no.1
ここから第二章になります。
ルナを乗せた船は早朝、ニンファ島に着いた。
静かに風が吹き、草原の草が波打っている。荒涼としたその草原に降り立ち、ルナは深いため息をついた。まだ何一つ思い出せない、ただ心の奥底から怖さと寂しさが沸きあがり、それがとてつもない怒りと変化していく。自分の中にそんな激しい感情があるなどとは、思いもよらなかった。また深いため息をついて、歩き出した。
草原を横切り、森に入る。背を伸ばして届くところにあるセネソの実をとって、口に含んだ。甘酸っぱい。
リリアと別れたのは、6日前だった。3日掛けて、イスラに向かい、そこで一休みして、船に乗ったのである。リリアはどうしているかしら。セレクを困らせていなければいいのだけれど。そんなことを思いながら、森の中を歩いた。
森の中も、静かだった。風が冷たいわけでもない。けれど、風はどこかぞくっとさせる感覚でルナの体に当たっている。この妖精の国が平和だったころは、決してこんなではなかったはず。なんとかして元の平和な国に戻したいとルナは思った。それには、まず記憶を取り戻したいと思う。どうやったら、その記憶を元に戻せるのか、またため息が漏れた。
ルナは、いろんなことを考えながらも、病床の妖精王とオルベが待つ宮殿へと急いだ。早足で歩きながら、考えても答えの出ない問答を繰り返す。なぜ、どうして、わからないとそれが幾度も繰り返されるばかりである。こうして先を急いでいても、この先に待ち受けているものに自分は耐えていけるのだろうかとも思えた。
それでも早く宮殿へと思う。ひとり、こうして考えているよりは、誰かと話したい。ひとりでいるのが堪らなく辛かった。
森を抜けたころにはすっかり辺りは暗くなっていた。先の草原を少しいけば、丘がある。宮殿へと続く二列の列柱はすぐに見えてきた。月の光で照らされた列柱は、黒くてらてらと光っていた。
列柱の中を走り抜け、宮殿の前に出た。ほのかな灯りが宮殿には灯っていた。静まり返ったその宮殿へと入っていく。
「誰?」
すぐに声を掛けられた。オルベである。
「ごめんなさい、驚かせて。ルナです」
ルナはほの灯りの届く位置に移動して、答えた。
「ルナ様! 帰っていらっしゃったんですか?」
「ええ、今朝早く入江に着いたの」
「ご連絡くだされば、迎えの者を行かせましたのに」
「でもみんな西の森に避難しているのでしょう?」
「そうですけれど。ルナ様が帰って来られるかもしれないと幾人かの召使を宮殿に戻しました」
「そうだったの。ありがとう、オルベ」
「いえ、ルナ様がお帰りになるとはっきり分かっていれば、もっと多くの召使を戻らせましたのに」
「いいえ、いいのよ。私、まだ誰かに会うのは怖いわ」
「ルナ様?」
オルベは、ルナがここで暮らしていた全ての記憶を失くしていることを思い出した。
「私の中の記憶は消えたまま、まだ何一つ思い出せない。こんな状態では……」
「ルナ様……記憶を元に戻すにはメルクリオのところにいるマルテしか……」
王子プリンシペ・ルースと王妃を幽閉しているメルクリオの娘、マルテが心理操作でルナの記憶を消したのだとすれば、やはりマルテの手でなければそれは元に戻せないのではないか。
「マルテに会えればいいんだけれど」
「難しいですね、ルナ様。とにかく少しお休みになってください。幼命宮のほうに灯りを入れますから、さぁ、どうぞ」
そう言って、オルベが先に立って、ルナはオルベに着いて行く。
王宮を抜けて、その奥に立つ小さな建物。リリアとセレクと共に旅で訪れた時、ここに入って、ルナは懐かしさを感じた。あの時とは違って、ドア変わりのカーテンも綺麗なものに変えられ、室内も綺麗に掃除が行き届いている。
室内を見回しているルナにオルベが言った。
「ルナ様がいつお帰りになってもいいように、掃除をしておきました」
「ありがとう、オルベ」
姿が映し出されるくらいに磨き上げられた大理石の床、飾り棚には花が活けられている。入って正面に大きな階段があって、それは二階で左右に分かれている。一階は、左に大きな入り口がひとつ、右には廊下があった。そこでルナがぼーっとしている間にオルベは各部屋に灯りを灯してきてくれた。
