no.18
ルースの左手からは、なおも血が滴り落ちていた。
「ルース、手を離して。手を……おねが、い……」
ルナの瞳から涙が溢れだした。
「ルナ、剣を降ろせ」
メルクリオに視線をつき付けたまま、ルースが言った。
「あはははっ、おかしなものだな。ルナよ、私を殺せば、次期法王はお前だ」
メルクリオは、マントを翻し、玉座に戻った。
涙で霞んだ目を見開いて、ルナはメルクリオを見た。
「お前が私の仮面を剥いだのだ。法王の掟で仮面を剥いだ者が次期法王になる。仮面をつけ、人格を変えられ、千年の時をあの神殿で孤独に過ごすのだよ」
「私があなたの仮面を……私が……法王……」
視線を落としたルナは、欠落していた記憶の部分を、その時、取り戻したのである。
どこかでメルクリオの手下に捕まったというのは、オルベから聞かされたことであって、事実ではない。ルナは泉の森に入り、数日、歩き回った。そして泉の森の北に抜けてしまったのだ。人がひとり歩けるような山肌にできた道とは言えないほどの道に気付き、そこを進んだ。そして北の神殿を見つけてしまったのだった。神殿に入ると、そこには仮面をつけた、ルナと同じ透き通る銀の髪を持った男が一人いた。
「そなたは……」
「ルナ、プリンセサ・ルナ。あなたは?」
「法王」
「法王?」
「この仮面をつけて、私は千年この神殿に捕らわれている」
ルナはそっと近づく。同じ髪を持つこの男の顔が見たかった。視線を落とした男の横に来る。法王が気付くのが遅れた。ルナの手は法王の仮面に触れていた。黒光りするその仮面は、ことりと地面に落ちた。
「なんということを、お前が……お前がプリンセサなのか」
戸惑いを見せた視線が、あっという間に邪悪なものへと移り変わる。ルナは目の前で何が起こっているのかわからないまま、腹部に痛みを覚えて気を失ったのだった。
記憶が戻ってみれば、目の前にいるそれが法王であり、メルクリオなのだと、ルナは認識できた。
カキーン。
ルナは、力いっぱい握っていた剣を離し、ルースもそれを離し、剣は床に落ちた。
「私が、仮面に触れたから……」
「そうさ。あの仮面は、自分では外せない。あの仮面に触れ、外した者が次期法王になる掟だ」
「私が……法王に……」
「千年の時を待たずして私は、法王と言う名の牢獄から抜け出した。しかも自分の娘の手によってな」
そうだ、気がついた時には真っ暗な地下牢に閉じ込められていたとルナは思い出した。いくら叫んでも自分の声がこだまするだけの暗闇。食事は与えられていた。けれどそれ以外は真っ黒に塗りつぶされた暗黒だけが自分を取り巻いていた。時間の感覚もなくなっていた。しばらく経ってからだろうか、頻繁に誰かが来るようになった。そして同じ文句を延々と唱えては去っていく。そんなことが随分長く続いたような気がする。
「私の記憶……」
ルナが呟いた。
「マルテを使って操作した。記憶を失くしたお前を捨てたのだよ」
不気味な笑いを含ませて、メルクリオが言った。
「なんのことはない。簡単だった。一人になったお前はなんの力もない人間と同じだったよ、情けないかぎりだ」
クククッ。
「なんてひどいことを。こんな奴、許せない!」
それまで凍りついたように部屋の隅にいたリリアが叫んだ。
「姫様」
今にもメルクリオに飛びかかろうとしているリリアをセレクが抱きとめた。
「離して、セレク。許せないわ、ルナをこんなひどい目に合わせてっ!」
「姫様に敵う相手ではありません」
「なんと騒がしいな。くだらぬ人間どもめ」
メルクリオはちらりとリリア達に一瞥をくれただけで、またルースとルナに視線を戻した。
「さあ、どうする。ルース。私の血を受け継いでいるルナをプリンセサにしておいていいのか? それともここでルナを捨てるか」
「ふざけるなっ!」
「おやおや、怖い。私にくってかかってもどうにもならないことだろうにな。ルナ、お前もそうだ。こんな私の血がお前の体にも流れている。お前はそれでもプリンセサでいられるのか」
「うるさい、黙れっ!」
「ルースよ、私が悪いのではないぞ。ルナが勝手に私の仮面を剥いだのだ。あんな北の神殿までのこのことやってきてな」
ははははっ。
ひとしきり笑うとメルクリオはまた続けた。
「お前がルナを手なずけなかったのが悪いのだろうな。一人でウロウロするようなことをさせて」
「やめて、もうやめて!」
ルナが叫んだ。
「私のせいで……」
ルナはそう呟いて、視線を落とすとその横にルースの血に染まった左手が見えた。
「いやーっ」
叫んだルナの全身から銀色の光が眩いほどに発せられた。その横でルースは急いで荷物の中から仮面を出した。
「なにっ?!」
それまで怪しげな笑みを湛えていたメルクリオの表情が一転して緊張の色を見せた。
血だらけの手に握られたその仮面を見て、ルナが言った。
「それを、それを私に頂戴、ルース」
「ルナ?」
「そしたら、この国にまた平和が訪れるのでしょう?」
