no.2
ニンファ島の入り江では、人魚たちが岩場に座り、髪をすいている。そんな中、リリアとセレクを乗せた船は、入り江へと入って行った。雲ひとつない青空に、花々が咲き乱れた草原、あちこちには妖精達が戯れ、二人を出迎えてくれた。
「私達が帰った時より、妖精達が増えているようね、セレク」
「そうですね。草原の草花も増えていますよ」
二人は、船から降りると辺りを見回して、その平和な姿に心暖かくなった。
「いらっしゃい」
小さな妖精がリリアの耳元に来て囁く。
「くすぐったいわ、うふふっ」
「これが本来の妖精の国ニンファ島の姿なのでしょうね」
「絵本で見た羽根のついた妖精さんも一杯いるわね」
「姫様が想像していた妖精の国に見えますか?」
「ええ。そのままよ。早くルナに会いたいわ」
「そうですね。急ぎましょう」
船から馬を下ろすと、早掛けで草原を抜け、森に入る。セネソの実がたわわになった木々が立ち並ぶ。他にも名の知らない果物が色とりどりになっている。それを籠一杯に摘んでいる妖精達がいた。人間よりは小さな体だけれど、四枚羽根を持ったその妖精達は、あちらこちらと移動しながら、熟した実を摘んでいる。それを横目で見ながら、リリアたちは先を急ぐ。リリアは、ルナに会いたい一心で、セレクは、できるだけ道程で時間を費やさないで済むようにと。
森を抜けるとあっという間に王宮へ続く列柱が見えてきた。馬達も息をきらしている。列柱の前で馬から降りた。
「ルナはどこかしらね」
「とりあえず王宮へ行ってみましょう」
「そうね。どうせ幼命宮に行っても入れてもらえないものね」
列柱の周りの草原も色とりどりの花々が咲き乱れ、風に揺れていた。王宮の手前の庭園も手入れが行き届いて、大きな木の向こうには、大理石でできたドーム型の建物ガゼボがある。吹き抜けでそこに人影が見えた。
「あっ、あれ、ルナじゃない?」
「そのようですね」
「ル……」
リリアが叫ぼうとしたのをセレクが口を塞いで止めた。
「静かに、姫様。ルナの腕の中を見てください」
腕の中でじたばたしているリリアの耳元にセレクが囁いた。リリアは、暴れるのをやめて、ガゼボの中のルナの手元を見た。シルクの布に包まれた、あれは、赤ん坊? ルナはその赤ん坊を優しい瞳で見つめている。それを隣にいるルースが澄んだ瞳で優しく見つめている。リリアとセレクは、ドームの手前にある大木に身を顰めた。
「どうして隠れなくちゃいけないのかしら?」
隠れた本人のリリアがぼそりと言う。セレクも確かにそうだと思うのだった。
風に乗って二人の会話が聞こえてきた。
「この子はお父様似ね、きっと賢い子になるわよ」
「そうだね、この豊かな金色の髪もかしこそうな眉もそっくりだ」
二人は、視線をあわせて、微笑む。リリアが見たこともないような穏やかなルナの頬笑み。こんな微笑ましい絵のような風景なのにリリアの心は乱れた。ルナだけが……という少々の嫉妬と何も言ってくれなかったという悔しさから、それは、怒りに変わる。
「あっ、姫様!」
セレクが止める間もなかった。リリアはルナがいるガゼボに走り寄った。
「リリア!」
驚いたのはルナも同じである。
「ルナ、ひどい! なにも言わないなんて!」
「えっ?」
「赤ちゃんがいるなんて、一言も言わなかったじゃない!」
「姫様、落ち着いてっ!」
「これが落ち着いていられるわけないじゃない。ルナが赤ちゃんを抱いているのよ!」
「セレクも、一体どうしてここに?」
その騒ぎに赤ん坊が泣きだした。傍で控えていたのであろうオルベが姿を現した。リリアとセレクの姿を見て、ひどく狼狽している。
「オルベ、お願いね」
ルナはそう言って、赤ん坊をオルベに手渡した。オルベはちらちらとリリアに視線を送ったけれど、それでも黙って、宮殿へと入って行った。
「わたくし、わたくし、あなたのことを一番大切なお友達だと思って、いたのよ。それなのに!」
リリアの怒りはまだおさまらない。
「リリア、なにを怒っているの?」
ルナは突然現れて、捲し立てるリリアに困っていた。
「あなたったら、赤ちゃんが生まれたなんて一言も知らせてくれなかったじゃない。とっても大切なことなのに!」
「えっ? リリア、あの……」
戸惑うルナ。
「何度もやり取りしているのに、なにも言ってくれないなんて!」
「姫様、少し落ち着きましょう」
セレクがリリアの震える肩に手を置いた。
「リリア、あの子はガイの子ですよ」
「へっ?」
「ほら、ルース付きの」
「ああ、そう言えば、いたわね、そういう人」
リリアはまだ息が苦しいという表情であるが、思い出したらしい。