「ルナ様、休んでいらしてください。私はすぐにお夕食の準備をいたします」
「もう遅い時間だし、軽いものでいいわ」
「わかりました」
オルベはそう言って、左の入り口の奥に消えた。
ルナは幼命宮の中をゆっくり見て回った。一階の右手の廊下を行くと、一つ目の部屋には、いろいろなおもちゃが入った戸棚があった。床には柔らかそうな毛足の長い絨毯が敷かれていた。遊戯室のようなものか。次の部屋には、机や本棚があった。勉強室だろうか。その奥は予備室のようでなにもなかった。ホールに戻って来て、オルベが消えた部屋を覗いてみると、食卓があった。それほど大きくはないけれど、テーブルを挟んで椅子が二つ、向かい合っていた。飾り棚にはやはり綺麗に花が飾られていた。食堂のようだ。その奥にも入口があったが、多分台所があるのだろう。なにやら音が聞こえてくる。オルベがそこにいるらしかった。
ルナは、ホールの大きな階段を登って二階に上がった。左手には大きな広間で、おもちゃなどが入った籠や、本棚などもあった。ここも遊戯室のようなものだろうか。階段に戻り右手に行くと大きな寝室があった。奥にも部屋があって、そちらは浴室や衣裳部屋になっていた。
寝室に戻り、広いバルコニーに出た。小さなお城のようなここが私が暮らしていた場所なのだと、暗くなった夜空を見上げてルナは思った。
「ルナ様、夜食の用意をしてまいりました」
オルベが料理の乗った盆をベッドの脇の円卓に置いて言った。
ルナはバルコニーから中に入り、辺りを見回しながら言った。
「ここは、幼命宮というの?」
「そうです。ここは、ルナ様だけの為にあるのです。プリンセサ様だけがここで暮らすんですよ。入ることが許されているのは、ルース様とルナ様付きの召使だけです。王様とて、ここには入ることが許されていません」
「そうなの」
「はい。ルナ様はこの国にとって特別なお方ですから」
自分がそんな重要な存在であることに少なからず驚いたルナだった。
「夜着はこちらに用意してあります。こちらに着替えてゆっくり休んでください。私はこれで下がりますが、なにか他にご用はありますか?」
「いいえ、オルベ、ありがとう。もう大丈夫だから、あなたも休んで」
「はい。では、お休みなさいませ」
オルベは、頭を下げて部屋を出て行った。
天蓋付きのベッド、ルナが5人くらいいても、充分なくらいの大きなベッドに、水色の夜着が用意されていた。それに着替える。絹のさらりとした感触が火照った体に気持ちいい。
オルベが用意してくれた夜食をとる。暖かいスープがとてもおいしかった。以前ここに来た時も出されたお茶もあって、それを飲むと体になにか柔らかいものが浸透していくような感覚を覚えた。
その後、ベッドにもぐりこんだものの、体の疲れはあるのに、目が冴えて眠れない。ごそごそと体を動かして、ベッド横の円卓に引き出しを見つけた。何気なくそこを引いてみると中には一冊の日記帳が入っていた。一瞬躊躇ったものの、それを手に取る。ベッドに上体を起こして、それを開いてみた。記憶を失っていても不思議と妖精国の文字は読めた。適当なページを開いてみる。
『今日はルースと競争をした。ルースはいつも本気で相手にしてくれない。私がいくら本気を出してもルースには勝てないかな』
また他のページを捲ってみる。
『ルースの剣の稽古に私も参加。そのあと、ルースに手合わせをしてもらったけど、遊ばれちゃった。ルースは私が剣を持つといつもルナは剣など持たなくていい、部屋で本でも読んでいなさいと言う。私は本も好きだけど、剣の稽古も大好きなんだけどな』
他のページも捲ってみた。しょっちゅう、アーマに叱られていることがわかった。アーマとは、オルベの叔母、元々ルナ付きの召使だと聞いている。怪我も絶えなかったようだ。どうも楚々とした姫様というよりは、ちょっと枠を超えたところがあるようだった。
ルナは自分でも驚いていた。意外とおてんばだったのね、と。
その日記を読んでいると、なんだかとても楽しくなってくる。
そのうち、体の内側から穏やかな気持ちが湧き上がり、いつの間にか眠ってしまっていた。