「なにを言っている?」
「それを私が被れば、また平和が訪れる」
「バカなことを言うな!」
「そうだ、お前がそれを被ればいい。またこの国も平和になるだろうさ」
メルクリオがふっと緊張を解いて言った。
「そんなことはさせない!」
「ルース、貸して、お願いよ。もうこんなことは終わりにしたい」
ルナは力なく言った。
「終わりにしたいの……」
涙が溢れて来て頬を伝う。そんなルナの体は銀色の光に包まれていた。
今ならできるかもしれない。ルースは思った。ルナは記憶を取り戻してはいたが、本来持つルナの妖精の力が戻ってはきていないようだった。ルナはその力をうまくコントロールできずにはいたが、時には優しく傷ついた者を癒し、悪さをした者には罰を与え、少しずつではあるが使いこなせるようになってきていたのであった。ルナが力を発揮する時、彼女の体からは銀色の光が放たれる。
今、ルナはその力を発揮している。今なら……。
「ルナ、精神を統一しろ」
「えっ?」
ルースは未だ血の止まらない左手でルナの右手を掴んだ。そこからは、どくどくとルースの鼓動が聞こえてくるようでルナは、握られた手を見つめる。何かが聞こえた。「……仮面を、法王のもとへ……」ルースの心の声だ。ルナは、顔をあげてルースを見つめた。ルースは強く頷いた。
ルースが右手に持った仮面を正面に突き出す。それにルナが左手を添えた。
目の前にいるメルクリオの顔に恐怖が現れた。
「何をするっ!」
玉座の横に立っていたヘスティオンがメルクリオの前に立ちはだかった。
ルナから立ち上った銀の光が増していく。ルースから放たれる金の光がそれを包み込んでいく。眩いばかりの光が大きく膨らんで……。
「行け! 法王の元へ!」
ルースとルナが声を合わせてそう叫ぶと、二人の手にあった仮面は、その手を離れ、ヘスティオンを吹き飛ばし、そしてメルクリオの顔面に叩きつけられた。その勢いで玉座ごと後ろの壁に激突する。
「うおおーーーーーっ」
メルクリオは、慌てて仮面を剥がそうとするが時すでに遅し。すぐにその震えた手を降ろすと、こうべを垂れてしまった。
ルナは全身の力を使い果たしたのか、ルースの胸に倒れ込む。ルースも力をほとんど使い果たしていて、ルナを抱きとめると、片膝をついた。
「う、ううっ」
呻き声が聞こえて、メルクリオが動く。
ルースはルナを庇うように前に出た。
「すまぬ。全て私の犯した罪から始まったのだ。なにもかも私の引き起こした罪から……」
メルクリオから法王に人格が変わっていた。
「私があの侍女に恋をしてから……いや、私が生まれたこと自体が罪なのだろう。法王になるまでに充分過ぎるほどの罪を犯してきた。その罪の償いも終わらぬうちに、私は罪を重ねてしまったのだ」
静かに語るメルクリオ……いや、法王をルースとルナは見つめた。部屋の隅では腰を抜かしたリリアをセレクが庇うようにして、二人で座っていた。
「その罪は愛する者を奪い、そして今度は愛する者から憎まれ、それでも足りぬ。罪を償わなければならぬのなら私が全ての罪を償いたいと神に祈ったのだが、そなたをこの上なく苦しめる結果を生んでしまった。ルナ、私はどうしたら罪の全てを償えるのだろう。そなたに罪はない。そなたが苦しむことはないのだよ」
床に座り込んで、両手を床に着いて、法王は再び、こうべを垂れた。輝く銀の髪がまるで音をたてるかのようにさらりと流れた。
「ルナ、立て。しっかりと君の言葉を伝えるんだ」
ルースはルナを支えながら立たせると法王の前まで歩み寄る。
ルナは震えながらルースにしがみついた。不安で一杯の瞳をルースに向けると、ルースは力強く頷いた。
「法王猊下、いえ、お父様。神殿に戻り……法王の残された任期を全うしてください」
ルナはまっすぐに法王を見つめて言った。
「ルナ、許してくれとは言わぬ。私のことは忘れてくれ」
顔をあげることなく法王は言った。ルナはそれに答えられない。ルナの頬を涙が伝って落ちた。
「法王猊下。ルナはあなたのことを忘れたりはしませんよ。ルナは猊下のことを愛しているのですから」
ルースが言葉にできないでいるルナの気持ちを代弁した。
「ルナ、もう会うまい。そなたの美しい髪、大切に。ルースと幸せになってくれ」
力なくそう言った法王はヘスティオンに支えられて、部屋を出ていく。
「お父様……」
その弱々しい後ろ姿にルナが言った。しかし法王は振りかえらなかった。
「猊下は残された任期を今度こそ全うできるよ。ルナ、待とう」
「うん……うん……」
ルナはルースの胸に顔を押し付けるとスーっと意識を失ってしまった。
「ルナ!」
それまで腰を抜かしていたリリアが叫んだ。
「大丈夫ですよ、姫様。ルナは力を使ったせいで疲れたのでしょう」
リリアの腕をとって、セレクが言った。
「ああ。少し寝かせてやってくれ」
ルースは、腕の中で目を閉じるルナを限りなく優しい瞳で見つめるのだった。