「姫様も早とちりしすぎですよ。ルナと別れてまだひと月ですよ。赤ん坊が生まれるわけないじゃないですか」
セレクが苦笑交じりで言う。
「だってセレクが隠れるから」
「いや、姫様が先に隠れたんですよ」
「だって、だって……」
リリアは混乱した頭を収拾するのに必死だった。
「リリア、私達種族も人と同じで、赤ちゃんは10カ月経たないと生まれないわ」
ルナが微笑みながら言った。
「そ、そうなの?」
「ええ、リリア達と同じよ」
「そ、そう……なんだ、びっくりさせないでよ」
「びっくりしたのは、こちらですよ、リリア姫様」
ルナの隣でルースがくすくす笑っていた。
「ところでリリア、突然どうしたの?」
ルナの疑問も当然である。それにはセレクが答えた。フステイシアの第二王子との話があり、会いに行くことになった。それでリリアが我儘を言い、ルナも一緒にと言い出したのだという。ルナとルースは顔を見合わせてから、リリアを見る。リリアは、当然のことをしているとばかりに澄まし顔である。
「明日には、ここを立ちませんとフステイシアに予定通り着くことができなくなります。申し訳ありませんが、明日の朝までにはルナには答えを出していただかなくてはなりません。姫様の我儘で、本当に申し訳ないんですが」
セレクは、何度も頭を下げた。
「明日の朝まで……」
「では、お二人には宮殿の方で休んでいただこう。その間にルナも考えなくてはならないからね」
ルースに連れられて、リリアとセレクは宮殿に入って行った。
一人残されたルナは、なぜか不安で一杯になっていた。なぜかしら、リリアとセレクだけで行かせてはいけないと、心の奥底で何かが言っているような、何かがざわざわと心をかき乱している。ふわりと風が吹き、ルナの銀色の髪を撫でていった。
しばらくしてルースが戻ってきた。
「ルナ、大丈夫かい?」
「うん、大丈夫」
「そんな風には見えないけどね」
顔色は蒼白で、小刻みに震えてもいる。
「どうしてかしら、とても怖い……」
「君にも見えるかい、黒い雲」
「うん、見える。リリアとセレクの行こうとしている向こうに黒い雲があるわ」
「これは、何かありそうだね」
「うん。二人だけで行かせちゃいけないような気がする。そんなことをしたら、私はとてつもなく大切なものを失うような気がするの……でもものすごく怖い」
「怖いけれど、二人で行かせられないと思っているんだろう。もう既に答えは出ているのだろう、君のことだ」
「うん。一緒に行く。ルース、ダメ?」
「正直なところ、行かせたくはないな。でもここで君を止めて、何かあったら、僕は一生恨まれそうだ。行っておいで、ルナ」
「ルース、ありがとう」
ルースは小刻みに震えるルナの肩を抱いた。
「大丈夫だ。僕はいつでも君の傍にいる。いつでも話ができる。なにかあったら呼ぶといい。必ず君を助けに行くよ」
「うん……」
ルナはルースの胸の中に顔をうずめた。不安だった。これから行こうとしているフステイシアで何が待ち受けているのか、暗雲が立ち込めて見えるその向こうは何があるのか。それでも行かなければ、大切なものを失うという強迫にも似た心が動く。
「早く二人に知らせてやりなさい。支度もあるだろう」
「はい」
ルナは、宮殿の客間でくつろいでいた二人に、フステイシアに同行することを伝えた。
「ほらね、ルナは絶対一緒に行ってくれるって言ったでしょ。セレクは心配しすぎなのよ」
「ルナ、いいんですか? あなたはやっとこの国に平和が戻って、静かに暮らしていたんですよ」
「……はい。私も一緒に行きたいから」
心の中で見たことには触れなかった。リリアの婚約者になるかもしれない王子に会いに行くのだ。本来なら喜ばしい旅のはずなのに、見える未来には暗雲がかかる。そんなことを言えるはずがない。
「支度があるから、行くわね。二人はゆっくり休んでいてね」
ルナは、二人にそう言うと幼命宮に戻った。
オルベがそわそわしながら待っていた。
「ルナ様、リリア姫様は何をしにいらしたんですか?」
「オルベ、リリア達と一緒にフステイシアに行ってくるわ」
「どういうことです?」
オルベの顔色が変わる。
「やっと静かな日々が戻ったと思ったのに、ルナ様が出かけられるなんて、そんな……」
「これは私にとっても大事なことなの。二人と一緒に行ってくるわ。大丈夫よ、すぐに戻ってくるから。支度を手伝って」
「ルナ様……?」
ルナの表情がいつになく固いのにオルベは気付いた。リリアたちと出かけるのであれば、喜んで笑顔が出てもいいものをこわばった笑顔を無理やり作っているように見える。オルベはもうなにも聞くことができず、ただルナの旅支度を手伝うしかなかったのだった。




