった。
「あの畜生、アントンを!」
仲間がやられたのを機に、反撃を始める者が出始める。しかしまったく無駄であるばかりか、いたずらに速度を失った彼らもまたアントンの後を追うことになる。
「振り返るな、前進しろ!」
ようやく見え始めた門を確かめたミュウローはワイバーンの手綱を一気に引いた。相棒が上昇に転じ、地竜はそれを追って一度仁王立ちになったが、ミュウローを捉えるには至らなかった。
再度、今度は跳躍をしようと体勢を立て直そうとした竜は、首筋に打ち込まれた何かに意識を取られた。城壁に設置された弩銃が射撃を開始したのだ。歯車で自動で巻き上げてくれる弩銃にはミスリルの矢尻がついた特大の弓が装填される。鎧竜でもこの矢尻には耐えられず、それはこの竜も同じだった。発射速度は1分間におよそ30発と、この手の弩銃としては非常に早い。
複数箇所に設置された弩銃が次々とミスリルの矢を撃ち込んでいく。さすがにこれには相手も悲鳴をあげる。続いて榴弾を装填した大砲が砲口を不気味に地竜に向けた。外れ弾が市街地へ流れるリスクは妥協せざるを得ない。
第一弾が奇跡的にも命中したのは砲兵の練度の高さと幸運が重なった結果だった。そしてその幸運は長く続かなかった。榴弾の直撃で恐らくこれまでで最も大きなダメージを与えたことは疑いようもない。だからこそ竜は真っ先に城壁に向かって炎のブレスを放ったのだった。戦竜の火炎を防いでくれる筈だったシールドは容易く破られた。それは火炎流ではなくもはや熱線だった。操作していた兵士がどうなったのかを確かめる必要もなく、また意味もなかった。
ミュウロー眼下では何もかもが燃えていた。
ーー悪魔。
それを名指すなら一番手っ取り早い言葉だった。
この日を生き延びた者は畏怖の念を込めて、それを『邪神竜』と名付けたのである。